豚は海の夢を見るか

ヨル

#1 焦げた匂い


ひどい失恋から半年ほど経ったが、相変わらず悲しい顔をしてバーに来ては酒を呷った。

バーでやけ酒をする、本当はそんな自分に酔っていた。

まともに恋愛ができるようになったのも、ここ最近のことで、20歳を過ぎた頃には違和感は確信に変わった。

それから私はこの世界に足を踏み入れた。

女しか入れないバーに、女同士のカップルに、女同士でキスしたりセックスしてるような、そんな奴らが当たり前にいるこの世界に、導かれるままに運命のように感じながら虹色の道を心地よく歩いていた。

恋愛をしてそれなりに悩んだり、不毛だと友人に助言されたりするような日常が、私にもやっと訪れたことに満足していた。


夜は順調に更けていってカウンターに座れなくなった人達が二階に散る頃、あの女は現れた。

扉の開く鈴の音が聞こえると必ず全ての女が一斉に振り向くのだった。

それが決まりかのように、不思議なことではなく、その瞬間は誰もが視線を浴びることになる。

しかし、今の私にはそんなことどうでもよかったし、相変わらず酒を流し込んでため息をついた。

周りのざわつきと店子のよそよそしい態度に気を取られていると、隣に座っていた女がおもむろに立ち上がり「どうぞ。」と席を譲った。

ただ一言「ありがとう。」と言ったその声は雑音の中でもはっきりと聞こえるほど爽やかでいてハスキーだった。

思わず目をやると、この業界では「いかにも」な見た目をしていた。

黒髪に映える茶色のハイライト、襟足は少し刈り上げていてショート、太く濃いめの眉毛、切れ長の目に、長く高い鼻、真っ赤な口紅で薄く笑い、片手でさっと髪をかき上げてセンター分けを強調した。

日本人離れした整った顔立ちに声まで声優のようで、中性的なその振る舞いはまるで「王子様」とか、理想的な「イケタチ」とでも言えるだろう。

白いTシャツとダメージ加工ジーンズだけのシンプルな格好とか、濃いメイクが似合っていてどことなく女らしい色気もあるような、全てが「それっぽさ」を醸し出していた。

すぐに出てきた酒を受け取るべく私の視界を遮るようにして伸びてきた腕に、はっとして顔を引く。二の腕の辺りから覗かせたタトゥーを目で追うようにしてもう一度ゆっくり彼女の方を見た。

本当にパチリと音がするほどに目が合って思わず背筋が伸びた。

「イケタチ」は思わず吹き出すかのようにして笑うのだった。

こちらがあっけに取られているうちに、急に興味が失せたように前に向き直して静かにタバコに火をつけた。

吸って吐いてをしばらく繰り返して漂う煙が、私の髪に、肺に、全身にまとわりつくような感覚に眉間に皺が寄る。

そのあと特に言葉を交わすことはなかったし、私も口を開かなかった。

相変わらず酒を飲んでは肘をついてボーッと携帯を見たり、爪をいじったりして過ごした。

そもそも誰かの相手をする気分ではなかったし、相手にしてほしいわけではなかったが、今さっきの彼女とのやりとりがあっけなく終わって挨拶もなかったことを気にしていた。

彼女の方はというと、いつの間にか湧いた女数人が周りを囲み、親しげに話し合っていた。

相変わらず「王子様」のようで、わかりやすくモテていた。

完全に背中を向けた彼女だが、そこから吐き出される煙だけはしつこく私を襲ってきた。

肺から嫌な音が鳴っていることに気づき、席を立とうとした時、彼女の肘が私のグラスを倒した。零れたカクテルはそのまま私の膝を濡らした。

おしゃべりに夢中だったはずの彼女だが、すぐに事を理解して私を覗き込み「ごめん」とだけ冷静に呟いた。

素早く手元にあったおしぼりを掴むと「拭くよ。」といって膝に手をやってきた。

ぎょっとして思わず椅子を引くと、すかさず両肩を掴んで立たされた。そのまま正面に向き合ったかと思いきや、彼女は膝立ちになってから私を見上げ「大丈夫?」と聞きながらまた膝に手を伸ばしてくるので慌てて「もういいよ、大丈夫だから。」と上擦った声で手を払った。

カチコチのロボットになったような明らかに動揺している私に彼女はまたやたら笑いながら、もう一度「ごめんね。」と謝った。

恥ずかしくなった私は、それを聞かなかったふりをして一足遅れておしぼりを持って駆け寄ってきた店子に会計を告げた。

それを聞いた彼女は「えっ!」と派手に驚いて私の手を掴んできた。

「ごめんって。まだ横にいてよ。」

なんてこと言うんだと思っていると私の手を掴んだまま、店子から受け取った新しいおしぼりでササッと椅子を拭いて何事も無かったように差し出した。

完全に彼女のペースに呑まれた私は、お利口にその椅子に再び腰を下ろした。

座っても手を離してくれず、ニコニコしている彼女のことを、頭の上にハテナをたくさん浮かべた顔でじっと見つめた。

彼女と私はしばらく見つめ合うと、不思議な空気が広がった。

先に彼女が視線を逸らしたが、その視線の先は私の膝元にあった。

「本当に大丈夫?染みになってないかな。」

大丈夫だと言うには無理があるほど、薄いグレーのスラックスにはカクテルの染みがわかりやすく広がっていたが、見た目ほどひどく濡れているわけではなかった。

「大丈夫だよ。ありがとう。」

ぎこちなく震える声に、いたたまれない気持ちになっていた。

カウンターの下でガサゴソやって、ひざ掛けを引っ張り出してきたと思ったらふわりと被せてきて、その上から私の膝をポンポンと優しく撫でた。

「まだ居るよね?クリーニング代払うし、ここは私持ちね。」

「いや、あの、本当に、大丈夫だからさ」

最後まで言い終わらないうちにスっと見せてきた携帯の画面には連絡先が写っていて、「後でまた連絡するから。」と言った。

まあいいかと思い、おずおずと自分も携帯を出した。

猫のアイコンに『宇和島 紘』とフルネームで表示されていた。

「ひろむって読むの。よろしくね。」

ちょうど追加された私の名前がそちらにも写し出される。

「愛麗だよ。よろしく。」

名前まで格好いいとか、珍しい苗字だとか、アイコンの猫が可愛いとか思いながら、新しいおもちゃをもらった子供のようにそれを眺めていた。

「あいり?可愛い名前だね。」

ありがとう、という言葉は通知音で遮られた。

そこには猫を抱いた紘の自撮り画像があった。

笑みがこぼれパッと顔を上げる。

「猫好き?会いに来てよ。」

得意そうに笑ってみせる紘を、なるほど、こうして女を落としていくのか。と冷静に納得していた。

「うん、機会があれば今度。」

決まり文句で受け流す。脈のない相手からよく聞くセリフだ。

愛想のない女を演じることにした。この女の手のひらの上で転がされてはいけないと、失恋したばかりの心がそう訴えてきた。

なのに何故か胸が騒ぎだして、居心地を悪くさせる。

心が痛むのはもう傷ついているからだと言い聞かせるが、なぜだか今にも泣き出しそうで、全く紘の目を見ることができなくなっていた。

いつの間にか頼まれていたカクテルが再び私達の前に置かれた。

「乾杯しよう。」そう呟いた声に、しっかり短く揃えられた爪先まで綺麗な手に、抜かりない紘に、恐怖にも似た強烈な魅力を感じていた。

失恋に効く薬は新しい恋だ、とはよく言ったものだとそんな言葉を思い出した。

素直な自分を恨むが、それでも愛想の悪い女の仮面を外さなかった。

気付けば紘の周りに群がっていた女達は消えていた。

紘は今、私しか見ていない。あがり症を隠したくてカクテルをハイペースで飲んだ。

カウンターの下でたまに膝同士が触れるのはわざとやっていることだとわかっていた。


しばらくすれば、お互いに気持ちよく酔ってきて、紘はわかりやすくボディタッチが増えた。

スキンシップが嫌ではない私は何も気にしなかった。

むしろもっと触ってくればいいとすら思っていた。紘もまた、焦らすように与えすぎないように、上手に不意を突いては、本当にさりげなく触ってくるのがまたいやらしかった。

酒が回り、交わす言葉に力が抜けてくると私達は、とても打ち解けていた。緊張もほぐれて居心地の悪さはなくなっていた。

紘は全然「王子様」ではなかった。見た目ほどクールではなくて、凄く瞬きをする癖とか、大きな口を開けて笑う子供っぽいところとか、甘えた声を出したりとお茶目な部分が可愛いらしい雰囲気に変わった。

そんな調子とは正反対に、紘は度々タバコを吸うのだった。

やっぱり色っぽく、どこか人を寄せ付けないような鋭くクールな姿だった。

その間ばかりは口を噤んでしまう。吸い終わるまで、ぼんやりと紘とどんどん短くなるタバコを交互に見ていた。

ある時、煙を顔面に吹きかけられた。

あまり嬉しくない行為に少しムッとして拗ねた声が出る。

「私喘息なの。タバコ吸うならここから離れるわよ。」

私が気にするのもこれが本当の理由だった。悪く思わないでほしい。嫌いにならないでと心で祈った。

無愛想な女の仮面は今にも崩れそうだった。いや、もうとっくに崩れていた。

紘から笑顔が消えて柔らかかった顔がキュッと引き締まった。少しの沈黙の後、火をつけたばかりだったタバコを一口吸って反対を向いて吐き出してから言った。

「二度と君の前で吸わないよ。」

目頭が熱くなって、じんわりと視界がぼやけた。情けなくなって俯いた。

どうしてこうも理想的な回答が返ってくるんだろう。

紘の灰皿はいっぱいになっていた。

ごめんね 、と私の顔を覗きこんで「そういうことは早く言わなくちゃ。」と手を握ってきた。

目の前をぱらぱらと灰が落ちていった。辿ると私の手のすぐ近くにあった灰皿で火をグリグリと消した。

「根性焼きされるのかと思った。」

思わずそんなことを言うと心配そうにしていた紘が吹き出した。

「愛麗って、面白いよね。」

とても優しい声だった。そうして少しずつ心が癒えていくのを感じていた。


終電が迫った頃、私達は店を後にした。最初に言った通り紘がお金を出した。

素直に奢られてお礼を言うと、私のスラックスにできた染みを、一瞬だけ見て笑顔になる。

ふふふ、と子供のように笑って「いいのさ。」と上機嫌だった。

奢られるのは苦手だったが、これに関しては気持ちがよかった。そんなこと気にしないほど楽しかった。

酔っ払いよろしく肩なんか組んでふらふらと駅の前までやってきた。

紘は家が近いらしくタクシーで帰るという。ナチュラルに見送られたことに気付いたと同時に、ホームですぐに別れることになった。

「じゃあここで。」

私が手を振ると「また連絡するね。今日は楽しかった。」と言ってその手を掴んできた。

なかなか離してくれない手に、熱が伝わる。胸が苦しくなった。言葉にせずとも何が言いたのかわかった。自分の気持ちを誤魔化すつもりはなかった。ただひたすらに熱い視線を感じていた。

「やっぱりもう少し一緒にいようよ。うちに泊まればいい。」

少し震える声から誠実さを感じた。

私は込み上げてくる想いを押し殺し、長く迷った末に声を絞り出した。

「また明日、連絡して」

ゆっくり離れていく手に、紘は何も言わなかった。最後に見た顔はひどく寂しそうだった。



帰宅してすぐ、私は布団に突っ伏した。

着替えなければシャワーも浴びず、メイクも落とさず、コンタクトも外せなかった。

気を失うように深い眠りに落ちた。



朝はうまく起きられなかった。私の全身には、紘のタバコと乾いたカシスオレンジの香りが張り付いていた。

ベットから起き上がれずにいると朧気な昨日の記憶が、紘の顔を思い出させた。何を話したのかいまいち覚えていなかった。

本当はどんな朝を迎えたかったのか、そんなことばかりをまどろみの中で思っていた。


私を再び目覚めさせたのは、紘からのモーニングコールだった。


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