某(それがし)は猫である。

寿 丸

某(それがし)は猫である。

 某は猫である。名前はマロンという。


 このマロンという名は某の飼い主が名づけたものだ。明るい栗色の毛をしているからというなんとも人間らしい安直な由来である。響きとしては悪くないが、どちらかといえば犬っぽい名前に近い。事実テレビのバラエティ番組を見ていて、マロンという名の犬が出てきた時には不愉快な気持ちになった。


 飼い主は年老いた夫婦とその娘だ。夫の方はすでにリタイアしており、妻と娘がパートに出かけている。見事な一軒家を建てていることから、経済状況は決して悪くない。事実、普段の食事に加えておやつを提供してくれる。肥満の原因になってしまうので、ほどほどにしてあるが。


 数か月前、ある一家が近くに引っ越してきた。まだ若い方の夫婦とその一人娘だ。娘は十代の子で、制服を着ている。某を見かけてはそそくさと駆け寄って、しきりに撫でてこようとする。しかし、某はその手をかわす。簡単に触られてやっては、猫の沽券に関わるというものだ。


 その娘の妻も、某に興味を抱いている様子だった。買い物帰りによく見かける。「あら」と声を出して荷物を地面に置き、丁重に屈んでくる。娘よりは所作に落ち着きがある。某はたまたまその時気分が良かったので、一応撫でさせてやった。「可愛いわねぇ」と言い、満足したように買い物袋を持ち上げる。


 その背中を見送りながら、某は鼻を鳴らした。


 猫が可愛いのは当たり前である。古来より猫は人と共に暮らしていた。時には神と同じように崇められてきた。今ではすっかり生態系ピラミッドにおいては人間よりも下という位置づけになっているが、本来は猫が一番上なのである。だが、だからといって人間に手を出したり噛んだりはしない。悲しいかな、力だけでいえば猫よりも人間の方が上なのである。速さでは勝っていても、人間というのは眠れる本能を発揮して危機を回避する。


 触らぬ人に祟りなし。


 そういうわけで某は道端で寝転がり、通行人に愛嬌を振りまいたりしている。人間は敵にするよりも、味方につけておく方が賢い。猫の愛くるしさに魅了されている人間が一人でも増えれば、某は着々と力をつけていくことになる。


 だが、某の存在を目に入れていない様子の男がいた。


 先述の、最近引っ越してきた一家の旦那だ。その男はぼんやりとした目つきで、くたびれたスーツ姿で仕事に出る。某に気づくようになるのは、引っ越してきてからなんと半年後のことだった。猫に興味を抱かないとは、なんたる無礼者だ。せっかく寝転がってやったというのに、それでも見向きをしなかった時には腹を立てた。食事をやけ食いし、腹が重くなってしまった。これはあの旦那のせいである。


 初めてその旦那を見かけてから半年後。旦那はようやく某に気づき、前に屈んでみせた。某は旦那のまとう匂いが気になった。臭気とでもいうのだろうか、あまり嗅いだことのない匂いだ。某の飼い主はこのような匂いをまとわせたことがない。酒とは違うその臭気に、某は興味を抱いた。


「臭くないのか?」とその旦那は言った。


 もちろん臭い。だが、それ以上に興味深い。某は匂いのきつい手をくんくんと嗅ぎ取り、なるほどと納得した。これは俗にいうタバコの匂いだろう。外の空気に混じってたまに匂ってくるものだ。そういえばこの近くの喫煙所の近くを通りかかった時、似たような匂いを嗅ぎ取ったことがある。


 旦那と別れたその晩、某は近くをぶらついている野良猫を発見した。人を見つければすぐに逃げ出すような臆病者だ。某が姿を現した時にも、びくりと体を震わせた。

「なんだ、おめぇか」

「なんだとはなんだ。それに、お前と呼ばれる筋合いはない」

「けっ、相変わらず気取りやがって。そんなんだから友達ができねぇんだよ」

「お主に心配してもらう義理はない。それよりも、あの男について知っているか?」

「あの男って、どの男だよ」

「半年前に引っ越してきた、あの一家の旦那だ。某にもお前のような野良猫にも興味を抱いていないとみえる」

「ああ、あいつか。変わり者だよな。普通、猫を見かけたら即座に近寄ってくるもんだけどあいつはちらっと見ただけですぐに行っちまう」

「先ほど、その男が某に興味を抱いたようだ」

「へぇ、変わった話もあるもんだな。……それで?」

「それで、とは?」

「その旦那とはお付き合いするつもりなのか? だったら止めといた方がいいぜ。人間なんてその気になればすぐに手のひらを返すんだからよ」


 某はこの野良猫が実は元飼い猫であることを知っていた。なんでもひどい虐待を受けて、脱走してきたという。といっても知っているのはそこまでで、某は深く知ろうともしていなかった。これからも聞くつもりはないだろう。


「そうかもしれんな」と某は、野良猫の言葉を否定しなかった。だが、某の飼い主まで否定するような言い草はあまり許容しかねた。

「だが、人間のすべてが悪というわけでもあるまい。事実、某は毎食と入浴が保証されている。お主と違って、雨風をしのげる場所を探す必要もない」

「けっ、自慢かよ」

「自慢だ」

「ちっ。飼い猫ってのはこれだからよ。ドンに言いつけてやるからな」


 ドンというのは、この地帯を牛耳っている野良猫のことだ。図太い性格と図体をしており、のしのしと歩いていく様を何度か見たことがある。目つきは鋭く、某としてはあまりお近づきになりたくないタイプではあった。

「ドンは人間に興味がないと聞くが」

「それでも、人間に尻尾を振っている奴がいるとわかればいい気はしないだろうよ」

「そうか」とだけ某は言った。


 野良猫は面白くなさそうに去っていった。彼奴がドンに何を話そうが某には関係のないことだ。よしんばそれで不利益を被ることがあっても、いざとなれば人間の住処に逃げ込めばいい。どこに紛れていようが人間は某のような猫をむやみに追いやったりはしない。加えて、ここの住人とはほとんどが顔見知りであった。万が一にもないと思うが、某がドンによって追われるようなことがあればすぐに庇ってくれることだろう。


 さて、思いきり脱線した。


 某は旦那の動向を観察してみることにした。某が道端で背伸びをしてみれば、旦那は興味深そうに見つめてくる。旦那が手を差し出してくれば、某は彼奴の手の匂いを嗅ぎ、あるいは膝に頭突きをする(これは猫なりのボディランゲージだ)。そういったことを繰り返していると、旦那も某のことを観察しているのだと見た。


 お互いに観察されているというのは、なんとも妙な状況ではある。だが、某はそれが別に不愉快というわけではなかった。人間にもあるはずだ。お互いのことを知るべく会話やちょっとした動作で相手の顔色を窺うということが。要するに互いの腹を探り合っているということだが、某と旦那とのやり取りは人間のそれよりもはるかにわかりやすい。


 ある時、某の飼い主が一人娘とちょっとしたいざこざを起こしていた。飼い主の妻は某を連れて、外に置き去りにしてしまった。事が終わるまで外にいろ、ということなのだろう。全く、人間というものは身勝手である。どんな事情でいざこざを起こしているのかはわからないが、だからといって某を外に放り出すなど言語道断だ。


 この時はたまたま夜だった。某はふと、空を見上げた。満月とはいえない中途半端に欠けた月が宙に浮かんでおる。某は意味もなく一回だけ鳴いた。すると、通りかかった通行人がこちらに気づいて近寄ってきた。

「あらあら、可愛い猫ちゃんね」


 遠慮なくわしわしと撫でてくる。その手つきは不愉快極まりなかったが、逃げられる隙間がない。仕方なく某は、されるがままになっていた。やがて満足したとみるや、その通行人は上機嫌で去ってしまった。自分の欲求を満たすために猫を撫でるという人種は確かにいるが、ほとんど鷲掴みにするように撫でられると不愉快通り越して呆れてしまう。


 それからほどなくして、あの旦那がやって来た。背中を丸くし、目には生気がない。あれでは長くはもたないだろうなと余計なことを考えた。


 果たして、彼奴は某の存在に気づいた。


「ああ、ネコスケか」


 ああ、とはなんだ。そしてその名前はなんだ。安直すぎて涙が出そうになる。


 彼奴は某の前で屈んだが、手を伸ばしたりはしなかった。ただ某の目を覗き込み、はぁとため息をつく。猫の前でため息をつくということは悩みを聞いてほしいということなのだろうが、某はそんなものクソ食らえであった。

「いいな、猫ってのは。自由そうで」


 その通りだ。人間と比べて猫とはなんと自由なことか。煩わしい人間関係もなく、上下関係もなく、仕事もなく、家事もしなくていい。それどころか毎日の食事も入浴も遊び場も提供され、徹底的に甘やかしてくれる。これを最高の環境と言わずして何を言う。人間が某の境遇を羨ましがるのは至極当然といえた。


 再び旦那はため息をついた。今度は空に向けて。どうやらまたタバコを吸ってきたらしい。人間というものはいちいちタバコを吸わないと、やってられないのだろうか。某が言うのもなんだが、なんとも不便な存在である。


 旦那はようやく、某に手を伸ばしてきた。某は仕方なく撫でられてやった。しかし、頭だけは許さない。背中ならば許してやろう。


 某の考えを読み取ったかどうかはわからないが、彼奴は某の背中を優しく撫でていた。ふん、このぐらいならばいいだろう。


 某は尻尾をひた、ひたと動かした。一応喜んでいるという意思表現だ。旦那はそれを見、「可愛いもんだな」とつぶやいた。どうも人間というのは猫に対し、極端にボキャブラリーが貧困になる傾向にあるらしい。「良い毛並みをしている」というのもつまらない。ならばどんな風に褒めた方がいいのかといえば、そんなものは某が考えることではない。

「じゃあな、ネコスケ」


 ひと通り撫でて満足したのか、旦那は家へと歩き去った。彼奴が職場でどのような憂き目に遭おうと知ったことではないが、しょぼくれた顔の人間を慰めてやるほど某も暇ではない。そもそもなぜ某をはじめとした猫類が、人間の癒しにならなくてはいけないのか。そんなもの誰が決めたというのか。まったくもって、やれやれである。


 某は次第に、その旦那の観察に飽きてきた。よくよく考えてみればなんの変哲もない、どこにでもいるようなオスだ。当初、某に興味を抱いて近づいてこなかったから反対に某の方が興味を持っただけだ。しかしこのオスが某に興味を抱いてからは、すっかりそういう気持ちが失せてしまった。結局彼奴も人間というわけだ。


 某はあくびをし、我が家へと戻った。「あら、マロン」と飼い主の妻が出迎えてくれる。


「またお散歩してきたのかしら。寒くなかった?」


 某は返事として鳴いておいた。どうやら先ほどのいざこざは収まったとみえる。


 某は丸形のクッション――某の寝床である――に横たわった。すると妻の娘がのそっとやってきて、某の背を撫でる。これから寝ようと思っていたのに、なんたる仕打ちである。しかし、優しい手つきだからついつい居心地が良くなってしまう。

「ありがとうね、マロン。いつも可愛いね」

 当然である。礼と誉め言葉を添えられるだけ、この人間はましだ。

 そもそも、猫類とは……(この後、眠りに落ちた)。

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