第4話
4.
朝から雨が降っていた。なっちゃんの家には黒い服を着た人が次々に押し寄せてきて、灰色の重たい雲と相まってますます空気を暗くしていた。
おばあちゃんも黒い着物を着て座っていた。
誰かがおばあちゃんに、
「苦しまなかったんだから、よかったと思ってあげよう」
と話している。
なっちゃんは部屋の隅に座って、真っ赤に泣きはらした目で頷くおばあちゃんを見守っていた。
おじいちゃんは細長い箱にすっぽりとおさまって、まだ寝ている。たいして酔っ払ってもいなかったのに、こんなに寝ているなんてどうしたんだろう。なっちゃんは時々立ち上がっては箱の中のおじいちゃんを覗き込んだ。
そしてとうとう意を決しておじいちゃんの頬をえいやと押してみて、腰が抜けるほど仰天した。なんとおじいちゃんが氷のように固く冷たくなっている。
なっちゃんは大慌てでおばあちゃんに飛びついた。箱の中におじいちゃんそっくりの人形が入っている! 本物のおじいちゃんはどこへ行ったんだろう?!
するとおばあちゃんは優しくなっちゃんを受け止めながら、言った。
「あのね、なっちゃん。おじいちゃん、死んじゃったのよ」
なっちゃんは意味が分からなくて、あの白濁したくず桜の目でまじまじとおばあちゃんを見つめた。
おばあちゃんは尚も続けた。
「おじいちゃんはもうここにいないの。遠くへ行っちゃったの」
ここにいなければどこに行くというのだろう。ここがおじいちゃんの家なのに。おばあちゃんもなっちゃんもいるのに、遠くへ行くとはなにごとか。
なっちゃんは、おばあちゃんとなっちゃんを置いて勝手にどこかへ行ってしまったおじいちゃんに腹が立ってきた。
黒い服を着た人たちがおじいちゃんの偽物の入った箱を持ち上げた。
なっちゃんはそんな偽物が家にあるのが失礼だし、まるで誰かに騙されているみたいで、怒りにまかせてそんなものとっとと持って行ってくれとばかりにふんと鼻を鳴らした。
それから、おばあちゃんに向きなおり、おじいちゃんを探しに行こうと着物の袖を引っ張った。
が、その途端、おばあちゃんはその場にわっと声をあげて泣き伏してしまった。
おばあちゃんは子供みたいに大きな声をあげて、いつまでも泣き続けた。苦しそうに体を折り曲げ、畳に額をくっつけるようにして、わあわあ泣いた。皺だらけの手で拳を握り、何度も畳を叩いた。
その時初めてなっちゃんは縁側のいつもの場所に置いてあったおじいちゃんの将棋盤がなくなっていることに気がついた。おじいちゃんは将棋盤ごと持って、どこかへ行ってしまったのだ。
なっちゃんは全身の力が抜けるのを感じた。あんなに大事にしていた将棋盤を持っていなくなるなんて、それじゃあまるで家出だ。蒸発だ。なにが不満だったんだろう。昨夜も楽しくお酒を飲んでいたのに、にこにこしていたのに。
なっちゃんはさっきまでの怒りを忘れ、その替わり猛烈な悲しみが襲ってくるのを感じた。胸がぎゅっと掴まれたようになり、息が苦しくて、鼻の奥がつんと痛んだ。
幸せだと思っていたのはなっちゃんだけだったのだろうか。おじいちゃんは本当は家出しちゃうぐらい、嫌だったのか。そんなことちっとも知らなかった。気がつかなかった。どうして気付かなかったのだろう。なんで気づいてあげられなかったのだろう。そうと分かっていたら、もっとおじいちゃんの言うことを聞いてあげたし、できることはなんでもしてあげたのに。
なっちゃんは、黒い服の人に支えられながら部屋を出ていくおばあちゃんの後を、一緒に泣きながらついて行こうとした。
するとさっきおばあちゃんに話しかけていた人が、不意になっちゃんを呼び止めた。
「なっちゃん」
なっちゃんは立ち止まった。
黒い服の男の人はなっちゃんの両肩に手を置くと、
「おばあちゃんのこと、頼むよ」
と言った。
「もうおばあちゃんにはなっちゃんしかいないんだから、これからはなっちゃんがおばあちゃんを守ってあげるんだよ」
とも。
なっちゃんはこくりと頷いた。
朝から降っていた雨が勢いを増し、おばあちゃんの着物の裾を濡らし、白い足袋には泥がはねていた。
おじいちゃんの偽物をいれた箱が大きな黒い車に乗せられると、おばあちゃんは一瞬なっちゃんの方を振りかえった。
おばあちゃんは、光の加減だろうかなっちゃんの白く膜をはったような目が鏡のようになって、よれよれに憔悴した自分の姿が映し出されているのを見ると思わず我に帰った。
なんて格好なんだろう。こんな身も世もない姿をおじいちゃんが見たらなんというだろう。あの人はこういうのを一番嫌っていたのに。それに、なっちゃんのあの顔。まるで人間みたいじゃないか。眉毛が八の字に垂れて、本当に涙を流しそうな顔をしている。それに、あの不思議な瞳はどうだろう。なんの色も映さないような病的なまでに濁った瞳にも関わらず、世界のすべてを吸い込んでしまうような目でじっとこちらを見つめている。それはまさに、今この瞬間の悲しみも奪い去ってしまうような、透明な視線で。
それはほんの一秒にも満たない瞬間だった。けれど、おばあちゃんにこれから先の人生に強い決心を与えるには十分すぎる時間だった。
唐突におじいちゃんを失ったことおばあちゃんを絶望の淵に追いやり、もうこれから先の人生を一人で生きていくことなど到底できそうもないと思ったけれど、自分にはまだ大事な仕事が残っている。自分がいなくなったら、なっちゃんはどうなるのだ。しっかりしなくては。どんなことがあっても、なっちゃんを置いて自分まで死んでしまうわけにはいかない。
最期まで責任を持ってあげなくてはいけない。それが、おじいちゃんにとっても一番の供養になる。だって、おじいちゃんはあんなになっちゃんを可愛がっていたのだから。
おばあちゃんは、おじいちゃんが息をひきとる寸前までなっちゃんが傍らにいてくれたことに、俄かに感謝した。確かに突然の死ではあったけれど、きっと幸せな気持ちのまま逝ったに違いない。
おばあちゃんは黒い服の人たちと一緒に車に乗り込んだ。なっちゃんは、おばあちゃんが戻ったらおじいちゃんを探して、一生懸命謝って帰ってきてもらわなければと思った。
……それにしても、おじいちゃんはどこへ行ったのだろう。
「なっちゃん、留守番頼むよ」
黒い服の男の人が言いながら、なっちゃんの首輪に曳き綱をつけ、玄関先の犬小屋に繋いだ。
赤い屋根の小屋には「なち」と大袈裟な毛筆の表札があがっている。なっちゃんは、走り去っていく車を見送りながらぼんやりとおじいちゃんが表札を書いてくれた時のことを思い出していた。
5.あとがき
なっちゃんは365日欠かさず私の店の前を通る。それも一日一度ではなく、多い時は3~4回。
そう、作中にあるように、なっちゃんは白いふかふかした雑種の中型犬である。
最初に声をかけたのは、父だ。これも作中にあるように鹿肉の加工品の試作中だった父が、飼い主に声をかけ、なっちゃんに犬用ジャーキー(鹿肉使用)の試食をしてもらったことがきっかけて、私は毎日見かける「お散歩犬」が「なち」という名前であることを知った。
なっちゃんは実際、両目が完全に白濁している。これは高齢によるものではなく、先天性のものだそうだが、その白さたるやまったく不可思議な印象で見えているのかいないのかも分からないし、白内障のように白い目で「世界がどう見えているのか」疑問を感じずにはおけない。
なっちゃんはとてもおとなしい犬で、私は、父と飼い主であるおばさんが立ち話をしている間、なっちゃんを撫でくりまわすのが楽しみになっている。
そういう時、しゃがみこんでなっちゃんに「さむいねー」とか「鹿おいしかった?」とか話しかけるのだけれど、なっちゃんはいつも途中でふいと顔をそむけてしまう。
シャイなのか、はたまた嫌がっているのか、それは定かではない。が、そんななっちゃんをモデルに突然なにか書きたい気持ちになった。
といっても、犬の生態には詳しくないので、犬がワインを飲んだり、家庭の食卓にあがりこんだりする場面についてはいくつかの嘘と、別な犬を複合体としてモデルとしたことを書き添えておきたい。
とりとめもない、即興で書いたストーリーだが、とりあえず「なっちゃん」は今日も元気に散歩している。
「なっちゃん」 三村小稲 @maki-novel
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