第3話

3.

 なっちゃんは実はお酒が好きだ。


 本当はお酒なんて飲んでいいわけないのだけれど、お酒は美味しい。


 初めてお酒を飲んだのは、おじいちゃんが知り合いから貰ったワインを縁側で開けた時のことだ。


 庭には春の花が咲き、緑の芽吹く甘い匂いが漂っていた。おじいちゃんはワインの栓を抜き「こんなハイカラなもん、初めて飲むよ」と冗談まじりに笑った。


 おじいちゃんはワインをコップに注ぐと、将棋盤に向かいながら飲み始めた。なっちゃんはその様子をじっと眺めていた。


 コップの中でワインは金色をしており、太陽の光を集めて金剛石のように煌めいていた。その光が七色に放射して縁側に長く伸び、夢みたいに綺麗だった。


 おじいちゃんは将棋に集中している。なっちゃんは引き寄せられるようにコップの中を覗き込んだ。そしてそっとワインに口をつけた。


 なっちゃんは驚いた。こんな美味しいものは飲んだことがない。爽やかで、いい匂いがして、舌に残る優雅な風味はまさに天上の飲み物だと思った。


 なっちゃんは感動のあまり、コップのワインに夢中になった。口に含んでから、鼻に抜ける香りがまたたまらなく芳醇で、飲めば飲むほど欲しくなる。お酒がこんなに美味しいものならおじいちゃんが毎晩飲むのも無理はない。なっちゃんはそう思った。


「あっ」


 コップの中身が半分ほど減ってしまった時、初めておじいちゃんが将棋盤から視線をはずし、驚きの声をあげた。


「なに飲んでるんだ!」


 おじいちゃんは慌ててなっちゃんからワインを取り上げたけれど、時すでに遅し。なっちゃんはコップ半分のワインに酔っ払っていた。


 おじいちゃんは突差になっちゃんを叱ろうとした。が、すぐに考え直した。飲んでしまったものは仕方がない。それにしてもまさか飲むとは思ってもみなかったけれど。おじいちゃんは酔っ払ってふらふらと揺れているなっちゃんを見て、とうとう笑い出してしまった。


 それからだ。晩酌の時におじいちゃんが時々お酒を飲ませてくれるようになったのは。


 なっちゃんはおじいちゃんと並んでちびちびと舐めるようにお酒を飲みながら、一緒にテレビを見るのが楽しみだった。


 でも、おばあちゃんはなっちゃんが晩酌に付き合うのを良いことだとは思っていなかったので、おじいちゃんがなっちゃんにお酒を飲ませるといつも決まって、

「もう、いい加減にしてくださいよ!」

 と注意した。


「具合が悪くなったらどうするんです」

「なに、ちょっとぐらい。酒は百薬の長だろう」

「まったくもう……」


 おばあちゃんは口の中でぶつくさ言ったけれど、なっちゃんもおじいちゃんもそれ以上は聞こえないふりをした。


 だって具合が悪くなったことなど一度もないし、なっちゃんにはどうしておばあちゃんがダメって言うのかが理解できなかった。


 その夜もなっちゃんはおじいちゃんとお酒を飲んでいた。おじいちゃんはお風呂上がりのつやつやした顔でお酒を飲みながら、山葵の入った瓶海苔を手塩皿にとって舐めながら時代劇を見ていた。


 なっちゃんも隣でお酒をちびちびやりながらテレビに見入っていた。おばあちゃんだけが、忙しそうに台所と居間を行き来しながら蕗の煮付けや鮭の焼いたのを運び、その合間にまた、

「もう、いい加減にしてくださいよ!」

 と決まり文句を言った。


「大丈夫、大丈夫」

「飲みすぎでしょ」

「そんなことあるもんか。まだちょっとしか飲んでないだろう」

「もう、そうやって調子にのるんだから」


 おじいちゃんはおばあちゃんにひらひらと手を振った。おばあちゃんは肩をすくめて、でも、笑いながら食卓についた。


 おじいちゃんとおばあちゃんとなっちゃん。美味しいごはんとおかずと、お酒。なっちゃんはこういうのが幸せというものなんだなあとしみじみと思った。別段、特別なご馳走はないし、お酒もいつもと同じものだし、おじいちゃんもおばあちゃんも同じ様子だけれど、そのすべてが合わさって作り出される時間と空間には過不足がなく、むしろなっちゃんにとっては完璧だとさえ思えた。


 ごはんがすむとおじいちゃんはすぐに眠くなったと言って、畳にごろんと横になった。なっちゃんも真似してごろんと転がった。


「なんです、お行儀悪い」

「ちょっとだけだよ、ちょっとだけ」

「食べてすぐに横になると牛になりますよ」

「うん」

「うんじゃなくて」

「うんうん」

「ほんとにもう」


 おばあちゃんはまた呆れて口の中でぶつぶつ言ったけれど、おじいちゃんはもう酔って赤い目をしていて、そんなことはまるで聞いていないようだった。


 おばあちゃんは後片付けをしながら、仲良く寝転ぶおじいちゃんとなっちゃんを見て、心の中で「牛が二頭もいたら、家がせまくて大変だ」と思い少し笑った。


 まったく、そんなにお酒が美味しいというのだろうか。お酒を飲まないおばあちゃんは台所に食器を運び終わると、ふと思い立って、おじいちゃんのお酒の瓶の蓋を開け、その小さな小さな口をじいっと覗き込んだ。


 それはあたかも幼い頃、井戸の底を覗き込んだような、怖いのと好奇心の入り交ざった感覚だった。あれは手を伸ばせば届きそうな憧れと、決して届かない羨望だった。


 飲んでみようかな。おばあちゃんは妙にどきどきしながら、瓶を持ち上げ、おじいちゃんのお猪口にほんの少し注いでみた。


 そっと居間で寝ているおじいちゃんを省みる。よく寝ている。


 おばあちゃんはお猪口に口をつけた。

「あ」

 おばあちゃんは思わず声を漏らした。


 お酒ってこんな味だったのか。不意におばあちゃんはおかしくなって、台所でふふふと小さく笑った。


 手を伸ばせば届きそうで、しかし、本当に届いてしまったら、それはもう憧れでも羨望でも、夢でさえもないのだ。


 おばあちゃんは勢いよく水道の栓をひねり、お猪口をざあっと洗い流した。


「ほら、なっちゃんも起きて。おじいちゃんも。そんなところで寝たら風邪ひいちゃう」


 濡れた手を拭い、おばあちゃんはなっちゃんを揺り起こし、次いでおじいちゃんの肩を揺すった。


 なっちゃんはしぶしぶ起き上がった。お酒は美味しいけれど、いずれ飲み終わってしまうのだから儚いものだなと思った。


 おじいちゃんはなかなか起きない。おばあちゃんは何度もおじいちゃんを揺さぶる。それでもおじいちゃんは起きない。


 次第におじいちゃんを呼ぶおばあちゃんの声が叫びに変わっていった。おじいちゃんは器用なことに、息をしないで寝ていた。

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