第2話

2.

 その日、なっちゃんはおじいちゃんに誘われて夜になってから散歩に出かけた。おばあちゃんはお友達とお歌の会に行って留守だった。


 お歌の会というのは、おばあちゃんが参加している声楽のサークルで本当の呼び名は別にあるのだけれど、おじいちゃんがどうしてもそれを覚えることができず「あれ」だの「なんとかかんとか」だの言うので、結局おばあちゃんも諦めて自ら「お歌の会」だと言うようになった。そしておばあちゃんはそのお歌の練習をしに、お友達のところへ出かけているのだった。


 おばあちゃんが家で練習することは、ない。というのも、お歌の会で歌うのはオペラのアリアが中心なのだけれど、それはそれは大きな声で、脳天から突き抜けるような朗々たる声を張り上げて歌うものと決まっているから、今よりもっと小さかったなっちゃんはびっくりして、怖くて泣いてしまったからだった。


おばあちゃんが歌う度になっちゃんが震え上がるので、見かねたおじいちゃんが、

「こんなに怯えてるんだから、よそで練習した方がいいんじゃないか。せめて慣れてくるまでは家で歌わない方がいい。かわいそうだろう」

 と、言ったので、以来、おばあちゃんは家では歌わなくなった。


 でも、なっちゃんは知っている。本当はおじいちゃんもおばあちゃんの歌をうるさいなと思っていたことを。


 それはお稽古を控えるように言われたおばあちゃんがお友達のところへ出かけた後、おじいちゃんがなっちゃんににやりと笑いかけ、

「やれやれ、これで静かになったな」

 と嬉しそうに言ったからだった。


 なっちゃんにはおばあちゃんの歌が上手なのか下手なのかはよく分からなかったけれど、大きな音が苦手だったので、おじいちゃんと同じ気持ちだった。


 そんなわけで、おばあちゃんがお歌の会に出かけるとなっちゃんはおじいちゃんと一緒に静かな、それはもう本当に静かな時間を過ごすのだった。


 おじいちゃんは将棋が好きで、よく縁側で本を見ながら一人で駒を動かしている。それから、お酒も好きで毎日必ず晩酌をする。おじいちゃんはお歌の会だのお食事会だのと忙しいおばあちゃんに比べて、いつも一人だ。けれど、一人きりで過ごすおじいちゃんは決して寂しそうでもなければ、退屈そうでもない。どちらかというと、楽しそうに見える。


 なっちゃんも一人でいることが多いのだけれど、時々それはつまらなく思えて、誰かと遊びたいなとかどこかへ行きたいなとか考える。でも、そんな時はおじいちゃんをよく観察することにしていた。


 どうしておじいちゃんは寂しくないんだろう? 


一人で将棋なんてしちゃって、飽きないのかな? 


なんでおじいちゃんは友達と遊ばないんだろう? 


誰ともお喋りもしないで平気なのかな?


まだ答えはでない。


 おじいちゃんと行く夜の散歩は少し肌寒く、昼間の暖かさが嘘のようだった。おじいちゃんは紺色に赤いタータンチェックの綿の襟巻を巻きつけていた。


 夜の町は眠りの気配に満ちている。気だるくて、湿っていて、重い。そのくせ安心感を伴ってまとわりついてくる。


 なっちゃんはこの夜の気配とおじいちゃんが一人でも楽しそうなことが似ていると思った。


 おじいちゃんとなっちゃんが葡萄の木のあるレストランの前を通ると、お店の人が閉店の支度をしていて、髭をはやしたコックさんが看板を片づけているところだった。


 太ったコックさんはおじいちゃんを見ると「こんばんは」と挨拶をした。


「お出かけですか」

「ちょっと散歩に」

「夜になるとまだ冷えますね」

「本当に」


 なっちゃんはおじいちゃんがいつからコックさんと友達だったのか驚いて、二人の顔を交互に見ていた。そして気がついた。おじいちゃんはコックさんと話していても、一人でテレビを見ながら思わず独り言を言ってしまう時と変わらないということを。


「あ、そうだ。ちょっと待っててくださいよ」


 コックさんはそう言うと急いでお店の中に入って行き、すぐに何かの包みを持って出てきた。


「これこれ。もしよかったら、食べてみてください」

「なんですか?」

「鹿の肉です。もう調理してあるから、切ってすぐ食べられますよ」

「へえ。鹿の肉。変わってますねえ」

「お酒のツマミにいいですよ」

「お、これはありがたい」


 おじいちゃんは嬉しそうに微笑むと、コックさんに片手をあげた。


「また感想聞かせてください」


 コックさんも軽く頭を下げた。


 なっちゃんとおじいちゃんがコックさんから鹿の肉を貰い、散歩して家に帰ってもおばあちゃんはまだ戻ってきていなかった。


 家の中はしんとして、鳥肌がたってしまうほど身にしみる静寂に満たされていた。


 なっちゃんは今度こそおじいちゃんが寂しそうな顔をしていないか、おじいちゃんの顔を見上げた。


 でもおじいちゃんは台所へ行き、いそいそとお酒を青磁の片口に移し、お猪口を用意してから卓袱台に貰った鹿肉の包みを開いた。


 肉は暗赤色をしていて、つやつやと光り、いかにも美味そうな匂いがしていた。


「ほお、なるほど美味そうだな」


 おじいちゃんは呟くと、小さな包丁を持ち出して肉を薄く切り、一切れ口に放り込んだ。


 なっちゃんがじっと見守っていると、おじいちゃんは肉を一切れ食べさせてくれた。


 よく締まった鹿肉は舌にからみつく適度なねっとりした感触と、柔らかさと、噛めば噛むほど甘みが湧き上がってくるようで美味しかった。


 やがておじいちゃんは片口からお猪口に透明で涼しげなお酒を注ぎ、ぐいと一息に飲み干した。


 なんだ、やっぱりおじいちゃんは一人でも平気だし、一人でも楽しいのだ。


 その時、柱時計が控え目な音を立てた。おじいちゃんは時計に目をやった。釣られてなっちゃんも時計を見た。それからまた卓袱台に視線を移す。


 卓袱台には青磁の片口、鹿肉。それから、お猪口がふたつ。おじいちゃんのと、おばあちゃんのと二人分。


 おじいちゃんはもう一度時計を見る。そしてまた卓袱台を見る。それから時計をもう一度。 


 なっちゃんはそんなおじいちゃんを黙って観察し続けていた。

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