「なっちゃん」
三村小稲
第1話
1.
なっちゃんの目は生まれつき白い靄がかかったようなくず桜の目だったけれど、それは病的な印象ではなく、見る人に朝早く霧のかかった湖の面を覗き込むような一種の爽やかさと妖しさを感じさせるものだった。
なっちゃんはおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしていて、毎日どちらか一方と、または両方とで散歩をするのが日課になっており、道行く人がなっちゃんの目を見て驚いたり、憐れむような視線を送ることもあったけれどなっちゃんにはどうでもいいことだった。
実際、目が白濁しているからといって不便はなく、なっちゃんは健康だったし、毎日ごはんも美味しかった。みんなと違うということも気にならなかった。というのも目の色がちょっと違うといっても、他のどの部分だって他の誰かと同じところなど何一つないのだし、みんながみんなそれぞれ違うようにできているのだから、人になんと言われてもなっちゃんは平気だった。
朝、なっちゃんはおばあちゃんと川沿いの道をつらつらと散歩する。五月の朝の空気は清浄で、降り注ぐ太陽も優しい。草むらには雀がむらがって、しきりになにかついばんでいる。おばあちゃんは植物が好きなので散歩の途中にしょっちゅう立ち止まっては「まあ、綺麗だこと」と言いながらいつまでも雪柳だの金糸梅などを眺めた。
そんな時なっちゃんは一人でつらつらと少し先に進み、おばあちゃんを待っていてあげた。でも大抵おばあちゃんは「ほら、なっちゃん見てごらん、これ」と言ってなっちゃんを呼び戻すので、せっかく前に進んでもなっちゃんはまた進んだ分だけ後戻りしなければならなかった。
そうやっておばあちゃんが熱心に花の名前を説明してくれるので、なっちゃんはいつも散歩の時に通る道に咲いている花や、近所の家の生垣や鉢植えの名前も全部知っていた。
なっちゃんが気に入っているのは街路樹の花水木。それも、歩道沿いのどれでもではなく、いつも通るレストランの前のもの。そのたった一本だけがなっちゃんの好きな木だった。
他の街路樹はどれも枯れ枝のように乾いていて、ろくに葉っぱもなければ花も咲かないし、木の根元は雑草がぼうぼうにはびこって煙草の吸殻やペットボトルが捨てられていて、なっちゃんはそれを見るたびにいつも嫌な気持ちになった。これでは花水木は息もできないし、栄養は全部雑草がもっていってしまう。貧弱な枝しかない花水木が気の毒だと思った。
でも、レストランの前の花水木は二階の窓に届くほど背が高く、枝が見えなくなるほどたっぷり花を咲かせ、風が吹くと雪が降るように花びらを散らせ歩道に白い水玉模様を作る。なっちゃんはそれを見るのが好きだった。
もちろん根本には雑草もゴミもない。それはレストランの人がちゃんと草をむしったり、ゴミを拾ったりしているからだとおばあちゃんが教えてくれた。確かにレストランの前の花水木と道路をはさんで向かい側の花水木とではとても同じ種類の木とは思えないほどの差があった。
散歩を終えてなっちゃんとおばあちゃんが家に帰る途中、レストランの前を通るとお店の人が二人、脚立を持ち出して何やら作業をしているところだった。
おばあちゃんはそれを見ると立ち止まり、声をかけた。
「これ、葡萄でしょう?」
「ああ、はい。そうですよ」
「実がなるの?」
「なりますよ。ほら、これ、葡萄の花。これ全部に実がなるんです」
「まあ、すごい」
葡萄は長い蔓を何メートルも伸ばし、そこからさらに沢山の新しい枝が出て赤ちゃんの手のひらほどの葉が開いて、鮮やかだった。枝の先には小さな緑のつぶつぶが固まって、いくつもいくつも生えている。それが葡萄の花なのだとおばあちゃんは説明してくれた。お店の人は蔓がからみあってもつれないように、まっすぐに伸ばしてやっているところだったのだ。
おばあちゃんは脚立の上に登って葡萄を窓の上に引っ張り上げている人に、
「食べられるの?」
と尋ねた。
すると脚立の上の人ではなく、下に立ってハサミと麻紐を持っていたもう一人が、
「食べられますよ」
と答えた。
そして、
「葡萄、好き?」
と、にこにこ笑いながらなっちゃんの顔を覗き込んだ。
なっちゃんは黙っていた。すると、なっちゃんの目を見たお店の人は「あら」と一言漏らした。
なっちゃんはそういうことに慣れていたので、何も感じない。ただいつも思うのはこんな場合、相手に気を遣わせるのが悪いなということだった。知らんふりをするのも、かわいそうにと言うのも気が引けるだろうし、かと言って気持ち悪がったり笑ったりするのは失礼だと考えるのが普通だろうから、かえってなっちゃんはどうしていいのか分からなくて無表情になってしまう。でも、それだって本当は相手に気を遣わせることになるので、ますますなっちゃんは困ってしまうのだった。
しかし、お店の人はそんなことはまったく関係なく、こう続けた。
「おめめが白いのね。それじゃあ、世界はどんな風に見えるの? 白く見えるの? 雪の日みたいに?」
そんなことを聞かれたのは初めてだった。
お店の人はなっちゃんの頭を撫でながら、おばあちゃんに、
「葡萄、食べられるんですけど、種がいっぱいなんですよ」
「ああ、そうか。種なしにするには薬につけるのよね」
「そうなんです。でも、うちは農家じゃないからそこまでは」
「でも食べられるんでしょう? 甘いの?」
「甘いですよ」
と話した。
なっちゃんの目が白いことはお店の人にとってかわいそうでもなければ、気持ち悪いわけでもないらしかった。むしろ、なっちゃん自身がそう思っているように「たいしたことじゃない」みたいだった。
「秋になって収穫したら、分けてあげるね」
お店の人は麻紐をハサミで切り、脚立の上の人に手渡した。麻紐で葡萄を縛っておくのだ。
「よかったね、なっちゃん」
おばあちゃんが言った。
「なっちゃんっていうの? なっちゃん、またね」
また先に歩き始めたなっちゃんにお店の人が声をかけた。
なっちゃんは一瞬振り返り、自分の膜が張ったような白い目と、この人の目が見ている世界が同じかどうか、違うかどうかはどうやったら分かるのだろうかと真剣に考えていた。
おばあちゃんも歩き出し、なっちゃんに追いつき、並ぶ。おばあちゃんの目には世界はどんな風に見えているのだろう。みんなと同じなのだろうか、違うのだろうか。それだって、なっちゃんには見当もつかないことだった。
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