第3話 旅のはじまり
「さて、君はもう魔王では無く元魔王だ。これからなんと君を呼べばいいのかな」
「私の名前はスフィアだ。好きに呼ぶといいさ」
「そうか。それじゃあそのままスフィアと呼ぶよ」
「それでいい。私も君に同じ事を聞きたいのだが」
「僕の名前はレクター。レクター・リーヴェルだ」
「それでは君のことはレクターと呼ぼう」
「僕は今日ほど自分の名前に感謝した事は無いよ。それはそうと君に名字はないのかい?」
「一応あるにはあるんだがちょっと事情があってね。今は無いみたいなものかな」
「そうか、それじゃあ君は今からスフィア・リーヴェルだ」
「さすがに君の国の常識に疎い私でもその名字を名乗る意味は知っているよ」
彼女は優しく微笑む。きっと僕も同じような表情をしているだろう。
「嫌かい?」
「嫌ではないさ」
「それは良かった」
「スフィア・リーヴェルか。いい響きだね。言ってみたかっただけで響きの良し悪しなど分からないけれど、いい名前だね」
ここから始めよう。君と僕の穏やかな生活を。誰にも邪魔されない安らかな生活を。
「この場所がどこか知っているかい?」
「逆に聞くけどなぜ私が知っていると思うんだい?」
辺り一面に広がり、終わりが見えない草花。それらは日の光を浴びて生き生きと揺れている。
ここがどこだか分からないけれど君と物語を始めるにはもってこいの場所だ。
僕は地面に腰を下ろした。そんな僕を見て彼女も。
互いに向き合って座るとなぜだか少し恥ずかしい気分になる。
「これから僕達はどうしようか?」
そう。これからどうするのだろうか。僕はもう勇者では無い。そして彼女も魔王ではない。
しかし僕には帰る場所ももう無い。それは彼女も同じ事だろう。
「そうだねえ。適当に旅でもするかい」
彼女は宛もなくそう言った。
旅…か。それもいいかもしれない。
そういえばまだ解決していない疑問が一つあった。
「どうして君は死にかけていたんだい?あの程度の人間が君を倒せる筈がないじゃないか」
彼女ほどの実力ならあんな状況になる訳が無い。彼女にかかればそこらの兵など塵芥に等しい。
あれは酷かった。惨かった。悍ましかった。もう二度と彼女のあんな姿は見たくない。
彼女は肩をすくめながら答える
「自分が思っている以上に君の存在は大きかったみたいでね。君がいなくなってしまった後に私は生きる理由を失ってしまったのさ。それに君との思いでが詰まった家を壊したくなかったからね」
嬉しくもあり悲しくもあった。そこまで大切に思ってくれているとは知らなかった。しかし僕のせいで彼女が死を選ぶははめになったのだ。
「二度と居なくならないと約束するよ」
ああ、約束しよう。何に誓ってでも。何をしてでも約束しよう。僕は君より先に死なない。
「そうしてくれると助かるよ」
彼女の目は微かに潤んでいる。ひどいこと事だとは思うがとても美しかった。
君とならどこへでも行ける気がする。
「やっぱり旅をしようか」
僕らを縛るものはもう何もない。短すぎる寿命も。くだらない命令も。誰かが無理矢理託してくるもことも、押し付けてくることもない。
僕達は僕達が思うままに生きる事ができる。
「私もそう思っていたところだ。とりあえずは世界一周かな」
とりあえずで言うには壮大すぎる気もするが、どうせやるならそれぐらいがいいだろう。
「それじゃあ改めてよろしく頼むよ」
右手を差し出す。
昔、昔の話だ。
彼女に握手を求めた事がある。その時の僕の右手は何も触れることはできずに元の位置に戻った。
だが、それはもう過去の話だ。
「こちらこそよろしく頼むよ」
差し出した右手はしっかりと彼女によって握られた。
手だけではなく、何か大切なものに触れることができた気がする。
彼女の手は柔らかくは無かった。滑らかな訳でも無かった。白魚のように細くも無かった。
彼女の手は何も言わずに伝えてくる。彼女が今までに歩んできた道のりを。選んできた道のりを。
願わくば、彼女が二度と剣を握ることが無いように。剣を向けられることが無いように。
そう祈るだけだ。
「そろそろ手を離してほしいんだけど」
僕の祈りは彼女によって中断された。
「悪いね、ちょっと考え事をしていたよ。とりあえずは街を目指さないと行けないから、東西南北のどれか一方向を進む必要があるね」
僕達にはここが何処か分からない。分かるのは森の中という事だけだ。
「北がいいな。私の故郷がある方向だから」
今は無き。とは彼女は付け足さなかった。
昔、彼女が故郷の話をしたことがある。
北に位置するものの、寒すぎることはなく農産物も豊富に取れたいい国だったという。
魔王の力で増長したオリアガル皇国によって侵略され、滅ぼされてしまったそうだが。
そんな彼女が魔王に選ばれたのだ。笑えない冗談でしかない。
勇者も魔王も勝手に選ばれる。女神を信仰するアイギス教からは勇者が。魔神を信仰するイルム教からは魔王が。
だからあの戦争は宗教同士の戦争でもあった。
そして僕達は後悔する。あの時、神を信じてさえいなかったらと。
「北か、いいね。コンパスはあるかい?」
彼女は虚空からコンパスを取り出し、僕に投げ渡してくる。
北はどうやら…あっちの方角らしい。
方角を確認してからコンパスを投げ返す。
彼女にキャッチされたコンパスは音もなく消えた。
あの魔法が僕にも使えたらとも考えたのだが、それは不可能だった。
精霊と契約でもしない限りはあんなふうに空間に干渉する事など出来ない。
その不可能を可能にしているのが彼女が付けている指輪だ。左手の人差し指に輝くそれは、彼女の母親の形見らしい。
形見の品ゆえにあまり深く聞くこともしづらく、今に至る。
「行こうか。水と食料はまだあるかい?」
「侮らないでくれよ。あと一年は持つね」
彼女は大袈裟にリアクションを取った。
一年あるならどう見積もってもどこかには着くだろう。
それに僕達の足は速い。それは走る速度もだが、歩く速度もだ。
彼女は立ち上がって手を差し伸べてきた。
その手を掴んで僕も立ち上がる。
「それじゃあ出発だ。私はか弱い乙女だからね。途中で魔物が出てきたら倒してくれよ」
「君がいるから魔物なんて出てこないよ」
僕達の旅が今始まった。
逃げる為ではなく、誰かの為ではなく、僕達の為の旅が始まった
どうも勇者です。魔王と一緒に戦争から逃げて新しい人生を謳歌する事になりました 洞爺湖 @tooyako
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