アドミラル・アリス ー勇気を出して空を飛んだ、小さな小さな仔猫の物語ー
二式大型七面鳥
アドミラル・アリス ー勇気を出して空を飛んだ、小さな小さな仔猫の物語ー
――おなかがすいたなぁ……――
今にも泣き出しそうな、寒々しい鉛色の空を見上げ、後にアリスと言う名前をもらうその野良の仔猫はつぶやきました。
もう何日、まともなものを口にしていないのか、考えたくも無いくらい。
お母さんと一緒にいて、食べ物の心配の無かった春。
兄弟たちと野山を駆け回り、食べ物を探すのに苦労しなかった夏。
でも、秋が深まるにつれ、野山から虫や小動物が消え、小鳥もすっかりいなくなり。
そして今、冬の訪れを目の前にして、アリスは、町外れの小川にかかる橋の下で、ペコペコのおなかを抱えて、震えながら恨めしそうに空を見上げるのでした。
一歳にならない野良の仔猫にとって、最初の冬を乗り切るのは並大抵ではありません。
十分な食べ物と、暖かいねぐらを用意できなければ、凍てつく冬を生き抜くことは出来ません。
町の中には、そういう場所がいくつもあります。
人の家の軒下。倉庫や厩の隅。魚屋や肉屋のある路地裏。
けれど、たいがい、そういうところはすでに大人の野良猫が自分の縄張りにしているものです。
だから、仔猫は、よっぽどの幸運が無ければ、次の春を迎えられません。
野良猫の世界は、それはきびしいものなのです。
そして、アリスは、自慢ではありませんが、臆病者で、体も小さく、当然ながらケンカにも自信がありません。
だから、いつも他の野良猫にびくびくおどおどして暮らさなければならない人間の町を離れ、いつの間にか、この橋の下をねぐらにするようになりました。
秋の中ごろまでは、それでも平気でした。夜も寒くないし、贅沢を言わなければ食べる物は野山にあったからです。
そりゃあ、人間の町にはおいしい食べ物がいっぱいありました。アリスもそのことは良く知っています。
けれど、人間の食べ物は、人間から奪い取らないと手に入りません。
大きくてうすのろに見える人間ですが、武器を持っていたり、犬を飼っていたり、なかなかたやすい相手ではありません。
そして、たとえ人間から奪い取っても、今度は大きな大人の野良猫が、アリスから食べ物を奪って行きます。
自分の身も、自分のえさも、自分の力で守る。
それが、野良猫のルール。
仔猫たちが、大人の野良猫の縄張りに割って入るのは、そりゃあ大変なことです。
うまく大人の猫たちに取入った仔猫もいます。自分の縄張りを作るのに成功した仔猫だっていました。
けれど、体も肝っ玉も人一倍小さいアリスは、あっという間に町からはじき出されてしまいました。
とぼとぼと、アリスはその小川のほとりを歩いていました。
少し前までは、そうして歩いていれば、虫を見つけたり、上手くすると魚が捕まえられたりしたものです。
ですが、冬を目前にした今の時期は、虫を見つけるどころか、ただ歩いているだけで、足の裏の肉球が冷たくてしかたがありません。
風も、一吹きごとに冷たさを増すようでした。
寒くて、ひもじくて、アリスは、泣きそうな目で、再び空を見上げました。
その時の事です。
聞いた事もないおかしな鳴き声が、空のかなたから聞こえてきました。
アリスはぎくりとして、とっさにかくれる場所をさがしました。大きな鳥に、空からおそわれては、小さな仔猫はたちうちできません。仔猫にとっては、カラスでさえ十分に恐ろしい天敵になりえるのです。
ところが、残念な事に、この時、アリスの近くには、身をかくせるような場所はひとつもありませんでした。橋も、木も、岩さえもありません。
アリスは、怖さにふるえながら、空を見上げました。
そして、見たのです。見た事もない、大きな鳥を。
その鳥は、不機嫌そうな、低く、大きな声で鳴き続けながら、まっすぐにアリスの上を飛び抜けていきました。
それは、とてもとても、大きな鳥でした。アリスが見た事のある、ハトやカラス、キジやカモ、あるいは怖いタカなんかよりも、はるかにはるかに大きな鳥でした。
――なんて大きな鳥だろう――
アリスは、かくれるのも忘れて、その鳥をずっと目で追いました。
その鳥は、ゆっくりと、まっすぐに、小川に沿って飛んでいきます。
シュッと飛んでいくカラスやタカにくらべたら、とてもとても、ゆっくりと。
そして、小さく、見えなくなる少し前。その鳥は、ゆっくりと向きを変えて、違う方に飛んでいきました。
パッと向きを変えるカラスやタカにくらべたら、とてもとても、ゆっくりと。
その鳥が見えなくなるまで、アリスはじっと見つめていました。
その鳥が見えなくなっても、アリスはずっと考えていました。
――あの鳥は、なんであんなにゆっくりなんだろう――
――あの鳥は、なんであんなに不機嫌なんだろう――
ずっとずっと考えて、アリスは、きっとそうだと思いました。
――あの鳥はきっと、病気になったに違いない――
――あの鳥はきっと、歳をとりすぎたに違いない――
それだったら。アリスは、思いつきました。
――歳をとった鳥なら、病気の鳥なら、きっとつかまえられるに違いない――
――歳をとった鳥でも、病気の鳥でも、きっとあれだけ大きければ、ずっとお腹をすかせなくてすむに違いない――
アリスは、決めました。あんなに大きな鳥だけど、あれだけゆっくりで不機嫌そうなら、きっとつかまえられるに違いない、だから、あの鳥をつかまえよう。つかまえて、食べよう。あんなに大きな鳥だから、きっともう、お腹をすかせなくていいに違いない、と。
なけなしの力をふりしぼって、小川のほとりをアリスは走りました。鳥が飛んでいった方へ。きっと鳥のねぐらがあるに違いないと思って。
小川は、やがて大きな大きな川にぶつかりました。アリスは困ってしまいましたが、すぐに思い出しました。
――そうだ、あの鳥は、このあたりで向きを変えたんだ――
鳥が見えなくなる寸前に、どっちに向きを変えたかを思いだして、アリスは再び、今度は大きな川のほとりを走り出しました。
葦の川原を走っていたアリスは、突然、草の刈られた広場に飛び出しました。それはあまりにも突然で、アリスは全く予想してませんでしたから、ひどく驚いたアリスは思わず転んでしまいました。
ころころと転がってから身を起こしたアリスは、その広場のすっとずっと先に、さっきの鳥がいるのを見つけました。
――いた!みつけた!――
仔猫とは言えアリスも猫です。本能的に、近くの草むらにかくれて様子を見ます。
その鳥は、やはり病気なのか、あるいは歳をとりすぎているのか、それとも両方なのか、さっきよりももっと不機嫌そうに、身を震わせ、ひどく低い声で鳴き続けています。
よく見ると、さっきは下から見上げていたので気が付きませんでしたが、その背中には、虫のような何かがくっついています。
――わかったぞ。あの虫が、あの鳥を弱らせているんだ――
アリスは、思いました。大きな虫は怖いけど、それでも虫は虫なんだ。鳥をつかまえて、虫もつかまえて、両方食べちゃえばいい。きっとあの虫は、鳥の血を吸って丸々太って美味しいに違いない、と。
そうと決まれば簡単です。アリスは、草むらにかくれてゆっくりと、慎重に鳥に近づこうと思いました。
その時でした。鳥が、動き始めました。
少しの間、鳴き声を大きくした鳥は、なんということでしょう、アリスのいる方に向きを変えて、ゆっくりと近付きはじめました。
――みつかっちゃった!――
アリスはびっくりしました。そして、急に怖くなりました。
あんな大きな鳥に見つかったら、一口に飲み込まれてしまうでしょうから。
アリスは、逃げよう、逃げなきゃ、そう思いました。
でも、足が、体が、言う事を聞きません。
ゆっくり、ゆっくり。
どんどん、どんどん。
大きな鳥は近付いてきます。
大きな声で鳴きながら。
大きな体をゆさゆさゆらして。
大きな翼を広げたままで。
もう、だめだ。アリスは、目をつぶりました。
どれくらい、そうしていたでしょうか。
アリスは、固く閉じていた目を開けました。
鳥の鳴き声が、少し小さくなったからです。
アリスは、まだ食べられてはいませんでした。
ちょっとだけほっとして、ちょっとだけ不思議に思って、恐る恐る、草むらの影からアリスは顔を出しました。
そうしたら。大きな鳥は、ちょっと向こうで立ち止まっていました。
どうやら、大きな鳥は、アリスを食べにこっちに来たのではなさそうです。だって、まったくアリスの方を向いていませんから。
じゃあ、何しに来たんだろう?アリスは不思議に思いました。
どうしよう。アリスは、再び、考えました。
きっと今なら、つかまえられるかも知れない。
でも、でも。間近で見るその鳥は、アリスが考えていたよりも、はるかに大きな鳥でした。
――こんなの、つかまえられるかしら――
――こんなの、食べきれるかしら――
アリスは、とっても怖くなりました。
アリスは、とっても食べたくなりました。
二つの気持ちにはさまれて、アリスは動けなくなってしまいました。
急に、大きな鳥の鳴き声が、今まで聞いた事もないほど大きくなりました。
びっくりして顔を上げたアリスの目の前で、大きな鳥は、ゆるゆると歩き出しました。
――飛んじゃう!――
アリスは、直感しました。
――飛んじゃえば、どっか行っちゃえば、怖くない――
――飛んじゃったら、もう、つかまえられない――
アリスの心は、二つに分かれていました。
――怖い、怖い、怖い――
――つかまえなきゃ、つかまえなきゃ、つかまえなきゃ――
――どうしよう、どうしよう、どうしよう――
大きな鳥がいなくなれば、怖くなくなります。
でも、いなくなったら、きっと、もう二度と、アリスは食べる物が手に入らないでしょう。
――怖い、怖い、怖い――
――でも、でも、でも!――
――つかまえる、つかまえてやる、つかまえて、生き延びるんだ!――
アリスは、わき目も振らず、草むらを飛び出しました。
最初はゆっくり、段々に速く走り出した鳥に、アリスは追いつきました。
その足に飛びつき、アリスは、その足をよじ登ります。
首筋を、鳥の急所をめがけて。
冷たい風が、殴りつけるようにぶつかってきます。
鳥の鳴き声は、耳を叩き壊さんばかりです。
でも、アリスはあきらめませんでした。
――つかまえて、食べて、生きるんだ!――
大きな鳥の、びっくりするほど華奢な肌に爪をたてて、アリスは一歩一歩、首筋目指して登っていきました。
突然、アリスの首筋を、何かが掴みました。
驚いたアリスが見たのは、鳥の背中にいた虫が、足を伸ばしてアリスの首をつかんでいる、その姿でした。
――虫に、つかまっちゃた!――
なんということでしょう、鳥をつかまえようとしたアリスが、虫につかまってしまったのです。
アリスは、びっくりして、怖くて、悲しくなりました。
その虫は、アリスをつかむと、鳥の首筋から引き剥がしました。
引き剥がして、虫のおなかのあたりに、ぽいと放り投げます。
――食べられちゃう!――
アリスは、ギュッと目をつぶりました。目をつぶって、きっと次にくる、がぶりと食べられる怖さに耐えようとしました。
ところが。
ぽいと放り投げられ、きゅっと閉じ込められたそこは、妙に温かくてやわらかくて、いごごちがいいのです。
アリスは、おそるおそる目を開きました。
目を開いて見上げたそこにあったのは、アリスを覗き込む、人間の顔でした。
何が何だか、アリスがわからないうちに、大きな鳥が、さらに大きな声で鳴き始めました。
ゴトゴトと体をゆらしてかけ出した鳥が、急にすいっと、揺れなくなります。
アリスは、見ました。
鳥の背中で、自分が空を飛んでいるのを。
自分の上で、人間が眼鏡をかけ直したのを。
虫だと思ったのは人間の衣装で、この鳥は、まるで馬のように、人間に操られているのを。
アリスは、なにがなんだか分からなくなって、目を回してしまいました。
夢の中で、アリスは、人間がしゃべっているのを聞いていました。
「びっくりしたよ。急にこの仔猫が飛びついてきたんだ」
「どれどれ。やあ、これはかわいい茶虎の仔猫じゃないか」
「どうして飛びついてきたのだろう?」
「それはきっと、仔猫も空を飛びたかったのだよ」
「なるほど、それじゃあ、この仔猫は、お客さん第一号というわけだ」
「諸君、それでは、我々の飛行倶楽部のお客さん第一号を、盛大にもてなそうではないか」
「やあ、それはいい考えだ」
「もてなすならば、ぜひ名前が必要だ」
「茶虎といえばチェシャー猫だろう」
「ならば、アリスでどうだろう」
「それがいい、では、お客さん第一号に敬意を表し、この仔猫をわれらの指揮官、
何を言われているのか分からず、でも、温かくて居心地のいい、操縦士の飛行服の内側で、アリスは、まどろんでいました。
もしあなたが遊覧飛行をご用命なら、トルネ・リバー沿いのセッキャード飛行場の、「
そこには、勇気を振り絞ったおかげで温かい居場所を得た、勇敢な「飛行猫第一号」の仔猫がいて、運がよければ一緒に飛んでくれるかも知れません……
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