第3話 お神酒
鼻からぶくぶくと泡を出した後、良太郎はふいーっと湯から顔を出した。両手で顔をこすってから目をしっかりと開いたが、すぐに閉じる。また開く。
【この姿の何が、そのように嫌なのだ?】
心底不思議そうに問いかけるのは、浴槽の縁のカナヘビだ。
「知りませんよ。人間の本能じゃないですかね。猫にきゅうりと同じで」
【猫にきゅうり?】
カナヘビが首を傾げる仕草は、見る人が見たら可愛いと言うに違いない。
「いいです、深い意味はないです」
【意味も考えず、
「祟られますかね」
【そういうことでは、あ、いや】
カナヘビは、ため息を絡めて話を変えた。
【ともかく、そなたとはこの先、常にとは言わんが長く共に居るのだから、この姿に慣れてくれねば困る】
「はい…」
【せめて次の集まりまでには、しゃんと向き合えるようになれ。そなたが恥をかくことになろうぞ】
「あっ!」
驚いて背筋を伸ばしたがために、良太郎はばしゃんと水音を立てた。
「俺が参加するんですね、
【もちろん】
「
【そのための集まりだ】
「うわあ…」
【そなただけが若造だ。ヒトは粗相があっても甘く受け入れてくれるだろうが、儂らも同じとは思うなよ】
一度期待に満ちた良太郎の顔が、緊張でこわばる。
【あのころは、親のおらぬ
「播磨陰陽師かあ。俺たちもその技を受け継いでいればなあ」
【またか。軽々しく言うな。儂らは別の道を進んだのだ】
カナヘビは、足を踏ん張り頭を高く持ち上げた。見ようによっては見得を切っているようだったのだが、良太郎には通じなかったらしい。と言うより、微妙に視線を外し続けているのだ。
【そなたは陰陽師ではない。ただ儂に仕えるのみだ。わかったら、そろそろ出ろ。禊ぎは終わりだ】
「あ、風呂って…そういう意味もあったんですか。おかしいと思った」
浴槽から出た良太郎は、ちょっと迷ってからゴム栓の鎖を引っ張った。体を拭いている間に湯が抜けると、シャワーでしっかり流す。
【まめであるのだな。綺麗好きなのは良いことだ】
そう言われた彼のぎこちない笑顔は、ぴくぴくと引きつった。
ため息をつきながら掃除を終えてリビングに戻ると、テーブルに乗ったカナヘビが出迎えた。
【さあ酒だ、酒を出せ】
「酒ですか。酒って、ああ、ビールとかじゃなくて日本酒ってことですよね」
【ん? そなたが飲みたいもので良いぞ? どうした、何を考えておる?】
「いや、お供え的なあれかなーと思ったもんで、やっぱ日本酒にします」
良太郎は、酒の保存場所になっている食器棚の下を開けた。
地元の銘酒『
「うわ、そうか。考えたことなかったけど、やっぱりこれですよね。これって、青龍さまに
良太郎は一升瓶を掲げるように背後に見せた。
【いや、そうではない。光太郎に聞いたが、龍樹菩薩からつけた名だというぞ】
「リュージュ菩薩?」
【知らんのか。まあ良い。儂も親しい相手でもない】
「?」
良太郎は曖昧に笑ってごまかし、江戸切子のぐい飲みを一つと、迷ってから小皿を一枚手に取った。
「あのう、こういうのでいいんでしょうか?」
【何がだ?】
「青龍さまの酒を、その、注ぐ?」
【…愚か者めが】
カナヘビは明らかに呆れた声を出した。
【儂は飼われた猫か、犬か? 光太郎がそのような皿を出したことがあるか?】
「え? そういえば、見たことないですね」
【そなたが飲む前に、手を合わせれば良いのだ。ほれ、いただきますだ、いただきます】
「えーっ、あの間に飲んでたんですか? 同じ容れ物から?」
【そなたが言うところの物理的ではない! 考えてもみよ。
「へへぇ? まっ、いいです」
よくわからないのをごまかした良太郎は、冷蔵庫の肉じゃがをレンジで温める間にテーブルにつき、酒をぐい飲みに注いだ。
【よいか、食前の挨拶だけは、毎食忘れてはならんぞ。そもそも四家に限らず、神々に捧げるべきであるのだがな】
「はい」
素直に頷いて手を合わせた彼に、カナヘビは満足げだった。
【よし。たとえ未だ視線を合わせようとしなくても、だ、こうして供え物も受けたからには、この姿を得てより使っておる名を教えよう】
「え、青龍さま、じゃなくて?」
【セイである。さまではなく、さんでよい。四家の当代からはずっと、セイさんと呼ばれておる】
そう言うと、カナヘビ改めセイは、己の脇腹に左の前足をずぶりと差し入れた。
ぎょっとして思わず凝視した良太郎の目の前で、小さな小さなその手の中に収まっていたものがみるみる広がる。まるで早回しのフイルムを見ているようだった。
緑色と見えて虹色のような、様々な色に光り輝く歪んだ円盤のようなものがそこにあった。セイが這い上がると、長い尾の先だけが少しはみ出る大きさだ。
【儂らは皆、それぞれにこのような宝を持っておる。どうだ、美しかろう? これこそが
良太郎は小さく肩をすくめて頭を下げた。
【四獣の証の中でも、儂の鱗が一番だ。
「え、白虎さまの宝って、ヒゲなんですか?」
【…いや、爪だ。今のやり取りは忘れろ】
微妙な間の後で早口に言ってから、セイは頭を左右に振った。
「つ、爪なら、せいりゅ、セイさんの方が立派なんでしょうね。でも、白虎さまのを見せられたら、すごい、強そうって褒めた方がいいですよね」
良太郎が言葉を繰り出すと、セイは軽やかに笑った。
【何だ、もう酔ったのか? うん、まあ、儂の爪の方が長くて強いのは本当だが、やつを持ち上げておくのも良かろう。何しろこの世には、この鱗より切れ味の良い刃物は無いし、硬い盾も無いのだから】
セイがそう言うと、鱗がふわりと十センチばかり宙に浮かんだ。
「すげ…、えーっ?!」
次の瞬間。
ぱりん、と薄いガラスのような音を立て、真っ二つに割れた鱗はテーブルに落下し、セイだけが四肢を広げて空中に残った。
「世界一、宇宙一が、ええーっ」
うろたえる良太郎も目に入らない様子で、テーブルに降り立ったセイは憤慨しているようだ。
【姫さまか! まったく! いかに姫さまでも、おイタが過ぎる!】
「え、え、姫さまって誰?」
【何を? そなた、儂らが守る結界の中心、姫山の
「え、姫山の神さまも存在してるの?」
【姫さまを忘れては、何のための四神相応か?!】
「あ、そうなんですね、はい。で、その鱗って替えが効くんですか?」
良太郎は、ちらりちらりとセイを見ながら肩をすぼめた。
【いかに姫さまでも、替えの効かぬものを壊したりなさるものか。とはいえ、鱗がはがれ落ちることはそうそう無い。まったく…】
ぶつぶつ言いながら、脇腹を掻きむしった。
「えーっと、俺も、姫さまに会えますか?」
【何だ、お目通りしたいのか? 畏れを知らぬとは強いものだ】
鼻息も荒く返されて、さすがの良太郎も少々体を震わせた。
【光太郎にその機会は無かったが、そなたはどうかな? こんなことならと泣かぬことを祈ろう】
何か言い返そうとした良太郎だったが、玄関でガチャガチャと鍵を回す音がして口をつぐんだ。
【さて、母御のご帰還か。では、今宵はこれにて】
「ただいまぁー!」
セイと鱗は、かき消すように見えなくなった。
「おみやげー。鉄火巻きもらってきたよぉ」
賑やかな母の声に「ありふれた日常、か」とつぶやき、良太郎はリビングのドアを開けたのだった。
最強の鱗〜守護の領域前日譚 杜村 @koe-da
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