第2話 禊ぎ

 良太郎が脱力しているうちに、ボストンバッグを抱えた母親が病室に戻ってきた。

「お父さん、変わりない? ないわよね。今そこで、今日はもう任せて帰っていいって言われたから」

 せかせかと持ってきたものを取り出しながら彼女が顎で示すのは、ナースステーションのことだろう。

「山本さんがね、電話をくれて。ほら、今夜はこれからのことが心配で眠れないでしょうって。奥さんのね、お父さんがやっぱり同じ病気で、アドバイスできるんじゃないかって言ってくれたんですって。だから、お言葉に甘えて行ってくるわ」

 良太郎は、ははあという顔をしたが、ぐっと平然を装った。

「あんたは行ったって気詰まりでしょう? 家に帰りなさい。冷蔵庫に、肉じゃがの残りとかきんぴらとか、いろいろ入ってるから。ビールも飲んじゃっていいし、何だったらコンビニ行けばいいでしょ」

「うん、大丈夫。適当にやるから。これだけは食っちゃだめってもの、ある?」

「んーと、冷凍庫の中華は手をつけないでね。お取り寄せだから」

「わかった」

「それとね」

 母親は急に背筋を伸ばし、真面目な顔をした。

「えっ、何?」

「お風呂に入りなさい」

 身構えた良太郎は、一瞬で膝から力が抜けた。

「そんなの、気合い入れて言わなくたって…」

「そういうことじゃないの。山本さんが言ったのよ。シャワーだけじゃ駄目」

 母親は真面目な表情を崩さない。

「寒い中帰ってきて、お父さんの状態もわかんなかったし、病院ってところはいるだけで疲れるし。ね? そんなこんなで、自分が思ってる以上に疲れてるはずなのよ。力入っちゃうのよ。そういうときには、ともかくお風呂なんだって!」

「はあ」

 息子の気の抜けた返事にも、母親は頓着しなかった。

「いいこと? 首まで浸かっちゃだめなんですってよ! 胸くらいまで、ね? ゆーっくり、のぼせない程度にゆっくり浸かって、身体中の緊張をほぐしてね。今後のことは、明日話しましょ。温まって、お酒飲んで。あたしが帰るの待たなくていいから。じゃあね。帰った、帰った」

 ばあんと尻を叩かれて、良太郎はちょっとばかり青龍を恨んだ。母親が一方的にまくし立てるのはいつものことだが、手が出るのはいただけないではないか。


 それから数ヶ月ぶりに実家に戻った良太郎は、玄関の匂いを懐かしく嗅いだ。

『誰もいない家に暗くなって一人で戻った記憶』を呼び戻そうとしても、出てこない。実際、そんな経験はなかったのかもしれない。

 たった三人の家族だが、出迎えたり出迎えられたりしていたのだなあと、今更のように思う。


 玄関からまっすぐ廊下を進むとリビングだ。ソファの上にはタオルが何枚か放り出されていた。どれを病院に持って行くか悩んだ母親の姿が浮かんだ。

 リュックを床に置いてから、なんとなく全部の部屋の電気をつけて回った。それからリビングの隣の和室に行き、仏壇に手を合わせた。

 祖母が元気だったころはもっと大きな仏壇があったのだが、扉が壊れたときに買い換えられた小さなものだ。


[神社じゃなくて、お寺でいいの? ご先祖さまは、お仏壇でいいの?]

[うん、いいんだ。そういうことは気にしなくて良いんだよ]


 光太郎とそんな会話をしたのは、何歳のころだったろう。

 思い出そうとしても叶わず、良太郎は急に老け込んだ気持ちがして背中を丸めた。

 だけど、ともかく風呂に入ろう!

 しんみりした気持ちを振り払うように、彼は必要以上に勢い込んで、浴室に突撃した。

 シャンプーが二種類、ボディソープも二種類。他にもボトルが雑然と並んでいるのは相変わらずだ。

「替えろよな、いい加減」

 ぶつぶつ言いながら、使い込まれ過ぎたスポンジで浴槽をこする。湯はりのボタンを押してから、ついでに床や壁も掃除した。

 考えてみれば、実家で掃除をするのは初めてだ。

 すっきり爽やかな気持ちになって、良太郎は洗面所の棚を開けた。思った通り、個包装の入浴剤の買い置きがいくつもある。

 爆汗だの美肌だのという謳い文句が書かれた袋は避けて、森林の香りだという一袋を選んだ。


〈お風呂が沸きました〉


 軽やかなチャイムと音声を聞いてから、袋の中身を浴槽に入れる。

 彼はいそいそと服を脱ぎ、浴室に入った。

 頭を洗い、体を洗い、浴槽に入ってうーんと手足を伸ばす。一人暮らしのマンションでは、膝を抱えないと入れないサイズなので、やはりこれは気持ちが良い。伸ばした両腕から力を抜いて浮かぶにまかせ、良太郎は「はあー」と目を閉じた。


 

     ぽちゃん。


 水音と湯の揺らぎに目を開ける。


「きゃああー!」



 自分の口から女子のような悲鳴が飛び出したことに、良太郎は気づかなかった。

 本当に追い込まれたときに口から飛び出る声は、性差によらない。

 後に繰り返し実感することになるその真実を、このとき初めて、彼は経験したのである。

「いやああー!」

 浴槽から飛んで出た彼はドアに手をかけたところで、さすがに足を止めた。それでも、足が細かく震えて、振り返ることができない。

「物理っ? 物理的に存在してる、ます?」

【物理的にとは何なのだ? 儂はそなたの目、耳、鼻、肌の全てに干渉しておる。最近気に入りの言の葉ことのはを持ってすれば、儂のエキスもまた、この湯に溶け込んでいるはずだ。また逆に言えば、そなたが日頃存在を疑いもしないものからも、全ての干渉を取り除けば存在しないものとして】

「わかった、わかりました! わかんないけど、わかりました!」

 入浴中だったのだから当たり前だが、良太郎は素っ裸でドアに張り付き、その冷たさに震えた。

「やたら爬虫類館に連れて行かれたと思ったあー。世界の蛇展とかにも行ったよなあ、親父と。ちくしょうっ」

【儂は蛇ではない】

「わかってますわかってますって見ましたから足っ!」

 一気にまくし立てた良太郎は、大きく息を吸った。と思った途端、派手なくしゃみが出た。

【寒かろう。湯につかれ】

「出て、いただけますか?」

【あん?】

「そ、そこから出て、いただけますか? エ、エキスぅう」

【儂が出なければ入れぬと言うか。仕様のないない奴め】

 ちゃぷちゃぷと密やかな水音がした。その後に、ぺち、という軽い音。

【長くこの姿をとってきたが、おのこに叫ばれたのは初めてだ。まったく】

 不満げな声と、ぴたぴたと忙しない音もする。

「そんなこと言われても。それこそ、遺伝子レベルで干渉してもらいたいのは、こっちの方ですって。せめて、せめて前もって聞いてたら、我慢できたかもしれないのに。いや、でもぉ」

 ドアに張り付いたときに左に向けた頭をそのままに、目の高さの壁だけを見つめながら、良太郎は浴槽の縁を探った。

「そう! なんで前もって教えさせないんですか。本来の姿じゃ人の前に出られないって聞いてはいましたよ、そりゃ。でかいですもんね、きっと、ね」

 そろそろと縁をまたいで片足が湯に浸かると、温かさに「うおー」と声が出た。ぎゅっと目を瞑って肩まで浸かる。

【青龍という本性は、何があっても変わらん。この世で与えられた姿を思い浮かべることで、妙な先入観を持たれては困るではないか。これはあくまでもヒトと接するために選ばれた姿であって、習性までも写したものではないぞ。わかったら、ちゃんと見るのだ。ほれ、早うせい】

 自分の肩を両腕で抱いて、良太郎はえいっと目を開けた。

 彼の顔の正面、浴槽の縁に、体長二十センチばかりのカナヘビが乗っていた。

 またもや悲鳴を上げかけた良太郎は、それをごまかそうとしたのか、鼻先までずぶずぶと湯に潜った。

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