最強の鱗〜守護の領域前日譚

杜村

第1話 急な病

 建物は古びていても、治療が時代遅れじゃないなら良しとしよう。

 個室のベッドで眠る父親の顔を見下ろして、青山良太郎はそんなことを考えた。

 彼は隣県で一人暮らしをしながら、私立大学の法学部に通っている。父、光太郎の事務所から連絡を受け、病院に駆けつけたところだった。

 光太郎は山本氏と共同で、探偵事務所をやっている。今朝も変わらず元気に見えたのに、事務所のトイレでいきなり倒れたという。脳の血管が詰まっていた、つまり脳梗塞だったのだ。


「山本さんのおかげで、命に別条がないんだって聞きました。本当にありがとうございます」

「いや、いいって。俺はたまたまそこにいただけだから。それより、お母さんが心配だね」

「心理的なものだって、先生が。点滴も気休めっていうか、安心させるためだって。本当ならこういうときには、気が張ってるもんだと思うんですけど」

「いやあ、しょうがないよ。とおも上の俺じゃなくてこうちゃんが倒れるなんて、思いもしなかったしなあ」

 山本氏は、五分刈りにした白髪頭をぼりぼり掻いた。

「それにしても、病院にこんな部屋があるなんて知りませんでした」

 良太郎は窓の方を振り返って言った。

 そこには飲食店で言うところの小上がりにあたる二畳の畳敷きのスペースと、ふすま張りの押入れまである。

「あれだろ。家族が泊まり込みで世話したもんなんだよ、昔はな。それか、付き添いしてくれる人を頼んだりさ」

「ちょっと良い部屋だったんですかね、ここ。個室だし、ナースステーションの真ん前だし」

「そうだな。大部屋が空いたら移ることもできるって言ってたが、本人ともよく相談してくれや」

 返す言葉を探してぐっと喉を鳴らした良太郎は、病室の外に複数の女性の声を聞いて目を上げた。

「ああ、良太、来てたの。山本さん、ずっと付いててくださったんですねえ。本当に申し訳なくって」

 年配の看護師と一緒に部屋に入って来た母親の声の大きさに、良太郎は顔をしかめた。

「ここ、病院だから。声」

「あら、大丈夫ですよ。息子さん?」

 中川という名札を付けた看護師は、にこにこして母親の背中をさすった。

「しっかりした息子さんで、奥さんも安心ですね。じゃ、何かあったらお声がけくださいね」

 中川が出て行ってから、山本氏がどちらにともなく話しかけた。

「入院の準備とかあったら、いっぺん家に帰りたいんじゃないか? 送り迎えならするけど、どうする?」

「え、母さん、車で来なかったんだ?」

 びっくりする良太郎に向けて、彼はいやいやと手を振って見せた。

「病状がわからないで心配なときに、運転なんてするもんじゃないさ。タクシーで来なって、俺が言ったんだ。俺は救急車に同乗したけど、ほれ、若いのに車持って来させたから」

「本当にもう、何から何までお世話になって」

 何度も頭を下げる母親の横で、良太郎も深々とお辞儀をした。

「じゃあ、お言葉に甘えて。送っていただいたら、後は自分で運転して来ますから」

「その方が便利だからっていうんなら、それでもいいけどなあ」

 しばらく押し問答をしてから二人は出て行き、良太郎はやれやれと靴を脱いで、畳の上に寝っ転がった。


【ふむ。やっと行きよったか】


 頭の上から聞き慣れない男の声がして、彼は面食らって跳ね起きた。

 しかし、病室内に第三者はいない。


【代替わりだ、若いの。光太郎から聞いているだろう】


 良太郎は、窓枠に飛びついた。暮れかけた十二月初めの空には雲ひとつない。

「せ、青龍さま…?」

【よーしよし、存じおるな】

「代替わりって、親父、し、死ぬんですか?」

 何も見えない窓の外に向かって、良太郎は声を押し殺して訊ねた。

【生けるものはいずれ死ぬ。そのときがいつかは、知らぬ】

「だって、継ぐのは先代が死んだときでしょう?」

【そうとは限らんさ。お役目が果たせんと見なされたときは、退く習わしだ】

「はあ…。じゃあ、すっかり元通りにはならない…」

 がっくりとうなだれた良太郎だったが、ドアの外のがらがらという音に驚いて、はっと振り返った。

 ストレッチャーか何か押して通ったのだろう、物音は素通りして行ったので再び視線を外に向ける。その動きに合わせたように、なぜだか含み笑いの気配がした。

「親父には、聞こえてない?」

 彼はよろけながらつま先に靴を引っ掛け、ベッドの脇に行って父親の寝顔を見つめた。

「聞こえてないの? しょうがねえなあ。こんなに早く俺の番が来るなんて、思ってもみなかったよ」

 いつものように喋ろうとしても、どうしても声が震える。

「で、俺がお役目を引き継ぐのは今、この瞬間からですか? それとも引き継ぎの儀式でもあります?」

 振り返らず、父の顔からも目をそらさずに訊ねると、声は【そうさなあ】と考え込むふうだった。

【この先、何をすべきか心得ているのか?】

 問われた良太郎は、宙をにらんで顎に手を当てた。

「青龍さまに、命じられるままに」

【ふむ。命じられて何をする?】

「なんでも。青龍さまの行けないところに行きます」

【して、それはなぜ?】

「守っておられる結界から出られないからだと」

【よし。その結界に大きく干渉するものとは?】

「地形を大きく変える工事。気の流れを遮る建造物。乱す電波。外来生物。ええっと、それから…。そうだ! 注目を集め過ぎる出来事」

 良太郎は、右手の指を折りながら五つを列挙した。

【ふん、よく覚えた。だが、その顔は納得していないな?】

「えっ」

 良太郎はとっさに、赤くなった自分の頰を両手で押さえた。

「いや、あの。まっ、まだ見たことがありませんから。結界が傷つくところを」

【そなたらが、それを目にすることはない】

「そっ、そうですけど。それより、見えないものが見えるようになるってのは、いつからですか?」

 彼は、恐る恐る窓辺を振り返った。

「青龍さまたちのお姿は、いつから見えるんでしょうか?」

【んんー?】

「それと、術は、いつから教えてもらえるんでしょうか」

【術?】

「キューキューニョッ、リツリョウ! ってやつです」

【あ? ああ。ははははは!】

 心底愉快そうな笑い声がいっぱいに響いて、良太郎は頭を抱え込んだ。 

【急々如律令か! あっははは!】

 初めはおろおろしていた良太郎も、あまりに笑われ過ぎて、知らずしらずのうちに頰をふくらませてしまった。

【そなた、わしの名が出てくる、漫画とやらを好んでおったろう?】

「あ、はい。『闇夜と暁』のことですか。 あっ、そうか、親父から聞いたんですね! 親父にも読ませたし」

 ぱっと機嫌の良い顔を上げて、彼は窓の外を見た。

九字くじを切ってみようとしたけど、親父に止められました。危ないって。だから、楽しみに待ってたんです」

【ほう。楽しみとな】

「オンキリキリとかアビラウンケンソ、」

めておけ】

 言い切らないうちにきっぱりとさえぎられ、良太郎は無音で口をぱくぱくさせた。

【みだりに真言を唱えるものではない。死ぬより苦しいことになるぞ】

 そう言われた彼の口からは、ひゅっとか細い音が漏れた。

【そなた、浮かれておるのか。青山家の長子の立場、光太郎は何と教えた?】

 声は厳しくはなかったが、良太郎は気をつけの姿勢になった。

「はい。一代に一人限り、青龍さまにお仕えします。もっとも、俺は一人っ子ですけど」

【知っておる。続けよ】

「平安時代からずっと、青山家は青龍さまと共にあります。青龍さまは人に憑いているんじゃないし、うちが祀っているんでもない。漫画みたいに召喚できるわけでもない。陰陽師が式神を使うように、青龍さまが俺たちをお使いになります」

【その通り。では新しいしもべには、今宵姿を見せよう】

「はいっ!」

 良太郎は目を見開いて、口角を上げた。

【さてさて。ということだ、光太郎。そなたが儂の声を聞くのもこれが最後。次に目覚めたときには、もう儂の声を聞くことも姿を見ることもならん。ご苦労だったな】

 穏やかなねぎらいの言葉に、良太郎は驚きを隠さなかった。

「親父、聞こえてるんですか? 意識があるんですか?」

【現世において、意識があるとは言わんだろうな。だが、ちゃんと聞こえたはずだ。それでは後ほど、青山の家で会おう、良太郎】

「え、え、待ってください」

 良太郎は慌てて、病室のどこを見てよいのかとふらふらした。それでもはっと思い出したように、窓辺りに寄る。

「母は? 俺、実家に帰るの久しぶりだし、母がいたらまずいんじゃ?」

【ふん。先ほどの男の妻が、食事に招くわい】

「は?」

【ゆえに、帰りは遅くなる】

 断言された良太郎は、ふるふると首を横に振った。

「いや、山本さんと、そういう付き合いはないはずで。え? もしかして、そういうふうに計らうってことですか? 人間の事情には干渉しないんじゃなかったっけ…」

【そなたらの都合ではない。儂らの都合だ】

「え? あ、ああ。そちらの都合。なるほど、わかりました。母がここに戻ったら、俺も家に帰ります。今のところは大丈夫ってことですよね、親父。本当にね?」

【そこのところは、儂の干渉無しでも心配いらん。では】

 言葉が途切れたので、良太郎じっと窓の外、暮れかけた空を見た。

【念のため言うておくがな】

「え? はいっ!」

は東ぞ。そなたは西の空ばかり見ておるが、な】

 それっきり声は止み、良太郎はしばし呆然と口を開けていた。

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