05.悪夢から目が醒めて

 霧山美里は、友達が大好きだった。

 友達が嫌いな人間の方が珍しいだろうが、霧山美里は友達という関係をとても大事にしている。家族というそれと同じくらい、或いはそれ以上に。だから彼女は、たった一度の例外を除いて、困っている友達には手を差し伸べてきた。当然、うまくいかなかったこともあったし、彼女の良くない部分が足を引っ張ることもあった。

 それでも、やめなかった。

 だから、これから霧山美里が行う奇行も、その一部でしかない。傍からどんな風に見えようと、それは彼女が信じるものを信じる為の自然なアクションだった。




 錆島小児科二階。魘されていた患者は、何かに起こされたような気がして目を覚ます。病院の天井は、まだ見慣れない。横になったまま、乱れる呼吸を整えている過程で、声が聞こえた。

「おはよ……やっぱ、だいぶメンタルにキてるみたいだね」

 患者は飛び起きる。窓際にいた見知った顔は、見慣れない私服姿で、いつも通りにキャリーケースを椅子代わりにしている。

「霧山美里、どうして……」

「……覚悟してたけど、なんか変な感じだね。くずもりんが、そんな感じで話すの」

 霧山美里は、困ったように笑った。

「サビセンセーに無理言って、入れてもらった。二時間くらい、二人にしてもらえないかなって」

「……私は、理由を聞いています」

 咬み合わない会話に、美里は言葉を続ける。

「二時間あれば、ここから逃げ切れるでしょ」

 美里の言葉は、彼女にはうまく理解できない。そして彼女には、美里がとても穏やかな顔をしているように見えていた。

 そうして、美里はゆっくりと語り出す。

「初めて話した時のこと、覚えてる? 一年の時の四月」

 何かを言いかけた彼女も、それに応える。

「……覚えています。教室で一人だった私に、貴方が話しかけました」

「今だから言えるんだけど、内心変な奴だなって思ってたんだわ。妙に警戒してる癖に、ふわっとした話し方でさ。なんか分かんないけど、くずもりんの立場ってホントは目立っちゃダメなんじゃねーの?」

「それは……そうです」

 彼女には、美里の意図が分からない。

「でさ。気になるから、ちょいちょい話しかけてた訳よ。そんで、面白い奴じゃんって思ってた。ふわふわしてて、抜けてるっぽいのに、妙に掴めなくってさ。で、セッカの事になると妙に世話焼き。だから……」

「全て、警戒されない為のカバーです」

 彼女は、冷たく言い放つ。しかし、美里は然程気にしていないようだった。

「……そう。そういう振り『だった』よね」

「『だった』ではありません。私は」

「『だった』だよ。過去形で、間違ってない」

 彼女の言葉を塗り潰すような、美里の強い語調。

「だったら……『だった』じゃなかったら、あの時なんで刹華を殺してから池に沈めなかった?」

 美里の指摘に、彼女は言葉に詰まる。

「……ダチだから、分かるんだよ。『だった』じゃなかったら、なんで今、ウチを騙そうとしないんだよ」

 答えが出ない彼女に対して、美里は答えを持っていた。当然、憶測の域を出ない不確かな答えなのだが。

「くずもりん。あんたは、本当に感情がなかったのかもしれないし、葛森ゆうりっていう人間を演じてたのかもしれない。でも、その演じてたものが大きくなり過ぎて、抑えられなくなったんじゃないの?」

 それが、美里が導き出した答えだった。

「セッカのことが大好きな葛森ゆうりは、あんたにセッカを殺させなかった。本当は、池に沈めるのだって誰かに止めて欲しかった位だろ。お人好しな葛森ゆうりは、あんたがリオンを殴るのを止めた。リオンがあんたを虐めてきた奴だとしても、葛森ゆうりは誰かを傷つけたくなかったんだよな。そんで、まだそんな滅茶苦茶な状況で、一人で勝手に苦しんでる。『葛森ゆうり』ってヤツは、そんな優しい馬鹿だって、ウチはよく知ってんよ」

「違います。勝手なことを……私は、私は……」

 否定する彼女の声は、少しだけ震えていた。

「違わない。だから、それを証明しに来たんだよ」

 美里はキャリーケースに片手を突っ込むと、中からとあるものを取り出した。

「ほら。ウチの大事な宝物。後で返してよ?」

 クナイ。その名称や歴史を知らなかったとしても、それが危険な刃物だということは一目瞭然である。忍者ナイフとでも言えそうなそれの柄を、美里は彼女に差し出した。彼女は、よく分からないままその柄を握った。

「そいつをウチの首にでも突き立てれば、赤い饗獣とかいうのに申し訳が立つだろ?」

 彼女は、一瞬呼吸が止まった。

「な、なんで、そんな……」

「ゼロツーとゼロスリーが手こずったウチを殺せば、きっと向こうに戻れる。ウチを殺さないなら、あんたは間違いなくウチらのダチだ。はっきりさせれば、みんな安心出来る。かんたんな話じゃん?」

「馬鹿じゃないんですか! なんで、そんな……そんな簡単に、命を捨てるような……」

 取り乱す彼女に対し、美里は冷静である。

「簡単じゃないよ。それに、命を捨ててる訳じゃない。ダチを信じるって決めただけ。あんたがウチらの仲間だって、信じてるんだよ」

 美里の毅然とした態度に、彼女は震えていた。

「……あなたは、愚かです」

「よく言われるよ。あんたから言われるとは思わなかったけどさ」

 クナイを片手に、彼女はベッドから降りる。虚ろな目でゆらりゆらりと美里に近づくが、美里は臆する気配どころか、瞬き一つ見せない。

 彼女は、美里の襟元を掴み、クナイを振り上げた。

「……信じてるからな、くずもりん」

 美里の瞳は、彼女の目を真っ直ぐに見つめていた。




 錆島山茶花さびしまさざんか女医はパソコンに向き合い、一人で書類を書いている。偏屈な山茶花を宛にする患者は皆顔見知りであり、その患者達は他の患者が訪れているのを見たことが殆ど無い程度には、この病院は閑散としている。患者を診ていない時、山茶花は殆ど書類を書いている。

「あんがとサビセンセー。話したいことは終わったよん」

 診察室の奥の扉が開き、キャリーケースを引く霧山美里が現れた。山茶花は見向きもしないまま、美里に返事をする。

「ああ。全く……君は小さい頃から感情的で、言い出したら聞かないからね。母君がいないとお手上げだよ」

「分かってらっしゃるぅ。三つ子の魂なんとやらってね」

「それで、彼女はどうだったかな? 精神的な支えが必要だと、私は感じたが……」

 山茶花はパソコンから目を逸らさず話す。美里はパソコンの画面を覗き込むも、書かれている言葉が何語かすら分からなかったので、即座に興味を失った。

「大丈夫だよ。あいつはウチのダチだから。何かあったらウチらが駆けつけるしさ」

「頼りにしているよ。それと、君も刹華とは知り合いなんだろう? 『慈善事業も程々にしておけ』と伝えてくれないか」

「伝えてもいいけど、絶対懲りないって。んじゃね」

 美里は騒々しくキャスターの音を鳴らしながら、裏口のドアから出ていった。

 ドアが閉まった後に、山茶花は微笑み、一人呟く。

「……ああ。私も、そう思うよ」


 二階。彼女はベッドの横で崩れ落ち、放心していた。

 殺せなかった。刃物を持った手を、振り下ろすことが出来なかった。

 人間を、殺すことが出来なくなってしまった。

「どうして……」

 葛森ゆうりが、彼女の中で抑えられなくなった。葛森ゆうりは人を傷つけたくなくて、霧山美里を優しい人だと思っていて、私は……

 考える、思い出す、ままならないそれらの思考を無理矢理に滅茶苦茶に進める。呼吸すら蔑ろにして、思考する。その末に、とある言葉が記憶から零れ落ちた。

『君自身がどう在りたいか、それだけだ。生きる上で本当に必要なことは、きっとそれだけだよ』

 誰の言葉だったか。そんなことは彼女にとって、どうでもいい事だった。

「私が……どう……」

 彼女は、今まで考えもしなかった課題に手を伸ばす。その解答はとても単純なもので、その為にすべきことを彼女は直ぐに思いついた。




「……君達、自分が何やったのか分かってる?」

 カラオケボックスの一室。土下座をする二人に、烏丸羽月は今までで一番不機嫌そうな声を浴びせていた。

「大変申し訳……」

「……ありませんでした」

 モニターから流れる楽しげな映像は音を消され、隣から響くヒットソングを歌う声が空々しく響く中、霧山美里と栄花リオンは頭を下げ続けている。

「相手がどれだけ危険な人間なのか、君達だって分かってるでしょ。それで、刹華を二回も殺そうとした輩とスパーリング? 刃物を渡して隙を見せた? 君達の頭の中のリスク管理はどうなってるの?」

 羽月は、日頃刹華と衝突する時の数倍威圧的に二人を叱りつける。

「……お言葉ですが、わたくしと美里の行動により、彼女がただの犯罪者ではないということが分かったんです。そもそも、彼女如きでは私を殺すことなど叶いませんわ」

「そうだよ! ウチだってずっとクナイ見てたし、いざとなったら避けることくらい考えて……」

「黙れ馬鹿たれ」

 羽月の阿修羅のような形相に、口答えをしていた二人の口から短く小さい悲鳴が漏れた。

「確かに、君達の行動であの子がただの殺人マシンじゃないって分かったかもしれない。けど、それは君らが行動を起こすまで分からなかったんだよ? あんな不安定な子に刺激を与えたら、何が起きるか分からないでしょ? 君達が絶対に無事だったって言える? 百パーセント、あの子が周囲の人間を傷つけなかったって保証出来るの? その時に責任を負うのは、あの子を庇い立てした刹華でしょ? 結果オーライで済む話じゃないんだよ?」

 二人は露骨にしょげてしまい、弱々しくごめんなさいと謝った。頭に血が上っていた羽月も、少しづつ平静を取り戻していく。

「……ちょっと感情的になり過ぎた。でも、今度から気をつけてよね。今回は何もなくて本当に良かったよ」

 携帯電話を弄り始めた羽月と、顔を見合わせるリオンと美里。

「……烏丸さんでも、こんなに怒ることがあるのですわね。両親に折檻される時と同じくらいに恐ろしかったですわ」

「ばっか。リオン、はつきんは怒らせたらいけない人間リストに入れとかなきゃヤバいかんね。ウチなんか前、マジで殺されそうになったし……」

 リオンと美里の小声の会話は、羽月にも当然聞こえてはいたが、羽月はあまり気にしていなかった。それよりも、今回の情報から考えられることを確認する為に、昨晩撮影した写真を眺める。写っているのは少女の日記。そこから感じる、生への執着。とある時期から始まる妄執のような心の乱れ。そして、乖離する葛森ゆうりという人格。

 羽月の考える彼女とリオン達が出した結論は、一本に繋がっている。ただ、羽月にとって何処か納得がいかないのも確かで、疑う余地が全く無い訳ではない。

「もし、私が刹華だったら……」

 考えるまでもなかった。あのお人好しは彼女を庇ったのだ。どうせ許すに決まっている。許しているに決まっている。

 羽月は馬鹿らしくなり、ソファーの上にスマートフォンを放り投げてしまった。

「はつきん、どったの? まーだ機嫌直んないワケ?」

 土下座した時の埃を払いながら、美里は羽月の横にどっかりと座る。

「霧山さんのその態度で機嫌悪くしそうだよ……私だけきっちり警戒してて、なんかバカみたいだなって思っただけ」

 羽月の言葉に、美里は首を傾げる。

「んー。ウチらだって、別に全然警戒してない訳じゃないけどね? なー、リオン」

「ええ。わたくしは、『彼女の危険性は意外と低い』という可能性を提示しているだけにすぎません」

 二人の言葉が、羽月の耳から耳へと抜けていく。連日、布団で寝ていない疲れが溜まっているような気がして、羽月は自分の頬を叩いた。

「ダメだ! しっかりしろ羽月! 私は刹華を大怪我させたあいつを許してないんだろ!」

「……烏丸さん、意外と強情ですのね。クラスにいる時の折り目正しいイメージが崩れそうなのですが……」

「はつきんって割とこんなんだよ。何夢見てんのさ」

「君ら、さっきまで怒られてた人達の態度じゃないと思うんだけど。それに、あの子がやったのは最低でも銃刀法違反と殺人未遂だからね? 普通、庇うような相手じゃないでしょ」

 正論という立ち位置から動く気がない羽月は、二人の説得にかかる。しかし、

「ここまで来ると、もう乗りかかった船ですわ。警察に突き出すにしても、わたくし達の知るべきことを聞き出してからでしょう」

「そうそう。それにダチが秘密組織のエージェントとか、カッコよくね?」

「……頭痛い。頭痛薬と胃薬が欲しくなってきた」

 無駄だと分かり、頭を抱える羽月。自分よりも力を持っている人々が自分と違う方向を向いているのは、間違いなくストレスであった。

「……なんか疲れたよ。少し休んでから考える」

 羽月はソファーに転がり、腕で目を隠す。

「おっしゃ! んじゃ、それまで歌っとくか!」

「殺すぞ霧山」

「はつきん、流石にメッキ剥がれ過ぎ……いいじゃん、どうせお金払ったんだしー」

「美里、そっとしておきなさい。烏丸さんも相当疲れていらっしゃるのですから」

 美里の文句に聞く耳も持たず、羽月は目を閉じてしまう。リオンと美里の言い争っている声と事実のみが、うっすらと入ってくる状態。

 そんな時、ソファーの上に投げ出された羽月の携帯電話が、突然黒電話のベルの音を鳴らし始めた。

「ホラはつきん、電話だよー。ん、サビセンセーじゃん……もしもーし、霧山でーす。どったの?」

 錆島山茶花の名前が表示されていると分かるや否や、美里は勝手に通話ボタンを押して応答する。

『おや、羽月君の携帯電話におかけしたつもりだったんだが、間違えてしまったみたいだね』

「あってるあってる。間違ってないよー。はつきんは疲れてここで寝てるのよ」

 そこまで伝えると、美里は画面上のスピーカーボタンを押してテーブルに置いた。羽月は着信音ややり取りにゆっくり反応し、嫌そうな顔をしながら体を起こす。

『なるほど。大したことではないから、起こさなくても構わないよ。伝言だけ伝えてくれればいい』

 スピーカーから、三人に聞こえる大きさの声が響く。

「起きましたよ。何かあったんですか」

『ああ、起こしてしまったか。悪かったね。本当に大したことではないから……ははっ、どうにも申し訳ないね』

「大丈夫ですよ。私、そんなことで怒ったりしませんから」

 言いたいことがありそうな表情で睨んでくる美里のことを流して、羽月はスピーカーに対し耳を傾ける。

『では、手短に。ゼロファイブ……君達の言う葛森ゆうりさんの件についてだ。私が出した薬を呑み始めてから、初日に比べて精神がそれなりに落ち着いてきている様子だ。私は精神科医ではないのだが……そこに刹華がいたら、うちは心療内科じゃないと伝えてくれないかな』

「刹華は入院してますけれど、後からで良ければ伝えておきます」

『ありがとう。では……ああ、話は全部で三つある。言い忘れていたことを謝ろう』

 三つもあるのかと呆れながらも、羽月はゆっくりと姿勢を正した。

『二つ目。これもお知らせだ。彼女はレッダーなのだが

、自分の力ではシフト……いわゆる獣化が出来ないようだね』

「あら。そんな筈はありませんわ。わたくし、彼女の獣化した姿と戦いましたのよ?」

 横から割り込んできたリオンに、他の二人の視線が集まる。しかしながら、本人は気にする様子も無さそうである。

『おや、お友達かな。患者のことを必要以上に広く話すべきではないんだが……まあいいか。他にも誰かいるのかい? いたとしても、内密に頼むよ』

「他言無用、了解致しましたわ。それと、ここにいるのは三人だけですので、ご安心を」

 我が物顔で会話を進めるリオンを、二人はこれ以上気にする気にはなれなかった。

『彼女のピルケースに飴玉のようなものが入っていたんだが……簡単に説明すると、どうやら少しだけ素質のある人間を無理矢理獣化出来るようにするもののようだね。羽月君が持っていたピルケースに二つ程入っていたが、その内の一つを調べて、初めて分かった事実だ。つまり、それに頼っていた彼女は自力でシフト出来ないという訳だ。預かっていたものは、羽月君が来た時に返すよ。原理の説明は必要かな?』

「……流石に原理は要らないっしょ。サビセンセー、そういうの好きだもんねー」

『否定は出来ないな。好奇心がなければ、私は医者になどならなかったさ』

 美里が茶々を入れても、自分のペースで話す山茶花。

『では、最後の連絡事項だ。これは少しだけ厄介なんだが……』

 勿体振る山茶花。

「……まさか、また彼女にメスを突きつけられて脅されてる、なんて言わないですよね?」

 羽月は、のらりくらりとした山茶花の話し口に乗ったつもりだった。当然、そんなことが起こっているとは思っていない。

『まさか。そんな事はないよ。一応、彼女とはそれなりの信頼関係を築かせて貰っていているつもりだからね。今そんなことをされているなら、ショックで舌を噛み切るかもしれない』

 何処まで本当なのか分らない山茶花の態度に、羽月や美里、リオンまでもが、少しだけ焦れていた。

『最後の連絡は、彼女が逃げ出してしまったという事だよ。食事と薬の時間なんだが……君達は行き先に心辺りはあるかな?』

「そうですね。葛森さんが行きそうな場所は……」

 求められることを思考しようとした羽月は、少しだけ遅れて、カラオケルームに相応しいボリュームの悲鳴を上げた。




「まさか……」

 日没間近、羽月からの知らせを受け取った刹華は、病室で愕然としていた。

 ゆうりが逃げた。万が一の事を考えて、リオンが刹華を保護する為に向かっている。羽月はゆうりを探しに行くので、詳しい事情はリオンから聞くように。との事だった。

「……姉御、何かあったんです? エマージェンシーなコールです?」

 向かいのカナは、相変わらずおちゃらけている。その様子に刹華は少しだけ苛立ったが、彼女に罪は無いのだと自分に言い聞かせる。

 深呼吸。落ち着いてカナを見ると、ふざける中にどことなく心配するような雰囲気を漂わせている、ように感じた。刹華は自分の短慮を恥じた。

「用事が出来た。明日には戻るって、病院の人に伝えてくれ」

 スウェットからジーンズに着替えながら、刹華は短く応える。当然、それが問題のある行動だということを、その場の誰しもが分かっていた。

「ダメですよ鬼ヶ島さん! そんなことしたら、看護婦さん達が大騒ぎになりますよ!」

 ハルの指摘は最もなのだが、刹華の意志は揺るがない。

「……悪い。でも、行かないといけないんだ」

「ダメです! そんな我儘が通ってたら、世の中おかしくなっちゃいます! 私が許しません!」

「でもハル。例え怪我してなくても、ハルが姉御を止められるとは思えないんだけど。そこんとこどうなの?」

 カナの現実的な問題提起に、ハルは一度黙る。黙るが、ハルはそれでも刹華を説得しようと再び喚く。今までの人生でこういう時に無視を決め込んできた刹華にとって、とても居心地が悪いような気がしていた。今までのように動けない理由が、刹華の中に正体不明のまま存在し続ける。

 そんな折に差し出された助け舟は、刹華にとって意外な人だった。

「行ってきなさい」

 隣の老婆の落ち着いた声は、病室から他の音を消し去った。

「大事なことなのよね」

 静かな病室に、老婆の声が響く。

「あ、ああ……」

「だったら、後悔しないようにしないと。私は、物心ついたときから、そうやって生きてきたわ。どんなに怒られても、罰を受けても、悲しい結果になっても……だから、私は今、幸せなの」

 穏やかで、決して大きくはない声。その言葉には、不思議な説得力があった。

「行ってきなさい。大切なものが、あなたを待っているわ」

 刹華は、不思議と背筋が伸びるような気がした。

「……ありがとう」

 老婆にお礼を伝えると、刹華はベランダへと飛び出し、そこから駐車場へと飛び降りる。刹華の姿が見えなくなると、ハルとカナは驚き悲鳴をあげた。カナは後を追うようにベランダまで出て行き、外の様子を確認する為に身を乗り出す。

「……すっげ。姉御、三階から着地したぜ。何食べたらあんな風になるんだろな」

 それに対し、ハルはぽかんとしている。あまりに急な出来事に対し、思考能力が追い付いていないのだ。

「それはきっと、正しいことだから」

 老婆は、穏やかな笑顔のまま。それがあるべき自分の姿だと言わんばかりに。




 日が落ちた街の路地に、ふらつきながら歩く人影が一つ。呼吸は荒く、今にも崩れ落ちそうな足取りで、壁に手を突きながら歩みを進めている。どことなく危ういものを感じさせる彼女は、うつろな目で携帯電話の画面を確認する。映し出されている地図には、目的地まであと三十分と表示されている。苛立ちや焦りから目をそらしながら、少しづつ歩みを進める。彼女は、自分の中にある違和感にも、正常な思考が出来ていないことにも気がついていた。それでも、自分のやるべきことがこれであると信じ、無理矢理に身体を動かしていた。

 細い路地を半分ほど歩いたところで、携帯電話が振動する。彼女が画面を見ると、苦手な名前が表示されていた。

 烏丸羽月。別に、なんらかの嫌がらせをされた訳ではない。教室ではうまくやっていた。それでも、彼女にとって羽月は苦手な存在で、その理由を未だに理解できていなかった。そんな相手からの着信は、なかなか鳴り止まない。ストレスからか、内臓の何処かが痛むような感覚に襲われる。こんなことなら、その辺りで地図を確保してでも携帯電話を置いてくるべきだったと後悔した。止まらないバイブレーションが鬱陶しくなり、思わず彼女は通話ボタンを押してしまう。

『もしもし? 葛森さん? 葛森さん?』

 携帯電話を耳に当てると、慌てている様子の羽月の声。錆島という医者からの連絡でも入ったのだろうか。と、彼女はぼんやりと考える。

「烏丸さんですか」

『葛森さん? 良かった……今、何処にいるの?』

 彼女の耳に入ってくる言葉から、安堵が感じられる。混じる息切れ。もしかすると、今まで探し回っていたのかもしれない。そこまで推測したところで、彼女は問いに答えた。正確に言うならば、問いには答えなかった。

「……少し、一人にして貰えませんか」

 その返しに、羽月は失望したかのように深く溜息を吐く。

『……君は、自分の立場が分かってないみたいだね』

 その語調はあまりに冷たく、羽月の声だと認識するまでに少しのラグが出た。

 次の瞬間、彼女の背後で弾けるような音が鳴り、何かの破片が身体を掠める。

『君の銃、くすねておいて正解だったよ。初めて撃ったけど、意外と簡単に当たるんだね』

 彼女は振り返り、弾け飛んだのが何かの空き瓶だと悟る。突然の出来事に周囲を見回すも、誰の人影も確認できない。

『私を探さないで。次に動いたら今度は君を撃つから』

 羽月の声は冷たく、まるで彼女を人として見ていないようでもあった。

「……私を撃てば、あなたは人殺しですよ」

『そうだね。君が言えた義理じゃないとは思うけど』

 諭す言葉に返されるのは、氷柱のように冷たい言葉。

『君が逃げ出したって聞いて、真っ先に宝満大学病院への道を辿ったんだよ。君はきっと刹華の所に行くと思ったから』

「だったら……行かせてくれませんか」

『行かせる訳がないでしょ。刹華は私の恩人。これ以上危険には曝せない。不誠実な危険要素である君も、やっと此処で片付けられる』

 感情に疎い彼女でも、羽月の言葉から確固たる意志が感じられた。

『もう、限界なんだよ。私の大切な人が傷つくのは』

 ――烏丸羽月は、私に銃口と殺意を向けている。

 彼女は初めて、烏丸羽月という女に恐怖を感じた。

「ま、待ってください。私は、もう誰にも危害を加えるつもりなんて」

『今まで君の行動を見てきた私が、その言葉を信じると思う?』

 彼女は言葉に詰まる。詰まった結果、混乱しながら、すがるような一言。

「私は……死にたくない……」

『そんな風に自分の事ばかり。私には、君に情けをかける価値を感じられないよ』

 羽月はそれを無慈悲に棄却する。

 烏丸羽月に抵抗する術など、今の彼女には無い。こんなに鮮明に死を意識するのは、彼女にとって本当に久々のことだった。彼女は、それが恐ろしくて仕方がなかった。

『一分間だけあげる。君に祈る神がいるなら祈ったら? 私は君を絶対に許さないから、そのつもりで』

 羽月は、一つまみの情けを彼女に与えた。しかし、彼女に祈るべき神などいない。死までのロスタイムは、ただただ負の感情を煽る。恐怖や後悔でぐちゃぐちゃになった頭では、うまく言葉が出てこない。

「……お願いします。鬼ヶ島さんに、会わせて下さい」

『五十』

 羽月の冷たいカウントダウン。そして、怯える彼女は膝をつく。膝をつき、恐怖で震える彼女は、もう自分が何を考えているのかも分からない。

「会って、私は、謝りたいんです……私は……」

『四十』

 カウントダウンは止まらない。

「私は、あなた達を騙し続けてきました。私は生きたがって、自分の身を可愛がって……あの人を……」

『三十』

 身体や声の震えは、どうしようもなく大きくなる。彼女の目から大粒の涙がぽろりぽろりと零れ、地面を濡らす。

「……死にたくなくて、あなた達を身代わりにしようとした。薬を使って、自分の気持ちに蓋をして……」

『二十』

 無情なカウントダウンは、もう間もなく終わる。彼女は、不安定な精神と確かな感情で慟哭する。

「許されなくても構わない! だから、あの人を撃ったことを……騙し続けたことを! あの人に、あなた達に……謝らせて下さい!」

『十、九、八』

 それでも、羽月のカウントダウンは乱れることなく、最後の十秒をより細かく刻む。

「お願い、だから……ごめんなさ……」

 乱れた呼吸の合間から悲痛な懇願を漏らし蹲る彼女。

 そんな救いのない行き止まりのような光景に、終わりは突然訪れる。

「カットカット! はつきん、もうやめたげて! これは流石にやり過ぎだって!」

 彼女が握り締めていた携帯電話から、聞き覚えのある声が慌てて羽月を制止する。続いて、ビルの雨樋を滑り降りてくる影が一つ。その影、霧山美里は地面に着地すると、ペットボトルを片手に彼女へと駆け寄った。

「ほら、落ち着いて。ゆっくり水飲みな。あとは、こっちが薬……瓶割ったのはウチだけどさぁ、こんなに追い詰めるなんて聞いてないっての」

 美里はペットボトルを渡すと、ポケットから包装された薬を取り出し、そこから二錠取り出して彼女へと差し出す。彼女は荒い呼吸のままそれらに手を伸ばし、薬を水で喉の奥へと一気に流し込む。水を零しながら咽る彼女の背中を、美里はゆっくりと撫で続ける。

「身内に対する殺人未遂の報復としては、むしろ温いくらいだと思うけど?」

 自前の翼で上空から滑るように降りてきた羽月は、全く悪びれる様子を見せない。

「殺人未遂とか言っちゃうと、そうかもしんないけどさぁ。くずもりんも身内っしょ。もうちょっと情けとか、手心とか……」

「葛森さんを身内だと思ってたなら、もっとキツく締め上げてるよ」

「……さっきからはつきんが喋る度に、ウチの危険人物ランキングがガンガン更新されてっからね」

 引き気味の美里など全く気にせず、羽月は例の彼女の前で膝を曲げた。

「一つだけ、謝らないといけないことがある。君の着替えを取りに行った時、日記を見ちゃったんだ」

 彼女は呼吸を乱したまま、何も応えない。

「ごめんね。結果論だけど、それを見て分かったんだ。君が沢山の事に思い悩んでいたこと。薬に苦しんでいたこと。極端に死を恐れていたこと。刹華のことが好きだったこと。私を憎んでいたこと。本当は、刹華に危害を加えたくなかったこと……」

 羽月は不意に、震える彼女へと手を差し伸べる。

「錆島診療所と宝満大学病院の間で君が見つかって、君の意思が透けて見えたような気がしたんだ。ああ、きっと後悔してるんだなって……だから、私はこれで怒りを収める。君がもし望むのであれば、君が私の友達にやったことを『私は』許そうと思う。当然、そこに司法的な力は働かないけどね」

 彼女は、目の前に伸ばされた手をしばらく睨んでいたが、震える手をゆっくりと伸ばし、羽月の手をゆっくりと掴んだ。

「……ごめん、なさい」

 手を引かれ立ち上がると、彼女は弱々しく謝罪する。二人の様子を見ていた美里もやっと、安心した表情で二人を見ていた。

 羽月は、もしかすると半分呆れていたかもしれない。それでも、先程までの殺意に比べれば、何倍もマシに違いない。

「別にいいよ。それよりも、あの子のことだから、そろそろ探しに来るんじゃない?」

「そりゃ来るっしょ。賭けてもいいね」

 美里は自分の予想を疑う気もない。無論、羽月もそうだった。

「賭けにもならないよ。病室での様子見たでしょ? 刹華、葛森さんのことばっかり気にかけてたんだから」

「流石は正妻、よく分かってらっしゃる。妬いてるところもカワイイぞっ」

「……霧山さん、イエローカード一枚ね」

「そのシステム初耳なんだけど? 二枚貯まったら何から退場させられんのよ」

 ふざけた態度の美里と、呆れた表情の羽月。そして、息を懸命に整えようとする彼女、葛森ゆうり。ほんの少しだけ、彼女達を取り巻くものが日常へと戻ろうとしていた。

 そこに、羽月達が予想していたことが起こるまで、一分とかからなかった。

「ゆうり!」

 不意に呼ばれた声に葛森ゆうりがゆっくりと顔を上げると、今しがた駆けつけた鬼ヶ島刹華が栄花リオンと共に立っていた。

 気がつくと、葛森ゆうりは刹華に抱きついていた。殆ど無意識。駆け寄る動きがあまりに自然で、その場にいた誰もその動きを止めなかった。

「ごめん、せっちゃん……痛かったよね。怖かったよね……」

 刹華にはゆうりの表情が見えなかった。

「私は……何が大切か、分かったから……だから、ごめん、なさい……」

 刹華は、突然の謝罪に少し戸惑っていた。故に、言っている内容もあまり理解出来ず、なんとなく気まずい気持ちになった。

 だから、刹華はゆうりの頭を軽く叩いた。時々、刹華が師にされるように。

「……分かったよ。だから泣くな。泣かれても、あたしが困る」

 ゆうりは泣き止まない。それどころか、ほんの少しだけ激しさが増したような気さえした。

「……帰ろうぜ。なんか、腹減った」

 呆れるように言う刹華は、ゆうりに肩を貸し、歩き始めた。美里、リオン、そして羽月は、それぞれ笑ったり安心したり呆れたりしていたが、大凡似たような心持ちで、一緒に歩き始めた。

「全く……世話のかかる人ですこと。葛森さんには、もっとしっかりして頂きたいものですわね」

「このタイミングでイジワル姑みたいにイビってやんなって。それより、これで予定を崩さずに済むし、めでたしめでたしって感じ」

「予定って……え? 本気で言ってる? 前から思ってたけど、霧山さんって時々ネジ外れてない?」

「……あ、羽月。あたしの食い物残ってないよな。スーパー寄るぞ」

「寮に戻るの? ……本当に大丈夫か心配だなぁ」

 日常に限りなく近い関係性は、今回の大きな収穫と言えそうだった。

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