04.悪夢から目が醒めて

 午後八時、錆島小児科二階。寝台に座り肩で息をするのは、葛森ゆうりだった彼女だ。

「少しは落ち着いたかな。気分を落ち着ける薬といっても、私の私物にはこれしか無くてね。あまり強いものじゃない。だからこそゼロファイブ、身体に合いさえするのであれば、これが相応しいと思うよ」

 芝居がかった口調で、錆島さびしま山茶花さざんかは彼女を諭す。

「悪い薬から離れる良い機会だ。私を信じて、言うことを聞いてはくれないかな」

 彼女自身、呼吸は荒いままだが、ほんの少しだけ身体が元通りになっているように感じていた。少しでもマシになるのであればと、彼女は荒い呼吸のまま頷いた。

「良い子だ。水は……あった方が良いだろうね。ここに置いておくよ」

 戸棚から出したペットボトルを、ベッドの横の小さな台に置く。

 山茶花は、自分の申し出を受け入れた彼女に対して少し安心していた。安心しながら、壁に背中を預ける。

「しかし、君は意外と思い切りが良い方みたいだね。あれだけ寝込んでおいて、スパーリングとは……主治医である私に相談してくれても良かっただろうに」

「私も、後悔しています……」

 荒れる呼吸の中、彼女は静かに応える。

「……分からないんです。突然、何かを考える余裕が……無くなって。気がついたら、私の中で気持ち悪いものが……」

「おやおや、なかなか物騒だね。もしかすると君はその相手を、憎んでいたのかな?」

 山茶花は、優しく語りかける。

「いえ……私には、感情がありませんから」

 その答えに山茶花は不思議そうな顔をしていたが、やがて短く笑った。

「安定剤まで飲んでおいて、感情が無い訳がないだろう。何処かのヤブ医者に、そんな診断をされたのかな」

 それを聞いた彼女は、少し驚いた顔をしていた。

「君がかつて飲んでいた薬。あれは、一時的に感情の機能を無理矢理停止させるような薬だよ。無理矢理、というところがポイントでね。あんなものを服用し続けると、取り返しがつかなくなる。かつて、沢山の人があの薬に壊されたように……だが君は、まだ間に合う。その感情はまだ未成熟ではあるけれど、確かに存在している」

 山茶花は朗々と語りながら、彼女の左胸を人差し指で軽く押した。

「ゼロファイブ。君の中にあるそれは、真の意味での君の理解者だ。一生モノの付き合いになる。だから、それを気持ち悪いなんて言わないであげてくれ」

 彼女は混乱していた。自分のコンプレックスが否定され、自分の中のよく分からないものに苦しめられている。彼女を苦しめるそれが、彼女が持っていなかった筈の感情だというのだ。

「私は……」

 彼女は、震える声で囁いた。

「……私は、どうしたら、いいんですか」

 山茶花は、その姿を見て穏やかに笑う。

「その答えは非常にシンプルだよ。ただ、君にとっては非常に難しいかもしれないね。それでも、きっと逃げるべきではない。私がかつて、そうしたように」

 部屋の隅に置かれていた丸椅子を持ち上げ、山茶花はそれを彼女の目の前に置き、そして向かい合う形で座った。

「君自身がどう在りたいか、それだけだ。生きる上で本当に必要なことは、きっとそれだけだよ」

 山茶花は、諭すように言葉を伝える。その言葉は、これからしばらく彼女の中で残響することとなる。




 次の日の朝。朝食等を済ませた後に刹華がスマートフォンを確認すると、画面の上で通知が主張していた。連絡用のアプリ、PIPEの通知は、昨日の夜登録した羽月からのものだった。昨日習った操作方法を思い出しながら、不慣れな手つきでアプリを開くと、「やるじゃん」と親指を立てるカラスのイラストが送られてきていた。ただし、刹華にはその下に書かれている内容が理解出来ていなかった。

「……ハル。ちょっと聞きたいんだけど、いいか?」

 刹華が呼びかけると、斜め向かいの女の子が小動物のようにピクリと動いた。

「え? 何かありました?」

「こういうのが出てきたんだけど、なんなんだこれ」

 緊張する面持ちのハルに近づき、画面を見せる刹華。ハルはそれを見ると、自分の知識の中に答えがあったことに安堵した。

「……ああ、スタンプを貰ったみたいですね。ここタップしてみてください」

「タップ? ……ああ、触るやつか」

 言われた通りに不明箇所をタップすると、スタンプがダウンロードされたとの表記が出現する。

「今、この方からスタンプを貰ったんですよ。これからこのアプリで、このスタンプが使えるようになるんです。こんな感じで……あっ、ご、ごめんなさい! 間違って送っちゃいました!」

 ハルの手で送信されたスタンプは、やる気無く感謝する犬っぽい獣。決して下手な絵ではないが、シンプルで脱力感のあるデザインは、なんとも味がある。

「ん。こんな感じで送れば、相手に簡単な返事が出来るのか」

 刹華はハルの失敗を気にすることなく、再び適当にスタンプを送る。言葉を発していない、どことなく構ってほしそうな獣。

「えっと……はい。出来たら直接、お礼を伝えてくださいね。スタンプを買うの、そんなに高くはないけどタダじゃないから」

「マジか……分かった。伝えとく」

 タダではないと聞いた刹華は、直ぐにさっきのお礼のスタンプを放つ。

「でも、スタンプをプレゼントしてもらえるなんて、相手の人とは仲良しなんですね」

 仲良しと言われて、微妙に反発したくなる刹華。

「仲良し……ってより、アイツは仕切り屋の同居人って感じだな」

「そういう言い方、仲良しっぽいですよね」

 ハルの妙に鋭い返しを喰らった刹華は、言葉に詰まってしまった。

 そんな二人の様子を、面白くなさそうに見ている人物がいた。

「ぶー。ハル、鬼ヶ島さんのこと怖がってた癖に、めっちゃ仲良くなってんじゃん。妬くわー」

 カナ――ハルの隣の患者は、わざとらしい膨れ面で不平を言う。

「えっ! だ、だって、レッダーの人って初めてだったし、それにレッダーって、メチャクチャ危険な人達だって噂……っていうか、カナがケータイの使い方教えてって振ったんでしょ?」

「あー、そうだったっけ? でも、多分良い人だって私は最初から言ってたじゃん」

「言ってない。面白そうとしか言ってない」

 ハルは半分怒っていたようだったか、カナはまるで気にする様子もなく笑っていた。それに対して、刹華は特に不快には思っていなかった。煙たがられることには慣れていたし、何より互いに遠慮のない二人のやり取りが微笑ましかった。

 刹華にとっての、気の置けない相手。そんな人物が二人思い浮かぶ。その内の一人は、どこか暗い表情だった。

「おっ、珍しい顔してるじゃないですか鬼ヶ島殿。なんかイイことありました?」

 おちょくるようなカナの問いかけに、刹華はほんの少し言葉に詰まった。そして、

「別に、そんなに変わりはしねぇよ。人間も、レッダーも」

 意識的に力を抜いて、そんな風に答えた。

「ごっ、ごめんなさい! 悪い噂とかで、最初はちょっと怖い人だと思ったりなんかしてて、その……」

「あたしは気にしねぇけど……その正直な発言で、誰かの地雷を踏み抜かないようにしろよ」

 刹華にそう言われても、ハルはピンとこない様子。

「そうだぞハル。人間ってのは、建前と本音を華麗に使いこなして、世間という地雷原を歩いていかなきゃならんのよ」

「お前は面白半分で地雷踏みに行くタイプだろ」

「こりゃ手厳しい! いやー、姐御にゃ敵いませんなー!」

 一本取られたとおちゃらけるカナを眺め、こんな処世術もあるのかもなと考えながら、刹華は自分のベッドに戻り、その上に落下するように腰掛けた。

 当然といえば当然ではあるのだが、晴れやかな気分とはいかない。問題は山積みで、その問題の一つである霧山美里が、近くの病室で燻っている。彼女の代表的な欠点を一つ挙げるなら、「キレると手がつけられない」というところであろう。そして先日の様子から、どうやら彼女は生徒会長である金山田克妃に相当苛ついている。触らぬ神に祟り無し、という言葉を信じたい刹華だが、こと彼女においては向こうから動いて勝手に爆発することを、今年度に入って学んでいた。変なところでキレて、事態が更に面倒にならなければ良いのだがと、刹華はため息をつく。

「……ん?」

 ふと、彼女はおかしなことに気がつく。金山田克妃が自分を責めたことについての怒りと、葛森ゆうりが自分を射殺しかけたことについての怒り。美里の二つ怒りの温度差が、明らかにおかしいのである。克妃に対しては激怒し恫喝までした後、納得いかないという風な態度で渋々引き下がった。それに対してゆうりの殺人未遂の件には、呆れながらも放任といった様子だった。刹華の中にある倫理観では、名誉毀損と殺人未遂では明らかに名誉毀損の方が軽い。自分の命を美里に軽く見られているのかと一瞬だけ考えたが、美里は克妃にマジギレしていることから、それは考え難いと思い直す。名誉毀損と殺人未遂。これらの重さが入れ替わる理由が、刹華には思い当たらなかった。

「大丈夫よ」

 不意に入ってきた言葉に、刹華は顔を上げる。言葉の主は、隣の老婆であった。

「大丈夫……うまくいくわ」

 当然、刹華は何一つ口に出してはいない。それなのに、老婆は優しく穏やかに笑う。

「は、はぁ」

 深刻そうな顔をしていたのだろうかと、少し自分のことを鑑みる刹華。ただ、それを気にしてにこやかに過ごそうと試みる彼女でもない。どう返したものかと考える。考えるも、答えは出なかった。

 刹華が答えを出す前に、客人が病室を開けた。

「よお、思いの外元気そうだな」

 スーツを着た中年男性が、気さくな調子で現れた。浅川卓蔵。かつて、刹華がお世話になった警察官である。




「しっかし、撃たれたっていうから心配してたんだが、報告通りに元気そうで安心したぞ。本当に撃たれたのか?」

 浅川は、自動販売機から転がり出た缶コーヒーを刹華に投げ渡した。銘柄は、いつか彼が奢ってくれた時と同じ、甘ったるいコーヒーだった。

「試すなよ。本当に死ぬかと思ったんだぞ」

 遠くのテレビを眺めながら、刹華は言う。動物愛護団体のテロ行為にレッダーの能力が利用されているというニュースは、刹華の興味を引いた。

「試さねえよ……鬼ヶ島、今日は半分仕事だ。だから、単刀直入に聞くぞ」

 わざわざ病院のロビーまで出てきたことについて、刹華は少しだけ構えていた。

「お前ら、聴取の時に嘘ついたろ」

 嫌な予感はしていた。刹華は言葉に詰まり、目を逸らす。

「やっぱりか。お前と霧山美里と栄花リオン……そして、金山田克妃。証言が食い違ってたからな」

 浅川は内ポケットから煙草を取り出し、思い留まるように再び仕舞う。刹華は、金山田とだけは口裏合わせをしていなかったことに気がついた。

「……なあ、おっさん。あたしは、あたしを撃った相手を許してるんだよ。それじゃ駄目なのか?」

 刹華は、浅川に懇願するように尋ねる。

「決めるのは俺達じゃなくて法律だ。少なくとも、銃刀法なんかには触れるだろ」

 返ってくるのは無情な回答。

「それにな、鬼ヶ島。お前らが庇った奴が、もう一度凶行に及ばない保証が何処にある? どんな奴かは知らんが、その時が来たら多分無事では済まねえぞ」

 浅川はきっと、子供に言い聞かせる時も同じような顔をするのだろうと、刹華は少しばかり考えた。

「……あたしは、大丈夫だから。もう覚悟は出来てる」

 浅川は、納得しなかった。

「お前はいいかもしれない。だが、別の誰かが襲われた時、覚悟じゃ済まねぇだろ」

 考えていた。考えてはいた。その可能性を、刹華は一番恐れていた。

「お前が庇った奴が、誰かの平穏な日常を壊したら……どうやって償うんだよ。そんなもん、時間を巻き戻さない限り不可能だろ」

 そして、浅川の家族のことを思い出した。浅川の娘は過去にレッダーから襲われ、右腕を失い、笑顔も失ったらしい。浅川家が多くを失い、多くを背負ってしまったことは想像に難くない。

 だからこそ、何も言い返せなかった。

「おっさん、あたし……」

 刹華は、反論にも同意にもならない言葉の欠片を漏らすのが精一杯だった。

「鬼ヶ島。お前は優しい。そして良いヤツだ。それはあの日の夜に理解した」

 浅川は、独り言のように言葉を紡ぐ。まるで、分かり合うことを放棄しているような口調で。

「ただ、優し過ぎだ。お前の優しさを利用しようとする奴なんて、掃いて捨てる程いる。お前だって分かってるだろ……今のままなら、いつか間違いなく破滅するぞ」

 煙草が吸いたいのだろう。再度、内ポケットから潰れたパッケージを取り出し、ゆっくりと立ち上がった。

「今日の話を共有しなくても、今回の噓はすぐバレる。もう少し、お前は自分本位に生きた方が良いと思うぞ」

 浅川は片手をあげ、そのまま立ち去っていった。

 刹華は今、二択を迫られている。葛森ゆうりを庇うか、見捨てるか。間接的に人を殺めてしまった経験が、自分が信じたいものを否定しようとする。刹華にとって、決断し難い難問だった。

 ニュースの音声が耳につく。愛護団体を非難するコメンテーターの言葉が自分達を責めているように、刹華には聞こえていた。




 病室に戻ると、相変わらずきゃいきゃい話をしている向かいの二人。そこに一人、「刹華にとって」余計なものが混ざっていた。

「おーっす。セッカ、今日もシケたツラしてんねぇ」

 私服に着替えた霧山美里が、いつものキャリーケースに座ってひらひらと手を振っていた。驚くべきことに、なんと笑顔で。

「……なんなんだよ」

「そりゃあホラ、ウチ今日退院だし。セッカに挨拶しとこーと思って来たら居ないし。で、可愛い子達とお喋りってワケ」

 病室に入った時の様子から、カナもハルも高速でなついてしまっている様子だ。

「そうじゃなくて、なんでそんなにご機嫌なんだよ。昨日から変わりすぎだろ」

「ん? もしかして、ウチのこと心配してくれてたの? セッカってそういう可愛いとこあるんだからー」

「だーッ! 抱き着くな! 離れろ暑苦しい!」

 嫌がる刹華が振り払おうとすると、美里はひらりと飛び退いた。

「マジレスするとさ、ちょっと希望が見えてきたワケよ。そりゃ金山田に関してはモヤっとするとこあるけど、ウチに出来ることがあるって分かったからね。ちょっとは明るくもなるって」

「あ、ああ。そうか……」

 美里の言っていることが分からなかったので、生返事を返す刹華。

「それにさ。ダチに対してキレそうになっちゃうのは、ウチっぽくないっしょ? ウチ、ダチに対しては超甘党だし」

「……そうか? あたしは、お前らしいと思うぞ」

 刹華の否定に、美里は意外そうな顔をしていた。

「お前、友達に対しては真面目だろ。だったら、衝突することもあるんじゃないのか?」

 補足された説明を、美里は少しだけ咀嚼する。咀嚼して、

「……分かってんじゃん」

 美里は、刹華が今まで見てきた中で一番自然に笑った。

「んじゃ、一発かましてくっから! キュートなみりりんの活躍に、乞うご期待!」

 美里は戯けながら、キャリーケースと一緒に病室から出て行った。カナとハルは、それぞれ挨拶を口にしながら手を振る。

「……一発、かます?」

 それに引き換え、刹華は嫌な予感を感じずにはいられなかった。

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