焼き魚と切腹

メグ

焼き魚と切腹

 朝目が覚め、喉の渇きを感じて喉を鳴らすと、昨晩受けた傷がずきりっと痛んだ。


 せっかく妻が早起きをして用意してくれている朝食もこれでは喉を通らない。昨晩の出来事を思い出すと、ふつふつと昨日の怒りも再燃し始めた。


 あいつの存在に気づけなかったのはわたしの落ち度であったが、この怒りをどこにぶつけていいものか。そもそも前から鬱陶しいと思っていたのだ。わたしにこの傷を負わせたあいつは、卑怯極まりない。他のものの影に隠れて近づいては、簡単に治らない傷を残していく。


 小さなカラダの割に、負わせる傷は深く、流水で傷を清めようともすぐに痛みが引くことはない。


 十分に気をつけていたつもりだったが、昨夜は完全に油断していた。このところ仕事が立て込んでいて、ゆっくり飯を食う暇もなかった。その反動で、久方ぶりにありつけた炊きたての飯に、気が緩んでいたのだ。炊きたての米の甘い香りに腹が鳴り、脂ののった焼き魚を目の前にして口のなかに唾液が満ちれば、我慢しろと言われたところで、数秒もたないだろう。


 待ちきれず箸を持って、まずは一口。湯気をあげる艶かな米を頬張って、焼き物にかぶりついた。じゅわっと皮の下から魚の脂がしみだして、絶妙な塩気と米の甘味とが混じりあい、思わず顔がほころんだのはいうまでもない。だがその至福の時は一瞬だった。あいつはその隙を見逃さなかった。


 どこに隠れていたのか、こちらが身構える暇もなく襲いかかってきたのだ。わたしがあいつの存在を認識した瞬間、あいつの持つ刃はわたしの喉元をすでに捉えていた。


 口のなかの食べ物を吐き出すわけにもいかず、反射的にごくんっと飲み込むが、それではあいつの思うつぼだった。


 わたしは避けることもできず、あいつはわたしの喉にその刃を突き立てた。


「んっ……」


 悔やんだところで、もう遅い。喉に感じた違和感を逃がす術もなく、わたしは手にした箸を取り落としていた。空いた手が助けを求めて伸びた先には、白湯の入った湯飲みがある。迷わず手にして、それを武器に反撃を試みたが、相手の方が一枚上手だった。するりっと身を翻し、こちらの反撃はかわされてしまう。


 それどころか動いた拍子に受けた傷が痛んで、わたしはそれ以上何もできなくなってしまった。


「あなた、大丈夫ですか?」


 動きが止まったわたしを訝しく思ったのだろう、妻が心配そうに声をかけてきた。あいつの姿は妻には見えないのだ。


「すまん、白湯をもう一杯」


 情けない姿を妻に見せまいと、声を絞り出した。しかしその声に、妻はすべてを察したようだった。空になった湯飲みに白湯を注ぎつつ、妻は苦笑した。


「慌てて召し上がるからですよ」


「仕方なかろう。こんな温かい夕食にありつけるのは、久しぶりなのだから。それにしても、この魚の骨はどうにかならんものか」


 新たに白湯を喉に流し込むが、喉に刺さったあいつーー魚の骨はびくともしない。諦めきれず歯の裏を舐めるように舌を動かして、集めた唾液で何度も喉を上下させた。けれど、なんともいえないその不快感はなくならない。


 炊きたての飯も残りの焼き魚の身も、喉を通るたびにその傷を刺激して、せっかくの料理の味も失せてしまった。久しぶりにありつけた出来立ての夕食だったのに。それを台無しにされた怒りは言い表しようがない。それも原因が、こんなにちっぽけな相手だというのが、許せなかった。


「食う気が失せた……」


 それでも半分ほど食べ進めて、わたしは大きくため息をついて箸を置いた。


「せっかくご用意しましたのに」


 呟かれた妻の言葉は批難めいていた。


「食べていればそのうち抜けるかと思ったが、いっこうに小骨も抜けず、食べていて鬱陶しくてかなわない」


「ずいぶん、苛立ってらっしゃるんですね」


「うまい食事を台無しにされたら、苛立ちもするだろう? 食べ物の恨みは怖いんだ」


「そうおっしゃるのでしたら、明日も夕食に間に合うように、早くお帰りください。わたしが敵をとって差し上げますよ」


 自分の作った飯をうまいと言われたのが嬉しかったのか、険のある表情を和らげて、妻は敵討ちを名乗り出た。


「いったいどうするというんだ?」


 まったく検討もつかず、目を瞬かせると、妻は目尻に皺を寄せて言った。


「それは、明日の晩のお楽しみです」


 そうだ、それでわたしは、昨晩怒りを収めたのだ。怒りよりも好奇心の方が勝ってしまったというのが正しいかもしれない。


 今も、今晩には決着がつくと思えば、怒りも幾ばくか和らいだ。


 わたしを起こしに来た妻も、昨夜の約束を確認するように微笑んだ。


「今日はお約束通り、夕食に間に合うようにお帰りくださいね」




 妻との約束通り、わたしは早々に帰路についた。


 帰宅した我が家の食卓で目にしたのは、皿に盛られた刺身だった。


「ただの刺身じゃないか」


 思わずもれた呟きに、妻は苦笑した。


「あら、心外ですわ」


「心外もなにも、焼き魚か刺身かの違いだ。昨日と同じ種類の魚を刺身にしただけだろうに」


「刺身だから意味があるのですよ。わたしは魚に切腹を申しつけたのです」


「切腹?」


「ええ、三枚おろしにするときに、腹開きで捌いてやりましたの。ほら、関東では武士の切腹を連想するからと、背開きが一般的でしょう。それに刺身なら骨の心配もございませんし。今日はゆっくり召し上がってくださいね」


 温かな飯を碗によそいながら、妻は敵討ちを誇らしく語ってみせたのだった。

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