生きてるから、伝えたい3
「お探しものですか?」
入り口の扉前でしばし佇んでいた私に、穏やかな声がかけられた。それは、この教会に似つかわしく装飾の一切ない黒衣に縄のベルトを下げた神父さまだった。
「いえ、大丈夫です。もう帰るところでした。あっ、素晴らしいステンドグラス……堪能させていただきました」
そう言って頭を下げれば、神父さまは柔らかく微笑まれた。
「北の道を来られましたか?」
「え? あぁ……道の名前はわかりません。広場の南西の門からからまっすぐに来ました」
「やはり北の道ですね。実は川を挟んで反対側にも道がありまして。そちらが元々の道で、言い伝えがあるのです。必要な人が通るべき道と言いましょうか。大切なものを探す道、願掛けをする道とも言われています」
「はあ」
「先程、なにか探し物をしてらっしゃるように見えたものですから。それでつい声をかけてしまいました。いえ、私の勘違いならいいのです。でも今が旬の花も咲いていますから、お時間があればぜひ。この先です」
神父さまが教会の向こうに掛かる古めかしい眼鏡橋の先、木立の奥に伸びていく道を指し示される。
「峡谷脇で木々が多いのですが、一本道ですから迷いません。そのまま進めばやがて行きの道に合流します。ただ、かなり濃い霧が……そうだ、これをお持ちください。ろうそくの予備も入れておきますね。たまにいらっしゃるのですよ、火をなくしてしまう方が……、そんな方に会ったら、ぜひ使ってあげてください」
お泊まりの宿に返していただければ、そう言って手渡してくださったランタンを受け取る。重ねてお礼を言えば、神父さまがそっと仰った。
「この道を行く者は口をきかない、暗黙の了解です。願掛けですから」
その言葉に頷き返し、私は教会を後にする。空は明るく、まだランタンは必要なさそうだ。
けれど、こんもりと茂った灌木がまるでアーチのようになっている箇所をしばらく歩けば、どこからともなく霧が立ち込めてきた。どんどん白さが増していく。手元が危うくならない前にと、私はろうそくに火を灯した。予備はポケットに忍ばせる。
そして白に包まれてそろそろと進めば、道はやがて緩やかなカーブに差し掛かった。それを曲がり切った瞬間、世界が真っ赤に染まった。
「何、これ……」
それは花だった。見渡す限りの赤い花。それもただの赤ではない、まるで発光しているかのような赤。霧で太陽が隠されている今、光源はない。この花たちは自らが輝いているのだ。
発光する苔やキノコなら植物図鑑で見たことがある。妖精のように柔らかな光が微笑ましかった。しかしこの花の輝きはそんな可愛いらしいものではない。まるで熱い血潮の如く、脈打つかのように瞬いている。……宿る命。そんな言葉が思い浮かぶ。命、命、命。ぎゅうと胸の奥を掴まれたような気がした。
一面の赤の中、目を凝らして探さなければと心が急く。何を? わからない。けれど。それなのにあまりに広大すぎて、ひどく焦燥感にかられる。それは、美しさ以上に凄みのある風景だった。
と、少し先にうずくまる人影を見つけた。具合でも悪いのかと駆け寄りそうになったが、神父さまの言葉を思い出す。声をかけてはいけない。黙ってそばを通り過ぎようとした時、その人のランタンの火が消えていることに気がついた。ろうそくがすっかり溶けてしまっている。
(まあ、大変。だから……。灯りがなければ危なくて歩けないものね。予備は持っているのかしら……)
膝を折って俯くその人は若い男性のようだ。ずいぶん疲れているように見える。いてもたってもいられず、私はポケットからろうそくを取り出した。どうしても渡さなければと思ったのだ。
視線をずらし、黙ってそれを差し出せば、はっと息をのむ様子が感じられた。続いてそろそろと手が伸ばされる気配も。私は彼がろうそくを握ったことを確信し、手を離し頭を下げてその場を離れた。かすかに見えた横顔は、何だか知っている人によく似ているような気がした。
ところが離れてすぐ、私はたまらなくなって座り込んだ。どうしたのだろう。胸がどくどくと脈打っている。ひどく緊張した時のようにうまく息ができない。まるで危険な場所を全速力で駆け抜けたかのようだ。天を仰ぎ必死に空気を吸い込んだ。
しかしそんな一方で、ああ、良かったと、深く安堵している自分に気づく。何がどうなっているのか。全く雲を摑むような中で、ただ、大きな何かを乗り越えて、自分は喜んでいるのだとそう思った。
それはひどく奇妙な感覚だった。けれど、まるで激しい想いのような、幾千もの赤い花ざわめく世界の中だ。そんな気持ちになっても不思議はないだろう。花たちが、必死で生きようとしている私たちのように思えてならなかった。
息を整えて振り返ると、さっきの男性の姿はもうない。私はゆっくりと歩き出した。道はやがて潅木のアーチへと続き、再び眼鏡橋を渡れば、その先に門が見えた。いつの間にか霧は晴れ、夕焼けが広がっている。
私はそっとろうそくの火を吹き消した。なんだかずいぶん疲れたような気がする。まっすぐB&Bに戻り、受付でランタンを手渡した。
「赤い花の道に行かれたんですか?」
「ええ、神父さまに勧められたので。伝説の道なんですって?」
「いいえ、迷信みたいなものですよ。ただ、景色がとても特殊ですから。そんな風に噂になって、結構遠くからもいらっしゃるんです。今週末は気温も低く、早くから雨の予報でしたからお客さまだけですけれど……雨が上がってよかったです」
翌日、電車で大きな市まで戻り、それから一週間、観光して過ごした。思った以上に素敵なレストランや本格的な劇場があっていい息抜きになった。
その間も彼の不在ランプは点いたままだったけれど、約束を果たしたせいか、心は軽くなっていた。そんな最後の日のランチは、昨日までの地元料理ではなくパンケーキを食べる。急にそうしたくなったのだ。彼のような山盛りではなく、上品に重ねられた数枚だったけれど、彼のようにお行儀悪くシロップをかけたところでふと、向かいの建物の看板に気づき読み直した。
「郷土資料館?」
レンガの壁に埋もれるような地味な看板。今日の今日まで気づかなかった。外にはポスターさえ貼られておらず、特に新しい企画があるという感じではなさそうだ。それなのに妙に胸が騒ぎ、私は慌ててパンケーキを切り分ける。不揃いのそれに苦笑が漏れる。さらに味わっている余裕もなかったけれど、パンケーキはやっぱり彼と食べなければ美味しくないのだと、そう思った。
化粧直しもそこそこに移動すれば、吹き抜けのエントランスホールには洒落た柱頭飾り。歴史的価値のある建物だと一目でわかる。保管されている資料もきっと信頼できるものだろう。人影はないが、どうやら無料で公開中らしい。小さなテーブルに置かれた募金箱に、私はカフェでもらったお釣りををそのまま全部入れた。
こざっぱりした室内は上手に自然光が取り入れられていて、明るすぎず暗すぎず、なんとも心地よい。壁にかかった写真に絵。近隣の町に残る伝説などをふらふらと読み歩く。
そして角まで来た時、既視感のある写真に気づいた。あの教会のステンドグラス。やはり名のある作家から寄進されたものだった。解説を読んでいた私は、その文章の最後に添えられていた周辺説明の下りで、思わず声をあげた。
「え? ……想い人の命を引き戻す、って何これ……」
峡谷沿いの道は通称、探し物の道。病気だったり事故だったり、今まさに風前の灯のような命を手繰り寄せるための道。遠く離れた場所で、自分のところに帰りたがっている人を取り戻すための道。そう、探し物とは「想い人の命」なのだ。
いつでもいいわけではない。赤い花が咲く時がまさにその時で、けれど想いを胸にあの道を歩き、そこでその想い人に出会わなければ、それは叶わない。
「想い人に会うって……遠く離れてるのに? 魂ってこと?」
そう呟いた瞬間、あの日曖昧だった横顔が、よく知る形になっていく。そんな……! けれど
かちゃり。
あの霧の中に見たはずもない光景が広がる。再び灯されたランタンを手に立ち上がる男性。そして……それは水色の封筒を手渡された時と同じ音。……ドッグタグ! 彼の胸にも私の胸にもかかっている命の証し。
『その道で想い人に会わなければ叶わない』
うずくまる彼に気が急いてならなかった。私はあの時、戦場で彼の隣にいたのかもしれない。この世界に留まろうと必死で頑張っている彼の隣に。帰ってきて、会いたいと強く望んだ心が私たちを結びつけたのだ。彼もまた同じように思ってくれていたのだと、素直に信じることができた。
(言い訳なんてもういい。依頼を受けたのも再会を願ったのも、すべてすべてあの人だったから。正直になろうよ私。欲しいのはドッグタグなんかじゃない、あの笑顔、あの声、あの温もり……あの人じゃなきゃダメなのよ!)
気がつけば泣いていた。ずっとずっと押さえ込んできた涙があふれ出す。たわいもない会話が流れる時間を、午後の光の中の彼を、この手に取り戻したい、心からそう思った。
ざわめく夕暮れの空港。窓に映る顔は不安そうだ。私は私に笑いかける。
(大丈夫よ。灯りはちゃんと届いたわ)
一番大事なものは何か、今度こそ自分の言葉を伝えよう。そして、激務から無事帰還の彼に山盛りのパンケーキを奢るのだ。二人で食べなければ、その味は決してわからない。明日には不在ランプが消えていることを願い、私は搭乗案内のアナウンスに立ち上がった。
ドッグタグ クララ @cciel
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