生きてるから、伝えたい2
彼と会ったのは初夏の日差しの下だったのに、気がつけばもう肌寒い風が吹き始めていた。あの後、彼からは何の連絡もない。連絡先としてもらったサイトには今日も彼の名前横、不在の表示だけが鈍く光っている。
「砂漠の中の山間部って……結構朝晩冷えるんだよね」
ようやく休暇にこぎつけた私は、町のデータを横目に見ながら荷物を詰め込み、金曜朝の便でその地方の大きな市へと飛んだ。そこからは中距離電車だ。
人もまばらな午後の駅を出発し、揺られること二時間。思った通り乾いた大地が続いていたけれど、到着間近、電車が斜面を登り始めれば、世界はさっきまでのひび割れた砂色一色から、一気に緑滴る丘へと様変わりした。
耳がキーンとする。標高が高くなったのだ。線路の向こうには大きな木々に隠されるかのように並ぶ家々。過疎が進む町かと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。小綺麗で十分に満たされた感じ。悠々自適というか、ちょっとしたオアシスのような場所にさえ感じられた。そんな町のはずれにある教会にタグを運ぶのだ。
「え? ご両親じゃなくて?」
「あいにく孤児なんでね。親はいない。育った施設ももうない。だから帰る先もないといえばないんだ。届ける相手も場所もない。そんなわけで形だけのタグだから、もしもの時は捨てていいって言われてたけど、そうじゃないと思って……」「そうじゃない、って?」
「あいつ時々、昔のことを話すことがあってさ。本人は気づいてないだろうけど、決まって教会のステンドグラスのことで……。綺麗だった、大好きだったって。その時のやつときたら、見たこともないほど優しげでさ……」
「……それでその教会。そうだね、教会なら受け取ってくれるかもしれないね」「ああ」
そう言うあなたこそ、びっくりするくらい優しげだわ。彼にそんな顔をさせた人に、私は密かに嫉妬を覚えた。堪えていたものが吹き出しそうになる。それをギリギリと押さえ込んで皮肉を言った。
「本当おせっかいね」
「ああ。そうだな。その通りだ。それで、そんなおせっかいに巻き込まれたお前には申し訳なく思うけど、お前しか思い浮かばなかったんだよ」
目尻が下がってぐっと表情が柔らかくなる。優しさが滲み出す。ずるい人。そんな顔をされたらどんなお願いだって聞いてあげたくなる。その表情が作り物じゃないって知っているから尚更。穏やかな午後の光の中、私は泣き出しそうな自分と必死で格闘したのだ。
そんな夏の日を思い出しながら駅を出れば、そこはいわゆる「市庁舎広場」だった。市ではなく町だから、町役場広場と呼ぶべきだろうか。レンガ作りの重厚な建物がぐるりとロの字に広場を囲い、四つの角には門が立つ。きっと町の行事などはここで行われ、大いに賑わうのだろう。
けれど、すっかり夕方になってしまった広場は、帰宅を急ぐ人の後ろ姿があるだけで、なんだか閑散としていた。空が重く垂れ下がっている。髪をまとめたためにむき出しの襟足を冷たい風が撫でていく。私はぶるりと身を震わせた。首元にショールをしっかりと巻きつけ、予約してあるB&Bへと急いだ。
翌朝は雨だった。でも誰かと約束をしているわけではない。雨があがったら出かければいい。のんびり朝食をとって一旦部屋へ戻った私は、窓を伝う雨粒を見つめながら、持っていくバッグの中に水色の封筒が入っていることを確認する。
そこにあるのは一人の死だ。私は漠然と、生きることについて思いを巡らせる。戦うこと、守ること、守られること。何が正しくて何が間違っているのか、簡単に答えなんて出せない。
どんな正論を打ち立てようが、理不尽極まりないことに、突然それを粉々にされることだって日常茶飯事だ。一秒先のことなんか誰にもわからないと彼は言ったけれど、決して大げさではない。
この世界には、見える脅威も見えない狂気も嫌になる程渦巻いていて、綺麗事だけでは生きていけない。だから人は進むしかないのだ。決めた目標に向かって進み、そこで自分なりの答えを見つけるしかない。彼の選択も、彼の相棒の選択も、そして私の選択も、すべて正しくて、すべておかしい。でもそれでいい。それしかないのだ。
私はまたサイトを確かめた。すでに日課とも言えるそれ。彼の不在ランプは今日もついたままだ。いったいどこで何をしているのか。元気なんだろうか……。けれどそれを聞けるのは彼に会えた時だけ。
(会えた時? 本当に会えるの? ちゃんと帰ってきてくれるの?)
長すぎる沈黙が、もしかしたらもう二度と……という怖さになってじりじりと迫ってくる。いつになく弱気になり、彼のタグももらってくればよかったんだなんて思ってしまう。
彼のタグ……苦笑を漏らして首を振る。生きている人のタグをもらってどうするというのだ。帰ってくるまで預かっているから絶対帰ってこいとでも言えばよかったのだろうか。想いが乱れに乱れ、私は思わず胸元を握りしめた。熱を持つタグがそこにある。
(落ち着け私、落ち着け私……)
深呼吸を一つする。とにかく今は教会へ出かけ、ステンドグラスの前にタグを置いて来ることが大事だ。
昼過ぎには雨が上がり、散策に行ってくると受付で言えば、にっこりと微笑まれた。宿泊客は私だけらしい。しかし駅前にもこれといったものはなかったし、はたしてこの町に観光客など来るのだろうか……。祖先の墓参りとか、退職後の家探しとか、休暇用の物件の購入とか? 貧相なイメージしかできない自分が嫌になる。
雑念を追い払いつつ、雨に濡れて光る石畳の上を広場まで行き、町の地図を思い浮かべた。広場の南西の角にある門を抜ければ、確かその先は緩やかに下り坂で小さな川まで一本道のはず。小さな町のことだ、さほど時間はかからないだろう。
私は足早に門を出た。拍子抜けするほどすぐに自然の中へと解放される。足元は石ではなく土。向こうが見えるような見えないような木々の間を、濡れた下草を踏みながら進む。家らしい家は見えず、行き交う人もいない。
やがて下り坂が平坦になった。川に着いたのだろうか。しかしそれらしい水音は聞こえない。けれど道はこれしかないのだから、行き着く先まで行くしかない。両脇の木が途切れれば何か見えるかもしれないと私は先を急いだ。
黙々と歩く間、またあの午後に思いを馳せる。冷静になればなんともおかしな話だ。他に方法はあるはずなのにあえて私に頼む彼と、時間を捻出するのは簡単なことではないのに即答する私。タグを理由に、どちらもが何かを求めていたような気がしてならない。それが何なのか、彼の真意はさておき、私はと言うと……自分の心なのに未だ迷子のままだった。
ふと日差しが目に入り、はっと顔を上げれば、道はいつの間にか土手脇だ。音は今ひとつわからないけれど、今度こそ川だろう。実に田舎らしく、思った以上に壮大な景色。けれどそれはまた、急にがらんとした場所に一人放り出されたみたいな寂しさを感じさせた。なんだか心細くなった私は、大きな糸杉の向こうに目的の教会が見つけてほっとする。
礼拝時間も過ぎた昼下がりだからだろうか、辺りに人影はない。けれど誰もいない方が逆にいいだろう。どうかこの町で育った魂を受け入れてください。そう願いつつ、封筒を取り出して握りしめ、そっと扉を開けて中に滑り込んだ。
「わあ、すごい」
思わず声が出る。木造の小さな教会の壁に驚くほど立派なステンドグラスがはめられていたからだ。雲の切れ目から顔を出した太陽が、その色彩を鮮やかに浮かび上がらせる。様々な色の光が並んだ椅子や床に投げかけられれば、古くて簡素な作りゆえに辺りはより幻想的な雰囲気を漂わせた。
「そっかあ。こんな綺麗さを知ってたら、帰る場所はここがいいかもって思うよね」
私は窓際のテーブルの上に水色の封筒をそっと置いた。そこには大きなノートが開かれていた。訪れた人たちが思い思いに書き綴っているようだ。こんなに美しいステンドグラスがあるのだ、もしかしたらこの教会は密かな観光スポットなのかもしれない。
しばしその幻想的で荘厳な雰囲気の中に浸っていると、何も言わずにいるのはどうかと思われた。私は次のページを開き、「帰りたがっていた魂をお連れしました」と書いた。名前は書かなかったけれど、日付だけは残した。今日無事にここに辿り着けたことを、ちゃんと留めておきたかったのだ。誰のために? 何のために? わからなかったけれどそうすべきなのだと感じていた。
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