ドッグタグ

クララ

生きてるから、伝えたい1

 学生時代のボーイフレンドに呼び出されたのは午後のダイナーだった。懐かしい名前に心が震えた。

 男女数人でつるんでいた仲間の一人。何一つ口には出さなかったけれど、その横顔が大好きだった。声も仕草も、ふとした笑顔も。けれどそれだけだ。自分たちの均衡を崩さないためにも、私的な一歩を踏み出すべきではないと思っていたのだ。

 いや、それは言い訳……。踏み出したところで何も変わらなかったかもしれない。けれど私には、それこそが怖かった。そうなればきっと、彼のそばにいることはできなくなる。それだけはごめんだった。だから私は選択した。踏み出さないこと。変えないこと。長く彼のそばにいるために、いつもと変わらない笑顔の下に何もかもを封じること。それで十分だと、私は自分を納得させたのだ。

 

 あの頃、映画だ買い物だと、はしゃいだ後のダイナーは私たちのおきまりのコースだった。パンケーキを分け合って、コーヒーを飲みながらするたわいもない会話が、今もまだ鮮やかに私の中に残っている。

 一見時代遅れなようでいて、けれどその古臭さを求めて多くの人が集まる場所は今も健在だ。私たちはみんな変わってしまったというのに、ダイナーだけは変わらずそこにあった。週末はきっと賑わっているのだろう。けれど昼のピークも過ぎた今、店内に人影はなかった。

 

 相変わらず山盛りパンケーキを前に彼は座っていた。私を見つけて片手を上げる。その時一緒にくいっと唇の片側が上がる癖はあの頃のまま。午後の光の中、一見酷薄そうな顔は、いつ見ても悔しいほどに綺麗だ。

 何度それを盗み見したことか……。急に遠い日に引き戻されたような気分になった。どうしたのだろう。いけない、いけない。すべてはもう、卒業とともに遠くなってしまったもの、過去のこと。そう自分に言い聞かせながら、私は彼が座る席へと歩いた。


「久しぶり。珍しいね。どうしたの、休暇?」


 私は努めて明るい声を出した。あなたの顔を見てしばし感傷的になりましたなんて、そんな気配を微塵も感じさせないために。矢継ぎ早の私の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼はお行儀悪く、パンケーキの山の頂上から盛大にメープルシロップをかけ流した。


「頼まれて欲しいものがあって。あ、好きなものなんでも頼んでいいよ。俺、おごるから」


 私の挨拶に答えることなくそう言った彼は、蜜だらけの山に挑戦的な目を向けた。きらめくナイフが差し入れられる。格闘か? 混戦か? いや、それは見事な圧勝だった。惚れ惚れするような手際の良さで切り分けられた柔らかな断片が、瞬く間に減っていく。そしてそれは、私のカフェラテが届く前にはすっかりと姿を消した。


「で、何を?」


 満足げにナプキンで口を拭う彼に私は聞いた。


「俺の代わりに持って行ってもらいたいものがあるんだ」


 彼は脇に置いてあったものに手を伸ばし、私へと差し出した。それはエンボス模様も美しい水色のちょっと大きめの封筒だった。ご丁寧に蜜蝋の封までされていて、特別なものなんだと一目でわかる。けれど、その品の良さは豪胆で野生的な彼には似合わず、私はふと背筋に冷たいものを感じた。促され、そっとそれを受け取れば、かちゃりと封筒の中で金属音がした。


「ドッグタグだ。相棒が死んだ。故郷に持って行ってやろうと思ったんだけど、急な任務が入って行けなくなった。だけど、これ持ったまま、俺まで潰れたら浮かばれないなあと思っ」

「待って! 待って……何それ」

「そんなに驚くか? 今更だろ? 誰だってわかってることだ」

「だけど……」


 私たちの国には軍が有り、未来を想像できない若者も、未来を掴み取りたい若者も、どちらもがそれを見つけるために入隊することは珍しいことじゃない。現に、彼をはじめクラスメイトの何人かは卒業後にその道を行った。けれど、見つけるために入っても、誰もがそれを見つけられるわけではない。

 彼にもまた彼なりの理由があったことだろう。入隊の動機は教えてもらえなかったけれど、穏やかな彼が戦うことを選んだことは少なからず私を驚かせた。しかし本人が決めたことなのだ。部外者である私に口を挟む権利はない。心の中は荒れ狂う嵐みたいにあれもこれもが飛びかっていたけれど、私にできたことは「気をつけて」というたった一言を声にすることだけだった。やっとのことで紡ぎ出した言葉とともに、その背中を送り出して久しい。

 

 この国はいつだって戦っている。それは命のやり取りで、今生の別れを意味すると言っても過言ではない。けれど私たちは少しずつ少しずつ、その事実を忘れてしまうのだ。身近に感じない死は、いつしか遠いものとなってしまう。

 彼の入隊にあれほど心裂かれるような痛みを覚えたというのに、私もまた麻痺してしまっていたようだ。彼の口からこぼれた言葉に途端不安が膨れ上がり、忘れかけていた痛みを取り戻し、私は平静ではいられなくなりそうだった。


(相棒が死んだ? 俺まで潰れる?)


 彼が今、どこにいて何をしているのかは機密事項だから知る由もないけれど、それにしてもひどすぎる。あなた死ぬ気なのって言葉が喉まで出かかって、必死でそれを飲み込んだ。

 死ぬつもりなんてあるわけない。だって事実、彼はこのタグを持って行きたかったのだから……。けれどそれが叶わないかもしれないと思い、律儀にそれを託そうとしている。


「だったらあなたのタグはどうするの……」


 思わず小さな声で呟けば、聞こえなかったのだろう、彼は首を傾げて不思議そうに私を見た。そこに悲壮感はない。私が動揺して、彼を混乱させてはいけないのだと思った。私はゆるゆると頭を振り、小さくため息を吐き出した。


「どこへ持っていけばいいの? でも、その約束を果たせた時には報告がしたいわ。ちゃんとまた私に会いに来てくれる?」

「ああ、いいよ。約束する。ありがとう。助かったよ」


 彼は嬉しそうにそう言うと微笑んだ。その顔を見て、彼が求めていたものはきっとこれだったのだろうと私は確信した。あの頃と同じように平坦に、そういつもと変わりなく、彼のお願いを聞いてあげられたことに私は心の中で安堵する。

 

 それから私たちはたわいもない話をした。懐かしいあの時代に戻ったような気分を感じずにはいられなかった。特別じゃない時間がこれほどまでに特別なことに、胸の奥が痛くてたまらなかった。

 おかわりのコーヒーを彼が流し込んでのち、私たちは立ち上がった。短い逢瀬だった。それも他人の命を仲介にした、なんとも奇妙な時間。

 それでも彼は約束をしてくれた。けれどわかっている。その約束が守れるとは一言も言っていない。私は笑顔で手を振りながら、その事実に打ちのめされそうになっている自分に気づいた。

 私は、そんな自分を心の内で強く叱咤した。私も彼も再会を望んでいるのだ。それだけでいい、今はそれで良しとしないと。


 戦いは前線だけで起こるわけじゃない。彼の心配をしている自分が明日消えてしまうことだってある。いつどこで何が始まるかなんて誰にもわからないのだ。だから私たちには、個人データを全て入力したチップの装着が義務づけられている。街で働くだけの私の手首にもそれは埋め込まれているのだ。

 どこに入れるかはその人次第。盗まれないためにも場所は口外しないことになっている。もしもの時には残された遺体から、政府の持つ特殊装置で分析される。残念ながらそれができない時もあるけれど、状況や遺留物などからも個人の特定はある程度できる。

 タグなんて、昔々にもてはやされたものだ。データ挿入が推奨され、そのスマートさがもてはやされた挙げ句、見向きもされなくなった。もうずっと前に無用の長物となっているのだ。

 

 けれど、感受性が豊かすぎて暴走しやすい、メランコリー世代と言われた私たちが、多くの場で活動の軸となってきた昨今、タグは再び脚光を集め始めた。

 学生時代、私たちはいつだって生きている意味を知りたいと思っていた。感じたかった。求め焦がれた。そんな私たちが社会に出て、責任を負って戦い始めた今、激務の中で誰もが再び生きる意味を見つけたいと思ったのだ。そしてそれを感じるために手に取った。それがドッグタグ。

 何かが入っているわけではない。名前と生年月日と小さなメッセージが刻まれたアクセサリーのようなもの。それでも胸にかければじんわりと、その金属は熱を持つ。たったそれだけのこと。けれどそれが、自分がまだ生身の人間だと教えてくれるのだ。それは私たちに命を感じさせる形だった。もちろん私の胸にも光っている。


 そんなタグを届けるのだと想うと切なくなった。顔も知らないその人のためにできることをしてあげたいとそう思った。一緒に手渡されたメモを読めば、それは初めて見る町の名前だった。

 中西部の山あいの小さな田舎町。特産物も町おこし的な何かがあるわけではなさそうだ。と言って、広大な農場や牧場があるわけでもない。何をして人々は生きているのか、疑問に思うような平凡な町だった。

 

 しかし週末に気軽に行くには少し遠すぎた。これは少々厄介なものを預かったと思ったけれど、心のどこかでこの強引な頼まれごとに感謝している自分がいた。もう数年、ろくにバケーションなんか取っていなかったからだ。いい機会なのかもしれないと思った。

 それでもすぐには無理だ。業務に支障が出ないように、私は前倒しで仕事を片付けていく。もちろん、せっかく遠出するのだから観光だってしたい。「私が疲れ切って、このまま辞めてしまったら困るのはボスなんですよ」と渋る上司を半ば脅しつつ仕事をした結果、私は二週間の休暇をもぎ取った。

 











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