うんこ君が壊れた
加藤 航
うんこ君が壊れた
「うーーーーーーーーーーーん!」
ある日の午後。静かな数学の授業中のことだった。
突如、教室全体に
まさに青天の霹靂。
午後のまどろみに落ちかけていた男子も、机の下でこっそりスマホをいじっていた女子も、チョークと教科書を手に授業を行っていた先生も、そしてもちろん私も。漏れなく全員が雲高君に注目した。
雲高君の席は教室中央の一番後ろだ。
南の窓際最前列に座っていた私は他の大勢がそうしているように、腰と首を回して雲高君へと顔を向ける。
全員の視線が雲高君に集まり、静寂が教室を満たした。教祖からのお告げを待つ信者のごとく、期待と不安の入り混じる奇妙な一体感。誰も次の出来事を予想できない。どうなるんだろう。何が起こるんだろう。いや、何が起こったのだろう。全員がほとんど同じ思考をしていたのではないかと思う。ものの一秒そこらの時間で、雲高君は教室全体を精神的に支配することに成功したのだ。
雲高君は立ち上がっていた。立ち上がったまま、教室全体をゆっくりと見渡す。全員の視線が自分に集まっていることを確認していたのだろうか。
雲高君は小さく頷いて、言い放った。
「こ」
満面の笑みで、たった一言。
言い終えて満足したのか、雲高君は椅子に座ってペンを持つと、平然と黒板へ向き直った。まるで最初からそうしていたかのような自然体で、教室のすべてを置き去りにしていった。この静かな混乱も混沌も、全て自分の成したことだとは思っていない風であった。
対する私たちは、授業に戻るどころではない。雲高君が仕掛けた魔法がようやく解けかかると、教室のあちこちで小さな騒めきが起こり始める。
「え? なに、なに?」
「ちょっと、え? うんこ?」
「あいつどしたの?」
先生もポツリと「雲高、お前どうした……」と言った。
先生が呆気にとられるのも無理はない。雲高君は入学以来、真面目一徹。髪型から制服の着こなし、どんな些細な校則もカッチリ守り、宿題や提出物を遅らせたこともない。もちろん授業中の私語などもってのほかだ。
雲高君と小学校から同じだという友人から聞いた話では、そうした傾向は小学校のころからずっと続いているらしい。家庭の教育方針も影響しているようであるが、一般に多くの男子生徒が幼少の頃に通ってくるであろうくだらない下ネタなど、無縁の存在であったのだとか。
それがいきなり「うーーーーーーーーーーーん! こ」である。しかも授業中に。混乱するなというほうが無理だ。悪ふざけの度合いをロケット噴射で十段階くらいぶっ飛ばしてきた。
教室の騒めきはさほど長くは続かなかった。雲高君と悪ふざけをしたことのある人は、この教室には居ない。今回の出来事をネタにしていいものか、全員が雲高君との距離感を量りかねていたのだろう。皆の心に確かな足跡を残した雲高君は、その日の終わりまで平然と授業を受け続けていた。
*
雲高君の奇行はその一度にとどまらなかった。
翌日も、翌々日も、雲高君は「うーーーーーーーーーーーん! こ」を実行した。
行われる授業や時間は毎回バラバラで、誰も予測できなかった。代り映えしない学校生活に吹き込んだ一陣の風を、生徒たちはしばらく楽しんだ。
だが、人間の慣れは意外と早くやってくる。冷静になってみれば、こんなくだらないことはない。彼の奇行はクラスメイトから徐々に煙たがられ始めた。
皆が半ば眠りかけのような授業中ならまだしも、全員が興味を持って授業に集中しているときでも、教材のビデオを視聴しているときでも、大切な小テストの最中でも、昼食中でも、掃除中でも、果ては校内合唱コンクールの練習中でも関係なく、雲高君は「うーーーーーーーーーーーん! こ」を、ぶちまけた。
空気を読まず、加減もしない。それは、まるで失われた子供時代の下ネタ期間を取り返しているかのように見えた。
「いい加減にしろよ」
「うるせーんだよ」
「ほんとうざい」
「何考えてんの?」
やがて雲高君は「うんこ野郎」とか「うんこ君」とか呼ばれるようになった。
彼の苗字の読みから連想されるように、小学校の頃にも同じような仇名でからかわれたことはあったようだ。それは雲高君には非の無いことであったが、今起こっていることに関しては自業自得と言わざるを得ない。自分から名乗りを上げているようなものだ。
そして卒業式。高校生活最後の日。
式の後に行われた最後のHRの最中、雲高君はド派手に「うーーーーーーーーーーーん! こ」を済ませると、クラスメイト達の怒りと悪態を背に受けながら教室を後にした。
ここで見送ったら終わりだ。
私は意を決すると、友達が止めるのも聞かずに教室を飛び出した。
昇降口で雲高君に追いつく。
「雲高君!」
彼は足を止めると、こちらを振り返らずに言った。
「僕のことをそうやって呼んでくれるのは、もう君だけだね」
当たり前だ。誰が何を言おうと、私は彼のことを「うんこ君」なんて呼んだりしない。だって、だって私は。
「雲高君のこと、好きだったから」
「だった。か」
「うん……」
「こ」
「ふざけるのはやめて」
過去形になってしまうのは仕方がない。
私が好きだったのは真面目で、何事にも動じない、まっすぐな雲高君だったから。雲高君の豹変に一番困惑したのはクラスメイト全員の中で私なのだと、自信を持って言える。
「ねえ、雲高君。あなたはこれからどこへ行くの?」
「うんこの行くところなんて、決まってるじゃないか」
雲高君の視線が動く。その先にあったのは。
「トイレ」
「そうだ」
彼は下駄箱へ向かうのではなく、昇降口から最も近いトイレへと歩み始めた。
「じゃあね。最後に君と話せて、よかったよ」
雲高君は最後まで私のほうを見なかった。男子トイレへと消えていく彼を、私は黙って見送ったのだ。それが、彼の姿を見た最後である。
*
時は流れ、学校を卒業した私は下水道に関わる仕事をしている。
都市の地下を流れる下水に入り込む、きつい現場の仕事だ。
女に続くわけがないと誰かが言った。しかし、そんな薄っぺらな言葉は職務への態度で全て打ち払ってきた。だって、私には確固たる目標があるから。
あの日、男子トイレへと消えた雲高君は、きっとうんことして下水に流れ、今もどこかに引っかかっているに違いない。私はそれを見つけるためにこの仕事に就いたのだ。
私は彼を絶対に見つけ出さなければならない。そうして言ってやるのだ。トイレに紙と排泄物以外の物を流しちゃいけないと。人間自身を流していい道理など存在しないと。
馬鹿みたいに聞こえるかもしれないが、私は大真面目にそう思っている。
うんこ君が壊れた 加藤 航 @kato_ko01
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