鳴かない猫に、あの日を想う

サトウ・レン

鳴かない猫に、あの日を想う

「ねぇ。そろそろ聞いてもいいかな。ここに来た理由」と夫が私に聞いた。


 その言葉に私はどきりとする。


「いたんだ。いるなら、そう言ってよ」



     ※



 これはまだ私が少女と呼ばれる年齢だった頃の話だ。私は両親に連れられて、もう今となっては亡くなって久しい祖父母が暮らす山梨にある小さな集落を、年に二回ほど、訪れていた。父親の運転する車の後部座席に座って、窓越しに見た農道の周囲の景色は、幼い私にはとても味気なく、惹かれるものひとつなかったはずなのに、今となっては澄んだ風情のあるものに思えてくるから不思議だ。


 子供ながらに抱く祖父母の印象は好対照で、無口で厳格な祖父とおしゃべりで穏和な祖母は似合いの夫婦だったのだろう。だろう、と曖昧な言葉になってしまうのは、当時の私がふたりの関係を怖いと感じていたからだ。おしゃべりな祖母が祖父の前だと口数がすくなくなり、無口な祖父は祖母の前だと言葉数が多くなった。私の両親がわりとフラットに物を言い合う関係だったので、余計にその関係が冷えて見えたのかもしれない。


 祖父母がふたりで住む家屋は、薄暗く、外壁の塗装がところどころ剥げていることもあり、正直に言えば気の滅入るような雰囲気を全体的に漂わせていた。


 あれは祖父の死の一年前だったはずだ。


 外に干された洗濯物が風でぱたぱたと揺れる夏の暑い一日で、汗が拭っても拭っても額からつたい落ちてくるその暑さがやけに記憶に残っている。


 両親の話の断片から祖父が重い病気に罹っていることは知っていたが――それを肺がんと知るのは私が大人になった後の話だ――、まさか一年後にはもう会えなくなってしまうなんて想像さえしていなかった。


 普通に動いて、普通に生活している。それだけで、病気、と聞いていても、「あぁ全然、元気だ」と能天気に思えてしまうほど、当時の私にとって死はどこか遠いものだった。


 そもそもそれまで周囲の死を経験したことがなく、死、を身近な出来事として感じるすべがなかったのだ。


 あの時が最後になる、と知っていたら、もうすこし話してみたかった。すくなくともああいう別れ方は選択しなかったはずだ。


「勝手に入るな!」


 物置代わりにされている離れの小屋で、そう私は祖父に後ろから怒鳴られてしまい、そして大声を上げる祖父を見たのが初めてだったこともあり、恐怖だけでなく驚きも相まって、私は祖父から逃げるように、その場から離れてしまった。庭に着いたところで、息切れとともに悲しみが胸に込み上げてきた。


 なんで、あんなこと言われないといけないの……!


 もやもやとした悲しい気持ちを抱えると同時に、後ろめたいような気持ちも実はあった。


 祖父から直接言われたわけではないが、その年、祖母や両親から「お祖父ちゃんが使ってる離れの小屋には行っちゃだめだよ」と強く言われていたのだ。行くな、と言われると、余計に好奇心が強まって、ついつい中に入ってしまったのだ。


 誰が悪いか、と言えば私が悪いに決まっている。


 だけどそこまで言われる筋合いはない、ちょっと中を覗いただけじゃん、と理不尽に感じてしまうのも、それはそれで素直な子供心だったのかもしれない。


「どうしたの? そんなところで――」


 と明らかに祖母と分かる声が頭上に聞こえて、見上げた私の顔の異変に気付いたのか、「うーん」と言った後、肩に掛けていたタオルを私の目もとに当てた。


「わっ」


「汗臭いけど、我慢してね」


「うん……」


 タオルを離しながら、「何があったの?」と祖母が聞く。いつもよりも優しい声音を意識するような祖母の言葉が自然と私の口を開かせた。


「実は――」


 うまく伝えられないもどかしさや約束を破った後ろめたさを含んでいるせいで、ひどくつっかえながらも、私が先ほどまでの祖父とのやりとりを伝えていると、その途中で祖母が、くすり、と笑った。


 ちょっと腹が立って祖母の顔を見ると、「ごめんね」と祖母が私の頭を撫でた。


「ねぇ、ちょっとこっちおいで」


「何?」


「まぁいいからいいから」


 そう言って祖母に手を引かれながら、連れて行かれたのは二階にある祖母の自室だった。畳敷きのその部屋の本棚には難しそうな本がいっぱい並んでいて、文学少女だったという祖母らしい空間なのだが、そこに違和感を添えるように、猫の飼い方の本が置かれていた。


「ねぇ――」


「実は、ここから屋根裏に行けるの。知ってた?」と私の疑問をさえぎるように、祖母が楽しそうに言った。祖母が細長い棒のようなものを持ってきて、天井にくっついた取っ手の部分に掛けて引くと、はしごが現れ、「ほら、すごいでしょ」と笑う。


 はしごを上っていく祖母に付き従うように、一歩、一歩、ゆっくりと足を上へと進めていく。みしり、と鳴る音が不安を誘い、祖母は平気なのだろうか、と不思議だった。


「悲しみが晴れるように、お祖母ちゃんがとっておきの秘密を教えてあげる」


 予想は付いていたけれど、屋根裏の秘密は、一匹の猫……黒猫だった。


 その猫は鳴き声ひとつ上げることなく、じっと初対面の私を見つめ、そのまなざしに、すこし緊張を覚えた。


「猫?」


「そう、いつの間にか屋根裏に勝手に住み着いててね。初めて見た時、思わず大声上げちゃったわよ」と朗らかな祖母の声が、私の心を落ち着かせていった。「追い出したくもなかったから、飼うことにしたの。この子ね。鳴かないんだ」


「お祖父ちゃんは知らないんだよね」


「もちろん。だからお祖父ちゃんには内緒」


「うん……」


 祖父が激しい動物嫌いだということは、父のエピソードを通して知っていた。父がまだ幼かった頃、捨て猫を拾って飼いたいと言うと――おそらく先ほどの私の比ではないくらいに――怒鳴られ、それから数日、まったく会話のない冷戦状態が続いたらしい。その捨て猫は結局父の同級生だった子が受け取り、やがて冷戦は時間によって自然と解消されたそうだ。


 そんな話を知っていたので、やはり猫の顔を見ながら祖父の顔がちらついた。


「……まっ、お祖父ちゃんも、なんとなく気付いていると思うけどね。いくら広い家でふたり暮らしだからって、本気で隠して飼うのはさすがに無理がある。不器用だからなんて言っていいか分からないだけ。きっと仕方ないって思ってるけど、それを私にどう伝えたらいいか分からないのよ。口下手だから。あなたのことも、そう」


「私のこと?」


「別にお祖父ちゃん約束を破ったから怒ったわけじゃない、と思う。あそこには鎌とか鋤とか色々と危ないものが置いてあって、今、整理中だから……。危ないって言いたかっただけなんだよ。これは自信ある。だってどれだけ一緒にいた、と思ってるの。ああ見えて、意外と分かりやすいんだから……ううん、それどころか、あんな分かりやすいひと、いないと思ってる」


 私にとって祖父は口数のすくない分かりにくいひとだった。だから祖母のその言葉がすんなりと腑に落ちたわけではないけれど、それでも祖母がこうやって祖父について語っている姿を見て、嬉しくなった。怖い雰囲気に思っていたふたりの関係が良好だったという手掛かりを見つけたような気がして……。


「大好きなんだね」


「お祖父ちゃんのこと?」私が頷くと、「うーん。大好きって言ってしまうのは、それはそれで負けたような気がするから癪に障る、というか、なんというかね」と苦笑いを浮かべて、私はその表情に首を傾げていた。私自身が想いを共有する他者との生活を経験した今なら、その関係が一言で片付けられないものだとよく分かる。


 黒猫がそんな私たちの姿を声ひとつ上げることなく眺め回した後、音も立てずに、ゆっくりと私たちのほうに近付き、祖母のあぐらの中心でつくられる小さな穴にすっぽりとはまった。その穏やかな表情は、柔らかそうな黒毛を撫でる祖母の手を気持ちよく受け入れているように見えた。


 その日、私は何度も祖父に謝ろうと試みたのだけれど、実際に謝罪の言葉が私の口から出ることはなかった。祖父を前にすると、怒鳴られた時のイメージがよみがえってきて、また、いつか、と思ってしまったのだ。


 そのいつかがやってくることはなかった。


 その翌年だった。


 祖父が死んだのは。祖父の死を聞いた時、最初に私の頭に浮かんだのは、祖母の悲しみに満ちた表情だった。


 だけど……、


 祖母が祖父の死をはっきりと認識できたかどうかは正直なところ分からない。その一年の間に祖母は認知症と診断され、それが急激に進んだこともあり、祖父よりも先に家を離れ、介護施設で祖父の死を聞かされたからだ。



     ※



 祖父の葬式を終えてすこし経った頃、無人となった家に最後に訪れたあの日、私は新たな飼い主さえも失ってしまった黒猫のことが気に掛かり、父にお願いして祖母の自室にある屋根裏のはしごを下ろしてもらった。


 だけどそこに猫の姿はなく、住んでいた形跡のみが残っていた。あの日にはそこに置かれていなかったはずの、猫の飼い方の本が埃まみれになっていた。その本を見ながら、猫を前に悪戦苦闘する祖父の姿が頭に浮かんだ。


 猫がいないのは当然かもしれない。


 よすがとするものを失っても自らの生は続けていかなければならない。それは猫の一生も、


 ――。


 帰り際の陽は橙に染まり、肉体的によりも精神的に疲れた身体を車の後部座席に乗せようとした時、猫の鳴き声を聞いた。


 その声のほうに思わず目を向けたけれど、そこに私が望んだものは何もなかった。


 それでも確かに鳴き声を聞いた。空耳かもしれないけれど、私が空耳という事実を信じていない以上、それは確かに、あった、のだ。そして、その鳴き声があの黒猫のものだ、とすくなくとも私だけは確信している。



     ※



「ねぇ。そろそろ聞いてもいいかな。ここに来た理由」と夫が私に聞いた。


 その言葉に私はどきりとする。


「いたんだ。もう、いるなら、そう言ってよ」


 二十年近く経って訪れたその場所に家が残されていることはもちろんなく、それはすでに知っていることだった。


「もう更地になっちゃったけど、この家についての記憶が一番薄いのは私だけど、覚えているのは、もう私だけになっちゃったから」


 そこには塗装の剥がれの目立つ一軒家がかつて確かにあった。無口な祖父がいて、おしゃべりな祖母がいて、夏の陽光に照らされたシャツがあり、私の涙を覆い隠したタオルの汗のにおいがあり、鳴き声ひとつ上げない猫の姿があった。


 もうそれらが今ある光景として形作られることはない。


 だけど残されたひとたちの中で、ふたたび形作っていける。記憶という形で作られるそれはあの頃とは違った姿をしているかもしれないけれど。気付くのが遅すぎたかもしれないけれど。


 それでも――。


 父も、母も、そして――――、


「あれ、もしかして昔ここにあった家のお孫さん? 間違いだったら、ごめんね。あっやっぱり合ってた? 良かったぁ。いやね。なんかお祖母ちゃんに似てすごく綺麗な子がいるから、もしかしたら、って思って。どうしたの、


 にゃあ、と聞き覚えのある鳴き声を背後に受けながら、


 振り返ることはしなかった。その必要はない。


 過去を振り返ったのは、過酷な今に、静かにあらがうためでもある。


 それでも私の人生は続いていく。


 

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