エピローグ

 本社での三ヶ月間の研修期間が無事満了となり、今はわずかな懐古かいこに胸をくすぐられながら、先の連休を利用して引っ越しを完了させていた希望の勤務地を歩いている。片手には一升瓶を下げているが、いくら標高が高いとはいえ例年よりも更に早く紅葉が見頃を終えたせた山に、せめてあと二週間早くこちらに来られればもう少し美味しく飲めただろうに、とちょっとだけ悔しい思いをさせられていた。まあ日本酒の味など僕にはどれも同じに感じるわけだけれど。そんな酒を飲まない僕が一升瓶を持つのは、選別として本社のみんなからいただいたからだった。

 届け出が受理された希望の勤務地はクチナシ村だったので、会社のみんなとはしばしのお別れだ。自分の正確な年齢は分からないが、この年代になってようやく、花束を受け取る際には涙が止まらない、ということを学んだ。

 一度は少しだけ付いたと思われていた体力も、三か月間のデスクワークのおかげで全くなくなっていて、階段の中腹辺りで早くも太ももが、ピークの発電をする太陽光発電所のパワーコンディショナーシステムみたいに高熱を訴えかけていた。ほとんど四つん這いに近い体勢で階段を上り切り、水平の地面のありがたみを噛みしめながら、奥の村長宅へ近付いた。

 ヘイワとは昨日の夕方にカフェで挨拶を済ませていて、今は村長宅が留守であることは知っていたが、どうせ道中だったので、念のために玄関に立って中へ声を掛ける。しばらく待ってみたが、案の定何の返答もない。特に残念とも思わず、一礼だけして村長宅の裏手に周った。

 建物と山の隙間わずかばかりの歩道があり、それまで散乱していた冷たくて乾いた空気が方向を統一させた風になって熱を持った身体を急速に冷やしていく。襟元を顎に寄せて少しでも放熱に抵抗しながら進むと、更に上に続く階段道の入り口が現れた。寒さだけでなく面白いくらいに微振動をしている太ももの事情もあり、頭がその一段目への踏み出しに断固として拒否の構えを取っている。仕方がないので、階段道を背にしてその場にしゃがみ込み、できるだけ身体を丸め、村長宅の裏側の面白みのない風景を眺めながら休憩をとった。こんなことなら先程階段を上り切った場所で休憩をすれば良かったと後悔する。そちらならばここよりは少しだけ目が楽しめるし、風も多少は柔らかかったからだ。とはいっても、景観に関しては、葉が落ちて空が見える面積は夏に比べて増えたが、わざわざ残量少ないエネルギーを消費してまで移動する価値があるほどの絶景を臨めるわけではない。

 クチナシ村は、衛星にも映らないように、わざと森を拓かず森に隠れてひっそりと存在していた。

 ヘイワか、あるいはウンモは、至高会の暗躍部隊をおびき出すためクチナシ村の存在を公にする、という時にですら、仮設のクチナシ村ひとつをこことは全くゆかりのない山に作ってでもあくまで隠里であるべきとしてこの村を守っている。だから、この村はずっと、外界の無粋に触れず、不条理やら理不尽に晒されず、時間が止まったままだった。

「今頃オジさんとかカミナガとか、血眼になってヘイワさんのこと探してたりするのかな……」まさか未だに陸の孤島から脱出できずに仮設クチナシ村に住み着いたりはしていないだろうな。と、愉快な気分になる。

 もしそうだとすると、島流しのような仕打ちを受けたミカヅキの、もといミカヅキの苦しみを過剰にトレースしたウンモの、復讐は本当の意味で成就したと言える。同じような苦しみを味わわせたい、という思いがあって三ヶ月前の計画の内容が決められたと考えるのが妥当だからだ。ただ、わざわざ台風被害を復旧してまで住居の品質を人が住める状態に保とうとしていたのは、ウンモの人の良さが反映されていた。

 一方で、シュウが手に入れた至高会の裏側の情報をインターネットやテレビ、雑誌、新聞などの各メディアに片っ端から放流した手際には容赦がなかった。アザミが逮捕されて至高会が実質崩壊したという報道を目にした時には、最恐の人物ランキングのトップだったオジを降格させ、ウンモをそこに据えることにした。

 オジの顔を浮かべながら、きっと、と思う。

 きっと、至高会の中にも、悪い人間ばかりではなく、良い人間もいる。当たり前すぎて忘れてしまいがちだけれど、そういうことなのだ。至高会の中の良心は何十人いただろうか。何百人だったろうか。それともそれ以上の、何千人の人生に影響を与えた、のかもしれない。それでもまあ、ウンモが計画を立てた動機は僕も有無を言わずに全面的に賛成だ。何より、至高会の噂話に出て来た多くの被害者たちと、この後も産出され続けていたかもしれない被害者たちを救うことができた。そう思えば、精神のバランスは容易にとれた。


 風は落ち着く様子がなかったが、太ももの機嫌は直ったので、立ち上がって振り返る。意を決して、初段目に足を伸ばした。

 階段の全長は、集会所から村長宅までの半分くらいだったろうか。それでも、最後の一段を上り切った時には、風を気持ち良いと錯覚させるくらいに全身が再び熱を持っていた。喉が笛みたいになってテンポの速い音を鳴らしている。急激に体温が下がっていくのが分かるので、数秒後に必ず訪れる極寒を避けるために、裸の木々に囲まれちょこんとした小屋へ、なけなしの力を振り絞って向かった。

 小屋は、クチナシ村にしては珍しく、純和風の古民家ではなく、ログハウス風の、古いというよりかは自然味溢れるといった外観だった。木製のドアには透明なガラスがはめ込まれた小窓が施されてもいる。そして、引き戸ではなく、木の枝をただ打ち付けただけのドアノブが付いた開き戸だ。

 脈拍が平時よりも早いのは、階段を上ってきたからと、もう一つ理由があった。僕は、緊張している。ドアの先から人の気配を感じていて、ここに来て留守、という結末はなくなったからだ。自分の意志で、足で、ここまで来たわけだが、今更ながらに留守だったら良かったのに、などと少々複雑な心境だったりもして、オジにつけられたナイフの傷跡の上から何度も人の字を書いている。


 ドアの奥から何かが割れる音がした。

 転倒⁉ と焦り、一瞬だけ緊張が見えなくなった勢いで、ドアノブを引いた。蝶番ちょうつがいの錆のせいか、けたたましい音が、室内で作品の最後の仕上げをしていた父の気を引き、目が合った。

 僕の記憶よりも何本も多く皺が刻まれ、肌は浅黒くなり、髭は無精が短く生えているだけだが白髪が半分を占める長髪は後ろに束ねて毛先の方をくしゃくしゃに暴れさせていた。そして父は、記憶通りの、渋くて格好良い声だった。

「リ……キヤ、か?」

「……うるせえ。酒、飲みに来ただけだ」

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村を治める殺し屋、あるいは 野澤勇 @1363megane

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