The Blue Glass

つちやすばる

モリスの絵


 わたしの部屋には窓枠の高い窓があって、そこには物がいろいろと置ける。いまは鏡とグラスが置いてある。ブルーグラスだ。母がいつものきまぐれでどこかの店から買ってきたもので、それが父の持ち物になり、いまではわたしが夜に水を飲むときにつかう。途中でふくらみがあるデザインはモリスのものだ。たぶんそれをいまのデザイナーが採用したのだと思う。薬品入れのような濃い青色で、日に透けると濃い紫色になる。

 モリスのデザインよりも好きなのがモリスの絵だ。壁紙のほうはちょっといかにもな感じがして気おくれがする。モリスの絵はそんなにはない。少ないけれどとてもいいものがあって、もっと絵を描いていてほしかった。ジェインという彼の奥さんをモデルにした絵があって、重たい感じの肩と腰をした黒髪の女性が真ん中にいて、中世の赤い衣服と茶色い重厚な家具に囲まれている。タイトルはクイーングイネヴィア。


 どうして中世の装飾に、モリスが固執したのかはわからない。彼は有名な社会主義者で、当時大量生産に工芸技術が侵され始めるのを、危機感を持って守ろうともした。灰色の時代だったのだと思う。空気も悪いし、職人や一般の庶民は工場労働に吸い上げられ搾取されていく。悪いほうへ悪いほうへ病が循環してゆく。

 もちろんのことモリスは中産階級以上の出身であるし、大学にも行ったし、旅行にも出て、たっぷりと自分の仕事のことを考える時間もあった。親友のバーン=スタインが描いたモリスの似顔絵があって、そこには熊のようにずんぐりとした体形の横顔のモリスが描かれている。髪の毛も多くて髭も濃い。


 モリスが家族と暮らしたレッドハウスという、赤いレンガ造りの家がある。中世の暮らしをさらに質素に、現代風に簡便にした造りになっていて、モリスの理想が貫かれている。わたしはその写真を見た時、きちんとした暮らしのなかで、なんとか世界の良き面を保とうとするこころが感じられた。

 芸術というのはお金持ちに支えられてこそ成立する。議論の余地もないが、なんとか議論しようとするひともいる。その反駁と手遅れとなった様々な思いも伝わるし、そのことに嘘はないと思う。そうか、と思う。そこに固定され続けるのはきっとしんどい。


 一年前、町のリサイクルショップで、大仰なティーセットを見つけた。巨大なポットと巨大なミルク入れもついていた。誰がこんな大きなものつかうのだろうと思い手に取ったら、長崎の情景をモチーフにしてあって、どことなく日本の陶磁器をお手本に、灰色がかった薄青い色がなかなか綺麗だった。カップとソーサーは小ぶりでよかったので、数百円で買った。そのあとで骨董に興味がたまたま出だして、よく注意してみたら、そのカップは骨董だった。明治くらいにイギリスで作られたものだと思う。たぶん当時はそんなに高くなくて、日本趣味をさりげなく取り入れた流行りものだったと思う。きっと家族そろっての朝食の席に使われたのだろう。今はそんな大きな食器を使うひとはいないから、二束三文で町のリサイクルショップに置かれる。


 わたしは以前、もうごみだけでわたしたちは暮らしていけるのではないかと考えたことがある。ごみといっても、まだまだ使える状態でごみとして毎日投げ出されるものである。毎日毎日捨てられるもののなかには、見る人が見ればびっくりするぐらい貴重なものがあって、簡単に捨てられるからとか、もういらないからとか、場所がないからという理由で外に投げ出される。

 それなりに働けばお金のもらえる社会である。けれど、それなりの暮らしというのは難しい。銀行口座にお金はあるのに、ほしいものはお金で買えないし、デパートにもAmazonにも置いてない。びっくりするぐらい貧相な家と、貧相な家具に囲まれている生活が、いまは「まずまず」いい暮らしのほうである。これで気が狂わないほうがおかしいと思う。

 わたしは答えがほしいと思わないし、誰かに導いてもらいたいとも思わない。誰もが好きに振舞えたらどんなにいいかと思うけれど、わたしがそう思っていても、そうは思わないひとが大半かもしれなく、誰もが誰かに受け入れられるわけではないということも、よく知っている。

 不安が問題の中央に置かれて、どうしたらいいのかわからないという感じが、いまの世の中の風潮だと思う。そんなの誰にも永遠にわからないと思う。それを問題にするひとが不安なのだから。


 夢からさめたくない人をたたき起こすのが、本来の芸術の力である。あなたは夢を見ているんだと、正面切っていわれるのはつらい。そんなに長く生きていて、何も掴まずにこれからただ死んでいくのはつらい。だれだってそうだ。そんなものを突き付けられるなら、自分の世界からなくしてしまえと思うのが自然だ。

 もうそんなに芸術がすきなひとはいないのかもしれないなと、ときどき思う。本好きも絵が好きな人も、話を聞けば価値のはなしだ。すばらしいイメージの話ではなく。いまの自分にとって価値があるかどうかがすべてで、何かに対して無条件に膝まづくこともなく、価値から価値へとサジェストどうりに、自分の血管に、上等な薬を打ち込むことで、どうにかこうにか日々を渡る。上等な薬がいまや芸術である。

 スイートなアイドルが、画面のむこうで愛していると言う。わたしを押し上げて、と言う。僕らをセレブに。選ばれた人間になりたい。全然まちがってはいない。

 いつだって天使や女神を求めてきたのが人間の歴史だ。画家も詩人も天使についてたくさん賞賛と愛を贈っている。そうしてみじかな親しいひとたちのなかに、天使の影を探した。やってることは昔とかわらないかもしれないし、思いの後ろ暗さもそんなにかわらないかもしれない。


 モリスの絵に話を戻そう。彼のジェインが振り向きざまに、こちらに横顔を見せている。視線は合わない。たぶん彼女はいましがた起き上がったところだ。朝の支度の時間で、きっともうすぐ侍女が部屋にやってきて、寝室を綺麗にする。でも、これはフェアリーテイルだ。彼女はオックスフォードで生まれて画家のモデルの仕事をしていて、しばらくしてモリスと出会って画家とモデルの関係になった。すでに恋人同士だったかもしれない。

 豊かな黒髪と深い目をしていて、可憐とも違うし、美麗というほど光り輝いているわけではないが、なんともいえずうつくしい。粗末な椅子に座っていても、装飾のない服を着ていても不思議と絵になる。見る人を圧倒する佇まいが、彼女のいちばんの特徴だ。ジェインはラファエル前派の理想の女性像だったというけれど、どうして熱烈に彼らがミューズとして崇めたのか、後年の人間にはよくわからない。

 

 伝記的なエビデンスというのは、この21世紀にはたんまりとある。ラファエル前派の原動力は当時の英国王立芸術院の、伝統とパトネローゼに固執した、絵筆になんの力の宿っていない絵画に対する憤りと反発であり、ラスキンの「ベネチィアの石」に感化され、インスピレーションの源泉としたイタリアンルネッサンスの再輸入だ。この二つが底のほうにしっかりと根付いていて、スクールとして結束しながらも、それぞれ個々のテーマに進んでいったのが内実だと思う。(このようなエッセイスタイルの論考は、美術評論家たちからは唾棄すべきものとして忌み嫌われている。彼らは科学的に考えていくのを己の信条と、生きていくよすがとしているから)


 さいきん、ますますわたしは中世のイメージや美術に惹かれるようになった。もともとはゴシックの教会建築に惹かれたのが枝葉を伸ばして、いまでは中世文学の写本の、挿絵の色づかいと構図に、並々ならない執着を持っている。レンブランドやダヴィンチはすごいとは思うが、どちらというと素朴で実地に即した美術のほうが、こころ惹かれる性質のようだ。

 繰り返しと、限られた手法のなかでの芸術。それから繰り返しとわずかな変調の音楽。小説もきちんと下敷きがあるのがすきだ。伝統の言葉。個人の内的独白、新しい感覚などというのは、興味の対象外である。べつに好きにやってくれてかまわないが、せめて短くあって、新しい用語や固有名詞といったものをひねり出して、自分の説に引付けなくても、きちんと読んでくれるひとはいるのだから、そのまま降りてきた言葉を刻めばいいのだ。何もなかったら沈黙すればいい。その沈黙には重さがあって、あなたのすかすかのこころを満たしてくれるだろう。















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