第3話
四月か五月か、とにかく春のこと。
新入生歓迎会だったか部活紹介だとかで、生徒の一人が体育館の舞台の上で、ピアノを弾いたのだ。
それなりにキレイな音色なんだと思う。
春な上にそれなりの人数が入ってたから中は暖かく、徹夜で編み物やってたもんだから、眠くて眠くて仕方なくて……。
よく眠れた。
朧気な記憶ながら、隣に座ってた友人の織愛が、やけに目をきらきらさせてた、ような気がする。
その日の帰り道に、織愛が言ったのだ。
自分もピアノを弾いてみたい、と。
やりたいんだったらやればいいじゃん、なんて軽い気持ちで答えてしまい……。
気付いた時には、織愛はピアノを習い始めていた。
最初は週に一回、土曜日に行っていたけれど、ピアノの楽しさに目覚めた織愛は、もう一日増やした。週の真ん中、水曜日に。
小学校から高校まで、ほとんど毎日一緒に帰ってきたけど、ピアノの日は、私一人だけになった。
五日の内の一日がダメになっただけで、まだ四日もある。
これ以上は増やさない、と本人も言ってるし、ほんの一日我慢すればいいだけ。
……それでも、少しだけ淋しくて……。
あの日、適当に返事をしてしまったことを、ちょっとだけ後悔している。
◆◆◆
チクタクチクタク音がする。
私の腕につけた時計が、今夜も逆回りに動いている。
外にはつけていかない。
何で逆回りに動くのか、訊かれるのが面倒だから。
寝る前のやること全部終わらせて、ベッドに入る直前に、腕につけて横たわる。
普通の時計と同じ速度で、逆に逆に、針は動く。
それをぼんやり眺めていると、気分が落ち着いてきて、その内眠ってしまうのだ。
……淋しさはあるけれど、ほんの一日。
たまに織愛が、私のスマホにピアノを弾いている動画を送ってきてくれる。
聴くからに、見るからに、織愛は楽しそうで。
軽い気持ちで答えてしまったけど、反対しなくて良かったなと、そんな動画を見せられたら思うのだ。
「……おやすみなさい」
ほんと、私でも買える値段で良かった。
重くなった瞼が、針の動きに合わせ、ゆっくり、ゆっくり、落ちていく。
◆◆◆
「あなたの時計、一個売れましたよ」
四畳ほどの狭い和室。
そこに胡座をかき、こちらに背を向ける男に言った。
「可愛い可愛い女学生でした。ほんのささやかな後悔を抱えた」
「後悔にささやかもクソもない。寝言は寝て言え」
そんなことを言いながら、男は作業をする手を止めはしない。
毎日毎日、ひたすらそこで時計を作る。
逆回りの時計を。
「そんなことを言いに来たのか、若旦那。作業の邪魔だ、店に出てろ。まだ営業時間内だろう」
「どうせお客様は来られませんよ。所詮は僕の道楽なんですから、宣伝とかにも特に力を入れてませんし」
「若旦那、客商売ナメてるだろ」
「──そんな男に助けられた男が、何言ってるんですか」
男の言葉を鼻で笑ってやりながら、懐に仕舞っていた懐中時計を取り出す。
凹みや傷が目立つそれの、針の動きは──逆だ。
「こんなの道楽ですよ、何の役にも立ちません。時計は、正しい時を刻めばいい」
「だが、それに救われる奴だって少ないがいるし──それを面白がって俺を拾ったのはお前だろう?」
「それなりに楽しめるおもちゃを手に入れましたよ」
懐中時計を再び懐に仕舞い、後ろを振り返る。
「次のお客様が来たようです」
「なら、さっさと接客してこい」
「買うかどうか分かりませんよ? 僕はただ、あなた以外の方とのお喋りを楽しむだけです」
顔に笑みを浮かべ、僕は歩き出した。
「……やっぱり、ナメてやがる」
その返事に、何も答えずに。
チクタクチクタク音がする。
今日も変わらず、明日も変わらず。
それはもちろん、昨日と変わらず。
屋計時な妙 黒本聖南 @black_book
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