とある風吹く季節の出来事

木風麦

とある風吹く季節の出来事

 小学二年生のみなとは決意した。

 こんな家出てってやる、と。

 発端はほんの数分前のこと。

 宿題をやり忘れたことを黙っていたら、港の母親が鬼の形相で説教をしてきた。


「なんであんたはそう忘れ物が多いの!」

「仕方ないじゃん忘れちゃったんだからっ」

 港が反駁はんばくすると、母親はさらに眉間に皺を寄せて、

「ちゃんと反省してんの!?」

 と言ってきたもんだから、売り言葉に買い言葉。

「してるってば!!」

「してないじゃないの!今日の宿題はちゃんとやったの!?」

 怒りながら追及されるのが嫌で、

「うるさいっ!私の勝手でしょ!お母さんに関係ないでしょ!」

 と言い残し、家を出てきたのだ。

「こら!港っ!」

 そんな母親の言葉を聞き流し、ランドセルを背負ったまま近くの公園へと走った。



 公園にはベンチに一人女の人がいるだけだった。

 ふっ、と女の人が港を見た。

「港ちゃん、家出?」

 微笑を浮かべながら女の人が港に話しかけた。

「なんで港の名前知ってるの?」

 港が首を傾げると、女の人はクスクス笑った。

「だって、二人の声大きいんだもの。聞こえちゃうわ」

 おいでおいで、と女の人が手招きした。

「はい」

 と言って取り出したのは、港の好きなスナック菓子だった。

「うわぁ!いいなぁ」

「あげるわ」

 クスクス笑いながら女の人が言った。

「お姉さん優しいー。お母さんとは大違い」

「あら。そうなの?」

 お姉さんが美しい顔をこてっと傾けた。

「そうだよ。お母さんウザイことばーっかり言うんだよ。今日だって··········。」

 宿題のことを話すと、女の人は「それは、言い方の問題ねぇ」と人差し指を頬にあてた。

「港ちゃんは、お母さんいらない?」

 女の人が、ふっと目を細めた。

 黒い瞳が、感情を表していなかった。

 たじ、と後ずさる。

「··········いらなく、ない」

「あら、どうして?ウザイんでしょ?」

 女の人が笑みをたたえながら続ける。

「そんな嫌なお母さん、いない方がいいじゃない」

 すいっと女の人が指を動かすと、蛇口から水がぶわっと溢れ出た。

 その光景に港は目を丸くした。


 この人、本気だ。

 お母さんが消されちゃう。


「や、やめてっ」

 女の人の腕にしがみつく。

「お、お母さん要らなくないっ!そりゃ、喧嘩することもあるけど、でも、絶対絶対後から謝ってくれるし、美味しいご飯作ってくれるし、毎晩大好きだよって言ってくれるし·····っ私もお母さん大好きだから!!」

 港が泣きながら言うと、女の人がすっと手を下ろした。

「じゃあ、それを真奈まなに言ってあげて」

 女の人はふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、ポンポンと港の頭を撫でた。

「喧嘩別れなんて、駄目よ」

「ケンカワカレ?」

 きょとん、と港がオウム返しに尋ねると、女の人が寂しそうな笑みを浮かべた。

「人間ね、いつ、どうなるかなんてわからないのよ。」

 さ、もうそろそろ帰りなさい、と背中を押された。

「あ、お姉さん名前は?」

 くるりと振り返ると、女の人は笑って言った。

水希みずきよ。··········真奈に、あなたの言ってたこと本当みたいね、って、伝えてくれるかな」

 わけがわからなかったが、とりあえず頷いた。

 女の人は微笑を浮かべて家に帰る港を見送った。



「··········ただいまぁ」

 ギィ、と玄関を開けると、カレーのいい匂いが鼻腔をくすぐった。

「やっと帰ってきた」

 キッチンの前に立ったまま、母親は眉を寄せて苦笑している。

「··········宿題、ごめんなさい。あと、いろいろひどい事言って·····ごめんなさい」

 頭を下げると、母親は目を丸くした。

「·····港から謝るなんて、珍しいこともあるものね」

「だって、さっきのお姉さんが·····。」

「お姉さん?」

 と聞かれたので、公園での出来事を話した。

「あ、そういえば、あのお姉さんなんでお母さんの名前知ってたんだろ」

 と首を傾げる。

「あ、それとね、『真奈の言ってたことは本当だったわ』って伝えてって言われたんだよ」

 何のこと?と港が母親を見上げると、母親はカレーの火を消し、バタバタと玄関へ走っていった。

 ガチャっとドアを開けたが、やがてゆっくりと閉めた。

「·····お母さん?」

 訝しむ港に、港の母は泣きそうな顔で呟いた。

「··········お姉ちゃん」

 泣き崩れる母親に、港は狼狽えた。

「お、お母さんっ?」

 大丈夫?と背中をさすると、港の母は鼻を啜り、書斎へと足を向かわせた。港は素直にその後ろにつづく。


 港は、書斎へ入ることを禁じられていた。

 そのため、この時初めて書斎へと足を踏み入れたのだ。


 中にあったのは、仏壇だった。

 その仏壇に飾ってあったのは、

「え、お姉さん?」

 港は困惑し、血の気が引いていくのを感じた。

 あの、ベンチに座っていた女の人だった。

 くりっとした瞳と、目が合わない。

「ゆ、ゆーれいだったの?」

「そうね。··········水希って言ってね、私の姉で、··········あなたの、本当のお母さんよ」

 港の母親は、赤くした目を擦りながら言った。

「え?お母さんはお母さんでしょ?」

 何言ってるの?と港は泣きそうになる。

「私はあなたの伯母。黙っていてごめんね。あなたがもう少し大きくなったら話そうと思っていたんだけど」

 と、港の母──否、伯母は仏壇の前に座った。

「·····私は昔ね、死んだおじいちゃんに会ったことがあるの。でも、お姉ちゃんは信じなかった」

 あ、それがさっきの『言ってたことは本当だった』に繋がるのか、と納得する。

「·····港って名前も、お姉ちゃんが考えたのよ。どんな波が来ても、温かく迎え入れてくれるような子になりますようにって。·····これ」

 そう言って、伯母は一枚の写真を港に渡した。

 その写真には、生まれたての赤ん坊を幸せそうに抱く水希と見知らぬ男の人が写っていた。

「··········じゃあ、お父さんも本当のお父さんじゃないの?」

 港の言葉に、伯母は小さく頷く。

 港は、ぐっと何かに耐えるように俯き、顔を上げて真っ直ぐに伯母を見つめた。

「·····でも、お母さ……『お母さん』は、港のこと大好きだよね?」

「…………ええ」

 伯母は少しだけ気まずそうに、だけど笑みを浮かべながら小さく首を縦に振る。

「じゃあ、私はお母さんが二人いるね。他の子よりオトクだね」

 と満面の笑みで港は言った。

「私もお母さん大好き。水希お母さんも好き。だって、嬉しそうに私のこと抱っこしてくれてるもん」

 へへっ、と嬉しそうに笑う港を伯母は抱きしめた。

「·····うん」

 泣き笑いを浮かべて、伯母は言った。

「私も水希も、あなたのことが大好きよ」



──不思議な体験をした小学二年生の夏休みを、今もふと思い出す。


 大人になった今思えば、あの時どんな心境で真実を打ち明けてくれたんだろうって思ったりもする。

 なんで母親として接してくれたのかな、とも思う。

 でも、聞かなくてもいいかなと思えた。

 だって今、みんな笑顔で暮らせてるから。

 いつかまた会えたら、笑顔で言って欲しい言葉がある。

 毎日毎日、お母さんが言ってくれた言葉。

 元気にしてくれる、愛されていると実感される言葉──。




「大好きよ」



 風が、耳を優しく撫でた。


 つと後ろを振り向いても誰もいない。


 だけど確かに、あの時のお姉さんの声が聞こえた気がした。

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とある風吹く季節の出来事 木風麦 @kikaze_mugi

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