雨の日のミモザ

PIAS

雨の日のミモザ


 ぽつぽつ、ぽつぽつ。


 地雨の中、部屋に一人じっとしていた俺は、いつまでも止む事のない雨音に目を覚ました。

 時計を見てみると既に夕方の六時を過ぎている。

 せっかくの休みだというに、結局今日はなんもしてないな。

 残った時間に何かするか?


 そう考える俺だったが、どうもやる気が起こらない。

 もう、ステータス的にやる気ポイントがゼロになっているようで、いつもしている自炊すらする気にもならない。


 それも仕方のない事だ。

 降り止む事のない雨は、俺を億劫な気分にさせる。

 別に雨に濡れるのが嫌だって訳じゃない。あ、いや確かにそれも好きではないが、そんな事よりもっと精神的な問題だ。


 だが、そんな俺にも雨の日を待ちわびていた頃があった。

 そして今日みたいな雨の日には、決まって彼女の事を思い出す。

 それは、未だに俺の心に呪縛されたように、纏わりついて離れない。


 彼女と出会ったのは……、そう。

 もう何年も前の事だった。





◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 大学を卒業し、地元の広告代理店に就職が決まった俺は、新人として当時バリバリに働いていた。

 あれは……二十五の時だったから、入社して三年目の頃だったと思う。


 その頃は、イベント制作スタッフとしてあちこち飛び回る事が多かった。

 仕事は現地解散の場合も多く、帰宅時間は定まらなかったが、余り早く帰宅しても特にする事はない。

 なので、仕事が早く終わった時も街でブラブラと時間をつぶし、帰宅の通勤ラッシュを避けて、夕方六時頃に家に着くようにしていた。


 そんな夕暮れ時の帰宅途中のこと。

 駅から徒歩十五分程の場所に住んでいた俺は、折り畳みの傘をカバンから取り出し広げていた。

 これまでぐずついた空模様だったのだが、ついに堪えきれず、俺が下車した頃にはぽつぽつと雨が降り出していたのだ。


 その時、バサッ、という音が俺の耳に飛び込んできた。

 見ると、そちらには同じく折り畳み傘を開いていた女性の姿があった。

 まだ若い……二十代前半であろうと思われる女性は、そのまま徒歩で歩き出す。


 その横顔に少し見とれてしまっていた俺は、慌てて自分も傘を開き、帰路につく。

 雨の中を少し憂鬱な気分になりながら歩いていた俺は、すぐに目の前を歩く女性が、先ほどの傘を開いていた女性と同じことに気づく。


「…………」


 雨の降る中、まるで彼女の後をつけているかのように、同じ道を歩き続ける俺は、妙な不安感に襲われる。

 たまたま道が同じだけの事なのだが、あの女性に不信に思われやしないだろうか?

 急に振り向かれて、ハッとした顔をされて逃げだしたりしないだろうか。



 そんな事をぐるぐると考えながら歩いていた俺は、ようやく自宅のマンションのある通りに辿り着く。

 そこは裏通りの小さな路地で、車が二台かろうじてすれ違えるような幅しかない。


 見ると、彼女はその通り沿いにあるマンションへと入っていく。

 そこは俺の済むマンションの、丁度向かい側に建っていたマンションだ。


「お向かいさんだったのか」


 誰に話しかけるでもなくそう呟いた俺は、何か少しいい気分になりながら帰宅を果たした。






 それ以降も、帰宅の際に何度か彼女を見かけることがあった。それも、決まって雨の日だった。

 あの日、たまたま彼女を見かけて以降、気に掛けるようになったが、いつ頃からこの駅を利用しているのだろうか。


 名前は? 職業は?

 彼女を見る度にそんな疑問が浮かんでくるものの、自分から声を掛けるといった事はしていなかった。


 何故だろうか、と今改めて考えてみるも、特にこれといった答えは浮かばない。

 単に当時は仕事に一生懸命で、他の事にかまける余裕がなかっただけかもしれない。

 もしくは、彼女の持つ独特の空気に気圧されていたのだろう。



 ビシッと決めたスーツに、肩先まで伸びるロングヘア―。

 切れ長の目と涼し気な顔立ちは、美人ではあるがどこか冷たさのようなものも感じさせる。

 だというのに、彼女の一挙手一投足にはどこか愛嬌のようなものが感じられて、表面は繕えていても、滲み出る内面は隠せず。

 そんなちぐはぐさが、彼女の独特な空気感の原因かもしれない。


 そうして彼女と鉢合わせする事、数度。

 雨の日、ということで彼女の姿をキョロキョロと探してしまっていた俺は、唐突に声を掛けられる。


「こんばんは。今、お帰りですか?」


 振り向くと、そこには彼女がいた。


 いつもの涼し気な顔立ちは、しかし今日は少し違った顔色をしている。

 初対面の相手に話しかける事による緊張のせいか、少し不安そうな眼差しを俺に向けていた。


「あ、え、あーっと……」


 突然の出来事に俺は泡を食う。

 初めて聞く彼女の声は、見た目とは裏腹に、アニメ声のような可愛らしい声だった。

 俺の中では冷たい印象の声や、ハスキーヴォイスが脳内再生されていたのだが、それらはこの瞬間に一気に塗り替えられる。


「あ、突然すいません。何度か帰宅途中に貴方を見た事があったもので、つい声をかけちゃいました。家も……すぐ向かいのマンションですよね?」


「そ、そうです。こちらも貴女の事は何度か見かけていて、その……気になってました」


 我ながらキョドりすぎだとは思うが、この時の俺は頭の中をジェットコースターが駆け巡っているような状況だったのだ。まともに対応できなかったのも致し方ない事だろう。そうに決まっている!


「って、あっ! べ、別にそのストーカーとかそういうんじゃなくてですね……」


 慌てふためく俺を見た彼女は、ふふふっと朗らかに笑いながら俺を見つめていた。


「フフッ、そんな風には思ってないので大丈夫ですよ。たまたま家が近所で、たまたま帰宅時間が被って――」


「――そしてたまたま雨が降っている日に偶然見かけた、って感じですかね?」


 彼女の笑い声を聞いた俺は、途端に心が舞い上がるのを感じていた。

 我ながら挙動不審な受け答えだったと思うのだが、どうやら悪い方には取っていないらしい。

 その事に安心感も覚えた俺は、落ち着きを取り戻し、彼女の言葉に割って入るなどという芸当もやってのけた。


「そう、ですねえ。私ってどうも昔から雨女みたいで……」


 タハハといった感じで、彼女が今度は違った意味を持つ笑い顔を見せる。

 彼女がそうして違う表情を見せる度に、俺はドンドンを彼女に引き込まれていった。


 こうして話してみて分かったが、彼女は見た目はクールビューティーではあったが、その他の部分からは可愛らしさがあふれる女性だった。

 声質や間の開け方から、ちょっとした仕草まで。

 それらはすでに俺の心が奪われていたという、ひいき目もあったかもしれないが、彼女との会話はそうした発見が次々とあって、とても楽しいひと時だった。


 その後、一緒に駅から歩いて帰りながらも俺たちの会話は続いた。

 といっても、胸の高まりの余り、過呼吸にでもなりそうだった俺は、余り積極的に彼女と話すことが出来ない。

 この年になってこのような甘酸っぱい気持ちを抱く事になるとは、思いもしなかった。


「じゃあ……また、ね?」


 彼女はそう言って自宅のマンションへと入っていく。

 途中、一度こちらを振り返った彼女は、軽く手のひらを振ると、後は振り返らずに建物の中へと消えていく。


 そんな彼女が姿を完全に消すまで、手を振り続けていた俺は、初恋をした中学生の頃のような気持ちを抱きながら、自分も自宅へと帰りついた。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 そんな青春ドラマみたいな事があってから、幾日もが経過した。

 あれ以来、雨が降る事が余りなかったせいか、彼女の姿を見かけることがなくなっていた。


 いや、別に彼女が雨の日にしか現れない訳ではないと思うのだが、実際こうして晴れや曇りの日には、彼女の姿を見かけることができない。

 あの日の事がまるで幻であったかのように思い始めた、そんな頃。


 何時ものように帰宅途中だった俺の頬に、冷たいものが当たる感触がした。


「雨……か?」


 空は未だに白い雲と、どこまでも透き通るような青い空を、覗かせている。

 突然の天気雨に、俺はひとまず近くにあった本屋の軒先に避難する。

 今日は雨が降るなどと予報では全く触れられていなかったが、俺のカバンの中には常にマイ折り畳み傘が絶賛待機中だ。


 突然の雨に慌てふためく道の人々を後目に、俺は悠然とカバンの中から皺の寄った折り畳み傘を取り出す。

 そこに、



「えっ、雨?」


 という女性の声が聞こえてきた。


 その声を聞いた瞬間、俺の胸はまるで瞬間湯沸かし器のごとく、沸騰し始める。

 そして、壊れかけたロボットのようにぎこちなく横を振り向くと、そこには彼女の姿があった。


「あ、こ、こんばんは!」


 調子っぱずれな俺の大きい声は、静寂を好む本屋の客の注目を浴びた。

 本当、何故彼女の前に出るとこうも心が乱されてしまうのか。

 女を知らなかった、中学時代に初恋をしていた頃の俺ではない。高校、大学と、それなりに女性経験は積んでいるのに。

 彼女を目にすると、それがまるで本当の恋を知らなかっただけよ、とでもいうように簡単に吹き飛んでいってしまう。


「あら、こんばんは。……参ったわねえ、貴方も雨宿りかしら?」


 彼女のその言葉に、俺は突然頭上に雷が直撃したかのような天啓を得た。

 そう、彼女はまだ気づいていないが、俺の手元には折りたたみ傘がある。

 こいつを使えば、自宅に着くまでのひと時を共に過ごせるのではないかと。

 その事に思い至った俺は、光の速さで彼女に提案を持ち掛ける。


「あのっ! 傘っ! あるんで! 一緒に帰りませんか?」


 一緒に帰りたい圧が強すぎて、声にもそれが如実に現れてしまったが、そんな事気にする余裕もなく、俺は手にした折り畳み傘を両手で掲げるように彼女に提示する。

 この時の俺は、彼女がこのまま帰宅するとばかり思いこんでいたが、別にそうとは限らず、他の場所に用事があった可能性もあった。

 そうなれば、一世一代の俺の提案は水泡に帰してしまう。


「うーーん……。そうねえ、じゃあお願いしてもいいかしら?」


 イエスっ! イエスッ!

 俺は心の中で喝采を上げながら、震える手で折り畳み傘を展開する。

 そして、


「そ、それじゃあ行くとしますかね」


 と、何故か少し気取った口調で、傘を持った右手を差し出してしまう俺。

 彼女は小さく微笑むと「お邪魔します」と、俺の隣へぴょこんと滑り込んできた。


 これまでにない急接近に、俺のハートは激しく胸打つ。

 この16ビートを刻む俺の鼓動が、彼女にいつ気づかれるか不安に思いながら、久々の彼女との会話を楽しむ。


 この時だけは折り畳み傘に感謝、感謝だ。

 普通の傘に比べ、折り畳み傘は襲い来る雨から俺らをカバーする領域が、非常に狭い。

 しかし、狭い=密着=ドキドキなのだ。


 俺は自分が濡れるのも執着せず、出来るだけ彼女が雨に濡れないよう、彼女よりに傘の位置を調整する。

 そうなると、必然彼女との密着度は増す訳なのだが、これは彼女が雨に濡れて風邪になって、辛い思いをしないようにとの俺の思惑……じゃない、親切心なのだ。


「あっ……」


 すると彼女はそんな声を上げる。

 それまではとりとめもない会話をしながら歩いていたのに、だ。

 俺の疾しい心が見透かされたような気がして、思わずビクンッとする。


「アレ……」


 そう言って彼女は縁石の傍にある生垣エリアへと近づいていく。

 俺は彼女が雨に濡れないようにしながら、彼女の後に続いた。

 そこは、道路と歩道を分け隔てるように植物が植えられており、その土の地面の端っこのほうには、生垣部分とはまた違った植物が生えていた。


「こんな所にオジギソウが生えているのね」


 そう言った彼女の声はどこか嬉しそうだ。


「オジギソウ?」


 生憎と俺は植物には関してはとんと疎く、ヒマワリだのチューリップだのしか知らないくらいだ。

 だが、オジギソウという名前だけはどこか記憶の片隅に残っていて、気になった俺は反射的に質問していた。


「見ての通り、オジギソウは一つの節から両側に二本ずつの小さな葉っぱが並んでいてね。こうして触ると……」


「おわああ、なんじゃこりゃあ!」


 彼女が葉っぱの先端部分に触れた途端、節の先の方から順番に小さな葉っぱが次々と閉じていった。

 そのヌルっとした滑らかな動きが妙に気持ち悪く、俺は素で驚いてしまう。

 よく見ると、周囲には同じく葉を閉じた状態の茎のようなものが幾つもあった。

 恐らく雨の雫か何かで葉が閉じたのだろう。

 彼女が触れた辺りは、丁度近くの生垣の植物が傘になって、雨粒が当たっていなかったらしい。


「ね? 面白いでしょっ」


 そう言いながら、彼女はまだ葉の閉じていない他の葉にも触れていく。


「小さいころ住んでた場所には、オジギソウがたくさん生えている所があってね。よくこうして葉っぱに触れて遊んでたの」


 そう言いながら楽しそうにオジギソウに触れる彼女。

 彼女に触れられた部分は途端に葉が閉じていき、やがて葉の生えている根元部分の茎らしき部分が、だらりと垂れ下がる。

 それはまるで項垂れるような動作だ。


「ああ、これがオジギソウって名前の由来かあ」


 その項垂れる動きがまるでお辞儀をしているかのようだった。

 昔の人も洒落たネーミングセンスしてやがるなと、俺は感心する。


「そう、そう。可愛いよね? 私、昔っからオジギソウが大好きなの」


「か、かわうぃーです、ね」


 葉の閉じる様子を見て気色悪いと思ってしまった俺は、素直に彼女に同意する事ができなかった。

 しかし彼女は俺の真意には気づかなかったようで、


「ですよねっ! 見てるだけで心が癒されます。少し先の季節になれば、可愛いピンク色の花も咲くんです。……今度、一緒に見れるといいですね」


 彼女はすっかりオジギソウ効果で、気分が安らかになっているようだった。

 ……と、そこで俺は先ほど気にかかっていた事を思い出した。そして思わず俺は声に出して小さく叫んでしまう。


「ああっ! 魔界のオジギソウか!」


「えっ……? まか……い?」


 俺の突然の叫びに彼女も困惑の様子だ。

 慌てた俺は更に彼女を困惑させるような事を口走ってしまう。


「いや、その……。魔界のオジギソウは気が荒いんですよ」



 やってしまった!



 更なる俺の失言に、彼女の目が胡乱なものに変わっていく。

 俺はシングルコアの頭のコンピューターをフル回転させる。


「あ、えーと、とある漫画でそういった植物が出てくるんですよ。あれって元があったんですねー」


 今度はどうにかまともな説明をひりだせた俺は、その話が気になるという彼女に、魔界のオジギソウについて語りながら、再び帰宅の途につく。

 彼女もその漫画について興味を覚えたらしく、今度探してみると言って、マンション前で別れた。


 アクシデントはあったが、ますます彼女との距離は縮まったように感じて、俺は心中でガッツポーズをした。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 それから、雨の日に彼女に出会うと、会話を交わすようになっていった。

 毎度一緒に帰るという訳でもなく、彼女が駅前で用事がある日はすぐに帰宅しないケースもあって、その時はニ、三言話してお別れという時もあった。


 俺はすっかり彼女に夢中だったのだが、彼女の方も決して俺に対して悪い印象を持っているとは思えなかった。

 それなら最初に彼女の方から話しかけてくることはないハズなのだ。


 しかし、彼女は何か理由があるのか、或いは単に性格的なものなのか、そういった好意をあからさまに俺に見せることはなかった。

 そして、その事が、俺が彼女に積極的にアプローチする事を、躊躇させる。


 そうした適度な距離感のまま、時は過ぎていく。

 時に霧雨の時に。そして時に夕立の時に。

 或いは横時雨の時や、篠突く雨の時に。彼女との僅かな逢瀬を重ねていく。

 



 ……その日は豪雨が降り注いでいた。


 激しい雨音は、それだけで外に行く気力をなくしてしまう。

 雨の日を心待ちにしていたその頃の俺ですら、表に出る気力を軒並み削いでしまうほどだった。


 その日、俺は有休をとっていて自室で一人憂鬱な気分になっていた。

 そもそも有休を取ったのも、仕事先の人から融通された、野外イベントのチケットをもらっていたからなのだが、この雨でイベントは延期されてしまった。

 楽しみにしていたイベントだっただけに、俺の心の中にも暴雨が吹き荒れていた。


 元々インドアの趣味を持たない俺は、ぼんやりとテレビを見たりネットを見たりしていた。そうした有象無象な事をして時間を潰していた俺は、「ぐぅ~」という腹の音によって空腹を意識させられる。


「……もうすぐ六時か」


 そろそろご飯の準備をしないといけないな、と思いながら台所に立つと、どこからかサイレンの音が聞こえてきた。

 それは一度鳴りやんだ後、少ししてから再び俺の耳に再び存在を主張し、それから徐々に音は遠ざかっていった。


 元々気分が滅入っていた所に聞こえてきたこのサイレンの音は、更に俺を寂寥とした気分にさせる。

 この沈んだ気分を少しでも解消する為、炊飯器のセットをした俺は、先に風呂に入ることにした。

 夏の暑さもほとんどなくなってきて、寒い日も出始めた昨今。

 暖かい湯につかる贅沢は、俺の心をも温めてくれる。


 入浴によって落ち込んだ気分を若干取り戻した俺は、一息ついたあとに夕食の準備に取り掛かる。

 今日は味噌汁とキャベツを添えた生姜焼きの豚肉。

 それに冷蔵庫に入っていた余り物の漬物と、冷ややっこ。

 生姜焼きのタレは、俺が一番好きだと思う味付けをしている。市販品を元に自分で色々ブレンドしたもので、これさえかければご飯が何杯でもいける自信がある。




「ごちそうさまっと」


 腹も膨れ満足した俺は、再びテレビを見たりネットを見たりといった事で時間を潰す。

 後日振り返ってみた時に、何をしていたのかさっぱり思い出せないような時間は、訥々と過ぎていく。


 やがて就寝時間になり、付きっぱなしだったテレビを消そうとした俺に、一つのニュースが飛び込んできた。

 それは今日一日のニュースを伝える番組で、それによるとどうやら俺の住んでいるマンション近くで、自動二輪による人身事故があったらしい。

 豪雨による影響で路面が滑りやすくなっていて、バイクの制御が出来なくなったのではないか、と警察の見解が述べられている。


「そういえば、風呂に入る前、サイレンが鳴っていたな……」


 ふと、俺はその時のことを思い出す。

 せっかく風呂と美味しい食事で取り戻した気分が、それで一気に下り坂になってしまって、俺はやるかたない気分で床につく。

 気分転換しようにも、明日は普通に仕事があるので、早く寝ないと明日が辛い。


「……中々寝付けないな」


 とにかく横になればその内眠れるだろうと、目を閉じ心を無にしようとしたが、降り止まない雨が俺を妨害する。


 ぽつぽつ、ぽつぽつ。


 雨音は一時期に比べ少し大人しくなってはいたが、逆にこのくらいの雨音の方が俺の心をざわつかせた。

 目を閉じていたのでハッキリはしないが、二時間ほどはそうして眠れぬまま過ごした俺は、それでもどうにか眠りにつくことに成功する。

 そしてすっかり雨も止み、自己主張を続ける太陽の光によって眼を覚ました。




 その日以降、彼女の姿を見ることはなかった。





◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 それから一年ほどの月日が過ぎた。


 俺は雨の日になる度に彼女の姿を探したが、一度も見つけることができなかった。

 仕事が早く終わった日などは、数時間もいつもの駅の場所で待っていたが、ついぞその姿を見ること叶わず。


 昔は駅の改札口付近に、掲示板が設置されていたと聞くが、デジタル全盛の今、そのようなアナログなものはすでに撤去されている。

 俺は、どうにかして彼女と接触を取りたかったが、未だに名前を知らない事に歯ぎしりする思いだった。

 住んでいる場所なら知っているが、何号室に住んでいるかなどといった事を話したこともない。


 何故だっ!? と今更思ってもすでに手遅れだ。

 あの頃に戻れるものなら彼女に多少引かれてもいい。しっかりと名前や連絡先を聞いておくべきだった。


 ただ、そういった思いとは逆に、あの頃あの二人で過ごす時間がとても心地よかったという思いも強い。

 それは、連絡先を交換し、二人の関係性を進めてしまうと失われてしまいそうなナニカだった。

 もしかしたら、彼女もあの揺り籠で揺られているような関係性を、壊したくなかったのかもしれない。




 そして、今日も俺はいつもの駅からマンションへの帰路につく。

 駅から徒歩十五分程にある俺のマンションは、少し不便ではあるものの、毎日の軽い運動となっていて、運動不足にはいいな。……などと思っていたが、最近の帰路につく俺の足はどこか重い。



 ……俺も考えたことがない訳ではなかった。


 あの豪雨の日、この通勤路の途中で起こったという人身事故。

 ニュースでは被害者の名前が公表されていたが、顔写真などは公開されていなかった。


 やろうと思えば、その交通事故についてもっと詳しく調べることも出来ただろう。被害者の名字と、彼女の住むマンションのポストの名前を比べることも出来ただろう。


 だが、俺は……。

 確定してしまう事が怖く、何も行動に移す事ができないでいる。

 このまま曖昧のまま時間が過ぎていけば、いずれ彼女の事も忘れていくかもしれない。

 そんな事を思って歩いていると、不意に頬に何かが当たる感触がした。


「雨……か」


 見上げると、白い雲と青空の中、幾つもの雨の雫が降り注ぎ始めていた。

 突然の天気雨は、あの日の事を彷彿とさせる。

 だから、だろうか。


「今度、一緒に見れるといいですね」


 ふと、彼女の声が聞こえた気がした。



 それは幻聴だったのかもしれない。センチメンタルな気分になっていた俺が、無意識に脳細胞から引き出してきた記憶を、誤認しただけかもしれない。

 しかし、不確かな彼女の声と、遣らずの雨となった天気雨が、俺の足を止めた。

 そこは、彼女との思い出の場所。



 ……近くの縁石の一部は壊れていて、以前見た光景とは少し違っていた。

 しかし、今も変わらずそこに在るもの。

 それでいて、あの時とは若干様子の違う……可愛い球形の、ピンクの花を咲かせたオジギソウが咲いていた。


 あの時、彼女が一緒に見たいねと言っていたオジギソウの花。

 俺は雨が降り始め、既に幾つか葉が閉じ始めているオジギソウの傍に近寄る。

 そして、あの時の彼女と同じように、生垣の植物の陰になって開いたままの葉に触れる。


 途端にスルスルっと葉が閉じていき、垂れ下がる動作を見せるオジギソウ。


 それは、彼女の最後のメッセージであるように、俺には感じられた。









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