第58話 リリー
その後のことを語ろう。
齊天后マフの死と共に、カリラと同じく黄泉より引き戻されていた者は骨へと還った。
先帝陛下の第一子である死したはずの皇子も骨へと還り、先帝陛下は隠退を宣言する。それと同時に、ラファリアは再度帝位についた。
ラファリアの治世は帝国再編の新時代であり、その幕開けから幕切れまで粛清と謀略の繰り返しであった。
権力構造の強引な改変は、歴史ある貴族家の半数以上をお取り潰しとするなど、苛烈を極めた。
宗教勢力との癒着にしても、権勢をふるっていたアメントリル派と決別し、原点回帰派である女の僧院と結びつくなど、既得権益に連なるものを嫌う姿勢を取る。
血で血を洗う改変は、むしろ革命と呼ぶのが相応しいものであった。
亜人の権利を帝国民と同等として、身分制度を改めたのもこの直後である。ラファリア皇帝に狂信的ともいえる忠誠を誓っていた黒騎士ジーン・バニアスが筆頭となり、抵抗勢力を粛清した。
記録に残る限りでは、法に従わない農村を村ごと滅ぼすといった強引な手法を行っており、後の多人種国家への歩みを強引に進めていたことが伺える。
魔封の森と大森林を正式にエルフ自治領とすることで、今に至るまで中途半端になっていた領土問題を解決させた。
帝国国内のエルフ種全体が恭順の意を示し、帝国国民として受け入れられる。
ラファリア皇帝は亜人を重用することを好んだ。その証拠として、エルフの英雄リッドが魔封の森に新たな港を建造することを許可している。
開港後もそれは変わらず、魔国との貿易による利益ですらも、リッドを重用し非公式ではあるものの全権委任の体勢で差配させた。
ラファリア皇帝は歴史上、最も帝国に貢献したが、最大の悪名を得ている。
フレキシブル教授という来歴の怪しい山師を一年間だけ宰相に登用し、黒騎士ジーン・バニアスを筆頭とする暴力装置を用いて、今までは領主から兵を集めるという皇帝特権を行使するのではなく、近衛以外に自前の軍を持つに至る。
傾国の魔女シャルロッテを正妃として迎え入れたのは、改革の邪魔となる外戚を排除するためであった。
無理に正妃とさせられた魔女とは犬猿の仲であったとされるが、後年には世継ぎが生まれていることからもそれは定かではない。
シャルロッテは生きて、天寿を全うするまで正妃としての義務を果たし続けた。
シャルロッテの死後、闘技場の建築者は動作を停止し、帝都を守護していた人面鳥による結界も消失する。
人々は齊天后マフの下へ魔女が戻ったのだと語り継いだ。
不名誉司祭アヤメ・コンゴウは巡礼を終えたことで司祭に復帰するが、アメントリル派から女の僧院へと改宗した。
後に、女の僧院の代表であったリュリュの跡目となる。同時に、皇帝の相談役に納まった。相談役とは名ばかりの愛妾扱いであり、生涯に渡りシャルロッテと不仲であった、ということになっている。
ラファリア皇帝の愛人であったのは事実だが、シャルロッテとは良好な関係を築いていた。宮廷内の権力闘争を調整するため、不仲を演じていたに過ぎない。
相談役に納まった当初、アヤメは何度かシャルロッテを殺害しようとしている。リリーは許しても、アヤメは許さなかった。
首をへし折ろうとした時、シャルロッテは死を受け入れて笑んだ。これでは復讐にも腹いせにもならぬと悟り、アヤメはシャルロッテを受け入れた。そして、時を経て友人へと関係は変化する。
アヤメは妊娠と共に還俗し、正式に皇帝の側室となった。その後は後宮の支配に徹した。
後世では野心溢れる宗教家と評されるアヤメだが、皇帝の愛を得て幸せに暮らしたのもまた事実である。
蛇蝎のウドは女の僧院で下働きの小者として過ごした。
ウドはリュリュを母と慕い、リュリュも義理の息子として扱う。本当の親子のように穏やかに過ごした。
常からの細作働きはしなかったが、時にはラファリア皇帝にアヤメやシャルロッテを助けることがあった。腕は衰えておらず、老齢になってからもそれは続くこととなる。
妻帯はしなかったが、女の僧院では孤児の世話をするなど死ぬまで孤独とは無縁であった。
ラファリア皇帝の改革が身を結んだ晩年に、帝国と魔国は対等な同盟を締結した。
帝国は銃と鉄道技術を積極的に取り入れて、騎士の時代が終わる。
ラファリア皇帝は名君と呼ぶに相応しい業績を持ちながら、自ら毒蛇帝を名乗るなど露悪的な振舞いで狂皇と呼ばれ、後世に至るまで狂皇としてその名を遺す。
フレキシブル教授は一年間だけ帝国宰相を務めた。その後は魔封の森でリッドと共に港を作るという大事業を成功させている。
森の民である
半ば魔国の出島と化していたが、皇帝はそれを黙認する。
銃や鉄道といった魔国の技術はそれほどに脅威であり、事実上の恭順であった。魔国に支配されなかったのは、英雄リッドのカリスマとフレキシブル教授の政治手腕によるところが大きい。
リッドは魔エルフのディネルースを始めとして様々な女性と子を為したが、正式な婚姻は結ばす生涯独身であった。
フレキシブル教授は港が軌道に乗った後に、魔国に渡る。その後は消息を絶ち、どのように生きて死んだか。記録は無く不明である。
影法師はリリーの死後、諸国を一人で旅した。
神具である影法師が心を得たものかは定かではない。聖女の影法師は旅の中で、アメントリルならばしたであろう行いを為した。
この時期から、帝国には歩き聖女の伝説が残る。人助けと奇跡を為すため現世に戻った聖女アメントリルとして、影法師は歩き続けた。
魔国に渡った後にその伝説も途切れることとなった。消息は杳として知れない。
黄金騎士グロウ・クーリウとリシェンは巡礼の変の報告を魔国に持ち帰った。
敗北したことも報告したが、魔王より帝国総督を任じられる。
黄金騎士は国交樹立の立役者となった。歴史的には、文武両道に優れた人物として語られることとなるが、実際には英雄リッドを認めたに過ぎず、彼がおらねば港は魔国に支配されていただろう。
魔国と帝国を行き来する日々を送った。愛馬である豪魔も、帝国でその血統を遺した。
堕ちたる天のエルフである宵闇の魔女リシェンは、黄金騎士と共にあった。黄金騎士が天に召された後、彼女はアメントリルの安息地に向かい消息を絶つ。
サリヴァン侯爵家は皇帝と和睦した後、押しも押されぬ大貴族として不動の地位であり続けた。
侯爵家の墓所に、リリーの墓碑名は無い。
◆
春も終わり、これから命の季節である夏がやってくる。
早朝、帝都110番街を
デュク大河に向かって進む河川水運を利用する人々が集う110番街は、労働者たちの威勢の良いかけ声が行き交う通りだ。
荷車の後ろには、用心棒として傭兵らしき風体の女がついていた。
民衆たちは、為政者がすげ変わったことによる、これからやってくる変化の気配を感じ取りながらも、日常の中を生きている。
長帽子を目深に被った女傭兵も、その一人に見えた。
行き交う人々は、今日行われるという皇帝と寵姫の結婚式のことを語り合っている。
ラファリア皇帝は、かつて齊天后マフが使っていた離世の間を執務室として使用していた。
いつもの悪趣味な道化のような召し物ではなく、正装を着こんだラファリア皇帝は露台から帝都を見下ろした。
表舞台から姿を消そうとしていたというのに、今はここにいる。死後の世界のことを思い出すことも減った。
怪力乱神の時代はここで終わらせる。
リリーを失ってまで欲したものではないが、それをするためにここにいるのだろう。
「支配者の眺めはどうだね、皇帝陛下」
宰相として取り立てたフレキシブル教授が背後から声をかけた。
「大したものではない。爺さんたちが見たセカイジュとやらの方が、よほどいい眺めだろうよ」
ラファリアは帝都の街並みを見下ろしたままそう言った。
「小僧が言うようになったもんだね。さて、今日のスピーチは頭に入っているかな?」
妙なことを言う。
この無意味な問いかけは彼の気遣いであると悟り、ラファリアは小さく笑った。
「ああ、もう頭に入っている。そういうのは得意だと爺さんも知ってるだろうに。あれの様子はどうだ?」
振り向きもしない皇帝のために、フレキシブル教授は役者のように大げさに肩をすくめてみせた。
「落ち着いているよ。女は強いね。皇妃殿下となるのに、緊張もなければ気負いも無い。最高の相手さ」
ラファリアは口元に自嘲的な笑みを浮かべた。
国内外の姫を娶るのは危険すぎるし、亜人の妃を迎えるのも二世代は時期尚早だ。この状況で正妃の席が空いたままなのは不味い。
「シャルロッテに野心が無いのは分かっているが、これほど心が躍らん相手もそうおらんよ」
「まさに、彼女は運命の女だったということさ。これだから、こんなところは厭なんだよ」
フレキシブル教授自身も正装していた。よく似合っており、貴族らしい姿になっている。しかし、黒眼鏡だけは外していない。狂皇の宰相であれば、それも許される。
「……今日はいい天気だ。旅立ちには、良い日になるさ」
ラファリア皇帝はそう言うと、ようやくフレキシブル教授に向き直った。
「時間ですぞ、陛下」
わざとらしく言ったフレキシブル教授は、宰相の顔になる。感傷は終わりだ。
「うむ、参ろう」
水晶宮で行われる盛大な結婚式は、ラファリア皇帝による治世の始まりを告げるに相応しいものとせねばならない。
今日だけは歴史ある帝国皇帝として振舞う。
狂皇の芝居も続けねばならないが、こういう場所で伝統を重んじる姿を見せることも必要だ。
真実など何もない世界でしか皇帝は生きられない。リリーと過ごした日々は生涯忘れえぬものとなった。
あれほど嘘の似合わない女と出会うことなど、もう無いだろう。
都市運河の船着き場に入った岩人の一団は、普段は鉄を運ぶための船に乗り込んでいた。
人足たちが荷を船に積み込んでいる姿を、木箱に座った女傭兵はぼんやりと見ている。
帝都には完成品の武具を運び入れるが、出る時はここでしか手に入らない工芸品や保存食を積むのだそうだ。
旅には慣れているつもりだったが、これからは不潔な日々が待っていると思うと気が重くなる。
清潔な部屋で寝起きして、美味いものを食う。
療養中であったとはいえ、心地よいぬるま湯の日々に浸かっていた。今から始まる味気ない保存食の毎日を思うと嫌になってきた。しかし、戻る場所など無い。
懐からおやつに持ってきた干し果実を取り出して、口に含む。白砂糖のまぶされたとびきりの高級品だ。甘くて美味い。
「お嬢様、今からそんなものを口にしてどうします」
声をかけてきたのは、小柄な中年男だ。どこにでもいる帝国臣民という姿である。
「ウドか。その恰好、よく似合ってるぞ」
女傭兵、リリーは冗談めかして言った。
虎の皮を腹に巻きたかったが、目立つということで今は荷物の中に入れている。巻いたとしても、流行りの人食い姫を真似た姿をしていると思われるだけだろうに。
「お嬢様も、ただの女傭兵にしか見えませんよ」
「褒めてるつもりか?」
「まさか、からかったンですよ」
リリーは声を出して笑った。ウドも笑う。
見送りはウドだけだ。
「ミラールはどうしていた」
「暴れに暴れやしたが、馬子のルースがなんとか宥めておりやす」
大鹿のミラールはリリーと離れたくない様子だった。だが、リリーは連れていくことをよしとせず、大森林に還すことにした。故郷があるなら、そこに帰るべきだと思ったからだ。
「帝都も見納めだな」
「お嬢様、そんなことは分かりませンよ。もう二度と、なんてことは絶対に無い。なんでも、起きることは起きるんです」
蛇蝎と呼ばれた細作のウドがそんなことを言う。だが、その通りだ。今まであり得ないことばかり目にしてきた。
今もって、リリー自身が生きていることもそれに含まれるだろう。
最終戦のあと、ぼんやりとしか覚えていないが大騒ぎだった。
◆
アヤメ、リシェン、影法師、ウド、彼らが大騒ぎして戸板に乗せられたリリーを運ぶ。
やって来たのは闘技場の
厳重に人払いをしてある。
リリーの服を裂いて、サーベルの差し込まれた位置を確認しているのはウドだ。
試合前に巻いていたさらしに、目印は入れてある。
「お嬢様、死なんでくだせえよ」
ウドは一呼吸でサーベルを引き抜いた。リリーの傷口から血があふれ出す。
リシェンと影法師が時戻しの術をかけるが、それに目に見えた効果は無い。
「効かぬでも、術が発動するということは、死んではおらん」
リシェンの
「目を、開けてくだせえ。きっと成功してる、きっとだ」
ウドは神に祈る。
敵を欺くために最も効果的なこととは何か。
それは、誰の目にも見えるように死んでみせることである。
闇に潜む
その名も、
人は内臓を自らの意志で微細に動かすことができる。
内臓がほんのわずかに動きさえすれば、刃は臓腑を抉ることなく、肉だけを刺し貫いて刃を背まで通す位置が肉体にはある。
その術理、一流の細作であれば鼻で嗤う屁理屈である。闇の世界の住人の間で語り継がれた、眉唾の伝説だ。
絶体絶命でそれをやって、死んだという話は聞くが生きたという話は聞かない。
臓物を動かすなど、そんな馬鹿なことができるはずもない。
「本当に、大丈夫なんでしょうね」
アヤメが我慢しきれず口を開いた。
リリーに息があるのは確かめたが、内臓を抉られて瀕死であるのか、それとも術が成功したものか、判断がつかなかった。
「俺ン時は上手くいった」
ウドはサーベルを打ち捨てて、傷口を確かめる。彼は細作を辞めるにあたり、この秘術で己を死んだことにして逃げきった経緯がある。
ただ、二度とはやれない。
傷がふさがった後にやろうとしてもできない。それ以前に、奇跡的な偶然なのか、それとも空蝉の術理が働いたものか判然とすらしていないのである。
本当に内臓を動かせたのかすら、定かではない。
呼吸と想像力により、あとは修行さえすればできる。などと
「戻って来ないなんて、許さないわ」
アヤメは絞り出すように言って、祈りを捧げた。
ウドとアヤメは超常の力を持たないが、決して表の世界には出てこない細作の技は修めている。都市伝説のようなものであったとしても、空蝉の治療は心得ていた。その治療法も、どこまで本当か分からないものであるのだが、心得てはいた。
本来ならば死人返しすら行使できるはずのリシェンと影法師も、時戻しの回復魔法が効かないリリーにできることはない。
「分からねえ。このまま、戻ってくれることを待つしか」
ウドが自分自身でやった時に覚えているのは、出血が思ったより多くなかったことと、七日は死の縁を行き来したことだ。
無論、これはごく一般的な、死にかけたという意味である。黄泉の国から帰ってきたというものではない。
傷口に焼酎をかけてから、傷が閉じるように包帯できつく締めあげる。あとは、死なないことを祈りながら、傷が腐るか塞がるかを待つだけだ。
「あなたが教えた術なんでしょう。大丈夫だって、あなたがっ」
アヤメがウドに食ってかかる。
「俺ン時は上手くいったんだ。誰彼がおいそれとできるような術じゃねえや」
「貴様ッ、従者を気取ったくせにそんないい加減なことを」
アヤメの目に危険な光が灯る。
「止められなかったのはアンタだろうがッ。お嬢様の親友気取りやがって」
言い争いは、すでに殺気が走るものに変わっている。
元から悪鬼が地であるウドとアヤメ。
二人がそうなるのは不安をごまかすためだ。どうしていいか分からなくなると、暴力に頼ってしまう。
二人の言い争いに水を差したのは、石畳を杖の石突で叩く音であった。
「お静かに」
聖女の影法師は厳かに言う。
かのアメントリルと同じ能力を持つ神具である彼女にも、リリーの構成情報(ステータス)は見えない。
「信じましょう。リリーを信じるのです」
きっとアメントリルならそう言った。力強く言い切っただろう。いつも、アメントリルは必要な時に必要なことを、心にも無いことを言える人だった。
影法師は最大限にそれを再現したが、アヤメとウドはちらりと見やっただけで睨み合いに戻った。
不毛な言い争いが再び始まろうとした時、リシェンが口を挟んだ。
「いい加減にせよ。腹を刺されおるのに、こんなに時間がたって息をしておる人間がおるものかや。魔人でもこれほどの時間があれば死んでおるわ」
リシェンは言って、リリーの顔を触った。それは、老婆が孫を慈しむような仕草である。
見た目には未だ妙齢の美女であるが、その中身は悠久を絶望と共に生きた魔人だ。自身ですら、正確な年齢を把握していない。
悠久の時間。様々な死を見ている。それだけの経験は積んでいた。
「お前ら、うるさい。水を、よこせ」
リリーがか細い声で言う。
慌てて水を用意して口に含ませると、ほとんどは口の端からこぼれていったが、嚥下しているのが見て取れた。
内臓が破れていると水も飲めない。きっと、助かっている。
「ねかせろ」
そう言って、リリーは瞳を閉じた。
死んだように眠るリリーが目を覚ましたのは、翌日のことである。
生き永らえたのは確かだが、傷の痛みに声も出せず七日を過ごした。その後は断続的に熱が出て動けず、二月近くを療養に費やすこととなった。
◆
リリーは何くれと世話を焼く仲間たちのことを思い出して、笑ってしまった。
特に、アヤメなどは見舞いだと言って訪れると、自分の忠告を聞かなかった報いだとか憎まれ口を叩いては、菓子や果実を置いていった。
不器用なヤツだとリリーは思う。
ある時に聞いたが、やはりラファリアのことが好きだと言っていた。
一時の狂信は失くしていたが、あれの弱いところがキュンと来て良いのだとか。歪な男に惹かれるのも、アヤメらしいと思えた。
「アヤメは、式に出ているのか?」
「ええ、なんともまあ複雑そうでしたがね」
「だろうな」
もう会えない。
リリーの存在は大きくなりすぎた。
生きていれば、その武名と家名を利用される。そして、サリヴァン侯爵家をも割ることになるのは目に見えていた。
血筋だけで言えば、侯爵家の姫は皇帝になることも不可能ではない。それを望む者もいるだろう。
「アヤメには、息災でいろと伝えてくれ」
今日この日、最も様々な目が緩む。婚姻の儀に全ての目が向いているからだ。
「ようく、言っておきますよ」
ウドと共に運河の川面を見つめた。
朝の光が水面にきらきらと反射している。そんな中を、小舟が行き交っていた。この運河も、帝国建国当時からの歴史あるものだ。
「ウドは、どうするんだ」
「リュリュ殿のところで下働きなどすることにしました。女の僧院ってえのは、居心地はあんまりよくないンですが、男手も要ると言われましてね。細作はもうやりません」
ウドは気恥ずかしい様子でそう言った。
「そうか、あいつらのことだ、泣きついてくるだろう。なんとかしてやれよ」
仲間たちのことは、あいつら呼ばわりでいい。そういう仲だ。
「仲間ですからね、頼まれたら嫌とは言えませんよ。まだまだ隠居はできそうにありやせん」
リリーは懐の袋から、干しイチジクを取り出して口に運ぶと、もう一つ取り出してウドに差し出した。
ウドはそれを受け取って口に運ぶ。甘さに驚いたのか、表情が少し変わった。
「こいつはいいモンですな。甘くて美味えや」
「帝都の名物だからな。これ一袋で金貨がいるぞ」
「そいつはまた豪勢な」
「魔国にはこれより甘いツェン・ザイという食べ物があるとリシェンが言っていた。楽しみだよ」
リリーはこのまま船に乗って帝都を出る。そして、魔封の森へ向かってリシェン、黄金騎士と合流し魔国へ向かう手はずになっていた。
人足たちが荷物を積み終えた。
岩人が合図をしてきたので、リリーは立ち上がる。
「お嬢様、この蛇蝎のウドは貴方様の配下です。いつ何時でも、必要になればお呼び下さい。かけつけますよ、魔国でも、地の果てだろうと」
「子供扱いするなよ。ウド、
ウドは深々と頭を下げた。
リリーが船に飛び乗ると、船は流れに乗って進み始めた。
「また、いつか会える。達者でな」
リリーが大声でそう言うと、ウドは顔を上げて手を振った。
泣き笑いの顔で、大きく手を振っている。
リリーも手を振り返した。
ウドの姿が小さくなり見え無くなろうとした時、運河沿いの通りから騒ぎの声が聞こえてきた。
目をやって、リリーは驚いた。
見間違えようがない。
大森林でもめったにお目にかかれない大鹿が、通りを駆け抜けてこちらに向かってきている。
「ミラール、どうしてだ」
大鹿は速度を緩めることなく走り抜けて、運河目掛けて跳躍した。そして、船の上、リリーの目の前に着地する。
船が揺れた。転覆するのではないかという揺れだが、なんとか持ち直す。
「おい、なんで来た。お前は森に帰れと言っただろう」
大鹿は答えず、代わりに、るぶうと鳴いた。そして、その場に脚を曲げて座り込む。動く気はないらしい。
「仕方のないヤツだよ、お前は」
こうして、旅は独りではなくなった。
動物は自由だ。しがらみなど気にしない。だから、こんなに優しい目をしている。
「船頭、すまんが追加だ。金はつけておいてくれ」
派手なことになってしまった。
後始末をするウドらは頭を抱えるだろう。それを想像すると、リリーはなんだか面白くなって、笑ってしまった。
旅が終わり、また旅が始まる。
リリーの旅路は、まだ終わらない。
◆
後世の歴史書によると、巡礼の変からなる帝国内乱は奇妙なことの連続で、伝奇小説じみた出来事は何らかの事実を隠すめための陰謀ではないかと論じられている。
人食い姫という架空の人物を造りだすことで、スキャンダラスな何かを隠そうとしたのではないか、というものだ。
それを示すものとして、まず、現代まで続くサリヴァン家の墓所には、リリーという墓碑銘が無い。
墓碑銘が無いというのに、学院に在籍していた記録は短いながら残されている。
資料によれば、病により入学が遅れたとされ、それを裏付けるように体調不良による欠席や早退の記録が本人のサイン付きで現存しており、博物館に今も所蔵されている。
病により社交界へも出なかったという記録があることから、病弱なリリーという名の姫君がサリヴァン家にかつていたのは事実なのだろう。
学院入学を果たしてからは、剣を持っての悪行三昧。
皇帝暗殺未遂などの事件を起こしながら、なぜか聖女アメントリルの巡礼で罪を償うことになるなど、人が変わったとしか思えない上に、突如として剣士であるという設定が追加されている。
あまりにも奇妙な矛盾だ。
闘技場における帝位争いの決闘にいたっては、一人で全員を倒した後に、毒蛇帝ラファリアに誅殺され、その生涯に幕を閉じたとされている。
とかく謎が多く、架空の人物ともされるリリー・ミール・サリヴァン、通称「人食い姫」は、ある時期からサリヴァン家と関わりのある別の誰かの記録と混同されている、もしくは意図的に別の誰かの記録に名前を上書きされた、という説が有力視されている。
存在すら疑わしい人物ではあるが、それ故に人気が高い。
近年では、リリーの正体は皇帝の庶子である美形の少年剣士であり、女に扮して病死したリリーの影武者を勤めるという筋の娯楽作品が人気を博した。
創作であり、娯楽作品ではあるが、毒蛇帝ラファリアと魔女妃シャルロッテを慈悲深い人物として登場させ、美少年剣士リリーが二人への忠誠から暗殺者として生きて死ぬ悲劇性は、歴史愛好家からも好評を得た。
このように現代でも語り継がれる人食い姫リリー・ミール・サリヴァンだが、今をもっても決定的な資料が発見されず、存在そのものが疑問視されている。
実は生きており、魔国に落ち延びたなどという話もあるが、国交樹立前にそのようなことはあり得ない。それこそ創作だろう。
◆
夜半、荒野を少女が駆けていた。
後ろを振り返りながら必死で追手から逃れるために駆けている。
息も絶え絶えに走っていると、前方に灯りが見えた。
大木の下、誰かがたき火で暖を取っている。
「お願い、助けて」
たき火の前に座る女は、食事の途中であるようだった。
亜麻色の髪、左目には眼帯、腹に虎の毛皮を巻いており、傍らには剣がある。
闖入者である少女に、うろんな目を向けていた。
「わたしには、関りの無いことだ」
言うと、女は食事に戻ろうとする。
鍋には干し肉と穀物を煮たものがあった。こんな時なのに、少女は食べ物の臭いに空腹を感じてしまう。
食事を再開するためスプーンを口元に運んだ女だが、そこで手が止まった。
「そう言っても、聞いてはくれんか」
女はいかにも億劫だという所作で立ち上がると、剣を手に取った。
「そのガキを渡してもらおうか」
闇の中から、黒装束の追手たちが現れていた。それぞれ得物を手にしており、長銃を担いでいる者もいる。一目で荒事の専門家、ともすれば闇に潜む密偵や細作の類いと思しき輩であった。
「渡すも何も、わたしには関りの無いことだと言った。勝手に連れていけばいいが、どうせ、見られたからにはと続けるんだろう?」
女は言いながら、鞘から剣を引き抜いた。
追手たちは薄ら笑いを漏らした。
数打ちのなまくらであるのが明白な剣の上、ところどころに錆びまで浮いていたからだ。
「どこかで拾った剣か」
「まあな、さっき拾ったんだ。で、どうだ、わたしを相手にするのかしないのか」
「見られたからには、生かしておけぬ」
女は大きくため息を吐いた。
「こんなことのたびに銅貨を貰ってたら、今頃は大金持ちだよ」
吐き捨てるような独り言は、状況に比べて暢気ともいえる愚痴であった。
「死ぬ前に名を聞いておこうか」
女は口角を吊り上げて、笑みを刻んだ。
「今から死ぬ連中相手に、名乗りが必要か?」
たき火に照らされた女が、剣を構えた。
それだけで周りを囲む男達が息を呑む。圧倒的ともいえる圧力があった。魔国でも腕利きとされる集団であるがゆえに、相手の強さを肌で感じ取れたのである。
「貴様、何者」
「リリー、ただのリリーだ。お前らの名はあの世で聞かせてくれ」
月光を受けて輝く剣閃が、夜闇を走り抜ける。
リリーの生きるところ、それはまだ終わらない。死ぬまで続く。
完
壺の上で踊る 海老 @lobster
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