第3話
……中卒採用にも関わらず、とんでもない業績を叩き出し続ける、化け物みたいな商社マンがいるんだってさ、おまけに甘いマスクの美少年だときた。
そんな都市伝説のような話を小耳に挟んだのは、もう三年前のことになる。
『本当なのかな、今どきそんなシンデレラストーリーがあるとは考えにくいけど。なあ、アンタそいつと知り合いなの?』
仕事で知り合った記者と酒を飲みながらそんな話をした。俺はついその話に心惹かれて、もう一杯酒を奢るから、と寂しい財布を振ってその記者を引き留めた。
『いや、知り合いってほどじゃない。上がさ、取材してみたらっていうから一回か二回会っただけだ』
記者は俺とは違い、大手の出版社で働いていた。へえ、それでそいつはどんな男なんだい、と訊ねると、記者はにやにやしながら酒をあおる。
『どんな男って?アンタも会ってみればわかるよ。とんでもなくクセの強い男だ。あんなの、文字になんか落としこめやしないね』
『でも風の噂によれば、ほんの若造なんだろう。確か、年齢は……』
今年、二十一だってよ。記者が呟く。なんだ、そんなの言うてもガキんちょみたいなものじゃないか、と笑った俺に、とにかく一度会ってみろ、と記者は凄んだ。
『あの男を書くことができたら、俺はアンタを心の底から尊敬するね』
大袈裟だなあ、と思いつつも、俺はすっかりその男に興味が湧いてしまった。なんにせよ、いいネタにもなりそうだ。記事にするにしろ、小説にするにしろ、映える人物であることに間違いはない。俺は記者からその男が務める会社の住所と電話番号を教わり、後日、彼と対談することとなったのだ。
人懐こい爽やかな笑みを浮かべて現れた彼は、噂通りモデルのように容姿の整った男だった。
「はじめまして」
差し出された手も、指が細く長く綺麗。最終学歴は中卒と聞いていたが、その佇まいや所作は知的で、二十一とは思えぬ気品があった。
「はじめまして、あの」
彼は最初は穏やかな物腰で、その大きな瞳で真剣に俺の話を聞いてくれた。質問にも一つ一つ丁寧に答え、時折笑みもこぼした。なんだ、全然話しやすい人じゃないか、と思いつつ、俺も少しずつ緊張が解けてきたのだろう。気がつけば、かなり突っ込んだ質問もぶつけていた。中卒というのは本当か、とか、なぜ今の地位に、とか。
『ええ、本当です。ここには十六の頃からお世話になっていてね。二年ほどは社員というより社長の身辺の雑用みたいな感じでやらせてもらっていましたけど。二年前に社長の御贔屓でここの事業所を任せてもらってからは関東中心にプロジェクトもいくつか』
やはり学歴が関係しているのか、彼は営業マンにしては堅苦しくないフランクな話し方をする。しかしそれは人を不快にさせることはなく、むしろ親しみやすさを覚えた。
『なるほど。でもきっとその若さで社会に出たとなると苦労したことも多いんでしょう』
『ええ、そりゃあ勿論』
『今のこの時代において、あえて進学を選ばなかった理由でも……』
気がつくと、夢中になって喋り続ける自分を、彼はじっと見つめていた。相変わらず柔和な微笑みは浮かべているけれども、その目の奥に吸い込まれそうになるような計り知れない何かを抱えているように見えた。
『そうですね、どんな理由がいいんですか?』
唐突に彼は俺にそう問うた。声色も表情も変わらない。本当に突然そう言われたのだ。
『え?』
『家庭が貧しかったとか、あるいは進学する以上に叶えたい夢があったとか?それとも単純にグレちゃっただけってのもありますね。さて、アンタは俺に、何て答えて欲しいんです?』
『いや、あの』
『遠慮せずどうぞ。望む答えを返してあげますよ。アンタの都合のいいように』
そう言って、小首を傾げる彼の様子に心底ぞっとした。なぜかはわからないが、本能的にこの人は怖い、と思った。
『失礼なこと聞いてごめんなさい、怒らせてしまったなら……』
慌てだした俺を見て、彼は笑った。それはそれは楽しそうに笑った。そんな彼を見て、俺はようやくあの記者が言っていた言葉がわかったような気がした。嗚呼、この男は。
『冗談ですよ。怒ってなんかいません。からかっただけです。俺について訊いてくれるのはどんなことでも嬉しいんでね』
嗚呼、質問の本当の答えですけど、別に理由なんてないですよ。なるように生きていたら、ここに行き着いたってだけです。高校に行きたい理由も別にありませんでしたしね。と彼はなんてことないように告げた。その時ちょうど彼との面会時間の終了を告げるアラームが鳴る。
『でもこんな答えじゃ、アンタが書きたい文章としてはパンチがないでしょう。もし俺を題材にしたいなら、どうとでも書いてください。肖像権とか気にしないんで。アンタが思うように、想像に任せてやってくれればいい。俺自身、自分が客観的にどう見られているのかは気になるんでね。また、いつでも連絡待ってますから』
そして最後ににこっと笑いかける。しかしその目線はぎりぎりと俺の首元を締め付けてきた。
『俺、アンタみたいな《良い人》嫌いじゃないですよ』
そう言って彼はメモのようなものを手渡した。電話番号とメールアドレスが書かれている。さっと立ち上がって立ち去る彼を、俺は何も言えずに見送ったんだ。取材用に新調したノートには、結局一文字のメモも記すことができなかった。
彼を文字に落とし込めない理由。それを生真面目に体現してしまったようで悔しい。良い人ってなんなんだ、どういう意味なんだ。しかしその答えを彼に迫る勇気はもうない。
その夜、消沈したまま自宅に帰ると、妻が録画してあったホラー映画を一人で観ていた。よくそんなものをこんな時間に観れるなあ、とビクビクしつつも、思わずテレビ画面に目を奪われる。
それはちょうど主人公が殺人鬼に追い詰められているシーンだった。あら、一番盛り上がるところで帰ってきて、運がいいわね、だなんて声をかける妻に俺は何も言い返すことが出来ず、画面の中の殺人鬼の男の表情を凝視する。
怯える主人公を前に、笑顔を浮かべながら凶器を振り下ろそうとする彼の瞳がアップで映される。狂気を帯び、陶酔し、興奮したようなそれは、つい先程目の当たりにした彼の目にそっくりだった。
彼と云う病 @izumio-ryo
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