第2話
「なあ、しんどいの」
彼の呼吸があまりにも荒いものだから、気を遣ってそう声をかけると、当たり前だ、とつっけんどんに返される。いや、実際は普段とそこまで変わらないのかもしれない。それでも、殺風景でしんとした彼の部屋にいると、ほんの些細な音さえもが必要以上に響いた。彼のひゅうひゅうとした呼吸音とか、咽せる咳の音とか、喉奥で鳴る呻きとか……。耳を澄ますと、それらが彼の命を少しずつ削り取る音さえもが聞こえてきそうだった。
「しんどくなきゃ、こんなところに臥せってなんかいません」
「だから寝てろって言ってるじゃん。こんなしょうもないところで意地張るなって」
「それは嫌。アンタと話すときくらい、同じ目線で話させてよ」
その言葉に、俺は思わず口を噤んでしまった。彼は気が付いていないのだろう。不思議そうに瞳を瞬かせる。
彼が秀でていたのは容姿のみならず、仕事においてもそうだった。若くして出世し、幾つものプロジェクトを手がけるような責任ある立場を、四年間にも渡ってこなしていたという。
そのように、仕事はよくできた男だったが、部下も同僚も殆どが年上という環境がそうさせたのか、正直に言って彼は、取っ付きにくい人間だったと思う。歯に衣着せぬ物言いで、年上の人間にも、上司にも、勿論俺みたいな外部の人間にも彼は強気だった。それでも彼がある程度職場で慕われていたのは、その実根は優しく、真っ直ぐな正義感のある人物だということを皆が知っていたのか、或いは彼の天性の才を認め、尊敬していたかのどちらかだろう。容姿端麗で仕事も一流。周囲からの期待も厚く、あの頃の彼は何もかも上手くいっているように見えた。しかし、それでも。
『今だから言えるけど、実際辛いことのほうが多かったですよ。それに俺、最後の方は多分、別に自分の仕事が好きなわけでもなんでもなかった。クソみたいな仕事だと思っていましたよ。それこそ立場が上がれば上がるほどね。でも、なんとか自分の仕事には誇りを持っていたかったし、自分を納得させられるだけの理由も、どうにかしたら見つかるんじゃないかと思ってた。この四年間は俺にとっては、そんな感じでした』
後に彼は俺にそう語ってくれた。だったら仕事、辞めれば良かったのに。まだ若いんだしさ、そんなところで燻らなくても、と呆れた俺に、彼は疲れた笑みを浮かべたのを覚えている。
『でもやっぱりさ、いざってなると怖いんですよ。自分が今までやってきたことが全部、無意味になっちゃうっていうのは。こんなに苦しんだんだから、いつか報われないとおかしいだろって、勝手に見返りなんか求めちゃってさ。それが得られないうちは辞められなくなる。……それに、自分の居場所が一つ、なくなるってことでしょ。特に俺なんか、仕事の連中以外に関わりのある人間なんて殆どいないしさあ。そうやって全部失くしちゃうことを考えると、そっちの方が俺は無理。それに、仕事そのものはどうしようもない汚れ仕事だったけど、あの人たちのことは好きでしたしね』
フリーランスのライターである俺には、専門性の高い彼の仕事についてはおろか、組織の中で働くということ自体、そこまで詳しくはわからない。故にこの頃はまだ、彼の言葉全てに共感することができず、ただうんうん、と頷くことしかできなかった。
そうしているうちに、やがて彼は心身をともに病んで退職した。身体を壊したのが先か、心が壊れたのが先か、そんなことは知らない。ただ、彼の身内からその話を聞いた時、ああ、アイツは馬鹿だと同情すらできなかったのを覚えている。実際、俺は知っていたからだ。彼が真新しいスーツに身を包み、胸を張って仕事に取り組めていた頃を。
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