彼と云う病

@izumio-ryo

第1話

「おい、居るか」


 俺はそう声をかけたと同時に、《彼》の返事も待たずに部屋へと上がり込んだ。五月も中旬と、外は爽やかな初夏の風が吹き始め、日も長くなってきたというのに、相変わらず彼の部屋はどこか鬱蒼として薄暗い。


 その部屋の中央、先週と寸分変わらぬ場所に彼は居た。突然顔を出した俺に最早驚きもせずに嗚呼、と顔を上げ、二重が綺麗なぱっちりとした瞳が俺を捉える。


 「なんだ、アンタか。……どうしたんです」


彼の顔色は悪かった。とはいえ、この一年間、顔色の良い彼を見た記憶など少なくとも俺にはない。今の季節に不釣り合いなほど厚手の毛布に包まって、年中敷きっぱなしの布団にぐったりと横になっていたようだが、俺の姿を見て上体を起こす。いいよ、寝てたら、と声をかけるも、いや、起きる、と言って聞かなかった。変なところで頑固な男なのだ。どうせ俺の言うことなんか素直に聞きやしない。早々に諦めて、はいはい、わかった、と返事をする。


「どうしたもこうしたも、お前のところの連中に頼まれてさ。お前の様子、見に行ってこいって」


「嗚呼、そういうことね。……様子も何もねえ、見ての通りだ。なーんにも変わっちゃいねえ。いや、寧ろ悪くなっているって言ったほうがいいか」


 彼は何が悪いとは言わなかった。それは俺もよくよく解っていたから、わざわざ口になんか出す必要もなかったのだ。先週見たときよりも一段と窶れ、小さくなったように見える体。それなのに、彼の出立ちは不思議と痛々しさとか、切なさとか、そういった類のものを全く感じさせないほどに凛としていた。


 俺は正直、彼と特別親しかったというわけではない。歳もかなり離れている。しかし、かといって知り合いだとか、顔見知りだとか、そこまで希薄な間柄だとは言い難かった。彼がまだ、バリバリに仕事をこなしていた頃から何度か付き合いはあって、公私共に顔を合わせる機会は多かったけれども。友人と呼べるほど腹を割った関係では決してなかったが、彼は一応俺を頼りにしてくれてはいたし、俺もなかなか彼を放ってはおけなかった。


 そんな彼が体を壊し、心を病んでここに臥すようになってもう凡そ一年。そう頻繁にではないが、俺も時々こうして彼の元へ足を運んでいた。彼の身内に頼まれて訪れることもあることにはあるが、そうでないことが殆どだ。何故自分がそんなことをしているのか、自分でも上手く説明ができない。だから敢えて《何故か放っておけない》という言葉を使うことにした。なんて便利な言い回しなのだろう。そして彼には毎回、身内に頼まれたのだと嘘をつく。


 「あーあ、お前また一段と痩せたね。腕とかほら、折れちまいそう」


 この一年で彼は本当にげっそりと痩せた。元来細身な男ではあったが、それが今は吹けば飛びそうなほどに心許ない。最近は特に、だ。背中をさすれば、浮き出た背骨の感触にぞっとするし、顔の汗や涙を拭ってやれば頬骨が引っかかる。こんな状況なんだし、そりゃ多少は痩せるでしょうね、と彼は大したことなさそうに笑ったが、こちらとしては解っていてもやはり、思うところがあった。


 「アンタに折られるような腕じゃねえ。」


 「冗談だよ。解ってるけどさ。」


 そう軽い口調で返しつつ、俺はぼんやりと彼を見つめる。病で臥せる以前は、その中性的で端正な顔立ちと、すらっとしたしなやかな体つきで巷では美少年だと評判だった彼。男の俺でさえ、綺麗な子だな、とずっと思っていた。それが今では、どうだ。いつもきちんとうなじのところで刈り上げられていた、さらさらとした黒髪は汗を含んで額に張り付いている。色白で、いつ見てもニキビや髭の剃り残しなんて見当たらなかった頬は、すっかり肉が落ちた。少女のように真ん丸っちく愛らしかった大きな瞳だけが、小さくなってしまった顔の中で、ぎょろぎょろと異様な存在感を放っている。


 彼はそうやってどんどん痩せて弱っていく自分を醜いと自虐したが、俺はそうは思わなかった。寧ろ今の彼には、あの自身に溢れ、生き生きとしていた頃の輝かしい美しさとはまた別の、壊れそうなほどに繊細な、それでいてどこか幻想的ともいえるような、そんな美しさがあった。やはり彼は変わらず綺麗なのだな、と、俺は彼の長い睫毛が、血の気のない陶器のような肌の上に青黒い影を落として小刻みに震えるのを見て、或いは乾燥して血の滲んだ小ぶりな唇が薄く開かれて、切ない吐息がそこから漏れるのを感じて、そんな彼に思わず目を奪われていた。

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