第37話 女神の庭2

 白い息を吐きながら、ヤクモは駆ける。

 一網打尽にされない、けれど連携が取れる距離を置いて、クロムとユーシンも駆けている。


 足が軽い。先ほどの交戦で精神も体も酷使したというのに、疲労など微塵も感じない。

 それどころか、恐怖すら感じるほど、身体の隅々まで思い通りに動く。


 (…灯の加護。ファン、使ったんだ)


 ぐんぐんと異形の姿が、再び眼前に迫る。


 ごく自然に、ヤクモは剣を振っていた。

 ヤクモの腕は、本人が意識するよりも早く、斬撃を繰り出している。


 相手は動けていない。隙だらけだ。攻撃をするなら今だ。


 攻撃の理由は、斬撃の後に意識に浮かんでくる。


 灯の加護を受けたのは、今回が初めてではない。

 最初は思った以上に動く自分の身体に驚いた。


 だが、今はその時よりさらに、手足は思い通りに動く。


 加護ってすごいねぃと初めて受けた時にファンに告げたら、違うよと笑って否定された。

 その動きは、ちゃんとヤクモの中にあったものだよ、と。


 何故、鍛錬を繰り返すのか。

 もちろん、筋肉を鍛え、増量するということは大切だ。

 けれど、それはどこかで限界が来る。


 それでも繰り返すのは、維持のためだけではない。そう、ユーシンが教えてくれた。


 虫が眼前に迫ったら手で払おうとするだろう。足元に大きな石があれば、ひょいと跨ぐだろう。

 それは、意識してやることか。違う。

 生まれて育って、その過程で数えられないほど繰り返し、体が覚えた動きだ。


 その無意識の動きと同じように剣を振れ。


 そう教えられて、改めて剣を振り続けて、けれど繰り出せたのは、ほんの数回。

 今だ!と思って、剣を振ろうとする間に、隙は消えてなくなることもしばしば。

 そもそも、今だと思うこと自体、無意識の一撃ではない。


 真剣に剣を振り始めて一年のヤクモには、まだ遠い領域。


 無意識が身体を動かすのと同じように、意識の下の「間違っているのでは」という迷いが、動きを止め、体を鈍らせるのだ。


 灯の刻印は、その迷いを照らし、払う。

 身体は一瞬も躊躇わず、無意識の指示をなぞる。


 (ちょっと、ずるっこいよねぃ)


 灯の加護はあくまでも積み重ねたものを忠実に反映するだけのものではあるけれど。

 今のヤクモにはまだ出来ない動きなのも、確かだ。


 (でもさ、ぼくはここまでできるってことだもんね!きっと辿り着いてみせる!)


 迷いのない剣は虫の肢を滑りながら火花を散らし、振りぬくと同時にヤクモは横に跳んだ。


 「なんで、何度も、何度も、何度も、私をぶつのですか!」


 振り下ろされる一撃。それを完全に避けながら、さらにもう一撃。

 一筋の傷も、青と黒の斑紋で覆われた外殻にはついていない。

 むしろ、残照を浴びて赤く光るのは、剣から飛び散った欠片。


 「でも、痛くない…痛くないのです!女神の加護が、私を守ってくださるから!」


 続く一撃は、鉤爪の生えた指が齎したものではなかった。

 大きく後ろへ跳んで避けたヤクモの目に映ったのは、斜め上から下へと振り下ろされた、虫の前肢が繰り出した一撃。


 (慣れてきているってことか)


 今までは、腕二本の攻撃を意識していればよかった。

 だが、これからは違う。前肢を含めた四本。

 もしかしたら、ほかの肢も使ってくるかもしれない。


 (でも!)


 さらに追撃を仕掛けようとする大司祭の死角から、閃光が伸びた。

 前肢の付け根を突かれ、大司祭は慌ててそちらに向き直る。


 「この、ひどい、ひどい人!なぜ、私をそんなそんなに!」

 叫びながら、大司祭はユーシンを捕えようと腕を伸ばした。


 (同時には、やってこない!まだ、完全に慣れてないんだ!)


 ユーシンを攻撃しながら、ヤクモの前にある肢を動かすなんてことはできないらしい。

 一人に意識が向けば、他の二方向は隙だらけになる。


 ヤクモ一人で戦っているわけではない。

 ユーシン一人でも、もちろんクロム一人でもない。

 頑張れば、残り二人の有利につながる。


 例え自分の攻撃が全く通じないとしても、だからと言って無視できるほど、ドノヴァン大司祭は戦うことに慣れていない。


 (ぼくは弱いけどね)

 斬撃と火花散る中で、ヤクモはうっすらと笑った。

 (ぼくらは、強いんだから!)


 延ばされた腕をかいくぐり、ユーシンはさらに一撃、刺突を大司祭の胴に叩き込む。

 傷はつかなくても、衝撃は抑えられないのだろう。大司祭は仰け反って悲鳴を上げた。


 「ああ、ああ、ひどい!なぜ、どうして、どうして、こんな、こんなひどい!」


 「お前が俺の敵だからだ!」

 はっきりと、ユーシンは言葉を紡いだ。

 「それ以外に、理由などない!」


 悲鳴を上げた顔を憤怒の表情に変えて、三眼はユーシンを捉えた。

 両手と前肢が風圧で雪と氷を舞い上げながら、憎たらしい敵を八つ裂きにせんと振り回される。


 その全てを槍は捌ききり、攻撃の合間に閃光を描くように舞った。


 名工が鍛え上げた槍は、さすがに刃毀れ一つすることなく、大司祭を打ち据える。

 だが、その攻撃はただただ火花を散らし、甲高い音を上げさせるだけだった。


 「痛くない、痛くないのですよ!」


 「なら、これはどうだ」

 ひゅ、と風を切り、クロムの剣が反対側から叩き込まれる。

 そちらに気を取られた一瞬に、ユーシンが距離を取って息を整えた。


 「痛くありません!女神の加護は、偉大なり!」

 剣と槍が響かせる音より甲高く、大司祭は哄笑した。


 《そうよ、落ち着いて》

 《あなたは誰よりも固く》

 《誰よりも強い》


 その哄笑に混ざる、甘い女の声。


 《みなごろし》

 《みなごろし》

 《ねぇ、みんな、ころして?》


 「わかっております、わかっております、わかっておりますとも!」


 人殺しと言われて激昂した大司祭は、人殺しになれと言われて喜んで受け入れている。

 それは、彼の狂気が進み、ドノヴァン大司祭を成していたものが崩れていくのを現しているようだった。


 「あなたたちは、あなたたちは、ああ、邪悪なり、邪悪なる女神の敵、汚らわしきアスラン王の下僕…ああ、殺さねば!邪教の徒は死してこそ救いがある!」


 「それが本音かよ。クソ虫が」

 振り回された前肢の攻撃を大きく跳んで避けつつ、クロムは吐き捨てた。


 「まだ、いけるな。ユーシン。ヤクモ」

 「当然だ」

 「うんっ!」


 剣を構えなおし、ヤクモは改めてその刃毀れの酷さに目を見張った。

 これはもう、研いでどうにかなるとは思えない。

 打ち直し…するには安物すぎる。買いなおしてもらえるだけの資金は余るだろうか。


 そこまで考えて、ヤクモはおかしくなった。


 こちらの攻撃はまったく通じず、相手は時間がたてばたつほど強くなる。

 なのに、自分は「この後のこと」をごく自然に考えている。

 つまり、負けるとか、死ぬとかそんなことを、ほんのちょっとも思っていない。

 たぶん、ヤクモの剣はこの後も髪の毛一筋ほどの傷だって、与えることはできないだろう。


 だけど、それは大した問題じゃない。


 剣の柄を強く握り、ヤクモは攻撃を再開した。

 ぶつかる音が微妙に変わってきている。

 悲鳴を上げているのは、剣のほうだ。あと、いくらも持たないだろう。


 「無駄ですよ!邪教の徒の剣など、私には、女神の加護には通じなあい!」

 頭上から襲い来る、前肢の一撃を旋回して避け、その勢いを乗せて剣を振りぬく。


 ギィン、と響く異音。

 一瞬遅れて、折れた剣先が宙に舞う。


 「壊れた!ははは、壊れました!」


 楽しそうに笑って、ドノヴァン大司祭は手を叩く。

 根本だけを残した剣を握ったまま、ヤクモはわずかに間合いを取った。


 「もうあなたは私をぶてない!ふふふ、もう何もできない!」


 「できるよ」

 折れた剣を構えなおし、ヤクモはありったけの力を込めてドノヴァン大司祭を見つめる。


 「できない!なにもできない!無力、無力ですよ、ふふふ、私にはわかる!あなたが一番弱い!」


 「その弱いやつを殺せないなんて、もっと弱いじゃん!ばーか!」


 「っば!!」

 怒りに顔を歪ませて、ドノヴァン大司祭はヤクモへと迫ろうとし、止まった。


 「あぶない、あぶない」

 ぐるりと視線を巡らす先にいるのは、下段に槍を構えたユーシンの姿。


 「また、騙されるところでした!」


 体ごとユーシンで向き直る大司祭の腹部が、ぶおんと音を立てて振り回される。

 それをヤクモはなんとか避けきった。


 うっすらと、その表面に黄色い液体が滲んでいる。

 もう、凍結が溶けてきているのか。


 それでも。


 大司祭の死角で、ヤクモはにんまりと笑った。


 「あなたが、いちばん、わたしは、きらいだ!」


 地響きを立てて、大司祭はユーシンへと殺到する。


 「きらいだ!きらいだ!きらいだ!」


 「そうか!俺もお前が嫌いだ!」

 突進から続き連撃を、ユーシンは軽く跳んで避ける。


 槍の間合いを取ったユーシンに向かって、大司祭は顔を歪めた。

 笑ったのだと、その顔の中央の三眼が教える。


 「痛くない!痛くない!痛くない!」


 ユーシンの攻撃を、大司祭はむしろ手を広げて迎え撃つ。

 自分の反応速度では、捉えきれないと理解したのだろう。


 だが、追い掛け回す必要はない。

 獲物は、必ず向こうから飛び込んでくるのだから。


 「痛くない!」


 最接近するのは、攻撃を加えてくる瞬間。

 痛みもない。傷もつかないのだから、守る必要はない。

 その分手と肢を使って捕えればいい。


 どうやって殺す?

 人はどうすれば死ぬ?


 首を絞めればいい。


 この綺麗な顔が、自分に在れば、あの人はもっと違う目をしただろうか。


 たとえそうでも、首を絞めてやれば、顔は醜くなる。

 泥沼から沸き立つ泡のような思考のまま、大司祭はユーシンを見て…見失った。


 「?」


 ユーシンはこの機を待っていた。

 執拗に胴や肢を狙ったのは、むしろ慣れさせるため。

 通じない攻撃に慣れさせるため。


 両手をつくほど身を屈め、全身を発条ばねに。


 一気に槍を突き上げる!


 銅鑼を叩いたような音がして、大司祭は大きく仰け反った。

 何が起こったか、混乱した頭が把握しない。


 いや、冷静であっても、彼の技量ではなにがどうなったかわからなかっただろう。

 槍の穂先ではなく石突が己の顎を直撃し、己の歯が上顎を砕いたのだなどとは。


 ただわかるのは、感じないはずの激痛。


 皮肉なことに模造された身体は、痛覚を持ち合わせていた。


 「!!!!???!!!」


 声にならない空気を吐き出し、大司祭は顔を押されて悶えた。

 味わったことのない激痛が神経を灼き、脳髄を掻きまわす。


 だが、その許容できないほどの痛みは、逃げなければ、守らなければという生存本能よりも、許せない、という復讐心に着火した。

 それが、彼本来の資質だったのか、それとも模造された肉体のものだったのかは、ドノヴァン大司祭本人にもわからない。


 火砕流のような怒りに身を任せ、ドノヴァン大司祭はユーシンを、ユーシンだけを視界にとらえる。


 再び下段に槍を構え、不敵な笑みを佩くその端正な顔を。

 先ほどより、ずいぶんと離れた位置に立っている。女神像の台座の横だ。


 逃げられたと感じ、大司祭は突進すべく肢を動かした。

 同時に、ユーシンに向かう影に気付かないまま。

 

 「イダムよ!ターラよ!」

 

 ぐ、と槍を握る腕に力を籠め、叫ぶ。

 強さとは、どんな敵も斃すことだと思っていた。

 己の手で、槍で、ありとあらゆる強者を、難敵を、屠ることだと。


 ぐんぐんと迫る、異形の巨体。


 相手にとって、不足はない。あれを斃せれば、強くなれたと実感できるだろう。

 けれど。

 

 「ヘルカよ、ウルカよ!」

 その巨体より早く。


 「わが同胞を、照覧あれ!」


 クロムが、跳ぶ。

 女神像の台座を起点に、ユーシンの構える槍に向けて。


 「うおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 咆哮と共に、ユーシンは槍を振う。


 同時にクロムは槍の柄を撓め、黄昏の青い闇に包まれつつある空へと、跳んだ。


 台座から槍の柄へ。さらにそこを起点にして、空へと。

 毛長牛を持ち上げると感嘆されたユーシンの膂力が、クロムの跳躍をさらに押し上げる。


 完全に大司祭の頭上へと舞い上がり、クロムは目を見開き、見ていた。


 こちらをぽかんと見上げる大司祭の突進が、女神像の台座とユーシンにぶちあたり、弾き飛ばし、大地に叩きつけられた体が弾んで滑っていくのを見た。

 クロムを仰ぎ見る大司祭が、慌てて顔を覆ったのを、見た。


 執拗に、顔だけには攻撃が当たると痛いと学ばせた。

 ヤクモの攻撃の後にはユーシンが手痛いことをしてくると学ばせた。

 こちらの本命は、ユーシンの攻撃であると、しつこいくらいに。


 クロムは大司祭の頭上を飛び越した位置だ。いや、正確には大司祭がクロムの足元を通過したのだ。


 位置取りは、狙い通り。


 全身を使って身体を捻り、剣を大上段に構える。

 狙うのは、真下。大司祭の肩と首の境目。


 掠れるような金属音は、悲鳴のようだ。


 思わず顔を庇った大司祭の手は、クロムの一撃を防げない。

 だが、守る腕の奥で、大司祭は嘲笑を浮かべる。


 「痛くない!痛くない!女神の守りは…」


 そう、攻撃は通じない。

 刃は、女神の加護を切ることはできない。

 なのに何故。


 この、額に剣と盾を組み合わせたような紋様を浮かび上がらせる青年は。

 そのまま、肩に剣を振り下ろしたまま、留まっている?


 恐る恐る、大司祭は視線を動かした。

 人間ではありえないほど首を回し、至近距離でそれを見た。


 「!?」


 剣が、食い込んでいる。

 青と黒の斑紋で彩られた、女神の加護を受け、何物にも傷つけられないはずの身体に。


 剣が、ゆっくりと進んでいく。内側へ、大司祭の内側へと。


 「地上の紅鴉ナランハルは、爪を外している」 

 全体重を剣に掛けたまま、血に塗れた顔で、クロムは凄絶に嘲笑った。

 「その爪は、ここにある」

 

 護国の証明として雷帝より贈られた、紅鴉の爪で打たれた刀は、代々の二太子ナランハルに継承され、公式行事に参加する際は身に帯びる。

 だが、それは表向き。飾り立て、それらしく作ったただの宝刀にすぎない。


 握り、振ってきたのは、代々の紅鴉の守護者ナランハル・スレンだ。


 刀の上から鋼をかぶせ、剣として仕立て、儀礼用の飾りではない武器として。

 剣の右に重心が傾いているのは、本来の刀を右側に寄せて包んでいるからだ。


 紅鴉の爪は、二太子ではなく守護者が持つ。

 それ故に、二太子の身分を表す意匠は、無爪紅鴉図。


 わざと、剣を痛めるような叩き込みを多用した。

 鋼が削れ、刃毀れするような一撃を。

 右側だけを、ただひたすらに。


 削れた鋼の内側から、微かに除く黒い刃。


 それが、すべての攻撃を防ぎ続けた外殻に食い込む。

 さらに乗せられたクロムの体重により、鋼を削りながら進んでいく。


 「紅鴉の爪ナランハル・ホロウで死ねるんだ。栄誉に思えよ」


 「あ、あああああ!!!!」

 大司祭は体を捩り、なんとか背後に取り付いたクロムを振り落とそうと藻掻いた。

 だがそれはむしろ、剣の浸食を進ませるだけで、クロムは揺るがない。


 クロムが習得した剣術は、疾走する馬の背から背へ飛び移りながら敵を斬り、馬が入れない森林地帯では樹の幹を足場に戦うような異色の剣術だ。

 この程度の揺れで、バランスを崩して落ちるなどという無様は晒さない。

 クラマという名を持つこの剣術は、アスランの大祖が振るった剣技なのだという。現在まで王族らが伝え、クロムはファンの兄、トールから教わった。

 さすがに魔力を打ち出してそれを足場に縦横無尽に斬りかかるなんて言う真似はできないが、じたばたと藻掻くだけの相手の動きに合わせて、その抵抗を完封する程度、造作もない。

 

 だが。

 背後から打ち込まれた剣は、剣先を飛び出させたまま食い込んでいき、鎖骨のあたりで止まる。

 それを大司祭は混乱しながらも見た。


 止まった。


 激痛は、すでに知覚できなくなっている。けれど、死にそうだとか、弱ったという自覚はない。

 動かせば、腕も足も動く。

 ならこれは、大した怪我ではないのではないか。


 女神の祝福は、刃を止めた。


 あれほど痛かった口も、もう治っている気がする。

 槍を振って暴力を振るってきた青年は、その槍を支えに立ち上がっているが、いかにも満身創痍だ。

 もう一人の剣は折れたし、問題にもならない。

 この一撃を防いだのだから、もう、彼らは何もできない。


 勝利だ。


 あとは、ただ、皆殺しにすればいいのだ。

 勝ち誇った喜びで口を歪め、大司祭は背後の青年を見る。


 その顔に…刻印と刺青で彩られた血まみれの顔に、何故か懐かしさと痛みを感じ、大司祭は動きを止めた。

 

 藻掻く大司祭が止まったことを、クロムは不審がるより好機と捉えた。

 もともと、斬撃だけで切り捨てられる大きさではない。

 何度も攻撃を叩き込めば、あるいは仕留められるかもしれないが、時の経過は大司祭の味方をする。


 なら、狙うのは大威力の一撃。それを確実に当てるための一撃だ。


 意図通り、剣は内側へ食い込んだ。紅鴉の爪は、獲物を捕らえた。

 剣を握る手に、力を籠める。


 「騎士神リークス…」


 呼びかけに応じ、額がずきりと疼く。

 すでに『砦』二度、『盾』を一度。

 一日、しかも短時間にこれだけの御業を発動したのは初めてだ。


 あと行使できるのは、最短時間の『砦』が精々だろう。ほんの数呼吸。初めて行使したのと同じ程度の。

 それを今、行使したところで意味はない。


 欲するのは、限界を超えた一撃。


 限界を超えれば、出血や痛みだけでは済まない。

 それは、教えられなくてもわかる。


 だが、それがなんだ。


 握りしめる剣は、主の信頼そのもの。

 無双の至宝を託すにふさわしい守護者と信じてくれた証。


 灯の刻印を持つ者が歩む道が、平坦なわけがない。

 それでも、自分は、守ると決めた。付いていくと誓った。


 なら。

 限界なんぞ、クソほどの意味もない。

 

 「『剣』をッ!」


 鮮血が飛び散り、青と黒の斑紋に、赤を添えた。


 騎士神の御業は、『盾』と『剣』。

 どちらか一方だけが賜れ、行使を許される。

 だがそれは、騎士神の信徒たるものか、騎士として認められたものに対すること。

 

 騎士神の刻印を宿すもの、その恩寵を世界にただ一人宿すものが。


 どちらかしか使えないなど、あるわけがない。


 『紅鴉の爪』から迸るように伸びた光は大剣を形作る。

 それは内側から大司祭の外殻を破壊し、ひびを刻んだ。


 硬すぎる外殻は柔軟性に欠け、内側からの衝撃を殺しきれない。

 罅は全身に広がり、亀裂となって大司祭を壊していく。


 ひび割れた大司祭の背中に両足を掛け、クロムは剣を引き抜いた。


 とたんに始まる落下を、翅を蹴って上昇に変える。

 視界は暗い。日が落ちたせいではないだろう。

 急速に曖昧になる意識に噛みつき、剣を振りかぶる。

 

 最初の一撃でこじ開けた隙間に、光が消え、黒く輝くだけになった刀身が吸い込まれていくのが。


 ぼやける視界の中、それだけは鮮明に見えた。


 「いやああああああああああああああああ!!!!」


 大司祭の絶叫が夕闇を震わせる。


 槍を支えに何とか立ち上がったユーシンは、それを見ていた。


 背後から振り抜かれたクロムの一撃が大司祭の左腕を肩から斬り落とし、血や体液ではなく、濁った金色の靄のようなものが溢れ出すしていくのを。

 そして、それと同時に苦痛に悶えるように羽ばたいた翅が、クロムを無造作に跳ね飛ばしたのを。


 普段なら空中でわけもなく身を捻り、難なく着地するだろうクロムは、そのまま空中を飛び、落下に転じる。


 気を失っているのか!


 あのままでは頭から落ちる。十分死ねる高さだとユーシンは一瞬で判断した。

 だが、駆け付けようとも、足が動かない。


 突進を防御したときに右手が乾いた音を立てて、それから動かない。

 それで吹き飛ばされたときに受け身が取れず、叩きつけられた左脛が折れた。

 女神像の台座を盾にしていなければ、最初の突進で死んでいたかもしれない。


 動けない。けれど、動かなくては仲間が死ぬ。


 以前のユーシンなら、折れた骨が肉を破って飛び出そうとも、無理に動いただろう。

 仲間を助けるためではない。

 戦力が減るなら、それを敵の有利に変えないうちに敵を殺すために。


 そうした戦い方が「恐れを知れぬものナラシンハ」という呼び名となっていたのだけれど。


 今のユーシンは、「恐れを知れぬもの」ではない。

 だから、信じて見ていた。


 駆け込んだヤクモが落下するクロムを受け止め、その勢いのまま横へ跳んで転がっていくのを。


 ごろごろと転がりつつ距離を取り、ヤクモはクロムを抱えたまま腕を上げる。

 ぐ、と誇らしげに突き出された親指が、二人の無事を高らかに宣言していた。


 「…っ!」


 全身の力が抜け、代わりに迸る熱い感情が、ユーシンの双眸に同じ温度の雫を盛り上げる。


 敵は、まだ倒れていない。

 自分は、もう戦えない。

 クロムは、気絶している。

 ヤクモも、転がったまま立ち上がれない。


 「ああ、ああああ…ころ、ころす…しね、しね…」


 靄を垂れ流しながら、大司祭は肢を動かした。

 突進はできなくとも、ゆっくりと前へ、槍にすがるユーシンへとにじり寄っていく。


 だが、それでも。


 「イダムよ、ターラよ。ヘルカよ、ウルカよ、お納めあれ」


 沈み切った太陽に代わり昇った満月が、地上を照らす。

 いつしか雲は晴れ、紫と青と黒が織りなす空で輝く、黄金の月。


 「我らの、勝利を」


 幕を引くのは、自分でも、ヤクモでも、クロムでもない。

 我らが、頭目パーティリーダーだ。



 弦を引き絞ったまま、ファンは唇を噛み締める。


 意識を失っているらしいクロムに、満身創痍のユーシンに、横になったまま起き上がれないヤクモに駆け寄りたい。


 けれど。


 クロムが作った好機は、今、このひと時。


 濁金の靄はじわじわと傷口を覆い、修復している。

 満月も天にある今、完全に修復されるのは時間の問題だろう。


 だから、駆け寄って安否を確かめる暇など、ない。


 信じる。いや、わかっている。

 主を置いて、さっさとあの世に行くような、無責任な奴ではないと。


 今、なさねばならないことは、違う。

 大丈夫か、怪我しているか、魔法薬は、と慌てふためくことではない。



 最後の、一撃を。

 とどめの一撃を、射ること。



 鷹の目は、ファンの意思とは関係なく発動するものだ。

 見たいと思えば遠くのものを鮮明に映し出し、その目に捕える。


 けれど、その真価は、ただ遠くを見通すだけのものではない。


 天を舞う鷹が草の根に隠れる鼠を見つけ出すように。

 隠されたもの、本来見えないものを、見る。


 魔力の少ないファンにとって、それは多大な代償を要求される行為だ。

 だが、仲間の血と痛みを無駄にすること比べれば、草の実一つほどのものだ。

 とるに足らない。

 

 両目から、血が涙のように零れていく。

 それでも視界は明瞭さを保ち、眼前にあるかのように、濁金の靄が見えた。


 その奥に蠢く、丸いもの。

 本来なら心臓がある位置で、虫の幼虫のように蠢くもの。

 

 靄よりも更に昏く、穢れた、金の眼。

 穢金の眼と、満月色の双眸が、互いを捉え、視線を絡み合わせる。



 「一射必中ナム…」



 呟くのは、大クロウハの遺語。


 それは、彼の世界の神の名なのだという。

 異なる世界の神なのだから、どれほど祈っても祈りは届かず、加護はない。


 けれど、彼は生涯にわたってその名を唱え続けた。

 決して外してはならない、この一射で敵を屠らなければならないとき。


 そんな時に、必ず、届かない神の名を呼んだ。


 ある日、息子である開祖が何故届かない神の名を呼ぶのかと問うと、大祖はこう答えたと伝えられる。


 神は、天上や神社にましますのではない。我が心に坐すのだ。

 神は尊いものだ。その神が坐す心もまた、尊い。

 その心に、己に恥じるようなことをしてはならない。

 成さねばさねばならぬことを成すのなら、己に、己が心に、魂に宣え。

 神は、助力を乞うものではない。こうするのだと宣言し、その成就を見ていただくものだ。


 それ以来、大祖の血を引く者アルタン・ウルクたちは、己のすべてを賭ける一射を放つときに必ずその名を呼んできた。


 その心、その魂に、坐す神の名を。


 必ず、当てる。そして、必ず、倒す。

 だから、見ていてください。この一射、己に恥じぬものにする、その様を。



 「一撃討滅ハチマン!!!」



 放たれた白銀の矢は月の光を浴びて金色に輝き、黄昏の闇を裂く。

 濁金の靄が、その奥にあるものを隠そうとするよりも速く。


 矢は、金の眼を貫いた。




 風が、吹き抜けていく。

 秋の、冷たい澄んだ風が、ファンの淡い金の髪を揺らした。


 「あ…」


 風が、吹いている。

 当然あるべき自然現象は、先ほどまでなかった。


 何故、なかったのか。それは、壁に囲まれていたからだと思いいたって周りを見渡せば、壁が透けている。


 薄氷が日差しに揺らいで消えていくように、大神殿を模していた壁は消えようとしていた。


 《…ナランハル…》


 扉もまた、消えかかっている。だが、そこに描かれた女の絵は、明確に顔を歪ませて存在していた。


 《ナランハルの子…次は…》


 逃がさぬ、と、歪んだ笑みを浮かべ、女もまた消えていく。


 「また、負けないさ」

 最後に目だけを残した女の残滓に向かって、ファンは笑って見せた。


 「何度だって、俺たちは、負けない」

 息を吐き、力を抜いて、空を見上げる。


 そこに輝くのは、澄んだ黄金の満月。

 満月の光が照らすのは、かつて女神だった石くれを乗せていた台座と、瓦礫のみ。


 大司祭の異形の姿は、どこにもない。


 異形を構築していたはずの遺体も、クバンダ・チャタカラの女王の死骸も。

 どこにも、ない。


 ただ、台座の影が蟠ってるだけだ。


 「…!」

 弓を投げ捨て、ファンは走った。

 月は未だ登り始めたばかり。

 なのに、台座のすぐ足元にあんなに影ができるわけが、ない。


 「踏ーめ踏ーめ、影の中、尻を蹴飛ばし頭を叩け」


 息と共に吐き出すのは、今夜アスラン中で歌われているはずの歌。

 相変わらず調子はずれなうえに、苦しい息と一緒に吐き出すのだから、歌になっていなかったけれど。

 

 「叩いて追い出せ影の中、月の門まで追い立てろ」

 

 その歌は、歌詞を変え、拍子を変えて、世界中で歌われている。

 月が最も大きく輝く時に、その時にできる影の中に潜むものを追い払えと歌われる。


 月が大きく見えるとされる満月は、国によって違う。

 アスランでは今夜だが、アステリアは春先だ。

 だから、今夜この国でそれを歌うものはいないけれど。


 ファンの故郷で。生まれ育ったアスラン王国で。


 今、同じ歌が響き、影が踏まれる。

 悪しきものを、追い払えと、この世界から出て行けと。


 それは、簡易的な集団術式だ。きっと、これからやろうとすることに力を貸してくれる。


 悪しきものとは、つまり、月の門の向こうへと追放されたもの。

 黄昏の、君。


 「影の中の、お化けの眼!」


 本来なら、ここで影を踏む。

 その代わりにファンは、明々と燈る灯の刻印を、蟠る影に叩きつけた!


 何かが、叫ぶのをファンは感じた。

 全身を打ち据えるそれは、声ではない。


 空気を震わせ、音として響くものではなく、言うなれば感情そのもの。


 それは沼地に沈む死者の腕のように、ファンを包もうと、引きずり込もうと欲する。

 

 憎い、恨めしい、妬ましい。

 辛い、苦しい。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 こんなに苦しいなら。

 明日も明後日も同じ苦しみが続くなら。

 あいつも、そいつも、誰もかも。

 消えてしまえ、自分も、あいつも、誰も彼も。

 

 呪詛の声、苦痛の叫び、怨嗟の囁き。

 こんなものが満ちる世界は滅ぼしてしまうべきだと、わめきたてる。


 それをファンは、跳ね除けなかった。

 

 うん。そうだ。

 誰だって、一国の王子に生まれて、何不自由なく育った俺だって、そう思う日がある。


 それを否定するのは、世界を否定することだ。綺麗で平穏で、誰もが満足する世界なんて存在はしない。


 生き物はみな、植物ですら他の犠牲いのちの上で生きている。


 可憐に咲く野の花だって根を巡らせて他の草を枯れさせようとするし、その花の蜜を吸う蝶の幼虫は、一本の木を丸裸にする程に葉を食い荒らす。


 だが同時に、草の根で耕された土は、その草が枯れた後に他の植物が生い茂る。


 幼虫は葉を食い荒らすが、蝶は受粉を助ける。


 奪い、与え、分け合い、支えあって、この世界は存在している。


 人であっても人として扱われず、ただそう生まれたからと、虐げられる人もいる。

 住んでいた国が戦争に負けた。それだけで家畜のように扱われる人もいる。


 けど。

 世界は汚くて、争いが絶えず、誰も彼もが満足するものじゃあないけれど。


 ファンは思い浮かべる。闇に浮かぶ灯のように。 

 

 草原を馬に乗って駆ける爽快感を。

 家族と囲む食事の美味しさを。

 仲間たちと歩く道の楽しさを。

 独り本の項を捲る時間の安らぎを。

 新しい知識を得るたびに沸き立つ興奮を。


 辛い苦しいこと、それだけでも、ないんだ。

 

 世界は、綺麗でも汚くもない。

 満ち足りて平穏なのでも、争い絶えず欠けたものを奪い合い続けるわけでもない。


 不幸や不平を嘆く人を救い、非道を働く者を罰することはない。

 同時に、誰かを援けようと伸ばす手を、叩き落とすこともない。

 

 世界は全てを許容する。可能性は無限に広がる。


 それを、俺は知っているから。

 

 そうだね、と寄り添う声がしたように、思えた瞬間。

 灯はさらに強く、明るく輝き。


 影は、消滅した。

 


 風が、吹く。


 掌が抑えているのは、わずかに湿った字面。

 その上に横たわる、女神の矢。

 湿り気は、白い暴風の名残だ。影の残滓ではない。


 今度こそ終わったと断じて、ファンは矢を掴んで立ち上がった。


 視界が赤くかすむ。目の血管がかなり損傷しているのだろう。

 それでも秋風は心地よく、火照った肌を撫でていく。


 「ファン」

 名を呼ばれて、ファンは顔を向けた。


 ぺたりと座り込むヤクモは、動かないクロムを抱えている。

 けれど、その顔はにんまりと笑っていた。


 「クロム、だいじょーぶだよ」

 「生きているな!」


 一番重症なのは、誰がどう見てもよろよろと歩み寄ってきたユーシンだろう。

 腕をぶらつかせ、足を引きずりながら笑うユーシンに、慌ててファンは肩を貸した。


 何も言わなくても、どうしたいのかはわかる。

 二人の側へ。生きている体温が感じられるほど傍へ。


 ユーシンを支えるファンの足も覚束ない。

 どうしてもゆっくりとした動きになってしまう。


 だが、それで何も問題はない。


 敵は斃した。勝てた。

 ゆっくりとでいいんだ。そう、己に言い聞かせる。


 いつでも跳ね回っているユーシンでさえ、さすがに最低限にしか動いていないんだからと、抱え込むようにしている幼馴染に目を向けた。


 その天色の双眸が、何故か張りつめて、動けないクロムとヤクモを見ている。

 より正確には、その後ろを。


 「!!」


 二人の視線が、ユーシンに遅れてその向かう先を捉えた。

 

 「…ざ…ま」


 それは、染みのように見えた。

 何もない空間にぽたりとたれ、広がる染み。


 「ゼラシア…さまあああああああああああああ!!!」


 染みは痩せこけた老人の形をなし、濁った声が風に散る。

 

 死霊。


 それがなんであるか、博物学者でなくてもわかるだろう。

 強い怨念や妄執が、魂を穢し、歪め、地上にとどめたもの。


 眼窩は黒く落ち窪み、どこを向いているのかもわからない。

 だが、全員が、理解していた。


 垂れ流しの怨念が、妄執が、向かう先を。

 「クロム!」


 叫び、伸ばす手には、もう灯は輝いていない。

 けれど、手を伸ばし、重たい足を無理やりに動かす。


 女神の矢。その聖なる力が、僅かでも残っているのなら。

 死霊を退ける力が、まだあるのなら。

 

 その背を、渾身の力でユーシンは押し出した。

 立っていられず、地面に叩きつけられるように倒れる。


 それを視界の端で見ながら、ヤクモはクロムを自分の身体の下に隠そうと藻掻いた。

 体重差と体勢でそれができないことを悟り、咄嗟に覆いかぶさる。


 わずか、十歩もない距離。

 それが途方もなく遠く、よろめくように走る身体は遅い。


 死霊はファンたちの足掻きを嘲笑う様に、手を伸ばす。


 目を閉じ、緩やかに胸を上下させるクロムへと。

 


 ふんわりと、その手は止まった。

 


 柔らかな光が、クロムを…いや、クロムと、クロムを抱え込むヤクモを覆っている。

 無意識に『砦』を発動させたのかファンは目を瞬かせ、その仮説を否定した。


 『砦』を形作る光は、もっと強く、硬質だ。

 光に硬さなんてないはずだけれど、夏の日射しと春の日溜まりが違うように、二人を覆う光は『砦』とは違う。


 『砦』が堅牢な石の硬さであるなら、この光は薄絹の柔らかさ。

 弾き飛ばすのではなく、絡め、受け止め、死霊の動きを封じている。


 光が、揺らぐ。

 ふるりふるりと揺らぎ、集まり、それは違う形を作ろうとしていた。 


 女性だ。

 女性の、後ろ姿。


 輪郭は茫洋としていて、どんな女性なのかもわからない。

 知覚したと思った瞬間、それはすぐに曖昧に霞んでいく。

 その感覚を、ファンは知っていた。

 

 女性は両手を広げ、死霊を…ドノヴァン大司祭を抱きしめる。


 腐った木の皮のようだった肌が、痩せてはいるが人間の肌へと変わり、黒い穴でしかなかった眼窩が、紫水晶の色をした瞳を取り戻す。


 その瞳は呆然と空中に向けられ、そして。

 安らかに、穏やかに、閉じた。


 「女神アスター…」


 ファンの呟きに、女性は僅かに振り向いた。

 顔が見えても、どんな女性なのか…少女なのか、老婆なのか、それすらも判断がつかない。


 ただ、その唇が動き、紡いだ言葉だけは、わかった。

 

 私は、許します。


 そう、女神は、囁き。

 夕闇に、ドノヴァン大司祭を抱きしめたまま、消えた。



 「あ…そうか」


 思わずへたり込み、膝と手を使って前へと進みながら、ファンは何が起こったのかを口に出していた。


 それは、仮説にすぎない。けれど、真実だと、確信している。


 「ウィルさんの、『加護』だ」


 亡者を退け、邪術や呪いを跳ね返す御業。

 人が生まれ持つ加護とは別に、女神アスターが授ける護り。


 一人の神官見習いが、押し付けられていた思想を打ち破り、自分の全存在で知った女神の愛。


 その愛は、クロムを護り…

 ドノヴァン大司祭を、救った。


 (もともと、クロムには強いアスターの加護があるはずだもんなあ)


 本来あり得ない、聖女から生まれた子。

 聖女が女神アスターの娘なら、クロムは孫みたいなものだ。


 この女神の庭アステリアで、女神アスターの聖地で、奇跡が起きても不思議ではない。


 それを齎したのが、大神殿左方の、一人の神官見習いだったというのは…無理やりなこじつけではないと、思う。


 美しい物語が真実とは限らない。

 けれど、真実が美しい物語だったということは、あるのだから。


 「俺はお前という守護者を、誇りに思うよ…」


 なんとか二人の前まで這いより、ファンは土に塗れた手を伸ばす。

 ちょっと袖で叩いてから、穏やかに目を閉じるクロムの頭に置いた。


 「ヤクモも、痛む場所は?」

 「ぜんぶ、かなあ」

 ヤクモはそう言いつつも、にひーと笑って見せる。

 「ユーシンはあ?」

 「俺もだ!」

 地面に伏したまま、声だけは元気よくユーシンは答えた。


 「あー、これは、要救助だなあ。リディアたちが来てくれるのを待とう」


 日が暮れて気温が下がってくれば、体力を奪われて凍死する可能性はある。

 秋であっても山の中、まして転移陣により呼び込んだ吹雪は、まだ大地を冷たく凍えさせている。せっかく勝ったのに、凍死しましたじゃ格好がつかない。


 あれだけ魔力がまき散らされたのだし、きっと気付いてくれるだろう。

 クロムの頭を撫でながら、ファンはぼんやりとそう考えた。


 「…馬蹄だ」

 転がったまま、ユーシンが呟く。


 「馬蹄?羽音じゃなくて?」

 「馬蹄だ!」


 断言に耳をすませば、確かに馬蹄の響きが近寄ってくる。

 一騎二騎ではない。部隊と呼んでも差し支えない数だ。


 それはすぐに耳を澄まさなくても聞こえるようになり、自分たちが歩いてきた方向を見れば、月明かりに照らされて駆け込んでくる姿があった。


 『ファン!無事ですか!』

 『わきゃあああああああ!!!』


 「リディア…と、ウルガさん!?」


 二頭の騎馬が荒い息を吐きながら神殿跡地に駆け込み、棹立ちになって止まった。


 馬が前脚を下ろすのと同時に、その背から騎手が飛び降りる。

 涙でくしゃくしゃになっているリディアと、無表情で見下ろすウルガに、ファンは曖昧な笑みを浮かべて見せた。


 あ、怒られるな。これ。

 昔から、怒る時はこんな顔だ。正直、異形の大司祭より怖い。


 『…もう…本当に…この子は』

 囁くようなタタル語は、わずかに湿っていた。

 

 クロムの頭に乗せられていた手を、ウルガは己の手で包む。

 アスラン王国二太子という身で、なんと軽率なことしたのかと叱り飛ばすのが正しいだろう。


 けれど、ファンがそう決断し、進み、戦っていなければ、事態はどうなっていたかわからない。


 凄まじい魔力の発動を感じたのは、リディアたちが待機していた広場に到達したときだ。

 まだ回復しない飛竜を置いて、リディアも馬に乗り、急ぎ山頂へと向かおうとした。


 だが、その山頂へと続く階段に、どうやっても侵入できない。

 不可視の魔力障壁が、ぐるりと山全体を包むように覆っていることは、すぐに気付いた。


 脳裏に浮かんだのは、魔族召喚だ。器がなじむまでの蛹を作ったのだと。


 何とか飛ばせた飛竜も、障壁に弾かれて先へ進むことはできなかった。

 焦りつつ突破口を探していると、その障壁は唐突に消えた。


 つまりは、それが必要なくなったということだ。

 魔族の完全降臨か、灯の英雄…とはまだ呼べない、ファンたちの勝利か。


 急ぎ駆けつけてみれば、倒れてはいるけれど、生きている四人。


 その気の抜けた顔が、勝利を宣言していた。


 お説教は、後でもできる。

 勝利は、勝利として讃えるべきだ。

 彼らは戦い、全力を尽くし、勝った。

 それは決して、叱咤されるようなことではない。


 『治癒を!』


 ウルガの指示に、ラヤ教独自の赤い袈裟を鎧の上に身に着けた僧侶が、馬から飛び降りる。駆け寄る先は伏したままのユーシンだ。

 『俺はいい。先にあっちを…』

 『あなたが一番重症でしょう!恐れ知れずも大概にしなさい!ユーシン!』


 こちらにはきっちり雷を落とせば、きゅ、と形良い眉が寄る。


 (あらこの子、今、ちょっと怖がりました?)

 久しぶりに会う従姉の子は、いい方向に変わりつつあるようだ。


 『わっきゃあああああ!!!目を開けてえええ!傷はあしゃいですからああ!』

 『いや、死んでないし、起きてるし。俺むしろ、軽傷だからな?リディア』


 体が重いのは、灯の刻印を、その御業を行使し続けたからだろう。

 鷹の目の代償もまだ視界を翳らせる。

 それでも、直接怪我をしたとか、ダメージを受けたわけではない。


 『寝れば治るよ。ヤクモとクロムに治療をしてくれ』

 『ううう、御意れしゅううう!』

 『あと、泣き止め。女の子がそんな顔しちゃいけません』


 涙だけではない液体でくしゃくしゃの顔で、リディアは頷く。

 ぼたぼたとファンの太腿や横たわるクロムにその液体がかかった。


 『…汚ぇ…鼻水おとしてんじゃねぇぞ、こら…』


 「クロム!」

 不機嫌そうに半分だけ目を開けて、クロムは声を絞り出す。


 『鼻水じゃないもんッ!乙女水だもん!』

 『…お前もう、乙女って年じゃねぇし…殺すぞ、クソが…』


 それだけ言って、また目を閉じて寝息を立て始めるクロムに、ファンは大きく息を吐き出した。


 「大丈夫みたいだ」

 「何言ってるかわかんないけど、絶対ろくでもないこと言ってるよね…?」

 「えー、うん?まあ…」


 はは、と力の抜けた笑みを浮かべれば、ヤクモもにひひと笑い返す。

 二人の笑い声に、なんだか可笑しくなったらしいユーシンもわははと笑い声をあげて、治癒の御業を行使する僧侶を驚かせた。


 笑ったまま仰ぎ見る空に浮かぶのは、瞳と同じ色の月。


 今頃大都では、影踏み歌があちこちの路上で響き、大人も子供も笑っているんだろう。

 今年は、両親と兄で、お菓子を配っているのだろうか。

 まさか、影を踏んでお菓子をもらった子供も、相手が八代大王とその后妃に、一太子とは思わないだろうけれど。


 そう思えばますます可笑しくて、ファンは声をあげて笑った。


***


 弔いの鐘が鳴る。


 「あ、今日だっけ。大司祭様の葬儀」

 冒険者ギルドのカウンターで書類に頬杖を突きながら、アンナさんは呟いた。

 

 受付としてはどうかと思われそうな態度だけど、昼過ぎは仕事を探す冒険者も、駆け込んでくる依頼人もあまりいない。


 季節も晩秋へと移り変わり、山賊やゴブリンが収穫物を狙って出没する時期は過ぎた。隊商もそろそろ今年の仕事を収めて、拠点の街で冬ごもりを始める。


 冒険者の仕事は減り、冒険者ギルドは…忙しくなった。


 冒険者が国に支払う税金は、ギルドが毎回の依頼料から取り分け、国へと治めている。

 とは言え、どうしてもまとまった金が必要で、とか、抜かれたらパーティを維持できない!とか言い出す輩は数多い。

 この秋から冬にかけての時期は、誰が税金を納め終わっていて、誰から取り立てねばならないのか確認作業が始まるわけだ。


 ギルドの職員は全員読み書きできるとは言っても、冒険者の数は多く、受けた依頼はもっと多い。


 山賊退治などの本来は国がやるべき仕事をこなしていたり、仕事の途中で災害救助などをしていた場合は税金が安くなる。

 その計算もしなければいけないし、字を書けない冒険者に代わって、こういうことをしました、税金を免除してくださいという申請書も書かなくてはならない。


 そうなると職員だけでは手が足りず、信頼出来て読み書きができる冒険者が駆り出されたりする。


 そう、俺みたいな、読み書きができて、「お願い!ねぇ、いいじゃない。どうせ今、仕事できないんだし」と言われると「そうですね」と答えてしまうような冒険者が。


 「今日ですね」

 「あんたたちも大変だったわね」


 アンナさんの言葉に、俺は曖昧な笑みを浮かべたまま、書類へ目を落とした。


 カウンターの内側に座らされてペンを走らせる書類は、何人目のだろう。

 未処理の山はだいぶん減ってきたし、幽鬼のような顔色の職員が立ち上がり、ふらふらとそちらへ向かっているから、終わりは近い。たぶん。

 

 俺がこうして手伝いをしているのも、うちのパーティが仕事に出られるような状態じゃないからだ。


 マルダレス山にある聖女神殿跡地で、魔獣を使った麻薬の生成が行われ、たくさんの人々が殺されていた。


 その大神殿からの発表に、王都イシリスの住人たちは震え上がった。聖女神殿は朽ち果てているとはいえ、聖地だ。巡礼に向かう信徒も多い。

 そうした巡礼も多く犠牲になっており、どれほどの人々が山林に消えたかすらわからないとなれば、なおさらだ。


 しかもそれに、大神殿の神官が加担していたなどと。


 あってはならない事件は、住民たちの話題を独占した。

 肉屋の若旦那は包丁を振り上げて語り、洗濯屋のおばちゃんは桶に入れた洗濯物を踏みながら、近所の奥様方と罰当たりどもを罵るのに夢中。その娘さんは赤ちゃん抱っこして、いやだわいやだわと若奥様方と震える。


 何よりも住民たちを怒らせ、嘆かせたのは、ただ一人事件の真相に気付き、単身魔獣討伐へ向かったドノヴァン大司祭の死だ。


 何が行われているのか。その真相を知ったドノヴァン大司祭は、単身聖女神殿跡地へと向かい、魔獣と相討ちになった。


 バレルノ大司祭が真相を知り、半日遅れで支援のために送った冒険者と右方の神官達が見たものは、無数の魔獣の屍と、息も絶え絶えなドノヴァン大司祭が倒れ伏す…そんな光景だった。


 けれど、ある意味では彼らは間に合ったのだ。

 ドノヴァン大司祭は、最後の力を振り絞り、頼みを残す。


 この地で犠牲になった人々の鎮魂のため、ここへ自分を埋葬してほしい、と。


 だから、今日大神殿の聖堂に置かれている棺には、その亡骸はない。

 死してなお、人々に尽くそうとするその姿勢は、王都イシリスの住民たちの涙を誘った。


 パン屋の親爺さんは話しているうちに分泌液が大変なことになり、慌ててその手元からパンを救出したものの…うん。申し訳ないと思いつつ、買値の半額くらいでギルドの冒険者に売りました。

 ちゃんと、ついてるかもよ?とは伝えたから、悪いことはしてない…そう自分に言い聞かせて。


 ドノヴァン大司祭が斃した魔獣は、大神殿の庭に晒されている。

 その蜂に似た悍ましい姿はイシリスの住人たちを怯えさせ、こんなもの…しかも群れだったらしい!…に単身立ち向かったドノヴァン大司祭の勇気が褒めたたえられた。葬儀の後、燃やされる手はずだ。


 証拠になるかと、一匹だけ持って帰ってきたクバンダ・チャタカラの死体は、明らかに剣で切られた死体だったんで、ドノヴァン大司祭は剣を使えたことになってきている。


 噂や話というのは一人歩きして、いつしか物語になるものだ。


 大神殿左方の一部の司祭、神官たちの腐敗ぶりは誰もが知る公然の秘密だったからこそ、それにただ一人で立ち向かい、命を落とした大司祭を誰もが聖人と讃え、その死を悼む。


 その聖人が、なんで悪事をもっと早く告発しなかったのか?

 そりゃ、人質とられてたんだよ!

 いやきっと、最後まで自首することを信じていたんだわあ!

 いやいや、真相を知ったのは、ほんの数日前、きっと女神の信託を聞いた時だ!


 どこまでがバレルノ大司祭が書いた筋書きなのかわからないけれど、もう放っておいたほうが真実から遠ざかってくれるだろう。


 大事なのは、ドノヴァン大司祭が比類ない聖人として語られていく、ということなんだから。


 大神殿自体も、ドノヴァン大司祭の死という犠牲を見せつけたことで、悪いのは今回捕まった司祭、神官だけだと、何故見抜けなかったと批判する声は少ない。

 その犯人たちは、城の牢獄に繋がれて裁きを待つ間に自殺したとか。

 まあ、明らかに拷問を受けて死んだと思われる遺体を受け取った遺族が、最後は罪を認めて自決したのですと言い張ったのだからね。自殺、でいいんだろう。


 その後の左方の人事に、バレルノ大司祭はあまり口を挟まなかったらしい。

 ただ、後任の大司祭には、ドノヴァン大司祭を長年支え、その死に慟哭したオーエン司祭を推薦していた。

 俺たちが初めてドノヴァン大司祭に会ったとき、世話を焼いていた司祭だ。なんか苦労してそうと思った人だ。

 オーエン司祭は宰相派の貴族出身のせいか、反対意見は特に出ず、すんなりと決まったと聞いている。

 

 ま、おれの見る目がねェ事は、証明されちまったけどよ。あの人は、ドノヴァン大司祭を穢すような真似はきっとしねェよ。


 ほんの数日前より、さらに老いたように見えたバレルノ大司祭は、そう言って苦笑した。

 また、弱者を金儲けの道具として踏みにじるようなことがあれば、今はドノヴァン大司祭を讃える人々も、何もできなかった無能だと手の平を返すかもしれない。

 それは、誰よりもドノヴァン大司祭を尊敬し、仕えていたオーエン司祭には耐えられないだろう。

 

 おそらく、うっすらとオーエン司祭はドノヴァン大司祭が何をしていたか知ってらァ。だからこそな。

 ウィル坊やをこっちで迎え入れたのも、何も言わなかったしよ。


 くく、と笑うバレルノ大司祭の後ろで、ウィルさんが顔を紅潮させていた。

 あなたの『加護』で、俺たちは、ドノヴァン大司祭は救われたんだよ、と伝えたら、ぽかんとしていたけれど。

 彼は左方を破門になり、右方に迎え入れられた。

 大神官に昇格したロットさんの、最初の弟子になるんですって、嬉しそうに教えてくれた。

 まずは女神さまのお姿を模写する修行らしい。なかなか変わった修行法だよな。


 「どう、ファン?書類終わった?」

 「あと、これだけですね」


 考えているうちに、手は勝手に動き、申請書を書き上げていた。

 聞き取りを行った職員のメモは、半分くらい解読不能だ。

 だが、まあ、なんとなく合っている。そういう事にしとこう。

 書き直せって言われたら、さすがに折れる。今日でお手伝い三日目だよお…


 「あ、そうそう。最初、あんたに突っかかった子いるでしょ?あの子、冒険者辞めたわよ」

 「実家に戻る前に、本人から聞きました。まずは家に戻って何がしたいか考えますって」

 「そうね、それがいいわよね」


 考えて、やっぱり、何かができると思ったら、また立ち上がります。


 そう笑ったエルディーンさんは、最初のころの気張りや背伸びのない、年相応の少女だった。

 変な緊張感がないせいか、むしろ冒険者ギルドや大神殿で突っかかってきたときよりも強く見える。

 忠実な騎士たるレイブラッドも、やはり彼女に従うと答えた。


 二人の出立には、聖女候補だった少女たち…あと仲良くなってた、アニスさんとシャーリーさんも駆けつけ、抱き合って泣いていた。

 必ずまた来ると、何十回も約束して、また泣いて。


 最後は笑って手を振りあった光景は、きっと彼女らを守りきった二人への、何よりの報酬だっただろう。


 「あんたたちはどーすんの?もうそろそろ仕事できるでしょ?」

 「そうですねえ」


 大司祭の最期に立ち会った冒険者として、名指しの依頼が最近は増えた。

 もともと、バレルノ大司祭から依頼を受けたという話が広まり、なんだか一躍信頼出来る冒険者のリストに名前が載ったらしい。


 冒険者は信用商売だ。


 あの、バレルノ大司祭が直接依頼をして、ドノヴァン大司祭の最期に立ち会った冒険者なら、絶対に間違いない。


 そう思って依頼をしてくれるのは良いが。


 「ほら、これなんてどうよ?ドラゴン退治に参加してくださいですって」


 とりあえず難しい依頼を指名してくるのは、どうかと思う。


 一応差し出された依頼書を見てみると、どうやらドラゴンと言っても下位種レッサーみたいだ。


 通常のドラゴンが魔導も使うし知能も人間以上に高いのに対して、下位種はあくまで動物としては賢いくらいで、魔導は使えない。ブレスは吐いてくるけれど。


 なので、下位種というよりは違う種類の生物として新種認定したほうがいいのではと、大学でもたびたび論議される。

 決着がつかないのは、下位種はともかく通常のドラゴンの生息数が少なく、いても至近距離では到底観察できないからだ。

 本当にかけ離れた種族か判断がつかないんだよ。下位種の研究もあまり進んでいないしな。


 なんで、討伐じゃなく観察会とかなら何が何でも参加したいけれど。


 火山地帯に棲息する赤竜レッドドラゴンか。てか、ここから一番近い火山って、普通に一月以上かかるな。

 ドラゴンが棲息する環境を含めて、ものっすごく見たいけど。


 「すいません、もう半月もしたら、一度実家に帰らなきゃなんないんですよ」

 「あら、そうなの?」

 「はい。冬支度で忙しくなりますから。去年は大目に見てもらいましたけど、今年は…」


 実際、遊牧民の冬支度は忙しい。

 草の尽きない行程を相談し、寒波を乗り切れなさそうな羊を選び、肉にする。

 住居ユルクも冬用の幕へ張り替え、燃料の乾燥した牛糞をいつも以上に貯蓄する。

 大人も子供も年寄りも、男も女も、王子も下働きも総出で、冬支度をするんだ。


 ちなみに俺は牛糞を見つけるのが抜群にうまく、「牛糞王子」という異名をつけられていた。

 今考えるとなんだかなーと思うけれど。

 当時、親父は未だアスラン王じゃないから王子じゃなくて王孫だし。

 言われるたびに得意になっていた幼いころの自分に、そういうところだぞと言ってやりたい。


 …おだてられて、みんなの分も拾ってたからな。


 まあ、乳兄弟たちはサボってたのがバレて、俺の乳母たち…つまりそいつらのお母さんの手によって、乾燥していない牛糞に頭からダイビングさせられてたけど。


 「なんで、これは受けられませんね」

 「そお?竜殺しドラゴンスレイヤーの称号は結構すごいわよ?」


 「竜殺し!」


 ばん、とカウンターが鳴った。

 本来なら自分がいる側、カウンターの向こうで、ユーシンが目を輝かせている。


 まだ右腕は三角巾でつられているけれど、杖は三日前にへし折って以来、どっかに捨ててきたようだ。

 杖は折るわ、こんな腕なのに槍を振るわで、ウルガさんにでっかい雷を落とされたけれど、もちろんもう忘れている。


 仲間たちは俺ほど書類仕事が得意ではないので、ギルドの卓を占領してうだうだしていた。

 まあ、そんな時間も必要だしな。呼びかければ…クロム以外は…ギルドの雑用を手伝ってくれるし。一応、お駄賃程度とは言え、報酬も出るしね。


 「ユーシン、バンしちゃダメでしょ!」


 あーあ、という顔で、ヤクモがその後ろにいた。

 転がったときにできた擦り傷や切り傷は、治癒の御業じゃなく傷薬と膏薬で治療をしている。

 あとは打撲やらなにやらで、俺と同じく休養するのが何よりの治療法だ。


 麓の村まで相乗りというか、背中に括られて降りて、村長さんらの好意で三日間休養した。


 俺たちが辿り着いて、一瞬顔をみたマルトさんやウー老師は、次に目を開けたら…次の日の夕方だった…もういなかった。

 一応手紙が残されてて、そこにはたどたどしい文字で「若とお話したら殿下がすねるから帰るね」と書いてあった。

 酒、ずいぶん抜けてきたんだなあ。酷かった時は新しい文字を生み出してたもんなあ。


 先に村へと運ばれていた唯一の生存者は、やっぱり薬草採集に向かった、冒険者だった。

 彼女は、王都には戻らずに、村の神殿に入ることにしたようだ。


 友人の真新しい墓の前で、質素だけれど清潔な神官見習いの服を着た彼女は、「わたし、お腹、へるんですよ」と言って泣き笑いを浮かべていた。


 きっと大丈夫だと思う。

 何をもって大丈夫と言っていいのか、それはとても難しいけれど、彼女はきっと、生きていける。

 あの神殿には、彼女と同じ傷を持つ人がマーサさんをはじめ何人もいる。

 それは大きな手助けになるはずだ。


 ちゃんと女神の矢も返したし。

 返した時にマーサさんが浮かべた微笑は、とてもきれいだった。



 「だが、竜殺しだぞ!ファン、俺はナルガと戦ってみたい!」

 「アスランやキリクでいうところの竜は、こういうレッサードラゴンとは違うけどな?」

 「む、そうなのか…だが、強いのだろう!竜の肉はうまいとも聞く!ぜひ、戦ってみたい!」

 「なら一人で行ってお前が食われて来い。食あたりで倒せるかもしれん」

 むい、とユーシンを押しのけて、クロムがカウンターに凭れ掛かる。



 クロムが目を覚ましたのは、下山した翌々日の朝だ。


 その日一日むっすーとしていたのは、気絶した自分を恥じたのか、ウルガさんの背中に括りつけられて運ばれたのを聞いたからなのか。


 ヤクモ曰く、「ファンが褒めたの、聞けなかったからだよう」とのことだけど。


 なら改めてと言おうとしたら、ヤクモのおでこをひっぱたいた挙句、どすどすと部屋に戻ってしまったんで、言えてない。


 こういう時のクロムは面倒くさいので、とりあえず放っておくことにした。

 翌朝には元気よく、腹減った肉食わせろ麦酒飲ませろと騒いでたしな。



 そんなこんなで、王都に戻ってきたのは五日前。



 ナナイに満月花を渡しに行ったら、大泣きされた。

 ウルガさんが同じ場所に向かったことを聞いて、本当に危険だったのだと知ってしまったらしい。


 まあ、生きて帰ってきたんだからと宥めに宥め、やっと泣き止んだと思ったら、今度は庭へ押し出されて、隠れて!と言い捨てられる。


 情緒不安定すぎない?と思ったけれど、とりあえず身を潜めると、ガラス戸の向こうにバルト陛下が見えた。


 昼間っから政務サボってなにやってるんだろう…と観察していたら、愛娘の泣き顔に何か多大な勘違いをしたらしい。

 にっこりとブチ切れた顔でナナイに何か問い詰めている。


 原因を絶対に斬る!という覚悟が見えて、非常に怖かったよ…


 まあ、ナナイがブチ切れ返して、必殺「そんなこと言う父さん大嫌いだよ!」を繰り出し、追い出してくれたんで、事なきを得たけれど。


 何聞かれていたのか聞いたら、「男か…?男に泣かされたのか…?」と繰り返していたそうな。


 可愛い娘を持つお父さんは大変だ。

 その可愛い可愛い娘に近付く男を、どうやって紹介しよう。

 結婚したら知らせたらいいんじゃないですかなんて、ウルガさんは言っていたけど。



 「お、竜殺しか?トカゲ業者からランクアップかい?」

 「あ、エディさん」


 ぶらりと入ってきて声をかけてきたエディさんは、鎧ではなく神官服を身に纏っている。

 ドノヴァン大司祭の葬儀に参加してきたんだろう。


 エディさんらのパーティも、関わったことが知られて依頼が急増しているらしい。

 元から人気のあるパーティだから、淡々と依頼を無理ない程度にこなしている。

 見習わなきゃな。


 「まさか。うちのパーティで行けると思います?」

 「…まあ、魔導士と神官はいねぇと厳しいやな」

 「でっしょ」


 「あんたらなら、何とかしちゃう気もするんだけどねえ」

 唇に人差し指を当て、アンナさんは首を傾げた。

 どうにもこの人には、見破られている気もしないでもない。


 「うちは、自慢じゃないですが、戦士、男、四人ですよ」


 このアステリアの冒険者として、一番よくある組み合わせ。

 一番ありふれていて、一番つぶしが効かない、パーティ構成。

 そんな俺らにできる仕事は、称号のつかない程度の何とか退治か、荷物運びか。

 

 あとは…まあ、黄昏の君の思惑をつぶして、世界を救うことぐらい。

 

 「だから、無茶ぶりしないでください。うちのパーティ、ありがちでして」

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うちのパーティありがちでして 阿古 あおや @acoaya

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