第36話 女神の庭1
「あ、そう言えば、ファンって灯の刻印持ってたんだっけ」
ヤクモが、中々酷いことを言う。
まあ、俺だって普段は全く意識していないけど…
「俺も忘れていた!」
「王子様だってことくらい、忘れがちな話だよねぃ…って、クロム痛い!何でぼくだけ!」
ぎりりぎりりとヤクモの頭を鷲掴みにして締め上げつつ、お手本のような、目が笑っていない笑顔をクロムは浮かべた。
「この、脳みそが虫並みの馬鹿はともかく、貴様のココに詰まっているものは何だ?ああ?」
「クロム、虫には脳はないぞ。受容体があるだけで…」
「そう言う事を言っているんじゃない!」
噛みつかんばかりだが、うん。全員、竦んでいないな。
「…ファン、大神殿であの爺から感じた圧が、創造神の鎖だと思うか?」
「どうなんだろうな。ウィルさんは完全に固まっていたけど…お前らは、俺と普段から一緒にいるから、不快感を感じても、動きを止められるほどじゃあないのかもしれない。
魔族の気配に反応したってのもあると思う」
黄昏の君。
数年間やってくること、関わることを恐れた相手の気配。
絶対の敵。
魔族の気配だけじゃなく、それを感じ取って警戒したのかもしれない。
けれど、大神殿でドノヴァン大司祭へ頭を垂れていた人たちは、決して創造神の鎖の重みでそうしていたわけじゃない。
女神への信仰心と、大司祭への尊敬がそうさせたはずだ。
俺が覚えた恐怖や不快感を、あの場所にいた皆が感じたとは限らない。
ただの恐怖か、畏敬か。
それは…「次」があればはっきりするんだろうな。
今回が最後であってほしいけど、きっとそうはいかない。
「あれに槍は通じるだろうか。ちょっと突いてきてみてもいいか?」
たぶん、こいつは元からだと思う。なんだかわくわくした様子で、ユーシンはドノヴァン大司祭を見ていた。
竦まないのは良いことだけれど、珍しい虫つつきに行くんじゃないんだから…
その大司祭は、女神に感謝を捧げるのに忙しいらしく、こちらを見てもいない。
俺、結構名乗るの恥ずかしかったんだけど。
まあ、黄昏の君に喧嘩を吹っ掛けたわけだし、そっちはどこかで見ているだろう。
扉の女は、絵に戻って沈黙している。ただ、視線だけはこちらへ向けられている気がする。
最悪なタイミングでちょっかいを掛けるために伺っているのか、それとも灯の刻印が本物なのか疑っているのか。
「やるなら、短期で片付けたい」
「ふむ」
「理由は二つだ。月が登ると、門が開きやすくなる。黄昏の君の干渉で強化されたくない。
もう一つは、ドノヴァン大司祭が今の身体に慣れる前に倒したい」
「え?馴染む前に~とかしなくても、魔族にならないって言ってなかった?」
「あの人はもう、あれ以上変わらないよ。ただ、身体の使い方に慣れられるのが厄介だ」
「身体の使い方?」
ヤクモの問いに、こっくりと頷きを返す。
黄昏の君は、地上にあるものを何でも模造できる。
それは、厄介な魔道具であったり、伝説に謳われる剣であったり、名うての戦士の身体であったりする。
この刻印を授かるきっかけになった事件…その、主犯であり、被害者だった剣士は、身長ほどもある大剣をやすやすと振り回していた。
けれど、事件の後に行われた調査で、彼は騎士団の下働きであり、騎士に憬れはしていたものの、体格も貧弱で武器を持って振り回す体力もなく、騎士見習いにもなれていない事が判明した。
この結果は、必死に弁明する騎士団からの証言だけではなく、もともと住んでいた場所周辺などで調べて裏を取っている。
けれど、どうみても剣士は貧弱で小柄な男ではなく、少々細身だが、しっかり筋肉のついた長身の男だった。
その時点で十分おかしい。騎士団から彼が出奔してから鍛え上げたとしても、身長はそこまで伸びない。育ち盛りにしても、限界と言うものがある。
身長を伸ばしつつ筋肉をつけるというのは、それが出来る環境が必要だ。
質、量ともに十分な食事と休息、身体を損ねない程度に過酷な鍛練。
それは、元騎士団の下働きが…それも寄る辺なく金もない少年が、用意出来るものじゃない。
振るう大剣や甲冑についても、どこから入手したのか不明だった。
かなりの業物で、魔道具ではないが名のある鍛冶師がキッチリと仕事をした品だと、俺にでもわかったくらいだ。
当然、かなり高価な品物のはず。騎士団から持ち逃げされたという報告はなく、入手経路は不明のままだ。
ただ、剣士の体格ではこの大剣を振るうことは出来ないでしょうと、事件の追及を任された断事官と将軍は意見を揃えた。
大剣は、重い。重い武器を取り扱うには、相応の筋力がいる。
同時に、大剣のような振り回すことで威力を発揮する…自身の重さで破壊力を産むような武器は、使い手自身が揺らがないように、ある程度の体重を要求される。
筋肉は脂肪より重いとはいえ、限度がある。
あの細身では、そこまでの重さはない。
その意見は、彼らのちぐはぐな戦い方に妙に一致していた。
殺し慣れているけれど、戦い慣れていない。俺にはそう見えた。
体格に合わない武器、位置取りや連携の拙さ、畳みかけずに敵に建て直す機会を与えてしまう段取りの悪さ。
それは、今まで殺してきたのが、ろくに抵抗もできない子供だからだろうと思っていた。戦いじゃあなく、一方的な辻斬りだからだと。
けれど、後から判明したことを突き合せていけば、歪さは一層際立つ。
武器に振り回されているようには見えなかった。
振った後に引き戻しできていたし、攻撃の後に体勢を崩してもいなかったと思う。
けれど、よくよく思い返してみれば、攻撃を当てられたのは最初の一回だけだ。
逆に言えば、訓練は受けても、剣術に関してはクソと断言されるような俺に、残りの攻撃の機会を悉く潰されたわけで。
黄昏の君は、今この世界にあるすべてのものを模造できるという。
つまり、あの剣士の肉体は、どこかで生きていた、もしくは現在生きている誰かの体を模造した結果なんじゃないか。
剣技に関しては、きちんと修練を積んでいる動きに見えた。けれどそれもまた、黄昏の君が模造した記憶でしかないんじゃないか。
それに加えて、黄昏の君からの加護による身体強化。
強くなった記憶。理想の身体。欲しかった武器。
それらをいきなり得た人間が、その後、地道な鍛錬を積めるだろうか。
難しいだろう。鍛錬は重ね続けた者だけが、その本当の重要性を理解する。
「例えばさ、俺がある料理のレシピを詳細に書いてお前らに作ってみてって言ったとする」
「うん」
「で、俺が作るように作れるか?」
「無理でしょ~」
黄昏の君は創造神ではない。
だから、あの剣士自体の経験と言う「ないもの」は模造することができなかった。
犯行を重ねているうちに手際が良くなっていたけれど、戦闘に関しては全くの素人だった。俺が見て、そう思えるほどに。
最初の一撃を外された後のことを、彼は全く想定していなかった。標的が反撃することすら、考えていなかった。
与えられ、読んだだけの知識では、応用が利かない。
「それと同じだ。今、ドノヴァン大司祭は、魔獣と融合した体…上半身もあんなムキムキしてなかっただろうから、そっちもだな。それを与えられた状態だ。今の例えで言えば、よく切れる包丁と焦げ付かない鍋を与えられている。で、レシピも貰った。
けど、彼自身に経験はない」
どうやって材料を切ればいいのかは「知識としてはある」けれど「できない」。
どれくらい煮れば良いのかも「知識としてはある」が「判断はつかない」。
本を読んで最高級の道具を与えられたら何でもできるなら、俺は世界最強かつ万能超人になっている。
「経験がないからわかっていても体を動かせない。とはいえ、馴れるまでの間だ。戦い方を学ばれたら厄介だからな…これもあくまで仮説だし」
「うむ、わかった!それで、突きに行っても良いのか?」
「うん、まあ…結論から言うと、突きに行かなきゃどうしようもないしな」
「そうか!」
にこっと、極上の笑顔で頷く。
くるりと完全にドノヴァン大司祭に向き直り、ユーシンは槍を構え直した。
その後ろ姿に、今までにないほどの闘志が満ちている。
髪の先、槍を握る指先、軽く開いた足の爪先、その全ての先端にまで。
見えないけれど確かにあるものが漲り、零れずに張りつめている。
これがおそらく、紛い物には真似できないものだ。
ひたすらに鍛練し、実践を重ね、先端の先端そして内臓の奥底、全神経まで知覚できるようになって辿り着ける境地。
どうすればそうできるのか、脳ではなく身体が記憶し、意志から動きにまで遅滞がない。
瞬きすら遅いと感じるほどの合間に反応し、迷いも惑いもなく、思考すら置き去りにする。
それを成し遂げるのは知識じゃない。
身体に覚えさせた経験の積み重ねだ。
「馬鹿の言う事に従うのは癪だ。ちゃんとお前が指示を出せ」
クロムも剣と盾を構え直す。
額に、かすかにだけれど騎士神の刻印が浮き出ていた。
いつでも『砦』を行使できるように備えているんだろう。
「おそらく、クバンダ・チャタカラの基礎的な能力は持っていると思われる。
麻痺毒に注意してくれ。ただ、麻痺毒を発射するための器官がない。どういう状態で行使するのかわからない。なるべく距離は取って戦ってくれ」
「普通に吐き出すんじゃないか?」
「麻痺毒を送るための器官がないだろ?唾液に同じ効果があるのかもしれないが、それほど唾液腺が発達しているようには思えない」
クバンダ・チャタカラの麻痺毒は、吸引でも十分効果がある。
だからこそ、最初は噴射してくるんだし。
それを可能にしているのは、あの馬に似た頭部が備える噴射口があるからだ。人間の口のままでは、十分な量の麻痺毒を口に溜められないだろう。
逆に、口から吐き出してくれたほうが避けやすいんだけどな。
「クロム、ユーシン。まずは一撃離脱を繰り返し、相手の反応速度や攻撃手段を…」
《ドノヴァンさま》
ぎくりとして見上げると、扉の女がにたりと笑っていた。見上げる位置にいるのに、白目を出して上目遣いになっている。
「はい、はい!ゼラシア様、どうしました、どういたしました?」
嬉しそうに、ドノヴァン大司祭が応じる。かさかさと虫の肢を動かし、両手を広げた。
その様子を、心底嘲笑う顔で女は言葉を続けた。
《ころして》
甘いねっとりとした声。触ればきっと、不快に指に纏わりつく。
《アスラン王。ここにいるわ》
ドノヴァン大司祭の目が、三つに増えた目が、俺を見る。
中央の、濁った金色の目が、嗤ったように見えた。
《ねえ、ころして?》
「アスラン王…」
そうきたか。
黄昏の君にとって、俺は器に成れる素材だ。
けれど、どうやら俺は奴のお眼鏡には適わないらしい。
灯の刻印保持者は、世界で一人だけ。
その一人が気に食わないなら、さっさと殺して次を作ってもらいたいという事なんだろう。
悪かったな。絶世の、とかつかない顔で。
一応中の上…にぎりぎり入るくらいだと自負しているんだけど。図々しいかな?
でも、あんまり卑下しちゃうと、そっくりな親父を貶すことにもなるし…。
「アスラン王…」
虫の翅が広がる。夕焼けの赤を遮るような、青い翅。
「アスランおおおおおおおおおおおお!!!!!」
絶叫は壁に反響し、くわんくわんと空気を揺らす。
その反響が収まるのを待っていたかのように、ドノヴァン大司祭は突進を開始した。
虫の肢が地を蹴り、巨大な腹を引き摺りながら迫りくる!
巨体の割には速い。けれど…
「ころす、ころす、ころすうううう!!」
俺たちの前で大司祭は肢を止め、大きく手を振りかぶった。
ブォン、と唸りを上げて振り下ろされた腕は、空を切り地面に叩きつけられる。
掌の形に抉れた地面は、その威力を物語っていた。
けれど、動きは予想通り拙い。
動作と動作の間に一時停止が挟まれる。
ケンカですらまともにした事がなく、戦うための訓練もしていない素人の動きそのものだ。
「なるほどな!」
地面が抉れるよりも早く、ユーシンは自分の間合いを確保していた。
「ファンの言いたいことが、ようやくわかった!」
白刃一閃。
ユーシンの槍が旋回する。その穂先は、振りかぶったことでがら空きになったドノヴァン大司祭の脇腹を切り裂いた。
はずだった。
「!」
キィン、と澄んだ音がして、槍がはじかれる。
「ひぃ!」
それより数瞬遅れて、ぎこちなくドノヴァン大司祭は防御の姿勢をとった。
庇ったのは自分の顔で、脇腹からは遠く離れていたけれど。
槍が弾かれ、僅かに体勢を崩したユーシンは、その隙をついて体勢を整え、離れる。
状況的には、ドノヴァン大司祭を挟んで、俺とクロム、ユーシンとヤクモに別れた形だ。
位置取りはこれで間違えていない。
戦いの素人である大司祭にとって、双方向からの攻撃は脅威だ。
同時に捌けるとは思えない。
けれど、さっきのあれは。
「硬いのか…」
「硬いだけなら、ユーシンなら斬れそうだけど」
完全に、槍が弾かれたように見えた。
単純に、刃が通らないほど硬い外殻を備えている可能性はある。
クバンダ・チャタカラの外殻はそれほど硬くはないから、なんらかの生物が模造された結果として。
だが、ユーシンの槍だって数打ちの品じゃない。
武勇で知られるキリク王家の王子が持つに相応しい業物だ。
以前あの槍で、ユーシンは全身鎧に長盾を構えた重戦士を斬ったことがある。
使い手の技量と武器の品質が齎した一撃は、鉄板すら木板のように切り裂くんだ。
それが、弾かれるって言うことは、単純な硬度じゃない。
「魔力による防御がある可能性は高いな」
「なるほどな」
術式破壊の矢は残っているけれど、恐らく同じ結果だろう。
防御の魔導が掛けられているんじゃなく、魔力で防御しているだけなら効果はない。
となると有効なのは…
「ああ、女神よ!アスターよ、感謝します!あなたの恩寵が、愛が、私を、私を守る!」
感極まった様に両手を広げ、ドノヴァン大司祭は叫んだ。
「…実際、女神アスターはアレをどう見ているんだろうな」
「アスターの御業で防御しているわけじゃないと思う」
『聖壁』の御業を、黄昏の君が振るっている可能性はあるけれど。
あんな姿になり、女神の敵である黄昏の君に良いように扱われていても、ドノヴァン大司祭は大司祭のまま…敬虔な女神の信徒のままだ。
彼は完全に狂ってしまっているけれど…せめて、自分がもう、女神アスターのしもべではなく、黄昏の君の下僕になり果てていることは、気付かないでいてほしいと思う。
ドノヴァン大司祭は犯した罪は、きっと聖女王ゼラシアを殺害したことだけだ。
ここで行われた悍ましい悪事にも、彼は関わっていない。俺はそう思う。
いつの時点で彼が博士の実験に、司祭らの商売に関わっていたのかは結局わからない。
気付かず、何もしなかったのなら同罪だと指摘することもできるだろう。
けど。
彼は、善人だ。
利用されつくしただけの人だ。
哀れだと思う。
きっと、彼を歪めたのは俺の祖父だ。
勇気ある、善良で、だけど愚鈍な司祭を、その犯した罪から目を逸らすために狂わせたのは、祖父だ。
使われていると気付くこと、向き合うことは、ゼラシアを殺したという事実を真正面から見なければいけない。
完全に忘れていたわけじゃない。
ドノヴァン大司祭はアスラン王家を嫌い、アスランへ大神殿から使節が行くのを阻止しようとしていたと聞いた。
おそらく、誰かから自分の罪が伝わるのを危惧したんだ。
その罪で大司祭の座を追われることより、最愛の人を手に掛けた記憶を呼び覚まされるのを、彼は心底恐れたんだ。
その心労は、重圧は、年齢よりもはるかにドノヴァン大司祭を老けさせただろう。
そこに心臓と脳に負担を掛ける薬物の摂取だ。今まで、生きていたのが逆に不思議だよ。
矢筒の中にある、女神の矢。
この矢で、もう終わりにしてやってほしいと、俺に託したんだ。
魔を討て、ではなく。
いとし子を、眠らせてほしいと。
それが、悩み続けた女神の意志の答えだ。
「女神の矢の使いどころはここだろうな…けど、ただ撃って当てて、それで終わりになるかって言ったら…疑問だな。
なにせ、射手が俺なんだし」
東西無双の弓の名手ってわけでもなく、矢に膨大な魔力を込められる魔導士ってわけでもなく。
女神アスターの信徒なら、女神の御力を最大限に発揮できるかもしれないけど、そうでもない。
託されてなんだけれど、買い被りすぎだよな。
「自分を卑下してるわけじゃないけど、正直俺がこのまま射るだけでどうにかできるとは思えない。ある程度、弱らせたほうが確実だろう」
けど、だからと言って、できませんは言いたくない。
やりようは、ある。
一撃で終わらないなら、その前にもう一発入れておけばいい。
力が足りないなら、手数と知恵で押せ。
そうやって、
「一本しかないわけだしな。わかった」
すう、とクロムは息を吸い込んだ。
腰をわずかに落とし、剣を顔の前に水平に構える。
「おい馬鹿!もっとしっかりやれ!」
「応とも!だが、後でお前は殴る!」
声がぶつかり合ったのと同時に、二人は動いていた。
一気に踏み込み、距離を詰める。
その素早さに、ドノヴァン大司祭は全く動けなかった。
硬直している間に、クロムは足元に取り付き、剣を振う。
白刃が閃光を描いて黒い外殻に打ち込まれ、火花が散る。
剣が叩き込まれ、大司祭がそちらへぎこちなく手を振れば、もうクロムは飛び離れている。
意識が逆側に向いた瞬間、ユーシンの槍が突きこまれて甲高い音を上げる。
それが絶え間なく、位置を変えて続く。
有効な一撃はない。
すべて外殻が弾いてはいるが、戦闘経験のないドノヴァン大司祭にとって、武器を四方八方から振るわれるだけで、死ぬほど恐ろしいだろう。
だけど、二人の狙いは怖がらせることでも、外殻の綻びを見つけることでもないはずだ。
むしろ、その先…ドノヴァン大司祭が、「何度攻撃を受けても傷を負わない」ことに慣れた先にある…と思う。
「あ…ああ、ああ!ああ!やめ、やめなさい!」
大司祭は無茶苦茶に手を振り回し、翅を震わせる。
狙って動いてはいない。ただ振り回しているだけだ。
二人の動きを全く見れていない。
引き摺る腹部が、わずかに持ち上がった。
毒針から麻痺毒を噴射するのか?けど、あれは空中に浮かんでいてこそ有効な攻撃だ。針がまっすぐ伸ばせたとしても、あてずっぽうで後ろ側に飛ばすことになる。
「やめ、やめて!やめて!!」
子供が癇癪を起こしてキレた時のように、ドノヴァン大司祭は叫んで頭を抱えた。
わずかに持ち上がった腹部が膨らんだように…見える。
『クロム、ユーシン!下がれ!』
とっさに出たタタル語に、二人は素早く反応した。
軽い着地音とともに、クロムが俺の前まで戻る。
「あああああああ!」
絶叫とともに、大司祭の異形の姿が煙った。
全身をぶわりと黄色い靄が覆い、姿が見えなくなる。
目晦まし…?いや、そういう意図ではないだろう。
黄色く色がついている限り、どこにいるのかは丸見えだし、カムフラージュにはならない。
だとしたら、あれは…
「吸い込むな!麻痺毒の可能性が高い!」
噴射じゃなく、噴出していたように見えた。
けれど、口からじゃない。
そうなると、噴出孔は胸部と腹部の気門か…!
呼吸器官が人間と同じ鼻と口で、気門は麻痺毒を放出するためにあるのだとすれば、使い方を覚えられたらまずい。
突っ込んでこられて、そのまま噴出されれば避けようがないぞ…
なら、すぐにでもあれは封じなければ。
どうする?どうやる?
「どうすればいいい?」
前に立つクロムが、鼻と口を押さえながら低く唸る。
「…僅かでいい」
たとえ、黄昏の君が手を加えていたとしても。
全くないものは、作れない。
模造でしかないなら、人間と虫の身体構造から大きく逸脱はできないはずだ。
その読みが外れていたら、終わりだけど。
「時間を稼いでくれ。まずは二人と合流する」
大司祭は動かない。おそらく、自分から噴き出たものに戸惑っているんだろう。
この隙を逃すわけにはいかない。
黄色い靄を大きく迂回するように駆け出すと、逆方向から同じようにやってくるユーシンとヤクモが見えた。
二人ともこっちと合流するっていう判断をしてくれたんだな。
「時間を稼ぐ」
二人に向かい、クロムが端的に告げる。
「うむ。わかった!」
「…時間、稼げばいいんだね?」
どのくらい、とは二人とも聞かない。
ただ、俺を信頼してくれていることが分かって、少し苦しかった。
期待の重さ。信頼の重さ。
これを一国分背負って生きているんだから、やっぱり親父や兄貴はすごい。
その信頼を裏切ったらどうしようとか落胆させてしまうななんて言うのは、今は考えないことにしよう。
失敗すれば、俺も死ぬわけだから。
作戦そのものの失敗より、実行を失敗しないように気を張るべきだ。
「…ユーシン、ヤクモ。頼む。クロム、頃合いを見て二人に合図を。
同時に『砦』を展開してくれ」
わずかに目を見張り、ちょっとだけ不満そうに口を尖らせ、それからクロムはにやりと笑った。
「御意」
クロムが『砦』を使えるのは、たぶんあと二回が限度だ。
それも、効果時間を最短にして、二回。
ここで一度使えば、最悪の事態を『砦』を維持することで耐え、援軍を待つっていう方法は捨てることになる。
これだけの魔力の放出だ。リディアはすでに本国へ連絡を始めているだろう。
狼煙のリレーによる連絡は、日没までには国境まで繋がる。
それから援軍がやってくるまでどれくらいかかるかはわからないけれど、防御に徹して待つっていう選択肢は、今は未だ、ここにある。
一番早い援軍はリディアたちで、飛竜ならあの壁も越えられるかもしれない。
だけど、時間の経過とともに大司祭は体の使い方を、戦い方を習得するだろう。
そして、リディアたちは、クロムは…たとえ誰が死んでも、俺を生かそうとするだろう。
屍の山も、血の河も作り出させはしない。
俺はそう宣言して、灯を借り受けたんだ。
仲間たちの肉の壁で生きながらえて、仕方なかったんだで済ませられるわけない。
だから、ここは自分の仮説を信じる。
話が長いとか、何の役に立つのかわからないとか言われ続ける俺の知識を、そこから導いた答えを信じる。
「二人とも、これを飲んでおいてくれ」
上着のポケットに入れておいた小瓶を取り出す。中身はレイブラッド卿に飲ませた残りの、麻痺治しだ。
時間はかかったけれど、クバンダ・チャタカラの麻痺毒に有効なことは確認できた。あらかじめ飲んでおけば、多少は予防できる…と思う。
「手足に麻痺毒が付着している。掠っただけで危険だ」
「心得た」
くい、と半分飲んで小瓶をヤクモへ渡し、ユーシンは首に巻いている布で鼻と口を覆った。
「もともと、一撃食らったら死んじゃうしね」
小瓶の中身を飲み干し、ヤクモも同じように顔半分を覆い隠す。
「ぼく、がんばるよう!」
ヤクモは剣を地面に置き、背嚢もその隣に下した。
「避けるだけでしょ。ぼくにもできる」
双眸に会心の笑みを浮かべて、ヤクモはドノヴァン大司祭へと向き直る。
「できるんだから!」
「うむ。お前ならできるとも」
同じく背嚢を地面に降ろし…こちらは降ろしたというか投げ捨てただけれど…ユーシンは槍を肩に担ぎなおした。
「…おい」
「む?」
「なに?クロム」
「もし、お前らが戻らなきゃ『砦』は発動しない」
「え?発動した後からでもはいれるよね?」
「しない」
噛みつくような声で、クロムは宣言した。
「だから、何があっても戻ってこい。ユーシン、ヤクモ」
名前を呼ばれた二人はきょとんと顔を見合わせ、頷いた。
「まっかせて!」
そして、走り出す。
大司祭は完全に靄から姿を現し、俺たちを探すように首を巡らせた。
その三つの目が、おそらく俺を見つける。
「アスラン王…!アスラン王…!アアアススウウラァアアアン!!」
「お前の相手はこっちだよ!」
ヤクモの声に、わずかにドノヴァン大司祭は反応した。
だけれど、側面に回り込んだヤクモの手に武器がないせいか、それ以上意識を向ける様子はない。
「こっちだってば…この…」
ヤクモの声が、震える。
「この、人殺し!」
ぎくりと、大司祭の目が揺れた。中央の濁った金の目ではなく、その目に押しやられた瞳が、揺らぐ。
「女の人の首は絞められても、ぼくと戦うのが怖いのか!人殺し!」
「ちがうッ!!」
悲鳴にしか聞こえない否定を叫びながら、ドノヴァン大司祭はヤクモへと向き直る。
「ちがうちがう!あの方は、ゼラシア様は、ここに、ここ、ここ、ここに、いる!いるのです!」
「いないよ!お前が殺したんだから!」
「ちがう!ちがあああああ!!」
虫の肢が地を削り、巨体を疾駆させる。
目標は、徒手空拳のヤクモ。
「違う違う違う違う!!!」
今度はヤクモの前で急停止することなく、振り回す腕は突進の勢いを保ったまま目標へと襲い掛かった。
「!」
それを、柳の葉が風にそよいだように、ヤクモは避ける。
突進してきた巨体を軽いステップで避け、続いて襲い来る鉤爪の攻撃を見切る。
突進の勢いでつんのめりながらも、大司祭は急旋回し、避けたヤクモへなおも追いすがった。
やっぱり、動かし方を学び始めている。
上からの叩き付けだけではなく、横薙ぎも攻撃に混ぜ始めた。
一撃の威力は叩きつけのほうが大きいけれど、横薙ぎは速度がある。
けれど、その攻撃のすべてを、ヤクモは避けていた。
目を見開き、呼吸すら最低まで抑え、掠れば終わる攻撃を避け続ける。
「そんなんじゃぼくは殺せないよ!あのひととは違うんだから!」
「う、うあああああああああ!!」
攻撃の手が緩めば煽り、完全にヤクモは大司祭の意識を自分だけに向けることに成功していた。
「…あいつ、やるじゃねぇか」
クロムが嬉しそうに呟いた。
ヤクモに教えてあげたいけど、言ったら面倒くさいことになりそうだ。後でこっそり言おう。
クロムが褒めたのは、攻撃を避けきっていることだけじゃない。
ヤクモはじわじわと、俺たちからドノヴァン大司祭を引き離す方向へ誘導している。
もし急に方向転換から突進、麻痺毒噴出をしたとしても避けきれる距離を開けさせるつもりなんだろう。
「取り消せ、私は、私はひとごろしじゃ、ないっ!」
ドノヴァン大司祭の巨体が、宙に浮かんだ。
六本の虫の肢が巨体を跳ね上げ、ヤクモに向かって落下する!
「くっ!」
轟音が、その攻撃が見掛け倒しではないことを教える。
ただの自重による押しつぶしではなく、魔力を放出して衝撃を生み出しているんだろう。
ヤクモはそれを避けた。
けれど、避けるためには大きく跳ぶよりほかなく、足での着地は出来ずに地面を転がる。
大きく体勢を崩したヤクモに、ドノヴァン大司祭は手を振り下ろした。
食らえば地面ですら陥没する叩きつけの一撃。
避けられても体勢が整わないままでは、連撃を躱しきるのは難しい。
それが分かったのか、ドノヴァン大司祭の三眼が歪んだ。
「今度は俺だ!」
甲高い音と火花が散る。
死をもたらす一撃を、ユーシンの槍が弾き飛ばす。
麻痺毒に濡れる虫の肢を蹴って、ユーシンは大司祭の上半身に迫った。
槍が使えなくなるほどの至近距離、ぐいとユーシンは上半身を捻り。
「ここならどうだ!」
捻りを加えた拳が、顔の中央に開いた三眼を殴りつける!
「ぎゃああう!」
悲鳴をあげて大司祭は腕を振り回すが、すでにユーシンは胸殻を蹴って離脱している。
「痛い、痛い痛いいたあい!なぜ、なぜなぜこんな、こんなひどい、ひどいことを!」
「これは戦いらからだ」
地に降り立ったユーシンは、槍を構えなおし、ヤクモと並び立つ。
俺たちを直線上に置かない位置で。
「戦いとあ、こういうことら!」
呂律がまわっていない。
あれだけの至近距離じゃ、麻痺毒は吸入してしまっているだろう。
麻痺治しがこれから効いてくれるのか、その効果が出てあの程度なのか。
どっちにせよ、長くはもたない。
腰のポーチから引っ張り出した手帳と、鉛筆。
手帳に書きつけていっているのは、陣。
指定した座標と、この陣を繋げる。それだけの陣だ。
それは召喚に似ていて、少し違う。
召喚は、対象を呼びよせるもの。
対して、今書いているのは、繋げること。
俺たちヤルクト氏族が得意とし、かつて野の獣として狩られる対象だった時代を生き延びさせた
転移の陣。
空間と空間を繋げ、其処に在るものを此処に転じ、此方に居るものを彼方へと移す陣。
この陣を発動させられるのは、ヤルクト氏族でもごく限られた人間だけだ。
こればかりは才能が全てで、術式を完璧に理解できていても発動はできない。
おそらく、雷帝の『万軍の主』を行使できるのがうちの一族だけなのも、この術式と合わさって初めて、有効なものになるからじゃないだろうか。
こうした限定術式が、魔力は血に宿るという節の有力な裏付けの一つだ。
俺にも発動はできる。
ただ、本来の俺の魔力じゃ、砂粒一つ転移させるのが限界だろう。
走り書きではあるが、見直しても陣に綻びはない。手帳から陣の書かれた頁を破り取った。
鉛筆を放り投げ、上着のポケットに手を突っ込む。
取り出したのは、髪と編み込んでいた飾り紐。
そのうちの赤い紐で、破り取った項を巻いて縛る。
「…よし」
早鐘のように荒ぶる心臓を胸の上から抑えつつ、深く深く、息を吸う。
口を緩やかに開いて、『唄』を。
『唄』を、奏でる。
笛のような、鳥の声のような。
それは、俺たちが馬を育てるときに奏で、そして精霊に助力を乞うときに捧げる音。声でも、口笛でもない『唄』。
俺の『唄』に反応して、赤い飾り紐が光った。
より正確に言えば、布地を通して、中身が光る。
よし。起動した!
『唄』を止めないまま、俺は飾り紐で縛った項を、大司祭へと投げた。
「戻れ!」
クロムの声が響く。
先に反応したのはヤクモだった。ユーシンの手を取り、駆け出す。
「ま、まち、まちなさい!」
その後を追おうとする大司祭へ、ユーシンは足元に転がっていた小石を蹴りつける。
「ひ!」
狙いたがわず小石は大司祭の顔へと飛び、慌てて大司祭は両腕で顔を覆う。
先ほど殴られたのはかなり痛かったのだろう。
ダメージになった様子はないが、痛みの経験というのは克服するまでは行動を縛る。
飾り紐は光を放ったまま宙を飛び、二人の頭上を飛び越えた。
そして、顔を抑えるドノヴァン大司祭の上で止まる。
ひらひらと宙に舞うのは、赤い布の破片。
項を縛っているのは、血の色の
俺たち遊牧民は、財産をそうした宝石や金銀に変えて、身に着ける。
ヤルクトの男女が髪を伸ばし、飾り紐と編み込むのは、いざという時の財産をそうして隠すからだ。
たとえ裸で逃げることになっても、持ち出せるように。
身包みを剥がれても逃げ出すことさえできれば、何とかなるように。
かつて追われる立場だったころからの知恵。
それに加えて、俺の飾り紐の中身は、さらに一工夫施してあった。
小さな紅玉一粒一粒に、魔導の発動を助ける精霊が眠る。
精霊は意志を持つ魔力。
今、アスランの、タタルの大地に宿る精霊達は『唄』で目覚めた。
目覚めた精霊たちは、書かれた陣に気付いている。
そして、俺の歌に応えて、陣の発動を援けてくれる。
ユーシンの手を引いたまま、ヤクモが駆け込んできた。
わずかに動きが鈍いような気もするけれど、しっかりとユーシンは自分の足で立っている。
手を引っ張られているままなのは、いざとなれば自分のほうが先に出て引っ張れるからだろう。
その二人を横目で見て、幽かにクロムの双眸が笑みを乗せた。そして、高らかに宣言する。
「『砦』よ!」
クロムの『砦』が発動し、光が絶対不可侵の領域を作り出すのに、ほんの一瞬だけ遅らせて。
「発動!」
陣へと、涙一滴にも満たない魔力を、俺の精いっぱいの魔力を、送り込んだ。
『砦』の白い光とは違う、月のような色合いの光が、空中に広がる。
それはまず頂点に指定した座標を描き、次に繋ぐという意味の印を示し、最後に起動の印を描いた。
俺が書いた陣は、手帳一項程度のものだ。
けれど、宙に広がる光の陣は、ドノヴァン大司祭の巨体を飲み込むほどの大きさ。
精霊たちの助力が、陣を巨大に、そして強力に形作る!
「な、なんですか、なんですなんなんですか!」
最初に広がったのは、静寂。
しん、と音を消した空気が、壁に囲まれたこの歪んだ空間に満ちる。
「…風?」
ヤクモが、ぽつりと呟く。
地面に落ちていた赤い布の破片が、再びふわりと舞った。
そして。
どん、と体を揺らすような音とともに、陣から吹き出したのは、白い塊。
いや。
吹雪。
氷雪が暴風とともに吹き出し、視界を真っ白に染めていく。
「アスランの北、
尽きぬ山の中腹より上の吹雪が止むのは、夏の限られた数日だけ。
麓には豊かな森林を育み、そこには様々な生き物や人が暮らしている。
けど、苔すら生えなくなる一帯から上は水ですら存在できない。
すべての水分は氷となり、白く囚われる。
大都の真冬より寒い気温をさらに下げるのが、常に方向を変えながらも止まない暴風だ。
それはわずかにも溶けることの許されない雪を常に巻き上げ、吹雪となって荒れ狂う。
今、陣はその氷と吹雪が支配する空間と繋がっている。
まだ凍てつかせていない場所があるのかと歓喜したように、白い暴君は存分に吹き荒れた。
「陣が解ける。クロム、『砦』の解除を」
「御意」
額に現れた騎士神の刻印が、一条の血をクロムの顔に伝わせている。
発動時間が短かったせいか、それ以上の負担はかかっていないみたいだ。
良かった…。
時間にすれば、十と少しを数える間。
始まった時と同じように、唐突に空間は静寂に覆われた。
『砦』を形作る光が消えると同時に、冷気が露出している肌を刺す。
吐き出す息は白い。
もし、人が尽きぬ山の頂上に放り出されれば、瞬時に凍死するというのは誇張された表現じゃないことを証明するようだ。
陣は音もなく消え、紅玉の飾り紐だけが夕日にさらに深紅に輝きながら落下し、霜柱に受け止められて澄んだ音を立てた。
「あ、ああ…ああああ」
わずかな時間であったとしても。
吹雪の中でその時間を過ごしたドノヴァン大司祭は、凍り付いていた。
全身が白い雪に覆われ、小さなつららがあらゆる突起から伸びている。
よほど寒さに強い生物でなければ、凍死しているだろう。
「え…死んでないの?」
「あれで凍死させられるとは、元から思っていない」
循環器系や臓器、そもそも心臓や脳が動いているとは限らないからなあ。
低温で殺せるなら、今の気温で十分クバンダ・チャタカラの部分は活動を止められるんだし。
狙いは、別だ。
「寒い…寒い…ああ、しかし、しかし私は、私は生きている…ああ、女神よ、アスターよ、感謝いたします!」
大司祭は両手を広げ、感極まったように叫ぶ。
その体からぱりぱりと、氷が剥がれて落ちた。
それは、溶けずにそのまま地面に降り積もる。
吹雪が吹き付けていたのは、大司祭だけじゃない。
大地もまた、白い暴君の咆哮をまともに浴びていた。
霜柱が出現するほどに温度が下がっている。
歓喜に震える大司祭から、パラパラと氷が落ち、積もっていく。
狙い通りだ。
あの氷には、大司祭の体表を覆っていた麻痺毒も含まれている。
氷として固めてしまえば、空中に漂って吸い込む量はぐっと減る。そしてなによりも。
白く凍った腹部が、わずかに浮く。
「感謝いたします!」
そして激しく震え…なにも、起こらなかった。
大司祭はきょとんとして振り返り、不思議そうに腹部を見る。
危なかったな。今、意図的に麻痺毒噴出をしようとしていたみたいだ。
麻痺毒が噴出されなかった原因は二つ。どちらが正解かは近寄って観察してみないとわからないけれど。
一つは、麻痺毒自体が体内で凍っている。
人間と同じく体温を一定に保つための機能がクバンダ・チャタカラの部分にないとすれば、水分という水分が凍り付いた可能性はある。
すべてが凍らなくても、体表付近…噴出される気門周辺の麻痺毒が凍結されれば問題ない。
もう一つは、危険な低温を感知したクバンダ・チャタカラの部分が、気門を閉めてそのまま凍ったという仮説だ。
クバンダ・チャタカラの女王は冬眠する。
その際は気門を閉じ、仮死状態になって冬をやり過ごす。
現在の気温でも十分危険だが、その危険な温度を魔力によって耐えていたのだとしても、一瞬ですべてが凍る温度には反応した…という可能性だ。
どちらかが、もしくはどちらも間違っていなければ、麻痺毒の噴射は防げる。
とはいえ、気門を覆う氷か、麻痺毒の凍結が溶けるまでだ。完全に機能をつぶしたわけじゃない。
「ユーシン、動けるか?」
「もんらいない」
わずかに開いた口から垂れた涎を、口許の布で拭う。
「うまくはなせらいらけだ!」
口から吸いこんで、咥内が弛緩しているのか。
「口に入れてすぐ吐き出せ」
クロムが水袋をユーシンの口に突っ込む。
吐き出すというよりそのまま流しだすように、ユーシンは口を濯いだ。
「俺の麻痺治しだ。何とか口閉じて溜めろ」
水袋の代わりに、麻痺治しの小瓶をユーシンの口に突っ込む。
しばらく手で口を押えているが、手袋に染みが表れている。漏れ出ているんだろう。
それでも少しして、ユーシンの咽喉が動いた。飲み下せたらしい。
「へいき?」
「らいじょうぶら!」
に、と笑って、ユーシンは口を閉じて見せた。
けれど、回復しているのか、これからさらに毒の効果が表れるかは、わからない。
ただ一つ言えるのは、ユーシンは戦いを放棄していない。
何とか閉じた口の端を持ち上げ、じっと大司祭を見ている。
「いい加減、トチ狂った爺に付き合うのも飽きてきた」
鞘に納めていた剣を抜き、クロムが俺を見る。
「お前が、とどめを刺すと、俺は信じる。だから、お前は絶対に一射の機会を逃すなよ」
「クロム…」
「俺はお前の
だから、どんな状況になっても、お前は弓を構えろ。
お前も、俺たちを信じろ」
どんな危機に見えても、決して焦って矢を放ったり、飛び出したりはするな。
そう、クロムは言っている。
「ああ、わかっている」
うん。そうだよ。クロム。俺は信じているんじゃない。
わかっているんだ。
うちのパーティが、負けるはずはないってことを。
「この一戦、最後の指示だ」
右手に熱が集まる。
黄昏の君。お前などに、邪魔はさせない。
灯をかたどる刻印が、掌に燈る。
「倒すぞ」
「御意」
クロムの返答に、ユーシンとヤクモも頷く。
全員の視線が、なおも不思議そうに腹部を見る大司祭へと向いた。
それに気付いたのか、三つの目が此方へ向き直る。
「アスラン王…」
にたり、と三眼だけではなく、顔全体でドノヴァン大司祭だったものは、哂った。
「そこに、そこにいました、いましたね、今、今、今すぐ、すぐに、すぐに」
半ば氷ついている翅に、沈みゆく太陽の最後の輝きが反射する。
「すぐ、殺します」
「頭がいかれたやつに行っても仕方がないとは思うがな」
クロムの構える剣も、夕日を映して赤く煌めく。
「俺の主をアスラン王と呼ぶな。俺の主は、ファン・ナランハル・アスラン。
先代のバトウ・ハーンでも、今代のモウキ・ハーンでもない。
あのろくでもないおっさんどもと混同した罪は、万死に値する」
今、さらっとかなり失礼なこといってなかったか?クロム?
「往くぞ、ユーシン!ヤクモ!」
「おう!」
「うん!」
クロムの剣が、大気を薙ぐ。
その赤い閃光を合図に、三人は霜の降りた大地を蹴り、駆け出していく。
ユーシンは槍をしっかりと握りしめ、ヤクモも置いておいた剣を手に戻している。
そして俺は。
矢筒から抜き出すのは、白銀の矢。
女神の祝福を受けた、たった一本の矢。
太陽は、山の稜線の向こうへと姿を隠している。けれどまだ、地上へ投げかける光は完全に消えていない。
その、最後の一滴のような残光は。
鏃を伝い、輝いた。
まるで、女神の涙のように。
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