第35話 右手を伸ばした日 後編

 アスランの冬は早い。


 ほんの十日前に冬の始まりを告げる黄金の月の夜アルタンサルンハラムが終わったばかりだというのに、うっすらと大地は雪化粧を始めていた。


 乳白色に染まった空から、次々に雪は舞い降りる。

 大都では、それほど雪は積もらない。積もる前に風に巻き上げられて飛んでいく。

 大地ではなく大都を囲む城壁が、雪と氷で白く染まると、大都の住人たちは長く厳しい冬がどっしりと腰を据えたことを感じる。


 今はまだ、今年流行の外套を買ってみたり、内側に着る肌着を一枚増やしたりする時期だ。

 寒さも本格的なものではない。

 雪だって、地面に落ちれば溶けていく。まだ地面は、氷の冷たさになっていない。


 しかしそれでも、後ろ手に手を縛り上げられ、雪が舞い落ちる地面に跪かされ、ろくな防寒具も与えられていない状態では、骨まで震えるほど寒い。


 前に突き出された格好になっている首を挟んで、二本の槍が地面に穂先をつけている。穂先は抜身で、外気よりも地面の温度よりも冷たく、凍って見えた。

 それを握る兵士の視線も、吹き寄せる北風のようだ。


 アスラン王宮に大小十ある広場のうちのひとつ。シドゥルグ広場と名付けられたこの空間は、今、人で満ちていた。


 槍を持ち、剣を吊るした歩兵が左右に分かれて布陣し、直立不動のまま何かを待っている。


 引き出された罪人らは大軍としかわからないが、左右千人ずつ、合計二千。


 赤い布を首に巻き、揃いの革鎧に身を固めている。

 上へ向けられた槍の穂先は、真横から見れば全て重なって、一列一本しかないように見えた。

 見るものが観れば、非常に整えられた軍だとわかるだろう。


 徴兵や兵役で集められた兵では、これ程の統率は取れない。

 ここにいる二千人すべてが職業軍人であり、常日頃から訓練を繰り返し、高い士気を維持している。

 それもまた、罪人らはわからない。


 わからないが、自分たちが今からこの軍によって裁かれるためにここに引き出されたのだとは、理解わかっていた。


 「…大丈夫だ。エリカ」

 十日ぶりに見る仲間は、思ったより窶れてもおらず、拷問などを受けた様子もない。

 「リーゼがきっと、騎士団を連れてきてくれる」

 「…うん」


 あの後。気がついたら室内にいて、寝台に寝かされていた。


 そこで自分を見下ろす女性に気付き、ここはどこか、皆はどうしたのかと矢継ぎ早に質問をした。


 覚えているのは、満身創痍の少年が走ったこと。

 彼方此方に火傷を負い、血を流し、服を真っ赤に染めながら、少年はまっすぐにこちらを見ていた。


 満月の色をした、瞳。


 恐ろしい、目だった。まっすぐに、ひたすらにまっすぐに、自分を見ていた。

 そこにたぶん…殺気や、悪意はなかった、と思う。


 だがそれでも、少年は、確かに。


 何のためらいもなく、自分エリカを殺そうとしていた。

 最初に短剣を突き刺したのと同じように、一瞬の躊躇いも迷いもなく。


 それは、かつてエリカを傷付けようとしたどの目とも違っていた。

 奴隷の娘など何をしてもいいと蔑む目になら何度も見られた。

 それは知っている。恐怖や悲しみは覚えるが、慣れている。


 だが、あれは違う。

 ただまっすぐに、「邪魔なものをどける」程度の意識で、全力で殺しに来ていた。


 人間より、野生の獣に近い意志。

 必要だから殺す。ただそれだけで、殺すこと自体に喜びも忌避もない。


 自分の身体を抱きしめ、エリカは震えた。

 今更ながらに、とんでもなく忌まわしいものと対峙していたのだと恐怖する。


 「…やはり、タタル語は話せませんか。持ち物に言語理解の魔導具がありましたので、そうではないかと思っていましたが」

 「え?」


 きょとんと見上げると、軽蔑しきった顔で、女性が手を伸ばしてきた。

 びり、と全身に痺れが奔る。何らかの魔導を施されたのだと判る。


 「言語理解を掛けました。いいように取られて話が進まないのも腹立たしいので」


 冷たい声は、苛立ちと怒りをはらんでいる。

 かつて、そんな声で鞭うたれた日々を思い出し、エリカは身を固くした。


 「私は、アスラン王国大都断事官ジャルグチ、ユー・ホンラン。この一件の調査と断罪を大王より命じられました。初めに申し付けます。

 お前ら三人は、死罪だ。大衆の面前で、馬裂きにする」


 「え…」

 手足の指が、冷たくなる。

 しざい?うまざき?

 なんで?私が、何を?


 「ですが、聖火騎士団を名乗った以上、その命により行動をしていた可能性を鑑みます。よって、その調査結果が出るまでは処刑は保留いたします。

 自死、あるいは逃亡を図った場合は、即座に刑を執行するので」


 「ま、待ってください!私、悪いことはしてない、なんで、なんで殺されるの?!」


 縋りつくように伸ばした指先は、掠ることもなく避けられた。

 「お前らに殺された子供も、同じことを思っただろうよ…唾棄すべき糞虫が」


 ユーと名乗った女性は、鼻に皺を寄せて吐き捨てた。

 許されるのなら、唾を吐きかけたいくらいだと、その表情が語っている。


 「魔導士が、騎士団に連絡を取るからと命乞いをした。見張りと共に放ってある。精々、そのまま逃げられないよう祈るのだな」


 コツコツと靴音を鳴らして、ユーは去っていった。

 寝台しかない部屋は、独房のような…と言うより独房なのだろう。

 窓には鉄格子が嵌り、重たそうなドアに内鍵はない。

 けれど、閉まった後、閂が掛けられたような音がしていた。


 「リーゼが…」

 冷たく響いていた耳鳴りが、僅かに落ち着く。

 聖火騎士団は、三人の任務を知っている。必ず助けに来てくれるだろう。


 「ノース…リーゼ…早く会いたい」


 ハーシア様、どうか二人をお守りください。

 指を組み、少女は寝台に跪いて祈った。


 いつもなら、そうすれば耳元で聞こえる声は、聞こえなかった。

 大丈夫よと励ましてくれる、優しい囁きは訪れなかった。


 とても心細くて、エリカは跪いたまま、涙をこぼした。



 鉄格子が嵌っていても、窓自体は開けられる。

 冷たい冬の風でも外の空気を感じたくて、薄い布団にくるまりながら、エリカは外を見ていた。


 太陽が沈んだ回数は…十二回。


 その間部屋を訪れたのは、食事を持ってくる兵士と、着替えた後の服や便器を回収する中年の女の二人だけで、静かな日々が続いていた。

 だが、そんな静寂は、昨日まで。


 朝食が終わって、また布団にくるまって外を見ていると、突然ドアが開けられた。


 入ってきたのは、食事を持ってくるのとは違う兵士だ。


 その兵士が無造作に寝台に投げ出してきたのは、エリカの神官服。

 聖印やブーツも一緒くたに投げ出される。


 着ろ、と無機質な声で命じられ、出ていく様子はない。


 見知らぬ男に肌をさらす恐怖と屈辱に耐えつつ、久しぶりの自分の服に着替える。

 洗濯は当然にされておらず、汗と垢の臭いがした。


 着替えを追えると、兵士は無言で後ろ手にエリカを縛り上げ、引きずるように歩き出す。


 ささやかな抵抗は何の意味もなく、そうしてエリカは十二日ぶりに空の下に出て、ノースと顔を合わせた。

 その顔を見ただけで胸がいっぱいになって、駆け出そうとしたが兵士の手はそれを許さない。


 「エリカ!無事だったんだな…!よかった!」

 ただ、顔全体で笑ってくれた。それだけで、エリカも笑えた。


 (女神ハーシア…!私はどうなってもいい。あの人を、守って…!)


 口に出して兵士に邪魔されないよう、内心に祈りを捧げる。

 女神は応えないけれど、きっと届いたと信じる。


 腕をつかみ、兵士は無造作にエリカを停めてあった荷車へ投げ込んだ。

 暴れるノースを同じように、兵士が押し込む。すぐにエリカの首に槍が突きつけられ、ノースは動きを止めた。


 粗末な荷車に乗せられ、驢馬にひかれて連れてこられたのは、広大な壁に囲まれた広場だった。

 巨大な門が四人掛かりで開けられると、反対側にも門が見える。


 驢馬車はがらごろと広場中央へと進む。

 両脇を固める兵士の布陣に、エリカは身を固くした。

 こんな大軍を見たことはない。誰もが無表情に、ただ立っている。

 恐ろしいことが始まるのだという予感に、冷たい汗が背中を伝った。


 兵士たちの先頭列と同じ位置で、驢馬車は止められた。


 後ろから付いてきていた兵士が、エリカとノースを引き摺り下ろし、跪かせて槍を突きつける。


 「ノース…」

 「大丈夫、エリカ。きっとリーゼが…」


 繰り返される言葉に、頷く。そう、きっと大丈夫。

 こんな。

 こんな罪人を処刑するような扱いは、何かの間違いだ。


 「万人将イル・トゥメンヤルトネリ!」


 高らかに、声が響き。


 『万人将、ヤルトネリ!』

 一斉に、兵が唱和する。


 その二千人分の声は大気を震わせ、舞い落ちる雪すら一瞬、吹き飛んだように思えた。


 二千人分の余韻を打ち消すように、横合いから騎馬が進みでる。

 なんとか視線を巡らせてみれば、広場の北西部に当たる場所に、陣営が設けられていた。


 乗り手などいないような軽やかさで、黒鹿毛の馬は歩みを進める。

 その鞍上の人物は、揺るぎもせず馬を進ませていた。


 兵士たちよりひときわ豪奢な鎧と毛皮で縁取られたマントは、彼の身分を示す。

 兜はなく、頭頂部だけ毛髪を残して剃られた頭と、厳つく老いた顔が白昼に晒されていた。

 年のころは、還暦をいくつか越えたあたりか。

 頭頂部だけ残し、長い三つ編みにされて首に巻き付けられた髪は、白髪により灰色に見える。


 しかし、彼を年寄りと侮るものはいないだろう。

 鋭い眼光と、引き結ばれた口許は、彼が歴戦を経てこの地位についたことを物語る。

 右手には長柄の斧を持ち、左手は馬の鞍に乗せられているが、手綱を握りこんでいる様子はない。


 馬は、ぴたりと二人の前で停止した。


 老将軍の後ろから、さらに十騎が続く。最後尾の騎兵は、何かを引き摺っていた。

 それは、大きな革袋だった。

 湿った色に染まり、それは引き摺られた跡を陣営からここまで伸ばしている。


 「開けて中を見せてやれ」


 見た目通りの太い声に、騎兵は「是!」と返答し、槍を振るった。

 鋭い輝きを雪舞う中に翻し、槍は皮袋をすぱりと裂く。


 「…!」


 中から現れたのは、肉だった。

 内臓も、筋肉も、脂肪もぐちゃぐちゃと混ざり合い、ただ肉としか表現できない。


 だが、エリカは、そしておそらくノースも、その中に見つけてしまった。


 人間の耳。

 その耳にはまった、耳飾り。


 「聖火騎士団は、お前らの事なぞ一切知らぬと答えた」


 よく見れば、その周辺にあるのは、髪だ。

 血に染まり、頭皮や脳と混ざり合ってはいるが、一束、二束と固まって残っている。


 ずるり、と肉の塊が支えを失ってしたたり落ちた。


 雪と土の上に、肉片が零れる。

 その中から二人を見つめる、眼球。


 それが友人の目の色と同じだと、耳飾りもそうだと認識した瞬間、エリカは朝食を吐き出していた。


 「この女は、その日の夜に見張りに魔導を放ち、逃亡を謀った。故に、先に処罰を与えた。皮袋に詰めて三日。声がしたのは初日の夜明けまでだったがな」


 「リーゼぇえええ!!!」


 ノースが叫んだ瞬間、その肩に兵士の膝が乗せられる。

 あっけなく地面に叩き伏せられ、エリカの吐瀉物に顔を押し付けられながらも、ノースは半狂乱で叫び続けた。


 「殺してやる!絶対に殺す!何故、なぜこんな惨いことをされなければならないんだ!」


 「子供を殺し、世界の敵たる黄昏を奉じた。そして、さらに重大な罪を犯したからだ」


 「違う!俺は、俺たちは、黄昏の君から世界を救おうと…!」


 「そこの女。女神ハーシアの神殿より届いた」

 その必死の叫びを一切無視し、老将軍が手を挙げると、横に立っていた兵士が一枚の紙を広げ、エリカへと示す。

 そこには、何か文字が並んでいる。

 だが、エリカにわかるのはハーシアの聖印である、菫を象った印章が押されている事だけだ。


 「…ふん。字が読めんのか。なら、教えてやろう。

 お前は、破門された。お前はただの逃亡奴隷に戻ったのだ」


 「…嘘…」


 「露骨な尻尾きりだ。聖火騎士団とやらも、春風の女神も実にわかりやすい。

 破門と言う処罰を下し、元からいなかったことにはせんかった神殿は、多少褒めてもよいがな」


 「うそ、うそです…そんなことありません…私は、私は、ハーシア様に命じられて…」


 「罪もない子を殺して回ったというのならば、それこそ女神への侮辱であろうが」


 「違う!これは、そうだ、お前らこそ、黄昏の君に操られているんだ…っ!くそ、こんな大国にまで…」


 「黙れィ!」


 老将軍の大喝は、二千人の唱和よりも激しく大気を震わせた。

 びりびりと叩きつけられた怒気は、二人の魂をも打ち据え、その口を閉ざす。

 足元が雪解けではなく濡れだしたことに、二人を抑える兵士が微かに顔を顰めた。


 「さらにこの、大アスランを侮辱するか!

 このヤルトネリを、邪神の手先と愚弄するか!

 大祖より受け継がれし黄金の血統アルタン・ウルクは、何者の支配も受けぬわ!

 その黄金の血に仕えし我ら十二狗将が、邪神の声などに惑うことは、ないッ!!」


 虎の吠え声と評される将軍の怒号に被さるように、銅鑼の音が響いた。

 その瞬間、将軍は口を閉じ、馬から滑るように降りる。

 後に続いてた騎兵らも、音もなく地に降り、膝をつく。


 ざん、と空気が鳴った。

 二千人の兵らが一糸乱れぬ動きで、一斉に跪く。


 それを待っていたかのように、正面にあった門が開いた。


 まず進み出たのは、騎馬兵。

 騎馬の胸には赤い布が飾られ、騎乗する兵はそれぞれ一振りずつ、旗を掲げている。

 雪風に翻るその旗は、赤く紅く染められ、中央に翼を広げた鴉の刺繍が施されていた。


 「紅鴉ナランハル紅鴉ナランハル!」

 旗を掲げる兵が声を響かせる。


 『紅鴉!紅鴉!』


 再び、兵がそれに唱和を返した。

 跪きはしないが、老将軍ヤルトネリもまた、声を張り上げている。

 先ほどの凄まじい怒気はなく、むしろ愛しいものを見つめるような瞳で、騎馬兵の先を見ていた。


 旗持の騎馬兵は左右に分かれて進み、その後ろに従っていた一回り小さい旗を付けた槍を持つ騎馬兵も、同じように続く。 


 左右にそれぞれ五隊、五十騎、合わせて百騎の兵が整列を完了すると、その前に一騎、緩やかな足取りで馬が進んでいった。


 馬上、淡い金色の髪を風に揺らしているのは、まだ少年。


 編み込まれ、結い上げられた髪は、ところどころ不自然に切れてはみ出ている。良く日に焼けた健康そうな頬には膏薬が貼られ、その白さが痛々しい。


 「ナランハル!千歳申し上げる!」


 胸に拳をつけ、老将軍は声を上げた。心の底から沸き立つ喜びを込めた声。

 老将軍がどれほどこの少年を慕っているか、この声だけで分かるだろう。


 『千歳申し上げる!』


 二千と百十騎が続く。機械的な発声ではない。

 老将軍と同じく、いまここに在れること、少年の前に立てることが誇らしいと、叫んでいるような熱がある。


 「ありがとう。ヤルト爺も兵の皆も壮健であるな。喜ばしいことだ」


 「もったいなきお言葉にございます…!」

 軽く上げられた手は、指先まで包帯に覆われている。それを目にし、斧の柄を握る将軍の肩が膨らんだ。

 「なんと…おいたわしや…」

 視線は馬上の少年から離さず、ただ怒りの気が地に押し付けられる二人へと向かう。

 押さえつける体が震え、槍がカチカチと鳴った。


 「もう痛くはない。心配をかけてすまないな」

 「ナランハル…なんと、なんとご立派になられてッ!」

 「え…?そんな立派なこと言ったかな?」


 ずん、と洟をすすって、老将軍ヤルトネリは大きく頷いた。


 「ああ、ナランハルがまだ髪を伸ばしておられませぬ頃、転んで泣いた日を思い出しまする…あの時も、すぐに泣き止まれて、痛くはないと立ちあがられた…あの頃より、この老い耄れはナランハルの成長を短い生い先の楽しみに…」


 「それは後に回してください。将軍」

 冷たい声は、少年の後方から響いた。


 コツコツと靴音を鳴らし、馬の後ろから歩み出たのは、断事官ユー・ホンラン。

 久しぶりに見るその顔に、エリカは縋るように叫んだ。


 「おねがい!これは間違いなの!違うの!私たちは…!」


 友人だった肉塊。押さえつけられた想い人。地面を濡らす、自分から排出された汚物。


 「…たすけて、ください…いのち、だけ…は」

 その汚泥に、擦り込むように額をつける。


 「なんでもします…なんでもしますから…たすけて、死にたく、ない…」


 「エリカ…」

 茫然と呟く男の声も、命乞いが掻き消していく。


 「先に申し渡した。お前ら糞虫は馬裂きだと。

 今更命乞いをしたところでそれは覆らぬ」

 だが、ユーの声は吹き付ける風よりもさらに冷たく、容赦はなかった。


 「おねがいします、おねがいします…なんでもする、しますから…」


 「黙らせろ」

 ユーの冷たい声に、エリカの首を兵士の靴底が踏みつけた。

 声を封じられ、エリカはそれでもひたすら視線を上げた。

 媚び諂うべき相手を探し、彷徨わせる。


 「…!」


 滲む視界が見付けた、この場で一番身分が高いと思われる、ナランハルと呼ばれた少年。


 その、満月色の双眸。

 全身が、どうしようもなく、絶望によって弛緩した。


 「お前らは、大罪を犯した。その罪を告げる。

 ひとつ、黄昏の君に惑わされた。

 ふたつ、唆されるまま、子供を殺して回った。

 みっつ」


 ああ、これは、もう、だめだ。


 「我がアスラン王国二太子、ファン・ナランハル・アスランの御身を傷付けた。

 あまつさえ、その御命を害さんとした。

 アスラン王国法により、馬裂きの刑とする」


 なんで、なんでこうなるのか。

 奴隷として生まれて、何をしてもいい道具の様に扱われて。

 小作人の子だったノースと共に、聖火騎士団の騎士に救われて、同じような境遇だったリーゼとも仲良くなって。


 世界を救いたいと、そう思っただけなのに。


 「だが」

 若干のいら立ちを込めて、ユーは言葉を続けた。

 「その境遇、また、黄昏の君の術にどれほどの人間が逆らえるというのかと、ナランハルは減刑を命じられた」


 弛緩していた身体に、血の流れが戻る。

 減刑。

 確かに、ユーはそう言った。


 一生、牢に繋がれるのかもしれない。

 でも、生きて行けるなら、恩赦がでるかもしれない。

 誤解が解けて、助けられるかもしれない。


 ああ、良かった。ハーシア様、ありがとうございます…!


 祈る形に手は組めない。ただ地面に押し付けられたまま、もごもごと呟くだけではあったが、女神へと感謝を捧げる。


 ふと、半分しかない耳に、暖かいものを感じた。

 女神の神託が届く前兆。


 『エリカ』

 柔らかい、暖かい声。ハーシア様だと、涙がこぼれた。

 『お前は、実に愚かだね。ああ、楽しかった』

 

 「え…」


 ねちゃり、と耳に滴った、甘ったるい声。

 心底嘲笑い、愉快そうな、声。


 「馬裂きの刑を減じ、斬首とする。罪人を引っ立てよ!」


 兵士が腕をつかみ、立ち上がらせても、かつて春風の女神の声を聴いていた少女は、何の反応も示さなかった。

 


 「首は検めた。下げてよい」

 うつろな表情を晒す二つの生首と、そもそも顔がどこかわからない肉塊を前に、ファンは頷いた。


 設えられた床几は、羊の毛皮が何重にも被せられ、ふんわりと傷が癒えていない身体を受け止めている。


 あの大立ち回りの後、気絶している間にファンを診断した医者は、脇腹の裂傷と大量の出血により、生きているのが不思議なくらいだと呟いた。


 もちろん両親は激怒し、知らせを聞いた祖父まで駆けつけた。

 翌日目が覚めた後にファンがまず行ったことは、家族をなだめすかして状況の説明をすることだった。


 あまりにも周りが怒りすぎて却って冷静になっていた母が一同を叱り飛ばさなければ、寝ている間に刑は執行されていたかもしれない。


 「斬首でよろしかったのですか?このような糞虫、馬裂きでも生ぬるいと思うのですが…」 

 「然り。凌遅刑か箱刑でよろしかったのでは」


 「…それでもし、黄昏の君が何らかの手を使って、魔族を降臨させたら大惨事になる。だから、これで良かったんだよ」


 殺すのに、苦痛を長引かせる必要はない。ファンはそう思う。

 どれほどの悪人であっても、いたぶり殺すような方法はとるべきではない。

 ただ殺すだけじゃ許せないという、被害者や遺族の言うこともわかる。


 だが、それでも。

 自分が裁量を振るえる場合は、そうしたくなかった。


 それと、魔族降臨の防止とどっちが建前で本音なのかは…自分ファンにもよくわからない。


 「灯の刻印が授与された以上、世界に危機は迫っている。少しでも、その可能性は除外しなきゃ」


 「ナランハル…」


 「なんと、なんとほんにご立派な…!

 この老い耄れめは、今、とてもとてもナランハルのご成長が嬉しゅうございます!

 ああ、思い起こせば十六年前、ひと際よい風の日が吹く日でございましたな。あの日、朝早く産屋に籠られた后妃ハトゥン様が…」


 「お静まりを、爺。老い先短い一生をカっとなってやった。だが後悔はしていない的に終わらせたくはないでしょう?」

 「…お前に殴られたくらいでは死にゃせんわい」

 そう言いつつ、ユーの手に重たそうな金属製のコップが握られているのを見つけて、目を見張る。


 「二人とも、頼むから俺の目の前で衝動型殺人しないでくれ…」

 「はい。ナランハル」

 「おお、なんとお優しい…さて、ナランハル。お体に障ります。本日は戻られませい」


 「ん、そうだね」

 座っているだけなのに、酷く眠たく、だるい。

 大量に流れ出た血は、体力をごっそりと奪っていた。

 この冬の風に長く晒されているのは、間違いなくよくない事だろう。

 あれだけ抗った死に、風邪ひいて負けたら流石に情けない。


 「簡単に、死ねなくなったしな…」

 包帯にくるまれた右手を、掲げる。


 今は見えない、灯の刻印。


 マース神の告げた事が真実ならば、灯の刻印がなければ人間側は戦うことも許されない。


 だが同時に、保持者がいなければ黄昏の君は復活できない。


 過去の侵略は、灯の刻印保持者を作り出すためのものだった、と言う可能性だってある。

 どうやって器となる保持者に黄昏の君を降ろすのかは語られなかったが、多分ろくでもない事なんだろう。


 この一件もまた、黄昏の君の戯れに過ぎないというなら。


 もし、自分らが殺されていたら、どうなっていたか。

 アスラン王国は、両親や兄は、きっと僅かな痕跡からでもあの三人を特定し、聖火騎士団や春風の女神の神殿ごと報復していたに違いない。


 (今、兄貴居なくて良かったなあ)

 いたらきっと、気絶している間に聖火騎士団が壊滅している。


 (でもさ。逆に、器がもういるなら、今迄みたいな大規模な侵攻をして、神々や諸国の注意を引くことはないんじゃないか?)


 黄昏の君は、悪質な悪戯を好み、困惑と混乱を好む。

 そのやり方は、今までの侵攻と少し違う。

 もっと静かに、悪質に、何かを仕掛けてきているんじゃないだろうか。


 時が来るまで、種が冬を越すように、春の芽吹きに備えてひっそりと変化しているように。

 そして時が来れば、一斉に混沌の芽が飛び出し、世界を絶望の蔓草が覆っていく。


 運ばれていく生首へ視線を向ける。

 彼らも、その蔓草に巻き取られた、ある意味では被害者だ。


 処刑までの間に、彼らについてある程度の事は調べられていた。聖火騎士団に属していたのも本当の事だ。ただし、既に追放になっているが。


 彼らがを受けたのは、二年前。


 あの剣士は、貧しい小作人の生まれだった。

 両親を早くになくし、親代わりの兄が育てていたが、ある日住んでいた村が野盗に襲われ、彼は奴隷として連れていかれてしまう。

 その野党の根城を聖火騎士団が制圧し、既に奴隷として使われていた神官女ともども騎士団へ引き取られ、そこで成長した。


 立派な聖騎士になって聖火騎士団の一員になるという夢は、貧弱な体格と筋力、それに元からの素質のなさが邪魔をして、叶えられていなかったが。

 だが、下働きでも聖火騎士団の一員には違いない。そんな剣士の元に、襲撃で死んだと思っていた兄が現れた。


 村が壊滅した日、兄はなんとか隣村に逃げ込み、その村の娘と結婚していた。

 村を壊滅さえた野盗は聖火騎士団が倒したのだと聞いて、お礼を言いにやってきたところ、弟が生きているのを知ったのだ。


 自分の土地を持つ農民となっていた兄は、小さな男の子を甥だと剣士に紹介した。

 裕福ではないが幸せな家庭を持てて、自分は幸せだと、お前にも幸せになってほしいんだと語る兄。

 その何が、彼の分水嶺を超えさせてしまったのかはわからない。

 ただ、その再会に立ち会った騎士は、兄の願いを聞いた途端、弟から再会の喜びが消えたようだったと語っている。


 お前も聖騎士になるなんて言うかなわない夢は捨てて、所帯を持って、幸せになっとくれ。

 また一緒に暮らして、畑を耕そう。手も足りないんだ。妻もきっと喜んで迎えてくれる。

 優しい、いい女なんだよ。お前の覚えていない、母さんみたいに。

 

 兄は、弟にそう願った。

 それは至極もっともなもので、けっして弟を馬鹿にしたわけではない。

 成人の年になっても下働きのままなら、騎士になるのは不可能だ。

 彼よりも若い少年たちはとっくに騎士見習いになり、騎士叙勲を受けたものすらいる。


 一生騎士団の下働きより、兄と共に家に戻り、畑を耕し、やがて妻を娶って独立した方がずっと意義のある生き方だろう。


 しかし、弟は、考えておくと言って、兄の願いにすぐには同意しなかった。


 翌日、悲鳴を聞いて駆け付けた騎士たちが見たものは、斬られて絶命した親子の姿。


 それ以来、剣士らは姿を消した。むしろ、親子を殺した犯人が、剣士たちを連れて行ったのかもしれないと思っていたのだと、弁明に来た騎士は語った。

 マース神に誓って、あんな凶行を任務などと認めたはずはないと、熱弁を振るい、自分たちも被害者なのだと言わんばかりだ。

 それにしては捜索をしている気配は見つからなかったが。


 農民の親子が殺された件を解明しても、世間はすぐに忘れるからでしょうよ、とユーは鼻に皺を寄せながら感想を述べた。ファンも同意見だ。


 そう、きっと、聖火騎士団にとって、野盗を倒すことは大事なことだったのだ。

 大きく称賛を浴び、流石は聖火騎士団と謳われる行為。

 それに対して、元奴隷の下働きが、兄と甥を殺して逃げたことは、むしろ恥だ。なかったことにしようと目を逸らしたのだろう。


 誰か一人でも彼らを気にかけて探していれば、もっと…彼らも救われたかもしれない。


 そして、多くの子供が、今も生きていたかもしれない。

 彼らは歪んだ。愚かだった。甘い毒を飲み干してしまった。

 誰にも注目されず、孤独で、辛くて、真実よりも優しい嘘を信じてしまった。

 けれど、毒を飲ませた張本人が、彼らよりも罪が軽いなんてことは、ない。


 (俺は、あんたが大嫌いだよ。黄昏の君よ。そのやり口は、反吐が出る)


 その日は、やっぱり来てほしくない。

 怖いことは嫌だ。痛いのは辛い。しんどいことはやりたくない。

 悪意や憎しみや悲しみをたっぷり頭から浴びて、死を隣に引き連れて、それでも目を開いて前を向くのは、叫びだしたくなるほど恐ろしい。


 でも。

 そんな大嫌いな奴に、尻尾を巻いて逃げるのは、もっと御免だ。

 

(その時が来たら、俺は、逃げない)


 右手を伸ばした運命のはじまりが、やってきたら。

 震えていても、へっぴり腰でも、半泣きであっても。


 (俺は天才でも英雄でもないけど。意地くらいは張れるさ)


 床几から立ち上がると、眩暈がした。ふらりと揺れる身体を、すぐ横に控えていたユーが支えてくれる。


 「ありがとう。…きっと俺はこうして、いろんな人に支えられていくんだろうな」 


 「…ナランハル。御身が、その魂が腐り切った糞にも劣るものであれば、誰もこうして支えません。支えられるのもまた、ひとつの武器と思いませ」

 ファンの言葉に、ユーがしかめっ面で諫言を述べる。

 とはいえ、声音は温かく、柔らかい。

 

 「この娘の言い方は無礼にもほどがございますが、その通りに御座います。

 大王も、一太子オドンナルガも、我々は黄金の血統だからと頭を垂れ、命をかけるのでは御座らぬ。

 その魂が、黄金の血統に相応しき御方と思えばこそ。

 ナランハルもまた、然り」

 ヤルトネリもまた、重々しく頷く。


 「あなたは、支えられるのが当然と思っておられる。

 けれどそれは、御身が我らに示し、見せてきた姿によるもの。これからも、傲然と顔を上げ、理不尽を踏みにじり、お心のままに善行を行われよ。

 可哀相だから救う。納得できないから怒る。それが誰が相手であっても、何が相手であっても。

 それでこそ、最も高き天を往く、紅鴉ナランハルに御座います」


 それがどれほど難しい事か、彼らは分かっている。

 身分や、財力や、地位や、しがらみや、様々なものが、「良い」と判っていることを妨げる。


 けれど、この少年は、その全てを蹴飛ばせる立場にいるのだ。


 いやきっと、例えアスランの王子と言う立場などなくても、きっとそうする。

 そんな予感がする。


 それを見てみたいと思わせるのは、立派な資質だ。


 人が理想を、諦めた想いを託せるそのことこそ、王たるもの、英雄たるものの資質だ。

 きっと、本人は一生気付かないのだろうけれども。


 「ありがとう。肝に銘じるよ。黄金の血統アルタン・ウルクに恥じるような事だけはしないと約束する」

 「御意」


 雪は、いつの間にか止んでいた。


 しかし、またすぐに降りだし、これから街外れに晒される罪人の首にも舞い降りる。

 白い雪は、兄と甥を殺して逃げ、大都で子供を襲って警備隊に取り押さえられた狂人として晒される首を、凍り付かせるだろう。

 凍った首は一日二日は注目を集め、やがて腹をすかせた鴉程度にしか見向きもされなくなり、雑に掘られた穴に放り込まれて朽ちていくだろう。


 彼らが二人の少年と、世界の運命を変えたことを知られることもなく。

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