第34話 右手を伸ばした日 中編
「こっちこっち。すまないね、ちょっと借りているんだ」
声は、斜め右上からした。
弾かれた様にそちらを見れば、塀の上にちょこんと、騎士の人形が座っている。
それはこの時期なら、どこででも見かけるありふれた装飾だ。
…ありふれた騎士人形は、動いてしゃべったりしないけれど。
「今、彼らが魔道具でずらしている空間から、さらに君たちを切り取った。
君だけ切り取ろうと思ったんだけど…非常に言いにくいんだが、君だけじゃ、死ぬだけだからさ」
やれやれと肩を竦める人形の言葉に、慌てて振り向く。
ぽかんと口を開けて、クロムは俺を見ていた。
あ、クロムはお化けとか苦手なんだっけ。怖くて固まってる?
「おいおい、僕はお化けじゃないよ?」
「…じゃあ、なんなんですか?」
これが、俺が戦闘による興奮で見ている白昼夢でないのだとしたら。
あいつらを惑わしたモノが、今度はこっちに接触してきた?
「まず、彼らについて謝ろう。まさか、聖火騎士団が惑わされるとはね。
全員が汚染されているとは言いたくないけれど、戦力としてはもう駄目だな。
深く潜られると、僕でも汚染されているか否か見えない。
敵かもしれない味方は、敵よりも厄介だ。そう思うだろう?
ファン・ナランハル・アスラン」
「あなたが、黄昏の君の使い魔でない保証もないですが」
俺の名を、知っている。俺がなんだか、わかっている。
信用するのは、危険だ。
けど…なんというか、嫌な感じはしない。
これがすでに相手の術中に堕ちているせいだとすれば、相当にまずい状況だ。
「君は本当に、おかしいなあ」
手を振りながら、声が弾む。笑っているようだ。
「おかしい?」
「ああ。普通はね、いきなり斬りかかられて、殺されかけたらね、何も考えられなくなるよ。
まして、助けてくれたのかもしれないものを疑ってかかったりしない。
君はそういうふうに育てられたのもあるだろうけど、元からちょっとおかしいよね」
ちゃちな脚をプラプラさせて、騎士人形は言葉を続ける。
「たまにいるんだよね。そういう人間が。恐怖を感じないわけじゃないし、痛みもある。
なのに、あっさりとそれを越えていってしまう、頭のおかしい人間がさ。
何度も死線を潜って身に着けたとかじゃなく、天然物のおかしさと言うのかな。
本当に死ぬまで、自分が死ぬとは考えもせず、全力で動ける。
絶望に支配されない、狂人と紙一重の強靭さ」
なんで俺は、こんな騎士人形に罵倒されているのか。
まあ、似たようなことは、親父や祖父ちゃんからも言われことがあるけれど…
「そういう人間はね、たまにいる。
中には一生、自分がそういう人間だと気付かずに過ごす者もいる。生まれた国や場所によっては、死の危機なんてものと死ぬまで無縁だしね」
「えーと、それで?」
「さらに君はもうひとつ、珍しい特性を持っている」
ぴ、と騎士人形は俺を指差した。
その手はただの棒を丸く削ったもので指はないから、指差すはおかしい表現かもしれないけれど。
「君には、神の加護がない」
「え?氏族と国の守護神たる雷帝の加護は、血統的にあると思いますけど」
「それがね、ないんだよ。とてつもなく珍しいことに」
普通、誰しも神の加護はある。
生まれた国の守護神の加護があり、うちみたいに代々神を祀っていれば、その血に加護が宿る。
それが、ない?
まあ、確かに俺は癒しの御業が効きにくいとかあるしなあ。
そうか。それが原因だったのか。
でも、なんでないんだろう?自動的に付与されるものでないとしたら、いつ、どこで加護が着くんだろう?
自動じゃないなら、誰かがやっているわけで、御使いが生まれた子供一人一人を回ってつけて回っているとか?
それなら付与が漏れていたことは納得する。でも、もっといそうだよなあ。
騎士人形の口振りじゃ滅多にないみたいだけど。
騎士人形は俺を見て、ますます嬉しそうに足をぱたつかせた。
「それそれ、その反応」
目を瞬かせて騎士人形を見る。
激しく反応したつもりはないのに、なんなんだ?
「普通はね、神の加護がないなんて聞いたら、それで今こんな目に…とか、まあ、そこまで行かなくても、がっかりするよね。
神々は、いつまでも見守ってくれる親で、その加護がないというのは、親に見捨てられたようなものだし。
けど、君ら本当に加護のない人間は、それをまったく気にしないんだよね」
可笑しそうに、騎士人形は肩(?)を震わせる。そんなウケることか?
「ねぇ、ファン。
君たち人間は、とてつもなく強い個体もいるよね。それこそ、君の兄のように」
「そりゃあ、まあ…」
「けれど、過去、魔王と呼ばれるような魔族の侵入があった時、そうした強者はどうなったか、君は知っている」
過去、五回。
世界は、大規模な侵入を経験している。そのたびに灯の英雄が現れ、魔王だの邪神だのと言う連中は倒されてきた。
その物語の中には、その時代にすでにいた英雄と呼ばれるような人々が無残に討ち取られる描写が必ずある。
それは、それだけ魔王が強いことを強調しての演出でもあるだろう。
けれど、物語ではなく歴史としてみても、軍勢を率いて討伐に向かった将軍が、あっけなく戦死した記録は様々な形で残されていた。
「何故、彼ら彼女らは破れたんだと思う?」
「それは…」
灯の英雄ではなかったから。
そう答えるのは簡単だけれど、そうじゃない気がする。
「そこで勝てたら、ただの魔族としてしか記録に残らないから?」
「なるほど、そういう考え方もあるね。じゃあ、何故、ただの少年少女に過ぎない灯の英雄が、歴戦の勇士を簡単に殺すような魔王を討ち取れたんだと思う?」
「それは…」
両者を別ける、根本的なものは灯の刻印だ。
つまり、灯の英雄であるか、そうでないかの差。
けれど、騎士人形の口振りだと、そう言うことじゃない…と匂わせている。
「おっとおっと、そんなに考え込まないで。君、こういう問いかけすると何年でも考えちゃいそうだしね。先に正解を言っておこう。ああ、そんな顔しないで。普通、思い至らないから」
塀の上に、すくりと騎士人形立ち上がった。
本来なら、後ろから棒で支えなければ立てないはずなのに、支柱を背負っている様子はない。
「それはね、神の加護が関係する」
「負けた将軍らには、加護がなかったってこと…?じゃ、ないんですね。たぶん」
なら、その逆?
加護がないから、勝てる?
「そう言う事。神々の加護は、基本的にどんな人間も持っている。
遥か遥か大昔、君たち人間が『人間』としてこの世界に誕生した時からの関係だ。
神は人を守り、人は神を祀る。
けれど、言い方を変えれば、人の頸には神の付けた鎖が巻かれているのさ」
人と猿を隔てるのは、神の加護の有無だと唱える学者もいる。
神の加護、と言えば聞こえはいいけれど、つまりは神が猿をいじった結果、人間と言う動物ができたのではないかと。
人の痕跡は、ある時突然にこの世界に現れている。
物語では、神が育てた千個の種のひとつから人間の男女が生まれ、それからその男女が種を神からもらって育てると、たくさんの人が生まれた、と語られている。
ただ、この物語、くれる神や育てる植物が国によって違うんだよな。
アスランやカーランなら雷帝からだし、西方では地母神ニーメの事が多い。
キリクやクトラでは、ヘルカとウルカが舞を踊るときに飛び散った汗が蕎麦の実におちて、そこから人間が生えてきたことになっている。
「その鎖は、加護を授ける神に繋がっている。
そして神は始源の創造神に同じような鎖で繋がれている。
かつて、神々が滅びと戦ったとき、なんでマースなんていう何を司るかもはっきりしない神が先頭に立ったか…それはね、マースは始源の創造神に造られた神ではないからさ」
「ええっと、確か、創造神の妹神が生み出した神…なんですよね」
娘じゃなく、妹。
神話では、何もない空間に卵が現れ、そこから創造神が生まれた。
…空間があるならなにもなくはないじゃん、と俺は思うけれど、それはもう何千年も議論されている矛盾だ。とりあえずはそうだったと言う事にしておく。
殻は大地に、満ちていた羊水は海になり、カラザの上半分は弟神…つまり黄昏の君となり、下半分は妹神になったと語られている。
つまり、妹神の生みだしたマース神は創造神の影響を受けないのか。
妹神もまた、創造神の創造物ではないから。
「そう。彼女が、兄を止めるために自分の全てを使って生み出した、唯一始源の創造神に造られた神ではない存在。
故に、創造神の鎖が繋がっていないんだ。
創造神の鎖は、創造主に逆らうことを阻害する。しつけの悪い犬が思いきり鎖を引かれて悲鳴を上げるように、逆らえば首が締まる。
人も同じさ。創造主に逆らえない神の鎖が繋がっているから、創造主に与するものに逆らえない。逆らおうとすれば、腕は鈍り足は止まる。ただの魔族ならそんなことはないけれどね。人が人同士で殺し合えるように」
つまり、神の加護を持たない人間じゃないと、魔王と呼ばれるような存在と戦っても、必ず負けるって言うことか…
けれど、灯の英雄もひとり戦ったわけじゃない。仲間と力を合わせ、最後は軍を率いて戦ったはずだ。
「うーん、今までの子の中で、一番君は話が早いというか、説明し甲斐がないなあ。もっと、ぽっかーんとして聞いて感動してほしいよ。
まあ、いいか。何故、マース神の刻印は灯の刻印と呼ばれるのか。
それは、マース神によって授けられても、その加護の印ではないからさ。マース神がその母ともいえる妹神より、灯と言う形で受け継いだ御力だ。
なので、マースと言う神の名を刻むのではなく、灯を象る。
そしてその灯は、創造神の鎖を保持者と繋がる鎖へと置き換えるんだ」
「…!」
「伝承に語られる味方の強化はその副作用だ。
創造神は、創造物が偉そうに祝福を与えるのを嫌う。その縛りがなくなるからね。
神々の加護が阻害されず届くわけだ。
まあ、味方の強化についてはそれだけじゃないけどさ」
騎士人形は手を上から下へと下ろした。加護が届く様子を演じているんだろうか。
そして僅かにかがんだ体勢から、すっくと背を伸ばした。
そもそも、騎士人形に間接はなさそうだけれど。服の下はどうなってるんだろう。
「ただし、灯の刻印の保持者には絶対の条件がある。
特定の神の加護がないことだ」
黒い二つの点は、俺をしっかりと見つめ、離さない。
神の籠を受けていない人間を、その視線で捕えようとするかのように。
「どの神にも属さないゆえに、許される力なのさ。
だって、その加護する神から繋がる鎖は、さらに創造神に繋がっているからね。
逆らえば神の首が締まるだけだ。そうなれば、加護は呪いに転じる。
それじゃ駄目なんだ。創造神の鎖が繋がる神では意味がない」
「そんなの…」
刻印は御業を強化し、保有者にしか使えない御業も存在する。
兄貴の雷帝の刻印における『万軍の主』のように、神が強力な御業を刻印を通して振るってくれるものもある。
けれど、その話が本当なら…灯の刻印はマース神の御業じゃなく、保持者の御業ってことになるのか?
それなのまるで、灯の刻印保持者は。
神じゃないか。創造神に繋がっていない、全く新しい神。
「そう、その通り。もっとも、君も良く知る通り、灯の刻印は保持者を強化したりはしないけどね。神に等しい存在になるだけで、神に等しい力は持てない。
寿命が延びたりもしないし、不老にもならない。紛い物だ。
ただ、人が神に剣を向ける為には、紛い物でも違う神が必要なんだよ」
表情は、墨でちょんちょんと書かれた点三つだけだから変わらないはずだけれど、騎士人形はなんだか少し苦しそうに見えた。
「君たち人間は、あと千年もしないうちに自ら神の鎖を引きちぎるだろう。けれど、まだ駄目なんだ。まだ、神と戦うためには、神が必要なんだ。
だから、僕はその為の生贄を毎回求める」
「生贄…」
「灯の英雄。彼ら彼女らは、そうして語られていく。
けど、ただの子供に、僕は、戦いを強いる。
己の血を流し、家族の、仲間の屍を抱き、それでも前に進めと、世界を救えと犠牲を強いる。
まさに悪神だ。加護がないのはあの子たちの罪でも何でもないのに」
灯の刻印は、保持者の強化はしない。
過去、五人の英雄たちは易々と勝利を掴んだわけじゃない。
愛する人が殺され、住んでいた国が滅ぼされ、それでも諦めずに戦ったその足跡は、きっと血の色をしている。
それを、このひとは…いや、この神は、己の悪行と認識している。
それでもなお。
罪を、犯そうとしている。
「もう一度問おう。ファン」
騎士人形は、三つの点で俺を見つめた。
「ここで死ぬのが君と彼の運命。けれど、それを捻じ曲げるかい?」
「もとからの運命に従った方が、遥かに安穏な人生であったとしても?」
「君が選ぶ運命の先に、数多の屍が積み重なり、血が流されたとしても?」
「それでも君は、諦めないと言うのかな?」
「諦めない」
騎士人形の目にあたる点をしっかりと見据えていたら、言葉は自然に口から出ていた。
このひと…が、なんであるのか。きっと、そうなんだろうな。
黄昏の君の使い魔だって言う可能性も捨てきれない。
けど、違う…と思う。
それは、ただの直感だ。根拠も何もない。
死にたくないから、可能性にすがる?それももちろんあるけれど。
今、このひとの言おうとしていることに従わなくても、生き残る可能性がないわけじゃない。
けど、けどさ。
「運命の果てに屍の山が、血の河ができるというのなら、そうはさせない。なんとかする。
今ここで自分が死なないことも、未来で失われる誰かの命も、諦めない。
すべて、守る」
お前は弱い、死んだ方がましだと言われて、はいそうですね、と頷けるなら。
俺は、自分を軽蔑する。
俺は弱いよ。武芸の才なんてものはないし、魔力も雀の涙だ。
かと言って軍略が得意とか、内政に見どころがあるなんてこともない。
魅力にあふれていて、周りが盛り立ててくれるわけでもない。
でも、だからって、弱いことを諦める言い訳にしたくは、ないんだ。
「俺の他に、どうにかできる適合者がいて、その人が俺よりずっと英雄として相応しくて強いとしても、今の俺とクロムは助けられない」
「うん。そうだね」
「絶対に助けられない人の中に、俺は、俺と知っている人の名を入れたくない。アスランの民を加えたくない。本当にどうしようもないならともかく…
どうにかできる手段が目の前にあって、それを取ったらほかの誰かが苦しんで死ぬのかも知れなくても。
助けられる可能性だってあるのなら、迷う必要もない。
それは、傲慢で、どうしようもなく醜い選択だ。できませんでした、ごめんなさいじゃすまないことも分かっている。
でも、俺は、何度聞かれてもこう答えます」
いつか、この選択を心から悔やむ日は来るだろうか。
絶望をもっと早く受け入れていればよかったのにと、自分を罵る日は来るだろうか。
誰かに、お前が選んだせいでと呪われる日は来るのだろうか。
例え、そうだったとしても。
「俺は、諦めない」
血塗れの右手を、騎士人形へと伸ばす。
「灯を、貸してください。マース神」
紛い物の神にだって、なってやる。
伸ばした右手に、チリリと熱が奔った。
「ああ。授けよう。傲慢にして強欲な、君の手に」
目の前にいるのは、木製の騎士人形じゃなかった。
蒼い髪と瞳をした、若者。
纏う鎧は体の線を隠し、彼なのか彼女なのかもわからない。
顔も、見えているのに…どんな顔をしているのか、一瞬後にはわからなくなる。
ただ、ひどく、辛そうに笑うなあと、思う。
「
手甲と手袋で覆われた手には、いつの間にか松明のような、蝋燭のような、ランタンのような、とにかく灯が握られていた。
「あの哀れな騎士らが言ったことは、全て出鱈目じゃない。たしかに、黄昏の君の器になるためには、条件があるんだ。
飛び切り強大な存在だからね。条件も非常に厳しい」
魔導、呪術の基本だ。強大な力を扱うには、相応の代償がいる。
容易い条件であれば、それなりに。難しい条件であれば、見返りは大きくなる。
「彼を封印する際、その封印を強固にするために、解放の条件を付けなければならなかった。
なるべく限定された、実現が不可能に近い条件。かわりに、もしその条件が満たされれば、彼は創造神に等しい力を持ったまま復活する。
そしてその条件を、僕はこう設定した」
灯が、俺の右手の上に掲げられる。
「灯の刻印を持つもの、と」
「つまり、灯の刻印保持者は、黄昏の君に対抗する唯一の手段であると同時に、その器にもなりえる…ってことですか?」
「そう言う事。おまけに神々の鎖は、保持者の鎖へと変わるのだから、その主が黄昏の君になる」
なるほど。それなら、聖火騎士団に目を付けたのは当たり前だ。
灯の刻印保持者がいれば、必ずそのもとに駆け付けるのだし、味方と思っていれば付け入ることもできるだろう。
逆に、今までよくちょっかいを出されなかったなあ。
意外と、黄昏の君ってバカなんだろうか。
「君は、いつから彼らが黄昏の君に惑わされていると確信したの?」
「十三年前うんぬん、の辺りからです。創造神の眷属ならともかく、いきなり黄昏の君の話を持ち出していたし…なにより、そう言うの好きそうだなって」
「そう言うの?」
「必死に復活を防いでいるつもりで子供を虐殺して回っていたら、それは全部その防ごうとしていた敵のお遊びだったなんて、考えただけで心臓が痛くなります。
けど、物語に出てくる黄昏の君の性格を考えると、好きそうなだって」
「なるほど。君はやっぱり、紅鴉の御贔屓だなあ。加護がないのが不思議なくらいだよ」
どうやら予想は当たっていたらしい。
「君のことは、紅鴉から聞いたんだ。今度の
「あ…実在したんですね。紅鴉って」
「おいおい」
あきれたように、英雄の守護神は肩を竦めたように見えた。
相変わらず輪郭は、見えて知覚したと思うと曖昧になるんだけれど。
「毎年、奉納の舞いまで捧げておいて、実在を疑ってたのかい?」
「んー…うまく言えないんですけど…いなくたって、いいんです。いてもいなくても、俺は紅鴉に感謝して舞を奉納するし、旅立つ人やこれから何かをする人に紅鴉の導きがありますようにって祈ります。
実際に紅鴉がいなくても、それは成り立つんです。なんていうかな。本当にいて、守ってくれたり、導いてくれなくてもいいんです」
「ああ、やっぱり君は面白い。神の加護を受けていない子でも、神を不要だと言い切る子は初めて見たよ」
「不要って言うわけじゃないんですが…」
「ふふ、大丈夫。何となくわかったから。
君の存在は、君がまだよちよち歩きの頃から知っていた。紅鴉が、いずれ自分の名を冠するアスランの王族が、雷帝の加護を持ってないって教えてくれてね。
神の加護のない子は死に安い。守りが少ないから、悪しきものに囚われやすいし、ちょっとした不運を逃れることができなかったりする。
けど、君は生まれてすぐに加護がないことが解って、その日のうちにたくさんの魔導的な守りや雷帝らの守護を祈る儀式を受けた。それに守られて、加護を持つ他の子と変わらず成長できた。
今でも定期的に、その手の儀式は受けているだろう?」
「俺だけじゃなくて、アスランの王族はみんな受けている…と思うんですけど」
新月と満月の日、節季の日、アスランの祭りが行われる日…それぞれの日に儀式は行われる。
主な儀式は基本全員参加で、その後個別に行われていたけど、俺だけ内容が違ってたのか?
「神々の加護がないって、普通はショックに思うことだからね?君の家族はそれを君に知らせないようにしていたんだろうね。
その家族…つまり、アスランの王族は君の強力な武器だ」
逆に言えば、それしかないけど。
歴代の灯の英雄に比べて随分と恵まれた立場なのは事実だ。
魔王邪神が敵と言っても、それだけじゃない。直接強力な力を振るって世界を壊しにかかるためには、どうやらいろいろとした準備がいるようで、その準備のために人間が使われる。
それは魔王の眷属に乗っ取られた国であったり、邪神を奉ずる教団であったりするけれど、人と人との戦いは避けられない。
なんで、最初は軍を持たない灯の英雄はとことん苦労する。一騎当千の武者がいたところで、本当に一対千になったら矢衾になって死ぬしな。
その点俺は、最初から軍を動かせる立場なわけだし…。
「戦になれば多くの血が流れる。人の心も荒れる。絶望が世界を覆い、暗く辛い日常よりも滅びによって楽になりたいと祈る。
それこそが、創造神の眷属を召喚する下準備なんだ。
この世界に生きる者たちの、明日を願う意志や守りたいと思う心…それが神々が張った結界なんかより、ずっと強固な盾となってこの世界を覆っている。
絶望の闇は、その盾に穴をあける。穴からするすると入り込んで、さらに人の心を染めていく。
だから僕は、君たちに灯を託すんだ。
この灯で、希望の火を燈してほしいと。
その火が、闇を退け、世界を守る篝火となるようにと」
例えば、どこかの国が眷属によって乗っ取られたとして。
その国が周辺諸国に攻め込み、多くの血が流れ、その侵略によって強大な軍事国家となったとしてもだ。
アスランが大陸交易の守護者としてある限り、アスラン王国の庇護する地域までくればどうにかなると希望が持てる。
急に難民が増えると困るけれど、今からそれに備えて対策をしていけばどうにかなる。
難民対策…地道に教育機関を整備するのもあるけど、まずは身一つできた人々を収容できる場所の整備と、その人たちを食わせ、最終的には自立できるようにするための仕事を作ることだよな。
食事と住居を与えて生かすことは出来るけれど、それじゃ家畜と変わらない。
人として生きていくためには、誇りが必要だ。
飼われてるんじゃなく、生きているんだと実感することが不可欠だ。
なるほど。そう言う対策ひとつとっても、俺が出来る事は多い。
アスラン南西部は遊牧に向かないから放置気味だけれど、百年前、五代の御代には小国とは言え国があった場所だ。
農地としては利用できるはず。…掘ると多分、人の骨とか出てきちゃうけれど。
地質調査やある程度の整備をしたうえで、開拓農民を募るのはいいかもしれない。
「君って、本当におかしいよね。
ふふ、確かに君は一生かかっても一騎当千なんて言われることはないし、天変地異を引き起こすような魔導士にもなれない。
けど、君はどれだけ絶望的な状況でも諦めない。
常に考え、どうすればいいかを探し続ける。
それは、英雄の資質だと
差し出した掌に、灯が乗せられる。
熱いのかな、と思ったけれど、それは何の熱も痛みもなく溶けるように掌に吸い込まれていった。
代わりに掌に浮かび上がる、灯を象った模様。
灯の、刻印。
「黄昏の君は、今度こそ自身が復活するためにいろいろな戯れを仕掛けてきている。いくつかはもう、終わってしまった。
けれどね、彼が意図したようには終わっていない。人はそれを知らなくても、灯を掲げる英雄がまだいなくても、その戯れに一矢報いてきた。
君の存在が彼に知られるのは時間の問題だろう。
けれど、僕は知っている。
君や、この世界に生きる人々は、負けない。
愚かで無様でどうしようもなくても、賢く高潔に足掻き続ける。
僕は、君たちを信じる」
「…はい」
自分にできるのかって言えば、断言できるはずはない。
けど、やれるのかと問われれば、やる、と答える。
うん。やるしかないなら、やらなきゃな。
そもそも、王族として振舞えるか、相応しいことができるかっていうのが生まれた時からの無理難題なんだし。俺に王族は向いていないんだから。
それに比べれば、世界を救う位どうってことはないさ。
…できれば、一生何も起こってほしくはないけど。痛いのも怖いのも嫌いだし。
「彼の戯れを戯れのうちに阻止していくんだ。
彼は矜持が太陽の住まう大樹より高い。いくつか阻止すれば、ほんの戯れだ、本気じゃなかったとへそを曲げて諦める。それが幾つめになるかはわからないけれどね。
連続で五回も潰されればへそを曲げるよ。君は器として彼の好みじゃないしな」
「…好みなんてあるんですか?」
「もっと、なんというか、絶世の、とかつく方が好みだね」
曖昧な輪郭は、肩を竦めたようだった。
「兄貴と立場が逆じゃなくて良かったです」
「うん、彼はもろに好みだな。容姿もそうだし、あの雷帝が刻印を授けるくらいの才気の塊だ。
そうそう、刻印の保持者は絶対に惑わされることはないし、君の一族は雷帝の強い加護を受けているからね。
いつのまにかああなっているなんて言うことはないから安心して。
…君の家族も、ちょっと…だいぶ、おかしいしね。加護がなくても惑わされないような気もするけど」
マース神は、ちらりと俺から視線をずらした。
目がどこにあるか曖昧だけれど、そういうのはちゃんとわかる。
神の視線がとらえているのは、動かない騎士たちだ。
本来ならマース神の信徒であるはずの、殺人者。
凍ったように動かない剣士の前で、落ち葉が一枚、空中に止まっていた。
「そうか…ここが時の狭間の神殿なのか」
「神殿なんてご立派なものはないけれどね」
「これ、俺だけ動いているなら、俺だけ少し年を取るんですか?」
「うん。まあね。ここで一年過ごせば、君たちだけ一年過ぎるよ。
百年たてば、ここから出た時には骨になっているね」
なら、ここにマダラアカガエルの番を入れて出て、こっちで半年たった後に入って、違う模様のカエルを入れてって繰り返せば、マダラアカガエルの斑は出やすい模様とそうでない模様があるって証明が簡単にできるなあ。
今、三世代目まで来たけれどまだ証明できるほどじゃないし。
「いや、カエル入れられるのはちょっと…」
「さっきから思っていたんですけど、頭の中で考えていることがわかるんですか?」
「一応、神様だからさ…ああ、天上の神々はわざわざ人の心を読んだりしないよ。こうして相対すれば読めるし、ここは僕の造った空間だからできるよ。第一、騎士人形に声帯あると思う?」
「ああ、なるほど。貴方の声と思うものは、声じゃなくて意志が流れてきているってことか」
「その通り。もちろん、雑多な思考は読めないよっていうか、読まないよ。
っていうか、僕に聞こえるほどはっきりとカエル突っ込むこと考えないでよ…君、本当におかしいな」
今までの「おかしいな」は好意的なニュアンスだったけれど、今回のは本気で引いている感があるな。
まあ、特殊な環境じゃ実験の結果になんか影響出るかもしれないしね。やっぱり、楽するのは駄目だ。
「…そう言うことじゃないんだけれど…」
「ファン!」
カエルとオタマジャクシから意識を引っ張り出したのは、クロムの俺を呼ぶ声。
「あ、ごめん、クロム!ほったらかしてた!大丈夫か?怖くないか?」
クロムは大きく目を開いて、俺の左手にしがみ付いていた。裂けた皮膚がこすれて少々痛い。
けど、我に帰ったら変な状況だし、怖いんだろう。
お化けじゃないってことは理解したと思うけど。
「…ばか!」
「え、ええ?!」
「お前、弱いくせに何言ってるんだよ!灯の英雄って、魔王とかと戦うんだぞ!お前、弱いんだからすぐ殺されちゃうじゃないか!」
「そうならないようになんとかするさ。魔王をぶった切れなんてことは元から期待されていないだろうしな~」
俺に期待されているのは、黄昏の君の企みを潰して回る事。
そして
「ばか!ばーか!ばか!そうじゃねーよ!」
「ク、クロム?」
目を見開いて、まだ幼さの残るほっぺたを赤く紅潮させながら、クロムはなにやら騒ぐ。
何か言いたいんだけれど、どう言ったら良いのかわからない…そんな感じだ。
たんたんと地団駄を踏み、うーうー唸っている。
「ま、君には一生わからないだろうねえ。君はそっち側の人間じゃないもの」
「え、ええ?」
「いいんだよ。君にわからない、絶対に理解できないものだってたくさんあるんだ。その方が楽しいだろ?」
そりゃあ、そうだけど…
「さて。クロム・バヤル・サンサール」
本人ですら滅多に意識しない氏名を呼ばれて、クロムは俺じゃなくマース神に意識を向けた。
「君は、どうしたい?」
「俺は…」
クロムの手が、俺の左手から離れた。
「俺は…たい」
急に声をすぼめて、クロムはもにょもにょっと呟いた。え、なんて言ったんだ?
「…その為に、俺は、こいつを守る!」
「おい、クロム、守るって…」
「うっせーばーか!お前は弱いんだから、誰かが守んなきゃすぐ死んじゃうだろ!だから、俺が守るんだよ!」
ええええ、自分より四つ下の弟分に守られるって、どうなんだろう…
「俺は、お前の
アスランの王族には守護者がいる。
本来は、同じ月に生まれて一緒に育った、同じヤルクト氏族の子供だ。
その後も志願されて認められたら、誰だって守護者になれる。
現状、俺には守護者はいない。
一緒に育った奴らはいるんだけど…同じ月の生まれがいなかった。
その場合、雷帝が守護者に相応しい者がいなかったと判断したとされるから、無条件に守護者にはならない。
あー、こういうとこも、加護がないって関係しているのかな。
「剣だって、乗馬だって、頑張る!もう、守られて…お前が死にそうになるの、見たくない!
何もできない自分も、嫌だ!
俺も戦う!あぶねーからやめろとか言ったら、殴るからな!」
「…守るのか殴るのか、どっちなんだよ」
「お前がやめろって言わなきゃいいんだ!」
ふんすと鼻を鳴らして、クロムは偉そうに腕を組んだ。ちょっと涙目だけど。
けど、今の涙は怖くて出てくる涙じゃないな。
じゃなきゃ、こんなに強い光が目に宿っていない。
「今は、確かに俺も弱いけど…強くなる!」
「決意は、硬いね」
軽い口調とは裏腹に、マース神の声は揺れていた。
「なら君も、刻印を授かる覚悟はあるかい?」
「え?灯の刻印って一人しか持てないんじゃ?」
「そうだよ。それに彼には、神の加護があるしね。
ヘルカとウルカ、アスターの三柱の加護がある。血統的には当然だけれど」
「じゃあ、どの神の…」
「灯の英雄の物語には、必ず登場するだろ?」
そう、何だか投遣りに聞こえる声と共に、幽かな音が聞こえた。
それは、俺も良く知る音だ。鼓動や、風の音と同じくらい、常に傍らにあった音。
馬の蹄が、地を蹴る音。
「騎士神、リークス…」
それは、灯の英雄譚に確かに必ず登場する。
灯の英雄と歩む者に、最もその騎士として相応しいものに刻印を授ける神として。
それ以外にも、加護を剣と盾に宿すことができる唯一の神だ。
騎士神の信徒でなくても、騎士として認められたものは、素養さえあればその御業を行使できる。
普通、御業は信仰する神の者しか行使できないけど、リークス神の『剣』『盾』だけは別だ。
逆に、リークス神の信徒であっても、触媒としての剣や盾がないと御業は行使できないし、他の神のような多彩な御業はない。
あくまでも、『剣』と『盾』だけ。それも、そのどちらかしか行使することは出来ない。
ただ、直接その刻印を授かった灯の騎士は、軍を覆うほどの『盾』を行使したり、巨大な敵の要塞を真っ二つにするような『剣』を行使する。
もちろん、物語なんだし、盛っているんだろうけれど。
馬蹄の響きは軽やかに近付いてくる。
そして不意に、空間が裂けた。
頭上を、影が舞う。
見上げた視界に映るのは、馬の腹。
七歳馬くらいの、未去勢の牡馬だ。
鞍も馬帯もつけていない。裸馬で跳躍させるなんて、さすがは騎士神。
かん、と蹄を鳴らして、馬は俺たちの前、マース神の横に降り立った。
夏空に浮かぶ雲のような純白の毛。
ただ、瞳だけが透き通るように碧い。
見事な馬だ。けど、問題は…
騎手が、いない。
「いっやあ~、どないしたん?自分らボロッボロやん!」
歯を剥きだして、馬が、喋った。
「あ、ちょお仰天してもた?してもたよなあ!アハハ、すんません!馬ですんません!」
「紹介しよう。騎士神リークスだ」
す、とマース神の手が馬を指す。
「おー、ご紹介にあずかりました騎士神リークスですー。よろしゅう!」
輪郭すら曖昧なマース神と違って、すっごくはっきり見える。
どう見ても、馬。どっから見ても、馬。
クロムへちらりと視線を向けると、クロムも「馬じゃねーか…」と呟いているから、やっぱり馬にしか見えないんだろう。
「いっやあ、ほらね、神さんのマンマこっち来るとね、えらい面倒なんよ。
ほら、
馬やなんかに化けとると、バレにくいんよ。馬だけにウマくいく、みたいな?アッハハハ、しょーもなー!」
歯を剥きだし、前足の蹄で地面を蹴って笑っている。バカウケしている。
えーと、これ、どうしたら?
「こいつの刻印~?俺、やだ~」
あー、うん。気持ちは、わかる。
「ちょっとそこのキッズ!馬鹿にしたらあかんよ?馬やけど!って、しつっこいわホンマ!」
また一人で言ってウケている…
「ホンマはね、どちゃくそええ漢っぷりやど?そりゃもう、天界の女神ちゃんらも、こっちの別嬪さんらもね、ボクが息しただけでお股じゅんじゅわーや!」
「じゅんじゅわー?」
「っマース神!」
子供に何聞かせてんだこの馬は!
「…本当に、なんですか?」
「本当に、なんだよ」
マジか…本当に騎士神なのか…
灯の英雄譚に必ず出てくるけれど描写が少ないのは、いろいろ考慮した結果なのか?それとも俺たちにだけこうなの?
マース神の様子を見る限り、誰にでもこうな可能性が高いな…。
「へい、キッズ。キッズはあれやろ?こん兄ちゃん守りたいんやろ?」
「…うん」
グイ、と伸びてきた馬の顔から一歩退きながらも、クロムは頷いた。
「ほいたら、ボクの刻印授けてもええんやけどね。
ごっつ、痛いで?」
「痛い?」
「おー、そりゃもう、大人でも
なんだろう。なんだかすごく不快な気分になった。なんか差し込まれた感がすごい。また一人(?)でウケてるし。
「だって、キッズ、ボクへの信仰心とかビックリするくらいないやん?なんならきっしょ、くらい思っとるやろ?」
「うん」
ガーンと口を大きく開け、馬は目を見開く。自分で言っといてそれ?
「あー、キッズ言葉の暴力あかんて…真正面から火の玉ストレートやね…正直嫌いじゃない」
「あの…痛いって?」
「もうちょい拾ってほしいわあ。これやとボク、さびしんぼやん?
まあ、ええ。ちょい真面目んなろ。いや、馬やから馬面目?…マース兄さん、尻握りつぶすんやめてもらえます?大声だしますえ?
あー、信徒じゃないのに刻印だけっちゅうのはね、素手で熱湯受け止めるみたいなもんよ。信仰心っちゅうコップがありゃあ火傷せーへんけど、素手やからね。めちゃめちゃ熱いし、痛いし、やりすぎたら死にますわな」
馬は再び、鼻面をクロムに近付ける。尻をマース神が鷲掴んでいるけど。
「己の血を流しても、肉を裂いても、骨を砕いても、守りたいと願うか?」
「…やる!」
クロムは、もう後退りしなかった。
真っ向から馬の顔を睨みつける。
馬の目は横についているから、視線は合っていないけれど。
駄目だ、危ないと止めるべき、なんだろう。
だって、クロムはまだ子供だ。人生で一番痛かった経験は、頭に食らった拳骨ってくらいの子供だ。
けど。
「…!」
鋼色の双眸は、もう揺るがない。
子供でも。怪我してほしくない弟分でも。
男が自分の一生をこう使うと決めた事に、誰が口を挟めるのか。
魂を掛けた誓いを、お前には無理だと蔑めると言うのか。
その決意を、全身全霊の意志を、俺ができることは。
「クロム」
馬から俺に向き直る。まだ幼い、小さな弟分。
痛い思いなんてしてほしくない。血なんて流さないでほしい。
でも、それが避けられないのなら。
「
お前が流す血を、俺は受け止める。
その血が流れるだけの価値がある主に、俺はなる。
「これからも、よろしく頼む」
「…っおう!」
震える口許を悟られないように、にっと釣り上げる。
すいみません。先生、スーリヤさん。
俺が、穏やかに生きる未来を奪ってしまった。
自分と同じく薬師か医者になって貰えたら嬉しいなと願った貴方の夢を砕いてしまった。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
けれど、その罪悪感は、クロムへの侮辱だ。
俺がそうしろと強制したんじゃない。クロムがそうすると、決意したのだから。
クロムが心底誇れる主になることで、報いる。
この幼い、拙い、けれど真摯な覚悟を穢さない。
だから、いつも通り。暢気と怒られるような顔で、笑おう。
内面のぐしゃぐしゃな後悔は、今は一番下にしまっておけ。
泣きわめくのは、後で独りになってからだ。
「本当の任命の儀式には、もうちょっとお互いマシな格好でな」
声は、震えていない。よし。
「いつ?いつやんの!?」
食いついてきたクロムも、気付いていない。気付いてないよな。気付かないでくれ。
「クロムが大人になってからだな…その前に、まずはちゃんと勉強して、武芸の修練してな」
「やる!俺も士官学校行って騎士にもなる!」
それはいいかもしれない。いきなり町の子供を守護者になんて言うと、絡んでくる奴もいるかもしれないし。
騎士資格を取れば、実力の証明にもなるだろう。俺も推薦書を書けるしね。
「ちょ、もし~?もーしもーしぃ?二人の世界ぶっこんでこないでもらえますぅ~?ボク、おいてけぼりですやんか」
「あ、そだ。馬いたんだった」
「へい、キッズ!あんまりな態度やとさすがのボクもモー怒っちゃいますよってそりゃ牛やね。しっつれいしま…マース兄さん、尻もげる!」
リークス神の悲鳴に、さらにマース神の手の力が増したような気がするけれど、その後指を一本ずつ離していったから、本気でもぐ気はないんだろう。たぶん。
「あー、もうボクの美尻が…じゃ、キッズ。おでこちゃん出してな」
「おでこ?」
首を傾げつつ、クロムは前髪を上げて額を出した。
「まあ、きばりーや。あ、これ、馬、騎馬りーやって言ったわけやないですからね?兄さん?尻に手を掛けないでもらえます?男の人呼びますえ?
クロム、ボクが観たとこ、お前さんごっつう才能あふれとるわけやないし、強くなるためにめちゃくちゃ努力せんといかんわ。
なんでオドレはこんなに弱いんにゃろ?ってしんどなる日もある。
ずっと高いとこまですいすい登ってまうあいつを、心底恨めしゅう思う日もある。
そやけどさ、主守るっていう気持ちだけは負けたらいかんよ?
それだけは誰にも負けんと胸はったらええんよ。どん底で上見ながら、泥んなかでバタつきながら、それだけはオドレが天辺じゃいって叫んだらええよ」
「うん!負けない!俺、
「おっしゃ!ええお返事や!気に入ったで、自分!」
カカッとリークス神は蹄を鳴らした。
「騎士神の刻印、クロム・バヤル・サンサールに授ける!」
その、高らかな宣言と共に。
クロムの額に、赤い煌めきが奔った。
それは、盾と剣が重なったような文様。
光が強く、明るくなっていくごとに、クロムの顔が歪む。
「クロム!」
「痛い…けど、痛くない!」
鮮血がクロムの顔を染めていく。
ぽたぽたと血を垂らしながら、それでもクロムは顔を上げ、前を見据える。
「ええ面構えになったやん」
に、と馬面が笑った。
「ボクの御業は、『剣』と『盾』。せやけど、刻印保持者はそれだけやない」
『剣』や『盾』の触媒になるような武具は何もない。刻印保持者なら、なくても使えるってことなんだろうな。
「ええか?元の時間に戻ったらね、こういうんやで。…こしょこしょ…クロムの気合が勝ったらな、主も守れる」
「負けるわけないだろ」
騎士神の耳打ちに、血塗れの顔で、に、とクロムは笑いかえした。
「おっしゃ、よー言うた!」
出たら、か。
「…出て、灯の刻印見せたら大人しくなるってことは、やっぱりないですかね?」
「あると思う?」
「ないと思います。…元々、俺一人こっちに移しても死ぬだけだって言ってましたね。クロムを最初から巻き込むつもりだったんですか?」
「二人とも助かるためには、二人とも戦う必要がある。君は、一人でどうにかするつもりだったんだろうけど、控えめに言って君、瀕死だったからね?」
それでも滲む苦みに、マース神は本当はそうしたくなかったことが読み取れた。
誑かされているだけかもしれないけれど、このひとは本当は…誰も戦わせたくないんだろうな。
俺も今、そう思っているから、わかる。
「彼らが空間を閉ざしている魔道具は、黄昏の君が造ったものだ。君のその短剣じゃ壊せないよ」
「なんでそんなもの…」
「神託を夢うつつに受けたと思った。目が覚めると、見たことのない道具が傍にあって、使い方がわかる。何もないのと、どっちが信じ込めると思う?」
半信半疑にすらさせない証拠か。
俺なら、神託を授けてきた神と関係ない道具だったらすっごく疑うと思うけれど…そういう疑いが浮かばないように、精神支配の魔導を掛けられている可能性もあるか。
「うん。そこまで疑うの、君くらいだと思うけれど…黄昏の君はまだ月の向こうから動けないけれど、その程度の魔道具をよこすくらい簡単にできるからね。
もうすでに地上にあるものは、なんだって模造できると考えてくれ」
「短剣で壊せないって言うのは…」
「神の模造したものだよ。対人間用の術式じゃ通用しない」
んー、そうか。じゃあ、思いきり蹴り飛ばすとかも無理か。
「術式破壊の短剣で駄目なものを蹴ったくらいで壊せると思う?」
「無理がありますね」
「そうだよ…まったく。でも、大丈夫。二人で力を合わせれば、必ずうまくいくさ。君が出来る事、君にしかできない事を、よく考えて」
マース神の姿が、薄れ始める。
「それともうひとつ。黄昏の君は、この世界にあるすべてのものを模造できる。
けれど、彼は、ない物を造ることはできない。
彼はしょせん、紛い物の創造神だから」
紛い物の創造神…
「僕は、この世界を信じる。紛い物の戯れになんて屈しないと。
ファン、君が傲慢に世界を救い、強欲に人を助けると信じる」
差し出された右手に、俺も右手を差し出した。
掌に浮かぶ、灯の刻印。
「俺は…」
世界を救うとか、まったく実感がないけれど。
「俺は、もっともっと、いろいろなことが知りたい。今、不思議に思うことに答えを見つけたい。
そのためには、世界に滅んでもらったら困るし、黄昏の君なんてわけわかんないものに邪魔されたくない。だから」
うん。結局、こういうところが傲慢で強欲なんだろうなあ。
正義とか、義務感だとか、そういうもので俺は灯を受け取っていない。
俺がしたい事を邪魔されるのが我慢できない。
気分よく生きて行く為に、目の前で可哀相なことになっている人がいるのは嫌だ。
あの人、どうなったんだろ、大丈夫かなって曇りを抱えたくないから、出来る事を全力でやる。
その規模が、大きくなっただけだな。
「だから、信じていてください。俺が英雄と呼ばれることはないだろうけれど、世界はなんとかしますから」
「うん」
ふいに、マース神の輪郭がはっきり見えたような気がした。
穏やかに微笑む、若い顔。
それはほんの一瞬で、すぐに消えてしまったけれど。
「信じるよ」
その言葉を最後に。
マース神は、消えた。
ただ、今あったことが夢じゃない証拠のように。俺の足許には騎士人形が転がり。
右掌には、灯を象った刻印が揺らめいている。
「ほな、ボクもいきますわ。さいならっしゃー」
「…お前は歩いて帰るのかよ…」
「歩かんて。走るて。パカランパカランと。これがほんとのウマーキングってな!あはは!…あんね、ウォーキングとウマーキングでね、さらにほら、ボク、今、神馬やない?馬のキングもかけててね?」
クロムの無表情な視線に、リークス神の耳がしょぼんとしなだれた。
「ほな、また…」
ぽくぽくと歩いて、ほんの少し振り返る。
「あ、あの!」
思わず上げた声に、耳をピンとたててリークス神は完全に振り返った。
それじゃ逆に良く見えないと思うんだけどなあ。馬の目は顔の横についているんだから。
「蹄、もうちょっと削った方が良いと思います!あと、すこし腹肉が付いてきてるんで、走らせた方が良いかなって…」
「そっちかーい!あーホンマ君、調子狂うなあ。歴代最強やないか?そのズレっぷり。
クロム、君の主だいぶんあれやから、しっかりツッコんでアカン奴にせぇへんよーにな?」
「わかった。ちゃんとやる」
「おう、きばりやっしゃ。
ボク、君らコンビ嫌いやないよ。ちょおおかしいくらいの方が、上手くいくこともあるよって」
ほんの僅かな溜めの後、馬体は軽やかに宙を舞った。
「うん、きっと上手くいくで、ウマだけに!」
来た時と同じように空間が裂け、そこに白馬は吸い込まれるように飛び込み、消えた。
「…なんか、勝ち逃げされた気分」
「マース神が、尻掴んでくれてるさ…たぶん」
そう願いたい。
「あ…」
ふと、頬にひりつく感覚を覚えた。皮膚が弾けた場所に、風が当たっている。
風が、吹いている。
「…時の狭間から、俺たちも戻されるみたいだな」
「ファン、俺の後ろにいろよ」
俺の前に、クロムは進み出た。吹き寄せる風に、青みを帯びた髪が揺れる。
「お前の前にいる限り、俺は絶対、負けないから!」
落ち葉がくるりと回転して、舞っていく。
「もうやめて…みんな、やめてよ!」
神官女の甲高い声が、響いた。うん、こいつらも動いてるな。
灯の刻印を見せるべきか?でも…
掌は乾いた血でまだら模様になっているけれど、揺らめくような光はもうない。
見せて、納得はしないだろう。けれど、注意を引いて時間を稼ぐくらいはできるんじゃないか?
「この…ッ!次は黒焦げにしてやる!エリカ、あんたはノースの治癒を!」
「やれるならやってみせろよ、クソが!」
クロムの声に、一瞬魔導士女はきょとんと眼を瞬かせ、そして次の瞬間、盛大に顔を歪ませた。
つか、俺とクロムの位置がいきなり入れ替わっていることも、クロムが流血していることも、何にも不思議に思わないんだろうか。
自分たちが魔道具使っているんだし、相手も使っているとか…
神が模造した品だから、人間相手の術式は通用しないと言っていた。
なら、今の手持ちの道具でどうにかはできない。
それなら、破壊じゃなく、機能を停止させるか、範囲外に逃れるかだ。
マース神は、俺たちのいる空間がずらされたと言っていた。
なら、範囲外に逃げるのは理論上無理だ。ちょっとズレた世界にいるだけなんだから。範囲がそもそも存在しないかもしれない。
狙うべきは機能の停止だ。
大都の水門のように、遥か彼方の水源から水を召喚し続け、発動しっぱなしの魔道具はあるにはある。
でも、ただ「水源と水門を繋ぐ」という術式を展開している陣、そのたった一つの陣を維持するだけで、王宮と同じ規模の建物と、百人を越す魔導士によるメンテナンスがいる。
空間をずらす、なんていう高度な術式を維持するためには、必ず相応の対価が必要なはずだ。
黄昏の君が模造したと言っても、模造は模造。
オリジナルにはない機能は、ないだろう。
三人のうち、誰がその維持を行っている?対価を払っている?
魔導士女の持つ杖の先が、光り出す。剣士が大剣を構え直す。神官女が泣きながらこちらを見ている。
「燃え尽きろ!呪いの子!
突っ込もうとしていた剣士が、つんのめるように止まった。
術式を展開させるための呪文がない。陣を展開した様子もない。
それなのに、中位以上の魔導を疲労した様子もなく連発。
となると…いや、その前に、これはさすがに…やばい!
クロムが巻き込まれたら、ただじゃすまない!
けれど、クロムは怯まない。焦った様子すらなく、さらに前へ、一歩踏み出す。
「『砦』よ…!」
猛獣のように襲い来る炎の塊に、クロムが両手を突き出した!
その、ほんのわずか先から広がる、光。
それは瞬く間に範囲を増し、俺とクロムを中心とし、円形に展開していく。
これが、リークス神の刻印がもたらす、御業なのか!
「く…」
クロムの額から、新しい血が噴き出た。言ってた通り、相当負担を掛けるんだな…
「クロム、もうちょっと。あと、五つ頑張れ」
「…ん!」
いち、に、さん、し、ご。
炎嵐の射出が終わる。陽炎が揺らぐ空気の先に、魔導士女の顔が見えた。
子供を殺そうとするのが、そんなに笑えるもんなのか。
俺にはわからない事もたくさんあるし、その方が世界は楽しいとマース神は言ったけれど。
一生、わかりたくもない事が、あるな。
「クロム、解除!」
淡雪が水に落ちた時のように、俺たちを守った光が消えた。
同時に、クロムがぐたりと倒れ込む。
ごめん、クロム。助け起こしたいけれど…それより、やらなきゃなんないことがある!
足の裏が、地面を蹴る感触。
多分、なんか叫んでいたと思う。
けど、それより意識を占めるのは、足を振る事。
思いきり助走をつけて跳んで。
空中で身体を捻って、ありったけの力を込めた蹴りを。
神官女の頭に叩き込む!
その瞬間に見えた、神官女の側頭部。
髪が広がり、半分斬られた耳が見えた。
…たしか、北方諸国の、奴隷の標。
なるほど。滅びの慈悲を願う、絶望の闇、か。
だからって、無関係の子供を殺していいって理由にはならないけれど。
「…っあ!?」
渾身の蹴りに、神官女は文字通り吹っ飛んだ。
俺も着地は出来ず、無様に地面に叩きつけられる。
「ファン!」
同じく地面に転がったままのクロムが、叫ぶ。
「エリカ…っ!きさまァ!」
転がって見上げる視界に、大剣を振り上げる剣士の顔が見えた。
人の脇腹に穴開けたり、雷撃食らわしたりしているのに、蹴られるのは駄目なのか。
まあ、いい。
目的は、達した。
「殺すな」
なんとか、声を絞り出した。
あー、背中痛い。全身痛い。どこが痛いのか、わかんないくらい痛い。
「御意」
剣士の首にぬるりと腕を巻き付け、揚げ菓子売りのおっちゃんが答える。
「な、んな…」
ちらりと視線だけ動かすと、魔導士女に向けて、三本の剣が突き出されていた。
誰かが叫ぶ声がする。悲鳴が聞こえる。
魔道具の維持をしていたのは、神官女って言う読みは当たっていたな。
抉られて内臓が出た傷を薄皮一枚とは言え塞いだり、深く突き刺してひねりまで入れた短剣の傷を一瞬で治すなんてことは、大司祭クラスか刻印持ちじゃないとできないだろう。
その割に、それしかしてこない。
魔導士女の魔導もそうだ。使い方の単純さに相応しくない術式。戦い馴れていないとか、そういうことじゃ説明がつかない。
剣士の太刀筋にしたって、鋭すぎた。あれができるなら、もっと動けて良い。
あのまま突っ込んできていたら、炎嵐の射線に入っていた。位置取りが悪すぎる。
そもそも、魔導だってもっと違うのがいいだろう。こちらの動きを止めるとか、目くらましになるような。二人で戦うんなら。
じゃあ、なんでこいつらは、こんなにちぐはぐなんだ。それを考えたら、仮定はできる。
灯の刻印が、創造神の影響による負荷を消して仲間を強化するように。
黄昏の君の加護もまた、そうなんだろう。より濃い影の鎖を繋いで、力を与えるんじゃないか。
ちぐはくなのは、身に余る力を使いこなせていないからだ。
それなら、その加護の中心にいるのは、神官だ。
春風の女神ハーシアの神官ではなく、黄昏の君の神官。
そりゃ、神託まで聞いているんだもんなあ。宗旨替えしちゃってる。
きっと、魔道具も敬虔な使徒に託されている。そう予想した。
第一、魔道具を使うにしてはあの魔導士女は高出力だが、消費魔力も高い魔導を撃っていた。魔道具の維持を気にしなくていいからだろう。
剣士も、魔道具を維持しているにしては、こちらの魔道具に無警戒すぎる。
やめてだの止めてだの言いながら、ほとんど動かなかった神官女が、維持を担当していたっていうのが、俺の読みだ。
だから、意識を強制的に落とさせれば。
維持が途切れて、停止するっていう仮説は、間違っていなかったな。
「あー…痛い…」
「ファン、目、閉じんなよ、ファン!」
あ、俺、目を閉じてんのか。なんかもう、わかんないな。
でも、大丈夫。クロム。このまま寝てたりしないよ。
早く帰って、夕飯食べよう。今日のご飯は何かな。母さん、何作ってくれたんだろう。
腹、減ったなあ…
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