第33話 右手を伸ばした日 前編
夕暮れ時。
赤く染まった西の空に背を向けて、家路を急ぐ帰り道。
夏はきっぱりと過ぎ去って、頬にあたる風は冬の気配。
あと三日で、
短い秋が終わって冬が来る夜だ。
子供にとっては夜更かしが許されるし、たくさんのお菓子を獲得できる、待ちに待った楽しい日。大人にとっても、多少はしゃいだって大目に見られる祭りの夜。
そのウキウキわくわくとした空気は、住居の並ぶこの辺りの道にも及んでいた。
家々には月から影を通ってやって来るお化けの絵と、そのお化けに向かって弓を構える
凝った家だと、一大決戦中!というような大軍勢が、屋根と庭に別れて布陣している。見ているだけで楽しい。
「踏ーめ踏ーめ、影の中♪尻を蹴飛ばし頭を叩け、とんとんとん♪」
つい影踏みの歌を口ずさむと、横を歩いていたクロムが顔を上げた。
「ファンさ」
「ん?」
「歌、ほんっとへったくそだなあ…」
「…悪かったな」
リズム感は悪くないつもり…なんだけど、剣や槍の師匠からは「素手の方がまし」と言われるくらいだから、やっぱりなんかズレてるのかな。
腰には常に剣を下げているけれど、これは「どんだけクソ…いえ、個性的な剣術であったとしても、剣を構えられれば相手は多少怯みます。その隙になるべく大きな声と共に剣を投げつけ、投げたら一目散に逃げてください」と言われて持たされた代物だ。
通常の剣より短く、軽い。子供用のおもちゃの剣の少々上等なヤツ、程度のもの。
まともに打ち合えば、三合くらいでへし折れる。
「つーか、さ」
ちょっと口を尖らせて、クロムは俺を見上げる。
最近、声が変わった。
背はあまり伸びていないけれど、喉仏も出てきたし、もうすぐ男の子を卒業する時期だろう。
その成長に従ってどんどん生意気になってくるというか、性格がアレになってきているというか…
はじめて会った三年前は、話しかけるのも躊躇うような内気な子だったのになあ。
今じゃ率先して、ムカつく大人の顔に馬糞投げつけるようなクソガキに成長してるし。
まあ、あれは子供を怒鳴りつけて喜んでいるような相手が悪いか。
もとからの性質、友人の影響、環境の変化。どれが最大の要因なのかね。
全部、な気もするけれど。
「ファン、ほんと士官学校いくのかよ」
「あー、うん。まあね」
黄金の月の夜が終われば、今度は年越しの準備にかかる。
そして、新しい年が来たら、俺は士官学校へ入学することが決まっていた。
「お前、騎士なんて絶対無理だろ。弱いし」
「騎士になるためには、馬術と弓、槍、斧、剣、槌のいずれかで合格点を取れればいい。弓なら何とかなんだろ」
馬術は流石に問題ないとして。
弓もまあ…鷹の目を使うのは反則な気もするけど、最短で士官学校を卒業するには、入学して二年後から受けられる試験に合格するしかない。
「それに、騎士になるために士官学校行くわけじゃないしな。家の都合上、卒業しなきゃいけないってだけでさ」
クロムは俺を見上げて、頬を膨らませた。
この年下の友人と知り合ったのは、三年前だ。
普通、王族と言うのは街の学校に通ったりしないものだと思うけれど、俺は教師をつけてもらうより、学校へ通いたかった。
部屋の中で本を開いて学ぶのも好きだけど、特に語学なんかは実践に勝る学習法はない。
つけられた教師は綺麗な発音、完璧な文法で教えてくれるけれど、俺が知りたいのはそうじゃない。
例えば、アスランでは「見た目によらない」事を「あんたはイントルのようだなあ」と言ったりする。
この言い回しは、五代大王ジルチの将イントルが、とても気弱でおどおどした見掛けなのに、軍を率いらせれば無敗の武将だったことに由来する。
こういう故事や歴史にちなんだ表現は、教師は教えてくれない。
完璧な文法ではないからだ。
俺は、完璧でないものも知りたい。
親父や兄貴には難色を示された。まあ、当然だな。
でも、母さんの「でも、友達いないまま大きくなってモウキさんみたいにボッチになったら可哀相ですよ」という鶴の一声で通えることになった。
…母さんは、本当に親父に容赦がない。助かったけど
そうして学校に通い始めたある日、誰かの家の軒下で膝を抱えている子供がいた。
学校がある地区は移民が多い。自宅と呼べるものがない移民の子が、親が戻るまでそうやって雨風を避けられる場所で待つことは珍しくない。
最下層の宿は朝になると宿泊客を全員追い出し、今日の夜も泊まれるだけの金を持ってきた人だけを受け入れる。
連泊するだけの金を最初に支払えれば別だけど、その日暮らしの懐にまとまった金はない。
必然、働けない子供はどこかで昼をやり過ごす。
そうしている間に攫われて売られる子供もいて、問題になっていた。
そんな子供たちを受け入れる施設を作ったらどうかと言う話は以前からあるけれど、話があるだけで具体的な計画が動いていたりはしない。
理由は簡単。移民の子に割く金も手間も惜しいからだ。
けれど、放置していれば治安悪化の原因になるし、いずれアスランの民になるのだから救済するべきだろうと声を上げる人はいる。
実際に、昼、親が働いている間に身を寄せる家を作った人もいる。
学校も、アスランの国籍を持たなくても受け入れるところが増えてきた。
少しずつでも、目的達成までははるかに遠くても。
良い方へ向かおうとしているのは、嬉しいし誇らしい。
俺も、ほんの少し手伝えているって思っているんだ。具申をしつこく親父たちへ出したり、寄付をしたりする程度だけどさ。
「なあ、そこの君」
びくり、と子供は顔を上げた。浮かんだ涙が、ふくふくとした頬を伝う。
あれ?この子、親待ちの移民の子じゃないな。
移民の子はこんなに血色がよくない。
着ているものだって、もっと汚れてすり切れている。
新品ではないけれどしっかりと作られた毛織物の服は着ていない。
「えっと、迷子、かな?」
じっと子供は俺の顔を見つめる。警戒されてるかなあ。
しばらく、子供の熱心な視線に曖昧な笑みを浮かべて応えていると、本格的に泣きだした。
ぐすぐすとしゃっくりあげながら、首を振る。迷子じゃないって言いたいのか?
結局のところその子供は迷子で、半月前に西方国境の街サライから引っ越してきたばかり。
近所の探検と探索を繰り返し、調子に乗ってちょっと先まで来たら、どこの路地を曲がったかわからなくなってしまったらしい。
家の住所はわからないが、お父さんがどこで働いているかは知っているというので聞いてみた。
ぐずりながら紡がれた言葉を何度か反芻してみると、俺が通っている高等学校のことで、そのお父さんの名前は、薬草学の担任だった。
校舎へ子供を連れてとってかえすと、お父さん…ギルシーク先生はいてくれて、無事、その子供を引き渡すことが出来た。
それがクロムとの出会いだ。
もともと俺は、学校が午前中で終った後、大都にやってきたばかりの移住者に生活様式や常識を教える互助会に協力している。
受け持ちは、十歳前後の子供たちだ。
先生にクロムも混ぜてほしい、と頼まれて引き受けた後は、毎日のように顔を合わせるようになった。
クロムも今では教える側として参加している。
その間に受け持った子供がまるっと奴隷商人に攫われて奪い返しに行ったりと、いろいろあったなあ。
それが原因になって、王子だってバレたりもしたけど。
「士官学校ってやべーぞ。何年も君臨してる裏主席とかいて、新入生いびるんだぜ」
「お前なあ。なんの話読んだんだよ…士官学校は最短で二年、長くても五年しかいられないんだから、新入生いびる暇はないぞ」
その裏主席とやらが三年以上いるなら、騎士試験に落ちまくっているわけだし、主席とは言えないんじゃないだろうか。
「それに、流石に士官学校には身分を明かして入学するからな。
すり寄る奴はいてもいびる奴はいないと思うよ」
実のところ、まだ入学していない今ですら、毎日のように「ご挨拶」にくる級友予定とその親はいる。
士官学校には、役人や軍人の推薦がなければ入れない。
そうやって入学してくるのは、多くは平民出身者だ。
下手に貴族の子弟を役人が推薦しちゃうと、「なんであの家の子を推挙してうちをしなかった」とか因縁つけられたりもするからな。中々その辺は難しい。
けれど、有力な一族や貴族、現役の将軍らの子弟がいないわけじゃなく。
なんだか罪悪感すら覚えるんだけれど、俺と「同期」になるために、わざわざ入学を遅らせた人も二桁に届くらしい。
俺になんて媚び売っても、何の見返りもないんだけどなあ。
将来、そりゃ身分にあった働きはしようと思ってはいますけれども、兄貴みたいに華々しい活躍は絶対できないと断言できる。
学者になりたいし、夢もあるから、文化事業の方を担当させてもらいたいと親父には言っている。
君に将軍になれとは言わないよ~とかるーく了承も取り付けてもいるし。
だから、俺に取り入っても十二狗将はおろか、万人長にもなれないと思うんだけどね。いや、千人長だって難しい。
百人長くらいなら…まあ、もしかしたら?
「わっかんねーじゃん。王子に喧嘩売る俺かっけえとかいう馬鹿がいるかもしれないだろ」
「その程度の考えで売られた喧嘩なら買うし、そいつとは仲良くなれるかもな」
少なくとも見返りを求めて媚びを売ってきて、得られないと知るや、裏で罵りまくる連中より、馬鹿の方がずっといい。
「裏主席は、制服白いんだぜ。覚えとけよ」
「制服、多少なら改造しても大目に見られるだろうけど、色まで変えるのは一発退学案件だぞ?」
何しろ、軍と言うのは規律が厳しい。
なあなあにしていて上官の命令を聞かないようでは困る。部下を半殺しにしても、理由が認められればお咎めなしだ。
そのアスラン軍の士官を育成する学校が、緩いわけがない。
それでもこういう風説が流布しているのは、なかなか面白いよなあ。
「…ほんとにいねーの?裏主席。白い制服着て、赤い薔薇をつけてんだぜ?」
「もし見かけたら教えてやるな」
「絶対だぞ!」
「いたらなー」
に、と笑ってクロムは頷いた。
こういうとこ、まだやっぱり子供だなあ。
今日は、黄金の月の夜に関する行事と、流石に許されない羽目外しについて、集まっていた子供たちに教えてきた。
影を踏んでお菓子を貰うのはいいけれど、駄目だと言われたらしつこく纏わりつかないこと。
自分より小さな子供を連れている人の影は踏みにいかないこと。
向こうからお菓子を上げるよと近寄ってくる大人には警戒すること、などなど。
お菓子を貰えるのは、アスランの成人年齢である十五歳以下の子供だけなんで、俺には貰う資格はない。
だから、王宮での行事が終わったら、親父と母さんと三人でお菓子をもって影を踏まれに街へ繰り出す予定だ。
今までは親父じゃなくて兄貴が一緒だったんだけど、今年は遠征中の兄貴に代わり、自分がお菓子持つから!持つから連れてって!と騒ぐ親父に、母さんが折れた結果…親子三人で行くことになった。
さすがに親父とこういう行事に参加するのは初めてで、ちょっと嬉しい。
それが恥ずかしいからバレないようにしたい、と思うくらいには、子供じゃないんだけど。
士官学校へ行ったら、卒業まではそうした楽しみもできなくなる。
今年はうんとたくさん、お菓子を作ろう。来年、再来年の分まで。
そして、来年、再来年の分まで配ろう。
また、同じようにお菓子を配れる未来が来るようにと、願いを込めて。
「腹減ったな~。今日もおっちゃんいるかな?」
「いると思うぞ」
話題を急に変えて、クロムは未だ丸みのあるお腹をさすった。
これが腹筋でガチガチになるのは、もうあと少しだろうなあ。
まだ柔らかいうちにたくさん触ろうと思うんだ、と先生が呟いていたのを思い出す。
母さんも、たまに俺を触って「かたい…」と嘆いているし、親とはそういうもんなんだろうか。
クロムの言うおっちゃんとは、
ちょうど俺たちが帰る頃に店じまいをする。
その時に売れ残りがあると、近くの子供に配ってくれる。
まあ、その正体は親父の密偵の一人で、つまりは俺の護衛なんだけど。
学校へ通うことは許されてるとは言え、当然見張りもつけずにとはいかない。
姿を見せてないけど、常に十人前後は周りを固めている。
「おっちゃんの揚げ菓子、不味いから今日もきっと売れ残ってるよな?」
「んー、たぶん」
そんなわけで本職じゃないんで、菓子が不味い事には目をつむってあげてほしい。
その不味さが逆に子どもに受けて、わりと人気はあるんだ。安いし。
子供と言うのは案外侮れない情報源なんですよと、どこそこの商店の若旦那は浮気中だとか、その浮気相手の姑はとんでもない性悪だとか、そろそろ駆け落ちしそうだとか、できれば子供の耳には入れてほしくない情報を集めている。
けど、その情報、本来の仕事に必要…か?
まあ、本職がそう言うんだし、必要なのかな?なのかも?
そのおっちゃんがいる公園は、学校から通りを真っすぐ北上して、路地を曲がった先にある。
大都では、大通りと呼ばれるのは南北を貫く『万馬道』のこと。
騎馬が百騎、横に並べる広さだけれど、道として使っているのはその半分程度で、真ん中は牧草が植えられた広場になっている。
学校から辿る通りは、その万馬道に繋がっているけれど、鉄道馬車が通るほどの道じゃない。馬や馬車も通っていくが、多くは徒歩だ。
今は夕暮れ時。ある人はせかせかと、ある人はのんびりと、それぞれ家路を辿っている。
クロムの家への近道でもある路地を曲がると、通行人の数はぐっと減った。
とは言え、ちょうど帰宅して家のドアを開ける人や、おかずの交換をしている奥さんがいたりして、中々賑やかだ。
祭りも近いし、奥様会議にも力が入るんだろう。
そんな中をとことこと進み、何度か角を曲がる。
公園は休憩するためのベンチが置かれ、木陰を作るための木が植えられただけの場所だ。けれど、昼間はお年寄りが茶と茶菓子を持ち寄り、子供たちが走り回る。
行商人が立ち寄ってもおかしくない程度に人の集まる場所だ。
今は…誰もいない。
「あれ?おっちゃんいないな…」
クロムが不満そうな声を漏らした。
「…そうだな」
ちく、と警戒心が心臓を突く。
いないはずがない。
もし、彼に何らかの事情があってここにいないのであれば、必ず俺にそれを知らせるために誰か代わりのものがいるだろう。
それに、人がいなさすぎる。
夕暮れ時とは言え、公園だけじゃなく、通りにも人がいない?
さっきまで、あんなにいたのに?
おかしい。なにか、何かおかしい。
「クロム!」
「へ?」
「ここから離れる!通りまで出るぞ!」
とにかく、
何が起こっているかはわからないけれど、他の護衛が合流しやすくするためにも、その方が良い。
クロムの手を握り、身をひるがえそうとしたとき。
なんで、そうしようと思ったのか、よくわからない。
ほんのひとかけら、俺にも武の才と言うものがあって、それが発揮されたなら…よくぞこの時にと思う。
とにかく、わけもわからないまま、クロムを抱きかかえて思いきり真横に跳んだ。
直後に全身を打つ、壁に叩きつけられる衝撃。
同時に、感じた脇腹の冷たさ。
氷を押し付けられたような冷たさが、腹の中にもぐりこんでくる。
それは一瞬で出て行ったけれど、自分の中の熱が、その抜け出た後からあふれ出す。
思わずそこを抑えると、手に濡れた感触が伝わった。
手を離して見てみれば、指を、掌を染める真っ赤な鮮血。
「…!」
クロムを見る。茫然と俺を見ている。
その胸から腹にかけてが、真っ赤に染まっている!
「…っ」
クロム、怪我したのか!と言おうとして、声が出なかった。
かすれた呼気だけがひゅうひゅうと咽喉を震わせる。
「ファン!」
代わりに、クロムが叫んだ。
よかった。大きな声が出せるってことは、怪我してないな。
あれ?て、言うことは。
「ファン…!お前、血が、血が出てる!」
もう一度、自分の手を、そして、抑えた脇腹を見た。
服を手を、どんどん赤く染めていく、血。
痛みは、ない。
ただ、熱く、寒い。
血があふれ出す場所は、服がない。斬れている。俺の、脇腹の肉ごと。
鋭利な刃物で切られたというより、何かでごっそり持っていかれた傷。
狼に食い破られた羊の腹を思い出した。
血に押し出されるように見えるのは、もしかして、内臓?
そう認識した瞬間、視界が暗く陰り出す。
やばい。
失血と外傷で失神しかけている。
駄目だ。これをやった敵が近くにいる。
護衛が駆けつけてこないところを見ると、全員やられているか、なんらかの妨害があるんだろう。
駄目だ。
俺が死んだら、クロムだって助からない。
これをやったのが、アスラン王家に恨みを持つものや、最近弟を産んだ
俺が、我儘を言って学校へ通ったせいで、クロムが道連れになる。
そんなの、許せるわけがない…!俺のせいで友達が死んだなんて、俺はそんなの許さない!
ぎゅ、と剥き出しになった肉の断面を掴む。
さすがに脳天まで突き抜けるような痛みが奔り、視界が開けた。
「…走れるか、クロム」
なんとか、声も出せた。
クロムは泣きそうに歪んだ顔で首を振る。そっか。無理か。
それならなおの事、倒れているわけにはいかないよな。
傷を抑え、感覚がなくなってきた足を無理やり動かして立ち上がる。
僅かに収まっていた血がまた溢れ、ぼたぼたと石畳に水たまりを作った。
「…すまない」
閉じそうになる瞼を押し上げ、声のした方を見た。
「君には、傷をつけるつもりは、なかった」
公園の中に、いきなりそいつは、出現したように見えた。
黒い外套に、白銀に輝く鎧。
肩に担いでいるのは、身長よりも巨大な剣。
その厚みが、この服も皮膚も肉も、削り取っていったのかと理解する。
「何やっているのよ、ノース!」
その声と同時に剣士の横に、薄紅色の神官服をまとった女がにじみ出る。
人に対してにじみ出るというのはおかしい。けど、そうとしか思えない。
何もなかった空間に、ジワリと染みが浮いたように色が付き、それが人の形になった。
…魔導か。
透明化かなんかの魔導で、姿を隠していたんだろう。
大剣の男も、神官服の女も、動くなり声を出すなりしたら姿が現れた。
透明化を維持していたのが解けた、と言うより、術式の効果が切れたように思える。
なら、姿を見せていなくても、魔導士がいるはずだ。
「ごめんね…でも、まさかノースの一撃を躱すなんて…」
躱してたら自分の内臓なんて見ることになってないと思う。
「天駆ける春風の君、優しきハーシアよ…その慈悲をもって傷付き血を流すものを癒したまえ…」
女は片手を胸に置き、もう片手を掲げる。
その手に、ふわりと何かが巻き付いたように見えた。
何かが巻き付いた手を、女は俺の腹に向ける。
ぬるりと生温かいものが傷を覆うと同時に、身体から抜けていく熱が止まった。
癒しの御業?
なんなんだ、この通り魔…
俺の命を狙う刺客かと思ったけど、そうじゃないらしい?
いやまて、傷付けては癒しを繰り返す拷問を仕掛けてきている可能性も…?
それにしても、癒しの御業って、こんなに不快な感触だっけ?
…くっそ、思考がまとまらねぇ…
「その子は、君の弟なのかな?」
「…通り魔に、応える義理はない」
無理やりに声を絞り出す。
女は少し哀しそうな顔をした。
いや、したいのは俺だよ。いきなり攻撃されて死にかかってるんだぞ?
「君は、御業が効きにくいね…動かないで、動けばまた傷口が開くよ」
哀しそうな顔のまま、女は両手を俺に向かって広げる。
「さ、その子を、こちらに。君は、横になって」
常識的に考えれば、それはたぶん、まっとうな指示だ。
怯えて動けないクロムを預け、怪我人は負担が少ないように横になる。
うん、それはどこもおかしなところのない指示だ。
ただ一点、怪我をさせた張本人の仲間からの指示と言う点を抜かせば。
さっき、男は言った。「
なら、誰を傷つけるつもりだった?
クロムしかいない。
俺の腹が抉れたのは、クロムを抱え込んで跳んだからだ。
クロムを狙った一撃が、体を入れ替えたことで俺に当たり、跳んだことで狙いがずれて脇腹を抉った。
もし、身体が動いていなければ、飛んでいたのは。
クロムの、首。
すう、吐息を吸う。
うん、決めた。
こいつらは、敵だ。
女の言うことは正しい。傷は薄皮一枚で覆われた程度だ。
動けばすぐに開き、致命傷に戻るだろう。
けど。
敵はどうするか。
アスランの子が、ヤルクトの者が、
敵とは、戦え。
戦って、勝て。
「え?」
女の広げた両手の間に、思いっきり突っ込む。
ドン、と衝撃が再び走って、脇腹からぴりっとした感触が伝わった。
女は信じられないものを見るような顔で、見ている。
自分の腹に刺さった短剣を。
腰に下げた剣を抜ける余裕はなかった。
けれど、ブーツには常に短剣を一本仕込んである。本来は、いざと言う時の自決用だ。
だが、敵に向ける刃にしてはいけないなんて決まりはない。
虚仮脅しの剣と違い、こちらは名工が打ってくれた逸品だ。
鍛え上げられ、研がれた刃は、するりと女の腹へもぐりこんだ。
ついでにぐるりと捻る。内臓を巻き上げる感触が、握る手に伝わる。
これで、相手の戦力を、ひとつ潰せた…!
「エリカ!」
悲鳴のような声は、俺たちの後ろから聞こえた。
新たに出てきたのは、軽装の女だった。手に杖を持っている。此奴が魔導士か。
神官女から飛び離れ、クロムの手を引っ張って、その声の主と剣士が同時に視界に入る位置まで移動する。
足がもつれる。視界が揺れる。
ぐらりと傾ぐ身体を、クロムが全身で支えてくれた。
「…ありがと、クロム」
ぶんぶんと首を振られる。
目には涙が盛り上がっていて、引き結んだ口許は震えている。うん、泣きたくもなるよな。
何だってんだ本当に。
なんで、ただ道を歩いていただけで、斬られて、殺されなきゃなんないんだ。
怖いよな。納得できるわけないよな。
…ごめんな、クロム。一緒にいるのが、俺じゃなくて兄貴なら、絶対に助けられたんだけど。
けど、俺も諦めないから。
まだ、生きている。足も動く。
なんとか時間を稼ぐんだ。
魔導による目くらましなら、人気のなさも人払いの結界か何かを張られた結果の可能性が高い。
それなら、護衛達が気付く。
もしくは、結界を維持する術式を解呪できれば。
術師の意識が途切れれば、消えるはず。
殺すか、気を失わせるか。どちらか、できる方をやってみる価値はある。
魔導士の透明化は解けた。
けど、人が駆けつけてくる様子はないところを見ると、もうひとり魔導士がいるのか、これは発動すると時間で消える術なのかもしれない。
もうひとり魔導士がいるってのは最悪だ。
この三人だけと信じたい。でも、可能性は忘れちゃ駄目だ。
大丈夫。考えられる。まだ、負けていない。諦めていない。
ぼやける思考を握りしめ、三人の敵を観察する。
「信じられない…助けてくれた人を刺すなんて!」
神官の女に駆け寄りながら、魔導士は憎々し気に吐き捨てた。
いや、信じられないのはこっちだよ…。
いきなり攻撃してきて恩に着せるとか、どういう神経してたらできるんだ!
喚く女の声に、握ったままのクロムの手がびくりと震える。
「…ファン、俺たち、死ぬのか…?」
見上げてくるクロムの瞳から、光が消えていた。
涙と一緒に、気力が流れ出しているかのように、意志が消えていく。
無理はない。こんな状況、絶望するなって方がおかしい。けど。
「駄目だ、クロム」
本当は、叱咤したいくらいだ。囁くような小声が精いっぱいなのが情けない。
「諦めるな。まだ、二人とも生きてる。死んでないんだ。
まだ、どうにかできる。
どうにかする!」
手持ちの札を数えろ。勝利条件は護衛が駆けつけるまで死なない事だ。
それはそう先の事じゃない。
結界の解呪に時間がかかっているのだとしても、もうほんの僅か、持ちこたえればいいだけの話だ。
もうほんの僅かじゃなくても。
こいつらが諦めるだけ、粘ればいい。
簡単な話だ。全員倒せとかだったら詰んでたけど、負けなければいい。死ななければいいだけ。
それは、困難だけれど、不可能じゃない。
不可能じゃないなら、できる。やれる。
大切なのは、自分から負けないこと。
「だから、そっちに行くな。勝手に負け犬の列に並ぶな。
帰ってこい、クロム…!」
手を強く握り、クロムの鋼色の双眸を見つめる。
ぼんやりと見つめ返してくる瞳の奥が、揺れた。
よし。
まだ、クロムもこっち側にいる。
指先数本でしがみ付いているだけでも、完全に手放すよりずっといい。
手放したら、帰ってこれなくなる。
草原で、この
諦めたら、魂がまず死ぬ。
魂が死ねば、肉体も続く。絶望と言う刃で心臓を刺して、勝手に死ぬんだ。
そこで肉体は死を免れたとしても、長くはない。
死者は笑わないし、怒らない。泣くことも、喜ぶこともない。
ただいるだけの存在になり果てれば、ゆっくりと衰弱死していくだけだ。
そんなことは、許さない。
「俺の腰のベルトに、ポーチがついてるだろ?そこから緑の蓋の小瓶を出して」
クロムの双眸には、まだ感情は戻っていない。
でも、握っていた手を離すと、伝えたとおりにクロムはポーチを開けた。
手が震えて上手く出せていないけれど、緑の蓋の小瓶を掴んでいる。
「その中身を、傷に掛けてくれ」
小瓶の中身は、高級回復薬だ。
鎮痛剤は入っていないから死ぬほど痛いだろうけれど、とにかく動けるようにならなきゃ仕方ない。
神官服の女は腹を抑えて蹲っている。
魔導士の女が刺さった短剣を見て何か叫んでいる。
剣士の男が大剣を担いだまま二人へ駆け寄る。
…うん。いける。
こいつら、戦い馴れていない。
手負いであっても、こちらは武器を持って攻撃する意思のある敵だ。
なのに、攻撃の手を止めている。
魔導士の女なんて隙だらけだ。
完全に意識を俺たちから神官の女に変えている。
今なら、簡単に
傷を抑えていない右手で、なんとか服の裾から短剣を一本抜きだした。
潰すなら、まずは魔導士だ。
少なくとも透明化を使えるなら、潰しておかないとまずい。
次の不意打ちを避ける自信は全くない。
「…っうぅ!」
「ファン!」
「…大丈夫。傷、塞がってきたろ?」
手を退けると、今にも内臓がはみだしそうだった傷に、肉が盛り上がってきていた。
正直、人生で二番目くらいに痛い。
けど、今は痛い方が良い。
痛みが、恐怖も嫌な想像も、弱気も、全部押し流してくれている。
なんとか笑った顔に、クロムがくしゃりと顔を歪めた。
「また…俺のせいで、ファンが死ぬの、やだよ…」
「俺は一度も死んだことないぞ?」
「ひゆってヤツだよ!わかれよ!」
おー、比喩なんて難しい言葉を覚えたか。偉い偉い。
血塗れの手で悪いけれど、その頭を撫でる。
いつもなら烈火のごとく文句を言うけれど、何も言わずにクロムは俺を睨みつけた。
涙目で睨まれても怖くもなんともないけどな。
クロムも、大丈夫だ。こっちに戻ってきている。
あとは二人とも生き残ればいいだけの話だ。
足に力は、入る。
けれどもう、魔導士の女はこっちを睨みつけていた。
声を上げちゃったのは失敗だったな…これじゃ飛びかかっても的になるだけだ。隙を伺うしかない。
「…やめて、リーゼ…ノースも…私、大丈夫だから」
「エリカ、治癒の御業を!」
「そうだ、君は休んでいろ。エリカ。リーゼ、エリカを頼む」
「ノース!」
剣士は、大剣を正眼に構えて俺たちを見る。
「恨むな、とは言わない」
その剣先についた赤いものは、俺の血肉だ。
「だが、君たちはここで死ぬんだ。それが、運命だと受け入れてくれ」
「できるか…っ!」
反論の声はかすれて小さかったけれど、男の耳には届いたみたいだった。
僅かに目を伏せ、それから瞼を閉じる。
「世界の為に…必要なんだ」
「やめて、ノース!その子は、関係ないよ!」
「アンタ、刺されたのよ!許せるわけないでしょ!」
何をどう考えても、俺は正当防衛だぞ。
許されるも何も、そっちが襲ってきたんだろうが。
でも、これは何と言うか、つつけばべらべら喋りそう。
時間を稼ぐことと、こいつらの目的を探るためにも、喋らせるべきだよな。
とりあえず、相手が馬鹿で良かった。
「なんで…こんな事を…!」
剣士は、閉じていた瞼を開ける。
哀しい決意、とでも名付けられそうなものを湛えた双眸が、俺を見る。
「その子が、器の可能性があるからだ」
「器…?」
「そうよ。アンタ、自分が庇っているのが何なのか知らないのよね。いい?アンタがしていることは、世界への反逆よ」
何言ってんだこの女は。
間違いない。
此奴ら、季節の変わり目によく出てくる奴だ。
なんでクロムが標的なのかはわからないけど…美少年を狙う変態か?
俺の内心が伝わったのか、魔導士の女は目を吊り上げる。
「とにかく!その子供を渡しなさい!エリカの優しさに感謝することね!アンタは見逃してあげるんだから!」
許さないと言ったり見逃すと言ったり、一線を超えた人の主張はやっぱりアレだな…
「…俺たちは、聖火騎士団」
「聖火騎士団…?」
読んだ覚えのある名前だ。
必死に記憶を手繰ろうとする思考を止め、剣士たちの動きに集中する。
俺が思い出さなくても、教えてくれそうだし。
「マース神にお仕えする、世界の敵の目を探るもの」
マース神?英雄の守護神?
その割にはさっき、その女は春風の女神ハーシアに祈ってたけど。
マース神は御業を授けない神だって言うし、御業が使える神官を引き込みたかったら、違う神に仕える神官になるのは当然か。
読んだことがあるはずだ。灯の英雄譚に必ず出てくる名前だもの。
孤立奮闘する灯の英雄のもとに駆け付け、最初の頼れる仲間となるのが、マース神に仕える聖火騎士団だ。
マース神は決まった神殿を持たない。
英雄譚では、時のはざまにある神殿に英雄は招かれ、そこで刻印を授かる。
聖火騎士団は灯の刻印が授けられたと聞けば、その保持者の元に集結すると言う。いないときは自警団みたいなことをしているらしい。
その拠点は大陸中に在り、アスランにもあった…かなあ?西方国境の方にはありそうだけど。
なるほど。自分がそうだと思い込んでいるのか…
「聖火騎士団が、なんで子供を殺そうとするんだ!おかしいだろう!」
だいぶ、声も出るようになった。
あとは傷口を抑えた時に泥が入ってなきゃ、死なないだろう。
あれだけ出血していたんだから、血で流されたと信じたい。
「我々の役目は、灯の英雄を守る事だけではないんだ。常にこの世界を覗いている目…その目が何を捜しているか、君は知らないだろう」
世界を覗く目?
それなら、そう言われているのはただ一柱の神だ。
黄昏の君。創造神の弟神にして、紅鴉の敵対者。
器って言うのは…まさか、その器か?
「あれは、こちらに戻るために器を捜している。他の魔族が、魂位の高い人間であれば誰でも良いのに対し、黄昏の君の器は、限られたものにしかなれない」
「それが、クロムだって言うのか」
「そうだ。そう、神託があった」
剣士は、哀しい決意を湛えたままの顔で、再び口を開く。
「器は、この世界に百八人。十三年前、火の星が降った夜…その星の欠片が宿って生まれた子供だ」
神官の女も、魔導士の女も、剣士と同じ表情をしている。
「どの子供に、黄昏の君が降りるかはわからない。けれど、あれの信奉者が一人でも手に入れてしまったなら…」
「世界は、終わってしまう」
剣士の言葉を、神官の女が引き取り、補完する。
「…その子、アンタの弟とか、大事なひとなのかもしれないけどさ」
低く、呟くように魔導士の女も続いた。
「でもさ、世界が終わったらさ、もっとたくさんの人が泣くんだよ。泣くこともできなくなっちゃうんだよ。だからさ…」
「その子を、渡してくれ。君は、その子のことを、忘れないでいてあげてくれ」
「…」
こいつら。
本当に、頭がいかれている。
十三年前の火の星が降った夜?流星群の事か?
それなら、毎年観察されている。いや、毎月のように観察されている。
そのたびに目玉を落としているんじゃ、とっくに黄昏の君は失明しているだろう。
それに。
こいつら。
「お前ら、もう何人殺しているんだ」
戦い馴れていない。歴戦の傭兵や、騎士の動きじゃない。
なのに、躊躇うことなく、此奴等はクロムを殺そうとした。
人払いをし、透明化して不意を討つという、暗殺者めいたやり方で。
それは絶対に、「初めて」のやり方じゃない。
何度かやって、試行錯誤を重ねたうえでの最適化だ。
火の星が降った夜、とやらは十三年前だと言っていた。
なら、こいつらが殺してきたのは。
「もう、何人の子供を殺めたんだ!言ってみろ!」
俺の問いに、剣士は首を振り、神官と魔導士は俯く。
だが、それだけだった。返答はない。
「黄昏の君の器?ふざけるな!そんなの、あるわけがない!」
本当にそんな神託が下ったのなら、各地の神殿は大騒ぎになったはずだ。
黄昏の君は、言うなら魔族を統べる万魔の王。そんなものは降臨したら、確かに世界は終わる。
それだけに、神々だって気を付けているはずだ。
「大体、何でクロムがそうだと思ったんだ。今、十三歳の子供なんて何万人もいるぞ」
「神託が降りるの。次は、この子を捜しに行けと」
神官女が答える。
それなら、神託を下しているのは、春風の女神なのか?そんなわけない。
なら、この女が聞いているっていうのは…もしかして…
「神託の度、ハーシア様は嘆かれるよ…けど、それでも、誰かがやらなきゃいけないの」
神官は魔導士の手を借りつつ立ち上がった。
既にその腹に俺の短剣はなく、血の広がる様子もない。
御業を使われたか…喉に突き立てられなかったのが悔やまれる。
腕がそこまで上がらなかった。
「だって、この世界は、こんなにも愛おしい。美しい。手を血に染めてもね、守らなきゃ…いけないの!」
「なるほど、わかった」
クロムの怯えた視線を感じる。
その左胸を軽く叩く。大丈夫。まだここは動いている。そう言う意味の、動作。
クロムの鼓動は激しく落ち着かない。けれど、鳴っている。止まっていない。
止まらせて、なるもんか。
「だいじない。ちゃんと帰って、晩飯食べよう。夕飯いらないなんて、言ってきてないからな。怒られちゃう」
そのやり取りは小声だったから、多分聞こえていないだろう。
ただ、わかったという言葉だけをとらえて、神官女は辛そうに笑う。
「ごめんね…でも、君のせいじゃないから」
「当たり前だ。人殺しども」
俺の声に、神官女はきょとんと瞬いた。
最高に、その顔、ムカつくな。
「今の話で確信した。お前らは、ただの殺人者だ。しかも、無力な子供ばかりを狙って殺して回る、最悪の殺人者だ」
「アンタ!今の話聞いてたの!?それとも、現実逃避で頭おかしくなった!?」
「黙れ。発言を許していない」
「なんなのよ!!偉そうに!やっぱり、こいつおかしくなっちゃってるよ…可哀相だけどさ」
ころそう、と呟く形に、魔導士の口が動く。
神官女は俯いて涙をこぼし、剣士は。
頷いて、剣を構えなおした。
「お前らは、人知れず世界を救う英雄なんかじゃない。
子供を殺して回る、ただの殺人者だ。
もう、殺すことに抵抗はないんだろう。けれど、それを誤魔化したくてしかたがない。
だから、そうして芝居がかって演じるんだ。悲劇の英雄を。
…断言する。お前らが殺してきた子供は、黄昏の君の器なんかじゃない」
「神託を否定するのか」
「神託だと、思い込んでいるだけだ」
春風の女神ハーシアは、少年少女の守り神でもある。
春風が植物の成長を促すように、春の訪れと共に育っていく生き物を慈しむ女神だ。
その女神が、そんな神託を、まだ自分も少女と言っていいような信徒に授けるか?
少女に子供を殺せなどと残酷なことを告げる女神だと思うのか?
そう考えたら、「ハーシアの名を騙った」何かだとは思わないのか?
それに何より、もっとはっきりと違うと言い切れる証拠はある。
「十三年前の夜に生まれた子供が対象なら、今、その子たちは十三歳だろう」
「当たり前でしょ…!なによそんなの」
「この子は、十二歳だ」
三人の動きが、止まる。
きっと、神託と思い込んだものの命じるまま、何も調べずに子供を殺して回っていたんだろう。
「…嘘…」
「そうよ!助かりたくって出鱈目言ってるんでしょ!」
「黙れ。痴れ者」
何人、「神託」とやらに導かれるまま、子供が殺されたんだろう。
その子の両親は、家族は、友人は、どれほど嘆いたんだろう。
あの手口が恒常化しているなら、傍目には元気よく歩いていた子供が、いきなり切断されたようにしか見えない。
もちろん、病や事故で亡くなる子供はいる。
戦で殺されたり、獣に食い殺された子もいる。
親や家族に殺されてしまう子供だって、いる。
けれど、それらは原因がわかる。
なんで死んだのか、遺族が受け止めることができる。受け入れられるかどうかは別として。
殺した相手がいるなら、憎むことだってできる。
だけど、これは。
何を憎んでいいのか、怒っていいのか、それすらわからない。
あの時、手を離したから。先に行かせたから。一人にしたから。あの場所を歩かせたから。
そうやって、自分を憎み、家族を憎んだ人もいただろう。
その憎しみは、次の大切な人を傷つける付け火になっただろう。
燃え移る憎しみの火は、きっとこいつらが殺した子供以上の人を焼き尽くした。
この罪を、こいつらは…絶対に理解しない。見ようともしない。
「いや、卑怯者と言い換えようか。
抵抗もできない子供を殺し、自分が犯人だと告げることもなく逃げて浸る英雄譚は、さぞかし気分がよかっただろうな」
腹の傷は、なんとか癒えた…と思う。
激しく動けば治癒中の部分が崩れる可能性はあるけれど。
短剣を握りこんだまま、剣を抜く。
このちゃちな剣であの大剣を受けられるはずはない。
大声出して投げても逃げる所はないけれど、もう少し時間稼ぎができるように、まっすぐに三人組へ向ける。
やっぱり、こいつらは戦い馴れていない。
せっかく数で優位を取っているのに、分散せず固まっている。
剣士と魔導士が同時に視界に収まらない…それだけでこっちは随分厳しくなるのに、それに気付いてさえいない。
斬ることに向かない大剣であれだけ斬るんだから、技術自体はあるんだろう。
騎士団の一員だと名乗るからには、こいつは騎士なのかもしれない。『盾』と『剣』の御業に注意だな。
いや、『盾』はないか?あれは盾を触媒として起動するのだから、盾らしいものを持っていないなら使えないはず。
けど、大剣を広義の意味で「盾」としてれば、わからないか?
「…君には、わからないだろう。剣を振り下ろすことの痛みが」
剣士は僅かに視線を下に落とし、しかし、剣を降ろさなかった。
「きっと、君は、いい家の子なんだろう。身なりも良いし、人を見下すことに慣れている。そんな君には、滅びを願う人の気持ちはわからない」
き、と剣士は視線を上げた。
「誰か一人でも、器を黄昏の君に捧げれば、この世界は終わるんだ。
そんなことをする愚か者はいないと君は言うのだろうが、違う」
え、いや、そんなこと何も言ってないけど?
こいつ、人の話を全く聞いてない…?
「虫を噛み砕き、泥の中で眠る子供がいる一方、絹の褥でおもちゃに囲まれて眠る子供もいる。
その不平等さを強いる世界を滅ぼしてしまいたいと、心底願ってしまう者もいるんだ…」
そりゃあ、いるだろう。いるだろうけれど、それとクロムが器じゃないって話は別物だぞ?
「…俺の兄は、そうして黄昏の信徒となった。どこからか連れてきた子供を、教団へ捧げようとした」
「その時、ハーシア様から神託があったの。あの子供を、渡してはならないって」
潤んだ眼で剣士を見上げながら、神官女は言葉を続ける。お前ら、それ好きだな。
こいつらは、本当に歌劇の主人公のつもりなんだろう。
別にそれを愉しむのは否定しない。
けれど、妄想に人を巻き込むな。
お前らが殺してきた子供も、クロムも、俺も、お前らの物語の脇役や道具じゃないんだ。
「俺は、兄とその子供を斬った。その時、兄に誓ったんだ。必ず、黄昏の君の復活は阻止する。だから次は、次に生まれ変わったら、戦のない国で、穏やかに生きよう、と。
器をすべて斬った後、俺も生きているつもりはない。殺した命を償うため、自決する」
女たちは涙をこらえるような顔で男を見ている。
駄目だ、これ…クロムが十二歳だからそもそもの条件が崩れているし、神託自体が贋物だって話は忘却の彼方にすっ飛んでいる。
けど、去年ようやく手に入れた『北海博物誌』全十三集を賭けてもいいけど、こいつはきっと自決しない。
なんだかんだ女二人に止められて、前向きに生きることを決意する。
絶対そうする。責任なんて、始めから取るつもりはない。
なんたって、悪いことをしているつもりはないからな。
なんなら、自分たちが称賛されないのを不服にすら思っているだろう。
歌劇の主役のように、万雷の拍手で称えられるべきだと、思っているのだろう。
…その脚本を書いた奴は、どう考えても悲劇ではなく喜劇として書いているけどな。
「お前の決意なんて、どうでもいい。
揺るがないのは、お前が多くの子供の命を殺めた事、その子供が黄昏の君の器である、なんて言うのは全くの妄言だという事だ」
「…それが君の現実なら、それでいい。俺を恨み、憎んでいい。だから、なるべく」
ぐ、と剣士の脚に力がこもる。
…来る!
「抵抗を、しないでくれ」
「ノース!やめて!」
神官女が叫ぶが、それ以上止めようとする動作はなかった。
代わりに突っ込んでくる、大剣の切っ先。
受ければ、受けた瞬間、俺は死ぬ。
だから、思いきり剣を投げた。
声は出さずに、ただ、まっすぐ。
キィン!
硬い音がして、男の大剣が剣を弾き飛ばす。よし、避けずに受けたな!
弾かれた剣は空中に舞い上がり、一瞬の隙間を置いて、砕け散った。
「!?」
剣の欠片は雨のように男に向かって降り注ぐ。
いや、雨は明確な意志を持って攻撃してこないから、蜂の群れのように、と言う方が正しいか。
ちゃちな剣だけれど、ちょっとした魔導具だ。
一定以上の衝撃を受けると砕けて、その衝撃を与えた相手に向かって飛んでいく仕組み。
相手からすれば剣が、突然無数のダガーに変わったようなもの。
大剣を盾のように構えるも、そこからはみ出た腕や足、剣を構える指に容赦なく破片が突き刺さる。
「この、クソガキ!」
魔導士の女が杖を構えた。
「クソはお前らだ!火球のひとつも投げられないから、こんな暗殺まがいに子供を殺すしかできないんだろう!」
今、確実に困るのは、動きを止められる魔導。
大した煽りじゃないが、乗ってこい!
「舐めるな!
女の杖の先端が光り出す。
雷撃…火球の一段階上の術式か。
…好都合だ。
「クロム、離れろ!」
隠し持っていた短剣を突き出し、一歩前に出ると、魔導士は嬉しそうに頬を歪めた。
光は弾けるように前へと飛び出し、俺に直撃した。
バシン、と全身に衝撃が走り、視界が真っ白に染まる。
「いってぇ…」
短剣を握る指先から血が滴っている。皮膚がはじけ飛んだせいだ。
頬や胸や、治ったばかりの脇腹にも変な感覚があるから、似たような状態だろう。
「な…なんで、生きてるのよ!」
それは、うちの一族は代々雷の精霊と強い親和性があり、雷系の魔導に高い耐性があるからだ。
俺には雷帝の守護はないけれど、血統としての耐性はある。
兄貴や又従妹みたいに、雷系の魔導を食らうと吸収して、魔力や体力が回復したりはしないし、こうして皮膚が裂けたりはするけれど。
もうひとつ、突き出した短剣には術式を破壊する陣が彫り込まれている。
一瞬で霧散させる、なんて真似はできないけれど、威力を抑えるくらいは可能だ。
火球なら、少々火傷した程度の怪我が皮膚が弾けただけに変わったくらい、大したことはない。
死ぬほど痛いだけだ。我慢すりゃいい。
「もうやめて!お願いだから!なんで、君まで死んじゃうんだよ!?」
「俺は、死なない」
短剣は剣と違って業物だ。まだ武器として使える。少々焦げてても問題ない。
状況は、よく考えれば俺がまた怪我しているだけだけれど、さっきより時間が進んだ。時間稼ぎは成功している。
悪くない。
「クロムも、死なせない」
「その我儘が、世界を滅ぼすとしても?」
「世界だって滅ぼさせない。黄昏の君が本当に降臨するなら、追い返せばいい」
「今、ここで死んだ方が、ずっと楽に死ねるかもしれないよ?君の未来には、君の親しい人たちの屍が積みあがり、血の河が流れ出るのだとしても」
…?
あれ?
俺は、今、誰と話している?
「それでも君は、諦めないというのかな」
「諦めない」
答えは、するりと口から出た。
「そんなこと、させない。未来の誰かの命も、今の俺たちの命も、俺は諦めない」
「時間稼ぎできているから?悪いけれど、それは無駄な努力だ。今、この辺りは僅かに世界とずれている。彼らの魔導じゃない。強力な魔道具だ。君の護衛は、君を捜してすぐ隣を駆け抜けているんだよ」
魔道具…そっか。そっちか。
「なら、敵は三人だけってことだ。維持している魔導士がいないなら」
ひとつ、懸念が消えた。
魔道具なら、どこかで動いているはず。
それを狙って壊せばいい。術式を破壊する短剣ならできるだろう。
見ようと思えば、俺は「見える」。
今、この負傷で鷹の目を使えば、負担は相当なものになるとは思う。
けど、片目程度なら。いや、例え両目を失ったとしても。
触れるし、嗅げるし、聞こえるし、話せるし、考えられる。
学者になるのに、ただちょっと不便なだけだ。
「諦めないというんだね。安らかな死は、慈悲ですらあるのに?」
「ああ。諦めない。絶望を慈悲というなら願い下げだ。大体慈悲って言うのは、今ここで自分たちの罪を認めて剣を収めて投降したら、斬首だけで許してやるって話の事だ!」
「ああ、なんて、君は…」
ぽたり、と傷口から滴る血が石畳に落ちた。
誰も、動かない。
剣士も、神官も、魔導士も。
「強欲で、傲慢なんだ」
俺は、今、誰と話をしている?
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