第32話 聖女神殿2
「え、と…これで、終わり?」
わずかな痙攣の後動かなくなった大司祭と、元から動かないクバンダ・チャタカラの女王から視線を外さず、ヤクモが問う。
「…たぶん?」
弓を構えたまま、ファンは頷いた。
矢は確かに、大司祭の眉間に打ち込まれている。
シドウの大弓から放たれた矢は、
ファンの放った矢は、大司祭の眉間から後頭部まで貫通していた。
生きていられるはずはない。
通常ならば。
「そっかあ。結局、女神様の矢、使わなかったねぃ」
ホッとして弾むヤクモの声に、ファンは逆に顔を強張らせた。
その存在を忘れていたわけではない。
だが、咄嗟に番えたのは、使い慣れたアスラン製の矢。
女神の矢はまだ矢筒に収まっている。
それがひどい失敗だとは思わない。だが。
まだ終わっていないと、女神が警告しているかのように思えた。
けれど、大司祭は確かに女王にしがみ付くようにして、死んでいる。
厳密に言えばまだ心臓は動いているかもしれない。
脳が破壊されても、即死しない場合もあるからだ。
だがそれも時間の問題。心臓やその他臓器も、脳の沈黙により止まるだろう。
「あ、ほら、見て!雲も晴れるよ!」
ヤクモが指さす空には、確かに雲の裂け目ができていた。
その裂け目から、白く儚げな満月が覗く。
まだ、地上へ届くような輝きはない。
雲の裂け目から降り立つ光は、天と地とをつなぐ道のよう。
光はかつて女神だった石くれと、動かなくなった敬虔な信徒を包み込む。
その光景は一幅の荘厳な絵画のように見えた。
女神の手が、道を喪い、倒れ伏した信徒を包み込み、天へと連れていく…そんな場面。
けれど。
クロムは、盾を構え治し、剣を抜いた。
ユーシンは、槍を下段に構え、僅かに腰を落とした。
二人とも、警戒を解いていない。
彼らほど危険察知に長けているわけではないファンも、弓を降ろす気にはなれなかった。
何故?
鼓動が鳴り響きすぎて頭痛すら覚えてくる。
何故、と問う内心の声ばかりが大きくて、何に対して疑問を抱いているのかすら曖昧になる。
それじゃ、駄目だ。
ぎゅっと空いた右手を握りしめ、ファンは視線を巡らせた。
原因は、目の前にあるとは限らない。
ほんの少し視界を動かすだけで、見えなかったものが見えてくることもある。
観察しなさい。考察しなさい。それが全ての学問の基本にして、到達点だ。
学問の師たちの言葉が、警戒音を超えて甦る。
視線だけを左から右へ移しながら、ファンは浅い呼吸を飲み込む。
空気を求めて喘ぐ肺を宥め、細く長く息を吐きだした。
ゆっくりと息を吸いながら、もう一往復視線を動かす。
変わったものは何もない。
深呼吸することで、鳴り響いていた鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻し、視界と思考を明瞭にする。
視線は光の柱を辿って空へと赴く。
光?
雲は確かに空を覆い、隠している。
だが、完全に陽射しを遮るほど厚くはない。
雨が降るような雲ではないのだ。
そこに切れ間ができたからと言って、光芒がこんなにくっきりと見えるはずがない。
そして、もうひとつ。
「今夜は、満月…」
今、夕暮れへと変化を始めた空へ浮かぶ白い月も、丸い。
「!」
その違和感に思い至った瞬間、ファンの右手は矢筒から矢を抜き出し、弓に番えていた。
満月は、必ず陽が落ちてから登る。
たとえ儚げな残月であったとしても、白い満月が天にあることは、絶対にない。
まだ、空が青さを残している間に登ることはありえないのだ。
ならばあれは。
鏃には陣が彫り込まれ、矢柄にも隙間なく呪言が書き込まれている。
ファンの「とっておき」の一本だ。
番える際に込められたファンの魔力を吸収し、矢は僅かな燐光を放つ。
その燐光を流星の尾のように引きながら、矢は宙を駆け、そして、止まった。
「なっ!?」
クロムの口から、驚愕の声が漏れる。
矢は何もない空間に突き刺さっているように見えた。
大司祭まであとほんの僅か、もし、大司祭が手を伸ばせば届くほどの距離だ。
だが、そこには何もない。しかし、矢はその先へ進まない。
「退避!」
叫ぶと同時に、ファンは後退を始めた。
視線は前へ向けたまま、後ろへ大きく飛び退く。
仲間たちはその声に、反応に僅かな差はあったもののすぐに従った。
ぽとり、と宙に浮いていた矢が落ちる。
地面に辿り着く前、ぐにゃりと歪み、矢柄が耐えきれずに悲鳴のような音を立てて折れた。
「まずいな…」
「な、なんで、なんでこれっ!?」
完全に大司祭らから視線を外し、やってきた方へと向き直ったファンとヤクモは、そこに在りえないものを見た。
二人の行く手を阻むのは、壮麗、とさえ表現できるような壁。
白く塗られた煉瓦を積み上げ、組み合わされて作られ、上部には女神アスターの物語が彫刻として表現されている。
そしてその中央、彼らがやってきた道の先に、門が出現していた。
門扉にはそれぞれ女性が描かれている。
片手を門をくぐるものへと差し伸べ、もう片手は胸に添え、黄色い花がついた木の枝を持っていた。
「…これ、聖女神殿の門を復元してるわけじゃないな」
「わりとどうでもよくないっ!?それぇ!」
「どうでもよくなくない。聖女神殿の門は堅牢で巨大ではあったが、装飾の類はまったくなく、門扉はなかったと記録されてた。
これはたぶん、アスラン軍に燃やされる前の大神殿を模したものだな。この門の絵についての説明を読んだことがある」
この場にあったものを復元したのではなく、誰かの記憶に基づいて構築されている。
今、この場にいる四人のうち、かつての大神殿の様子を見たものはいない。
最年長のファンでさえ、その頃は産まれてもいない。
ならば当然。
この壁を生み出した記憶は。
「囲まれたな」
僅かに掠れた声で、クロムが状況を端的に報告する。
壁は瞬く間に、四方を覆っていた。
風もその壁に遮られたのか、完全な無風。
彼らの息遣いだけが、無音の空間に落ちる。
「下手な絵だ!趣味も悪い!」
それを打ち払うように、ふんすと鼻息を吹き出しながら、ユーシンは槍の穂先で絵と彫刻を示した。
「そりゃあ、歪んでるものな。あきらかに誰かの記憶をもとに、悪意を持って再現されている」
手を差し伸べる女性たちは、笑っていた。
にんまりと、性悪く、口の端を釣り上げて。
「手に持っているのは、花が咲いている月桂樹か。
確か、裏切りとかって意味があるんだったな。
公正を司るアスターの神殿でモチーフとして使われることはありえない」
並ぶ彫刻も、おかしい。
やたら剣を振りかざし、切り落としたと思われる首を掲げる様子が目に付く。
女神アスターの説話は、女性が主人公の話が多い。
不当に虐げられた女性たちが、アスターの導きによって窮地を脱したり、奪われたものを取り戻す、といった話だ。
しかし、掲げられた首の多くは女性のものだ。
つまり、この彫刻群は、不当に虐げられた女性がそれだけではなく命をも奪われ、梟首されている様子を表している。
「よっぽどあの爺さん、女に恨みでもあるのか。こっぴどく振られたようだが…」
引き攣った笑みを浮かべつつ、クロムは呟き、ふと表情を変える。
「どした?」
「なあ、ファン。ゼラシアってなんか聞いたことがあるんだが、お前はあるか?」
「一番有名なゼラシアなら、最後の聖女王だろうな。
確か同じ名前の聖女王は過去にも何人かいたから、ちなんでつけられた女性もいただろうけど」
今、その名を娘に付ける親はいないだろう。
既にゼラシアと名付けられていた女性らは、戦後に改名した人が多かった。ファンはそう聞いた覚えがあった。
何せ、大司教と男女の仲となり、国を亡ぼす原因になった名だ。改名したくなるのも無理はない。
さらに
その名残もあり、現在、王都周辺でゼラシアと言う名を持つ女性はいないだろう。
「ああ、なるほどな」
腑に落ちた、と言う顔でクロムが頷く。
「えええ、それ、今、ほんとにどうでもよくない?ねね、これ、どうすんの?」
「さっきの矢な。魔導による守りの術式を無効化する矢なんだ」
ファンの視線は、再び大司祭へと向きなおる。
クバンダ・チャタカラの女王の死骸を抱いたまま事切れた様子に、変化はない。
「その副産物には効かないから、風の守りみたいに砂や小石を巻き上げる奴には効果が薄いけどな。で、さっきのだけど」
いつもと口調は変わらない。
だが、その額から鼻筋を、冷たい汗が伝う。
「あれは、術式で止められたんじゃない。純粋な魔力だけで止められたんだ、と思う。
板金鎧を貫く距離での一射をだ。まったく、冗談じゃないな」
人間に、できる芸当ではない。
ならば、それが意味することは、ただひとつ。
「この壁の構築にしたってさ、魔導でどうにかできるもんじゃあない。
おそらく煉瓦に見えるだけで実際には魔力そのものだろうな。触らないようにしよう」
「だ、そうだ。ちゃんと覚えとけよ。馬鹿」
「お前もよく壁を蹴るからな!うっかりするなよ!下種!」
「はい、だからあ、今から仲間内でダメージこさえてどうすんだよ~」
はあ、と溜息をついて肩の力を抜いた後。
ファンは、ぐい、と額の汗をぬぐった。
「やれるな?みんな」
退路は断たれた。
これから何が起こるかは、恐らく予想の通りだ。
「まあ、やるしかないんだけどさ」
顔を上げて、視線を仲間たちへと向ける。
「当然だ」
偉そうに口の端を持ち上げ、クロムが頷いた。
「無論!ウルカよ、ヘルカよ、照覧在れ!我が槍が魔を下す様を!」
ユーシンの返答は揺るがない。
むしろすぐにでも槍を振るって斬りかかるのを堪えてさえいる。
「うん!ぼく、頑張る!」
ぎこちなくでも笑って、ヤクモは拳を突き上げた。
その手は僅かに震えていたが、ぐ、と力が込められ、止まる。
「よし」
全員が付け合わせの野菜まで全部食べたのを確認したときのような顔で、ファンは笑った。
そしてその言葉を待っていたかのように。
異音が、囲まれた空間を震わせる。
しゃく、しゃく、しゃく…
四人の視線が向かう先は、大司祭。
女王の死骸に張り付いたようだった頭が、揺れている。
眉間に、矢を突き立てたまま。
「あ、ああ…」
ゆらりと、その顔が挙がった。
涙は変わらず、滂沱と頬を濡らしている。
だが、その涙の質は、恐らく先ほどとは違う。
「ああ、嬉しい、嬉しいです、嬉しいのです。ええ、そうです、そうですね、ええ、貴女は私を、ええ、私をついに、ついに、やっと…」
再び、顔が下がる。
しゃく…
「やっと、私を私に、私の」
口の端から覗くのは、何かの、破片。
クバンダ・チャタカラの女王の、複眼だったもの。
「私のものに、なった…」
満面の笑みは、幸福そのもので。
狂気に歪んだ表情ではない。
しかし、彼は確実に、狂っている。
「ああ、愛しています愛しています、女神アスターよ、どうかどうか、どうか、私たちに祝福を…ゼラシア様があなたの娘でなくなることを、お許しを、お許しください」
高々と両手を突き上げ、女神へ祈りを捧げる大司祭に、光が差し込む。
それはまさに、荘厳な絵画だ。
その口の端から零れ落ちる魔獣の破片と、膝に乗る複眼を齧り取られた死骸があってなお、地に伏して祈るものもいるかもしれない。
「許されるわけないだろう…クソが」
たが、それを見ているのは、女神の信徒でも聖職者というだけで敬意を抱くような善人でもない。
クロムの声は決して大きくはなかったが、きょとんとした顔でドノヴァン大司祭はこちらを向いた。
いっそ無邪気とさえ言えるような表情を、再び満面の笑みに変える。
「ええ、ええ。そうです。そうなのです。ついに、私たちは結ばれた!結ばれたのです!彼女は私の、私のこの手を取った!ええ、アスターに誓って、この愛は永遠です!」
「お前の手は、女の手を握っちゃいないだろうが」
嫌悪感を隠さずに吐き捨てるクロムを、大司祭は一転、哀しそうな顔で見つめる。
「ああ、ああ、そんなに、そんなに彼女を責めないでください。ええ、ええ、確かに、聖女が婚姻を結ぶことは、ええ、禁じられています。それでも、それでも、それでも、ゼラシア様はわたしと、わたしと…」
「違う」
クロムの声は大司祭の懇願を斬り捨てた。
「お前は、その手で女の手を握っちゃいない。
その手で、あの女の首を絞めて殺したんだろうが」
大司祭の動きが、凍り付いた。
「先代がな、あのクソ女の末路を教えてくれた。お前には知る権利があるってな」
「祖父ちゃんが?」
「ああ。あのクソ女は、いわば母さんの仇みたいなもんだからな。俺としてはどうでもよかったから割と忘れていたが」
「大司祭の言うゼラシア様は、聖女王ゼラシアだと?」
「あのクソ女は、王都陥落後に当然嬲り者にされた。
先代からすりゃ、娘をそうして殺されたわけだからな。
アスランの将校じゃなく、最下級の傭兵に殺すなって言い含めて好きにさせたそうだ」
死にそうになれば最高級の回復薬を与えて治療し、また嬲らせる。
相手をさせた傭兵は百人近くになっただろうと、ファンの祖父、当時のアスラン王バトウは口の端を歪めたことをクロムは思い出していた。
「そういう拷問をするときにはな、期限を切ると意外と狂わないそうだ。この時は、三日耐えればお前の男ともども許してやるって言ってやったらしい。
で、その三日目、陣中に投降したアステリア兵やらの救護をしたいってのこのこやってきた奴がいた」
「や、いや、ちがう、ちがうのです!私と、私と彼女は!かのじょは!」
大司祭の悲鳴をクロムは無視した。
クバンダ・チャタカラの女王に手をついて立ち上がったその動きから目を離さず、言葉を続ける。
「先代は、そいつに条件を出した。この女を犯したら認めてやると。
その後、妻としてくれてやろうってな」
「あ、ああああ!!」
大司祭の絶叫に応じるように、扉の絵が変わる。
いや、それは、絵ではない。
まるで鏡に映るかのように、女性の顔が浮かび上がる。
もとは、美女だろう。何となく残る面影から推測できる。
片目は赤紫に変色した頬の肉によって隠され、鼻はつぶれてひしゃげている。
まだ開いている方の目も、赤く充血してあらぬ方向を向いていた。
唇もおそらく元の倍ほどにも腫れあがり、そこから覗く咥内に前歯は見えない。
口許から喉、喉にかけてべったりとこびりついているのは、叩きつけられた欲望の残滓だろう。
「なに…これ?」
辛うじてヤクモは震える声を、紡いだ。
その女性が何をされたか、先ほどの少女たちと同じことをされたのだと、いくら経験が少なくても理解できる。
「ひどいよ…」
「この壁と扉が大司祭の記憶をもとに構築されてるなら、彼の記憶と考えるのが無理ないかな」
しごく冷静に…今、仮説を立てなくてもよさそうなことを…宣うファンに、ヤクモは目をむいた。
「彼女が、ゼラシアだとするなら」
ぽん、とヤクモの頭に手を置き、ファンは仮説を止めなかった。
この、無残な様子については酷いと思う。惨い事だと思う。
戦に略奪はつきものだ。
アスラン正規軍でさえも、許可のない略奪には厳しい罰則を科し、専門の監督部隊を必ず同行させて、なんとか抑えている程だ。
それでも被害が発生し、部隊長と実行犯の首が届けられることが必ずと言っていいほど起こる。
これが、戦のあとに残るものだ。
憎しみが憎しみを呼び、報復が報復を起こす。
嬲られ続けた彼女は哀れだ。
けれど、アステリア軍に侵略されたクトラの女性たちもまた、同じように蹂躙されたのも事実だ。
侵略に参加していたアステリア兵は500人。
それ以上の女性が凌辱され、生きたまま火を掛けられて殺されたのだ。
彼女たちに何の罪があっただろう。
ただ毎日を生きていただけの彼女たちは、人としての尊厳を踏みにじられ、その毎日を奪われるような罪があったというのか。
異教徒だから、アスターではない神を信奉しているから。
そんなことが罪になるなら、リューティンではない神を信奉するゼラシアもまた、大罪を犯していることになるではないか。
ゼラシアは、そんなことをしろとは命じていないというだろう。
兵がそんな非道を働くとは思えなかったと、自分のせいではないと否定するだろう。
だが、彼女は王だった。
彼女はそんなことさえ知ろうともせず、軍を動かした。
その結果を、憎悪を、報復を、王は受けねばならない。
クトラの人々へ手向ける供物として、惨たらしい最期を迎えなくてはならない。
王は、王族は時に法の上に立つ。
それ故、法に守られない。
自身は人を毛ほども傷付けたことがないのだとしても、国が犯した罪は王が、王族が償うのだと、ファンはそれこそ生まれた時から言われて育っている。
それが正しい事かどうかはわからない。
明らかな暴力にさらされたゼラシアを見れば、胸は痛む。
それを祖父が、父が命じたのだと判っているからこそ、余計に。
けれど、祖父は娘を嬲り殺された父親で、父は妹を奪われた兄だ。
王族だとか、そんなことの前に、家族を惨殺した犯人ともいえるべき相手を前に、許してやれなどと言えるほどファンは聖人ではない。
同じように大切な人を踏みにじられたら何をするか…同じことをしないと言い切る自信はない。
なにより、過去は変えられない。
大切なのは、この記憶が、今にどう関係しているのかという事だ。
それがまさに、聖者を堕としたのだとすれば。
その記憶の断片に、この状況を打破する切欠があるのかもしれない。
どのみち、今、大司祭に攻撃を仕掛けてもこちらがやられるだけの可能性が高い。それならば、僅かな可能性がある方に注意を向けるべきだ。
己に望まれていることは、諦めない事。
そして、考えること。
「王都陥落後、すぐに救援活動をすることを願い出た神官は…ドノヴァン大司祭だな」
ファンの満月色の双眸と、ドノヴァン大司祭の紫水晶の瞳が向き合う。
「あああああアスラン王!アスラン王!アスランおおおおう!!!」
血を吐くような絶叫は、ファンの仮説を認めたようなものだ。
その声にこたえたかのように、扉の映像が動く。
女性の無残な姿から、少し引いた視線だ。
彼女が横たわるのは、壮麗な広間だった。
磨き上げられた石で作られた床には、毛足の長い絨毯が伸ばされ、そこには花の模様が描かれている。
すべて春の花だ。おそらく、季節によってこの絨毯は取り替えられるのだろう。
ガラスの嵌った窓が穏やかな日差しを室内に届けていた。
曇りのないガラスは高級品だ。それが惜しみなく使われ、天井に近い壁には鮮やかなステンドグラスが嵌めこまれている。
それら以外にも、繊細な彫刻が施された柱や、大きな絵画が掛けられた壁、そして部屋の奥、数段の段差の先に鎮座する天蓋を備えた椅子を見れば、ここがどんな場所だかは推測できた。
天鵞絨を張られ、金細工や色とりどりの宝石で飾られた椅子は、まぎれもなく玉座だ。
玉座の後ろの壁には、一振りの剣を胸にだく女神の彫刻がある。
彫刻自体はおそらく大理石だが、剣は石ではない。鞘に入った本物の剣を、彫刻に持たせているのだ。
聖剣を抱く女神像に見守られた玉座。
「アステリア聖女王国の玉座の間か…」
記録で読んだ特徴と一致する。
アスラン軍の撤収の際、徹底的に略奪、破壊された聖女王宮。
その、玉座の間。
王が謁見を行い、命を下す場所。
その床に、玉座の主は穢され、横たわっている。
つい先日までは座っていたのだろう玉座には、別の人間が腰を下していた。
代々女王であるアステリア聖女王国の玉座は、彼には窮屈そうに見えた。
壮年の男だ。
淡い金の髪は飾り紐を編み込んで結われ、差し込む日差しに揺らぐ。
立ち上がれば、かなりの長身だろう。
長い足を行儀悪く組み、満月色の双眸は横たわる女王を見下ろしている。
身に纏うのは白い毛皮で縁取られたマントに、革の上に鋼を張って補強された鎧。
西方式の鎧ではない。ファンにとっては見慣れた軍装だ。
「…これ、祖父ちゃんだな」
膝と腰を痛めている今は、こんなふうに足を組んだりはしないが、間違いなく祖父だ。
祖父の若くはないが老いてもいない頃。30年前の光景なら、四十路の初め、まだ関節炎なんてものとは無縁だった時代。
近隣諸国に狡猾で残忍な、『
くい、とバトウは右手を振った。その動きを見て、居並ぶ兵の一人が動く。
兵と言っても、もちろん一般兵ではありえない。騎士の中から選抜された近衛兵だ。
クトラの兵装を纏った一団も混ざっている。
おそらく、アスランへ赴いていたクトラの将兵だろう。
視線が物理的な力を持つなら、ゼラシアを痛めつけたのは彼らの視線だと思えるほどに怒りを込めた目が、横たわる瀕死の女王を睨んでいる。
最も王の間近に控える、軍装ではない人々は
ファンの知っている顔よりも、当然ずっと若いがわからないほどではない。
ゼラシアは近付く兵に向かって首を振った。
これから何が起こるか、彼女は分かっている。
それから逃れたくとも、もう彼女に遺された手段は首を振る事だけなのだろう。
その顎を掴んで上を向かせ、無理やり開かせた口に、軍装の男が小瓶を突っ込んだ。
吐きだそうとゼラシアは喉を震わせたが、男は無造作に腫れあがったゼラシアの口を押え、それを許さない。
びくり、と女王は裸体を震わせた。
つう、と見開いた双眸から涙が溢れだす。
塞がっていた目は碧い瞳を露わにし、頬は元の色と輪郭を取り戻す。
力なく横たわっていた腕が口を押える近衛兵を打ち据えた。
その回復が、無理やり飲まされたのが
「けだもの…」
扉に映る口が動く。
だが、その声はもっと違う場所、どこか遠い場所から響いているようにも、耳元でささやかれたようにも聞こえた。
「あのひとは、もうお前によって殺されたと聞いた。嘘つきめ…アスターの裁きによって地獄へ堕ちろ」
「ならばお前には、十万のクトラの民の手が伸ばされているな。
地獄へなどとは生ぬるい。今の責め苦でさえ足らぬ。生きたまま皮と肉を、骨をちぎり取ってやりたいと、思っているだろうよ」
血を吐くような怨嗟の声は、玉座を奪った男の頬を僅かに持ち上げただけに終わった。
「…ウールノーのことを思えば、たった三日で許す己の甘さに反吐が出るがな」
歪めたままの口が紡いだのは、クトラへと嫁ぎ、凌辱の末に殺された娘の名だ。
「本来ならば、馬につないで草原を引き摺り、お前の男のように生きたまま腐らせ、蛆の餌にしてやりたいところだが…王は約束を違えぬ」
「なら、どうしてあのひとを!」
「あれは勝手に死んだ。お前と同じく、期限を耐えたら許してやろうと言ったのだがな」
にぃ、と口許の歪みを深め、バトウは手を振った。
「さて、とは言え今日もまだ日は高い。まだお前は許されぬ。
しかし、いい加減雌豚の相手を我が親愛なる兵にさせるのも気が引ける」
周囲を固める兵がどっと笑う。
二本足の雄豚ではなく、四つ足の雄豚に相手を変えましょうかと誰かが言い、それにまた笑いが起こった。
酷い光景だ。
話しているのは、祖父も兵も皆、西方語だ。
交易国家の王族として、カーラン語、西方語、メルハ北部語は最低限習得するが、当然アスラン人同士で話すのならタタル語の方が楽だ。母国語なのだから当然だが。
だが、今、わざわざ、ゼラシアを辱め、傷付ける為だけに異国語で会話している。
ほんの数日前まで女王として座っていた玉座から見下され、豚と揶揄される。
それは肉体的な凌辱に等しい拷問だ。
「けだもの…!悪魔!お前らは人ではない!」
するりと、玉座の横に侍っていた一人が歩みだす。
ゼラシアはその動きを見て、口を開き、何かを言いかけた。
だが、それよりも早く。
びしゃり、と湿った音がした。
ゼラシアの視線がその音を追い、目が極限まで開かれる。
床に落ち、湿った音を立てたのは、人間の外鼻だった。
「豚らしくしてみた」
音もなく抜いた剣を鞘に戻し、凍った視線を
血が噴き出す鼻があった場所を抑え、ゼラシアは悲鳴を上げた。
剥き出しになった鼻腔から空気が漏れるせいか、酷くくぐもったそれを聞いて、まさに豚だと兵らは笑う。
無表情のまま、守護者は剣の柄の代わりに小瓶を手にし、のたうつゼラシアの顔に中身をぶちまけた。
先ほどとは違った種類の悲鳴が響く。
中級以上の回復薬には、通常鎮痛剤も含まれている。
多少の怪我ならば問題ないが、深く傷つき、組織を再生する必要がある場合、神経も同時に再生され、剥き出しの神経が常に刺激を受けることで激痛を覚えるからだ。
だが、一般用と違い、軍や冒険者が持っている治癒薬に、鎮痛成分は入っていない。
強烈な痛みも麻痺させるような鎮痛成分を含んだものを飲めば、当然意識も朦朧とする。
怪我が治っても、朦朧としているところを殺されては意味がない。
むろん、この時使われた回復薬に、そんな慈悲は入っていないだろう。
「我が王を罵るなど、豚に許された行為ではない。
そんなことは、天地全ての存在に許されてはおらぬがな」
「良い、クドス。さがれ」
主の声に、守護者は深々と
「さて、話を戻そう。さきほど、酔狂者がやってきてな。捕虜どもに治療をしたいと申すのだ」
泣き崩れた顔のまま、ゼラシアは玉座に座る男を見る。
指の隙間からは鼻の頭が見えていた。激痛と引き換えに、魔法薬はその効果を発揮したようだ。
「その酔狂さに免じてな。謁見くらいは許してやろうと思った。ついでに、お前も顔を見せてやれ」
ぎい、と音を立てて、ゼラシアの背後、絨毯の道の先にある扉が開かれる。
両脇を兵士に固められ、引き出される罪人のように連れてこられたのは、深緑の質素なローブに身を包んだ青年だった。
そんな状況だというのに、顔には穏やかな笑みを浮かべ、背を真っすぐに伸ばしている。
年のころは、ファンよりすこし年上か、同年配だろう。
「女神アスターのしもべ、ドノヴァンと申します。遠方より参られた客人に、女神の加護があらんことを」
にっこりと、無邪気とさえ言えるような顔で、若きドノヴァンは笑った。
「女神の加護を祈るなら、まずはその雌豚にくれてやれ」
だがその笑みも、無慈悲な王の視線を向けられた女王を見つけた瞬間、砕け散る。
「…ゼラシア様!」
駆け寄ろうとしたドノヴァンを、両脇の兵士が無造作に捕まえる。
両手を掴まれてなお、必死に藻掻く姿に、バトウは笑みを浮かべた。
「ほう、どうやらこの雌豚を知っているようだな。随分と必死だ。惚れてでもいたのか?」
「なっ!!!ふ、不謹慎な!聖女王は我らの、我らの偉大なる女王!女神の愛娘です!その、そのゼラシア様が泣いておられる!必死にならぬわけがないではありませんか!」
「そうか、そうか」
バトウが手を挙げる。その動きを見て、ドノヴァンをとらえていた手が離れた。
「ゼラシア様!」
転ぶように駆け寄り、ドノヴァンは女王の前に膝をついた。
その体が何も纏っていないのを見て、あわてて己のローブを掻きむしり、なんとか羽織っていたショールとも言えない布を外して、様々な体液で汚れた体へ掛ける。
「おい、ドノヴァンと言ったか」
きっと顔を上げた若き司祭に、バトウは目を細めた。
「その雌豚を姦せ」
「…!?」
「見事成し遂げたならば、お前の望みを聞き届けよう。
捕虜は全員解放してやる。どうせ碌な値もつかぬ。鉱山奴隷は今後値が上がるだろうが、先の話だ」
邪悪、という要素を笑顔に変えたらこんな顔になるだろう。
バトウはにんまりと笑って、言葉を続けた。
「その雌豚も三日耐えれば許すと約した。何ならお前の妻にすると良い。惚れているのだろう?
こやつと、こやつの愚行がこの国を滅ぼし、兵を殺し、虜囚となって売られる未来を齎したのだ。
その身をもって、僅かでも罪滅ぼしができるのだ。女王の最後の仕事としては悪くはあるまい」
ああ、これは。
ファンは顔を顰めた。
なんという、猛毒を使うんだ。
ただ、姦せと言っただけなら、拒否できただろう。
そんな酷いことは出来ませんと、首を振れただろう。
だが、この猛毒は、ひどく、甘い匂いで罪を誘う。
「さすがに女王としてあることは許さぬが、どこかの田舎で小さな神殿でも守り、司祭と女神官の夫婦として余生を過ごせよ。
己が罪を悔い、成した非道に苦しみ、それを償うべく、人のために尽力せよ。
貧しいものに食事と寝床を与え、病み傷付いたものに癒しを与え、子供らの未来に希望を、老人らの最期に安らぎを与えよ。
それがゼラシア。貴様へ与える刑だ」
邪悪な笑みから一転、厳かな王の顔になって、バトウは宣言した。
だが、その王から差し出されたのは。
甘い、甘い猛毒。
示された未来は、輝くようだ。
非道を働けと命じられたのなら、ドノヴァン司祭はきっぱりと断れただろう。
しかし、これは救済であると言われたのなら。
わずかでも己の中に沸き上がった欲望を、正当化できる理由を与えられたのなら。
逆らえば、ゼラシアや捕虜を殺すなどの脅しは使わない。
あくまで示すのは、ドノヴァン司祭が望むような結果。
いかにも、敬虔で真面目な青年が望むような明日。
彼は善人だ。
この異国の王にも、慈悲があると信じ、ここまで来たのだから。
王は、
捕虜だけではなく、ゼラシアまで助けると言ってくれた。
いかに世情に疎いドノヴァンでも、亡国の女王が殺されずに助けられるなどとは思っていないだろう。
それが思いもかけず、
とんでもない温情だ。
ならば、自分はそれに応える必要があるのではないか?
欲望は、正当化と言う薪を与えられて、ますます燃え盛る。
純朴な善人を操るなど、『
拒めば、それだけだ。
ゼラシアは今夜を越えられない。
薬による治癒をせず、途中で止めることもなく傭兵たちに与えられるだけだ。
捕虜も予定通り奴隷として売り払う。その途中に負傷による死を迎えれば、捨てていくだけだ。
言う事を聞いてゼラシアを姦せば、言葉通り彼女はドノヴァンへと与えられる。
捕虜も助かる。多くの命が、彼が罪を犯すだけで救われる。
そう思わせる。そうとしか、考えられなくする毒。
だが、その先にあるのは、一見救済に見える、永遠の責め苦だ。
彼女が己の罪を悔いるような人間になれれば、その罪の重さは心を圧し潰す。
毎日が穏やかであればあるほど、一国を滅ぼしたという罪の意識は、より重くなる。
それに耐えられるような人間は、そうはいない。
遠からず、発狂するか己で命を絶つだろう。
まったく変わらずに無知なまま、傲慢なままであれば、住んでいる村を通りかかった親切な商人や旅人が警告を住人たちへ伝える。
あれは、元聖女王だ。匿っていると、どんな災いを呼ぶかわからないよ、と。
後は村人たちへ任せれば、勝手に魔女狩りを始める。最初にその情報を囁いた商人が、どこの誰だかなど気にもしない。
アスラン王は、許すとは言った。
だが、助けるだとか、そんなことは言っていない。
むしろ、心の底からこう思っている。
なるべく、苦しんで死ね、と。
「この、哀れな女を救ってやれ。司祭殿」
だが、そんな内心は欠片も出さず、少し愁いを帯びた満月色の双眸で、ひたりと若き司祭を見つめる。
ドノヴァンが何もしなくても、一言彼が「よい」と言えば、ゼラシアも捕虜も助かる。
そんなことは既に術中に堕ちた司祭にはわからない。
そう、アスラン王も困っていらっしゃる。
本当は、ゼラシア様を助けてやりたいんだ。彼も。
けれど、今のままではそれができない。滅ぼした国の女王を無条件に助けるなどできないのだから。
だから、だから。
彼は、言っているのだ。私に。「救ってやれ」と。
ゼラシアは怯えを露わにした眼差しを、王都陥落以来初めて現れた味方へ向けた。
若い司祭は、動きを止めてゼラシアを見つめる。
二人の視線が合った瞬間、ゼラシアの双眸から怯えが消えた。
「…けだもの…」
代わりに宿るのは、絶望。
「違う、違う、違う違う違う違うちがうううううっ!」
ドノヴァン大司祭の絶叫が、見えない槌となって扉を打ち据えたかのように、映像は揺らいで消えた。
再び手を差し伸べる女性の絵が、扉に出現する。
だが、その顔は先ほどとは違っていた。
明らかに、ゼラシアに似せている。
≪違わない、違わない≫
毒々しく赤い唇を歪め、女性像は嘲笑う。
≪見よ、己の行いを≫
波紋が広がり、女性像は消え、そして。
舌を突き出したゼラシアの顔に変わった。
それを為すのは、憤怒の表情を浮かべた、ドノヴァン司祭。
その両手は、ゼラシアの手ではなく、首を握っていた。
握りつぶし、引きちぎらんとするかのような力を込めて。
「あ、あああああああああああああ!!!」
大司祭は顔を、目を手で覆い隠し、その視線から逃れようとするかのように悶える。
≪恥じるな、恥じるな≫
≪あの女は愚かだった≫
≪愚かにも、お前を拒んだ≫
≪貧しい身なりの、貧相な男だったから≫
≪顔も悪い、見てくれの悪い男だったから≫
けたけたと扉の女は嗤う。
反吐が胃の腑から上がってくるような、胸糞悪い声だ。
≪けれど、30年の時を経て、私は貴方を受け入れた≫
声が、変わる。
少し恥じらうような、幸せそうな声に。
≪あの時は、ごめんなさい。貴方。私は、貴方を≫
にんまりと、口の端を釣り上げ、扉の女は唇を動かす。
≪愛しています≫
「性悪女が童貞釣るときの声だな。ファン、ああいう声出す女に会ったら全力で逃げろよ」
「今、その感想はどうかと思う」
四人の視線の先で、大司祭は動きを止めている。
顔を覆う手はそのままに、ただ、口は絶叫の形から、大きく笑み形へと変えていた。
「…さっきの映像、ドノヴァン大司祭の記憶じゃないな」
「それ、ほんっとーに、今必要!?」
「たぶん。己で己を見ることは出来ない。それなら、誰の記憶だ」
記憶をもとに、この壁や映像が再現されているのなら。
ファンたちではない。生まれる前の記憶を持ち合わせているわけがない。
「なら、これは…誰が見ている記憶だ?」
この場にいない人間の記憶を再現できるのだろうか。
いや、それよりも。
「百と八つの邪眼が観たもの…」
「なんだ急に」
「…考えてはいた。クトラの悲劇に使われた毒は、恐らく鼠の花嫁と言われる茸の毒だ」
毒は致死量を超えなければ死ぬことはほぼなく、ほんの僅かな量で人を死に至らしめるほど強力な毒は少ない。
あっても、大量の小麦粉に混ぜれば効果はずっと薄れる。
一つの街の住人にいきわたるほどの小麦粉と混ぜて、なおも効果を発揮する毒などと言うのは限られる。
だからこそ、どんな毒が使われたのか推測ができた。
「この茸は、鼠や栗鼠などの動物の死体に生える。もし、近くにそう言った死体がない場合、穀物などに菌糸を伸ばす。苗床になる小動物の死体を作るために」
「その蘊蓄、今言わなきゃならんのか?」
「当然だ」
本当は、言わなくてもいいかなとは思うけれども。
「この茸の生息地は、メルハ亜大陸南西、オード諸島の小さな島だ。近隣諸島の住人は、島に上陸したら着ていたもの、履いていたものは全て火にくべ、一度頭の先まで海に浸かってから船に戻る。万が一、菌糸をつけて戻れば、農作物が猛毒に変わるからだ。
その猛毒の茸を一本でも小麦粉の袋に入れれば、菌糸は袋中に伸びて毒へと変える。アーナプルナの乾燥した低温の中じゃ、袋の外では菌糸を伸ばすこともできず死に絶えるだろうけど」
この毒の存在を知っているものはそう多くはない。
その島にしか生えない希少種で、買おうと思えばとんでもなく高価だ。
もっと簡単に手に入っておあつらえ向きの毒はたくさんある。
国を攻める手段として有効なことは最悪な形で証明された。
だが、民を毒殺して制圧しても、手に入るのは死体が折り重なる土地だけだ。
さらに、農作物は菌糸により汚染されている。
近隣諸国から危険視されて、同盟を組まれて攻められる可能性も考慮すれば、使おうと思う方がおかしい。
「乾燥した茸はそれ自体猛毒だけれど、菌糸は伸ばさない。つまり、生きている茸が使われたわけだ。
辺鄙な島にしか生えず、採取すればその日のうちに枯れるような茸をな。
そんなものを、何故アステリア聖女国が所持していた?」
作戦立案は、当時の聖騎士団長だったという事が判明している。
だが、一介の聖騎士団長程度の人間が、簡単に入手できるできるものではない。
杜撰な作戦に似つかわしくない、希少な毒。
偶然と片付けるには、余りにも不自然だ。
不自然な出来事には、理由がある。
見えざる手を振るったのは、誰か。
いや、『何か』。
「茸の生息地から、アステリアまでは例え飛竜でも三日以上かかる。それも大量の袋すべてに入れられるほどの量なんて、生息地でも手に入るかわからない」
「つまり、そのころからなんかしら余計な手出しされてるってわけか」
「ああ。とは言え、奴は囁いただけだろうな。こんな方法があると」
手段も与えただろう。だが。
「人格を変えたり、操ったりはしていない。
愚行を冒し、惨劇を起こしたのは人間だ。その手口は、いい加減身に染みた」
「…そうだな」
魔が差す、と言う。
ほんのわずかな心の隙間に、すいっと差し込まれる囁き。
誰だって、馬鹿らしい欲望や野望のひとかけら、心の奥に刺さっている。
それは、子供が木の棒を振り回して、聖剣を手に魔王へ挑む勇者になったと夢想するようなものだ。責められるようなものではない。
だが、それを叶える方法を、目の前にそっと差し出されたら。
クトラ侵攻の指揮を執った聖騎士団長は、名声を欲していた。
鬼謀をもって戦を勝利に導き、歴史に名を残したいと願っていた。
彼は、それを叶えた。
その名は、戒めと共に歴史に刻まれた。
長い時を超えて語り継がれていくだろう。
卑劣な策を弄し、一国を滅亡に追いやった極悪人として。
魔が囁くまま、肥大した欲望を制すことができなかった愚者として。
そんなことはできないと、毒を使って国を攻めるなんてできないと策を捨てていれば、今はまったく違う歴史が紡がれていたはずだ。
彼だけではない。
聖女王ゼラシアをはじめ、当時宮廷を牛耳っていた貴族の誰かが、そんな非道を行うなど正気ではないと止めていれば。
囁く声に首を振り、甘い誘いを払いのけていれば。
魔の付け入る隙は無かっただろう。
クトラは今もアーナプルナの風に王旗を翻し、アステリア聖女王国は怠惰な平和を享受し、聖女神殿は瓦礫にならず、今もここで信徒を受け入れていた。
数え上げれば、喪われたものはあまりにも多く。
だが、それは魔族が破壊したのではない。踏みにじったのではない。
為したのは、すべて人間だ。
「親父に聞いた話や、過去の記録を読むと、祖父ちゃんは本気でアステリア聖女王国を完全に滅ぼすつもりだった。そうなっていたら、西方諸国との全面戦争に発展していた可能性は高い。今でも戦時中だったろうな」
けどさ、とファンは内心に呟いた。
それを止めたのも、また人間だ。
クロムの母が己の命よりも友人を助けたことで、いち早く情報が伝わり、魔獣の乱入の前にクトラの民の避難が始められた。
アステリア前聖王ダレンが、己が命を懸けて捨て身の懇願をしたことで、アスラン王はアステリアと言う国自体は許した。
人は弱い。けれど、強い。
どんなときにも、絶望を拒む人はいる。
二人とも、恐怖を感じなかったはずはない。
けれどそれを乗り越えて、崩れかけた明日を守った。
その明日が続く今日を、諦めるなんて、できない。
「あの記憶が、ドノヴァン大司祭のものでないなら、じゃあ、誰のかって言ったらさ。
見ているのは、決まっている。
月の裏側から覗くもの。世界を憎む、大いなる神」
ドノヴァン大司祭の手が、ゆっくりと顔から外れていく。
痩せて枯れ枝のようだった腕は、いつの間にか盛り上がる筋肉ではちきれんばかりだ。
綺麗に短く削られていた爪は、猛獣のようにとがり、突き出ている。
いや、それは既に爪ではない。
皮膚が、肉が、外殻のような質感に変わり、虫の肢じみたものへと変わっていた。
「アスラン…王…」
牙が生えた口が濁った声を漏らし、赤黒く長い舌が唾液を滴らせる。
「あなたが、あなたが、あなたがあんなことを言わなければ」
純朴で善良な司祭の心を弄ばなければ。
「私は、私は、罪を犯さなかった」
指の隙間から覗くのは、紫水晶の色をした瞳ではない。
「だが、感謝もしているのですよ」
濁った金色の目。
御伽噺に出てくる、見たものを狂わせる呪われた黄金とは、きっとこんな色をしている。
「ゼラシア様とひとつになれたのだから」
その瞳は、たった一つ。
ファンが射貫いた眉間を盾に割り、本来の双眸を顔の端に押しのけて、開いている。
「ああ、これが、女神の恩寵…なんという、なんという心地よさ…」
すくりと大司祭は立った。
クバンダ・チャタカラの女王の死骸が、動く。
いや、それはもう死骸ではない。
クバンダ・チャタカラの女王ですらない。
「ゼラシア様…」
うっとりと呟き、大司祭は己の腹部を撫でた。
節くれた肢の生えた、クバンダ・チャタカラの胸部と融合した部分を。
それはもう、ドノヴァン司祭でもクバンダ・チャタカラの女王でもなく、そして、そのどちらでもあるものだった。
女王の頭部はない。その部分には、ドノヴァン大司祭の上半身が生えている。
ドノヴァン大司祭の足はない。地面を踏みしめているのは、クバンダ・チャタカラの蜂に似た肢だ。
外殻は黒と青の斑紋に覆われ、僅かなりとも人間の皮膚の名残りを残している部分はない。
「ああ、素晴らしい…素晴らしい・…これは愛です!女神と、ゼラシア様と、私の愛です!」
恍惚とした表情で叫ぶ大司祭だったものを、扉の女は声を上げて
女神の愛などのはずがない。
信徒が魔に染まり、異形と化すことなど、女神アスターが望むはずはない。
ただ一人、大司祭であり、誰よりも敬虔な信徒である彼だけが、それを理解していない。
「これはまあ、身内の不始末にあたるかな。祖父ちゃんめ…」
魔族顔負けの囁きを為した祖父には、会ったらうんと文句を言ってやろう。
だが、それは今はいい。
「いつから、奴が大司祭に憑りついていたのかはわからない。けど、大司祭は少なくとも半年近く、その浸食に耐え続けた」
もしくは、その魂奥深くまで隠れて覗き見ていたのか。
「今、その境界を越えたとはいえ、あの人は魔族じゃない」
「ふむ。見た目は完全に人間を辞めているが」
「魔族、もう少ししたらなっちゃうの…?」
馴染むまで時間かかるって言ってたよね、と蒼白な顔で呟くヤクモに、ファンは首を振ってみせた。
「いや、既に憑りつかれているなら、他の魔族が降臨した筈はない。言うなら、群のボスの獲物を横取りするような行いだからな」
魔族は、封じられた始原の創造神の眷属が、人間を器として顕現する。
だが、あれは、そうではないとファンは言い切った。
「黄昏の君、百と八つの目をもってこちらを伺うもの。その目のひとつにすぎない」
「魔族とどう違うのだ?」
「狼とその体についた蚤くらい違う」
「ほう」
にやりとユーシンは笑った。
「ならば、殺せば死ぬか?」
「もちろん」
完全な魔力の塊なら、打つ手はなかったかもしれない。
けれど、あれはドノヴァン大司祭とクバンダ・チャタカラの女王、二つの死体を使って作られた、即席の
アンダ博士も、まさか実験体がすでに魔の欠片を宿していたなどとは思わなかったのだろう。
なら、殺せば死ぬ。
滅ぼせる。
「それ、絶対?」
「絶対に、絶対だ。仮説じゃない。確信だ。実証できるからな」
濁った金の目が、ファンを捉える。
その、顔を上げ、胸を張り、真っすぐに見つめる姿を。
夜空を照らす、満月の色をした双眸を。
「黄昏の君の器は、決まっている。その器以外に、本体が降臨することはない」
扉の女の哄笑が止んだ。じっとファンを伺っている。
「見ているんだろう。黄昏の君よ」
ファンの右手が持ち上がる。
その手を、クロムが取った。
手首にある釦と中指付け根の留め具を外すと、
「俺は、ファン・ナランハル・アスラン」
掲げられた右手から、光が零れた。
まだ夕闇の降りていない中でもはっきりと輝く、暖かい光。
「第六代目の、灯の刻印保持者」
光を零すのは、ファンの掌に刻まれた紋様。
蝋燭の
「そして代々の保持者と同じく、お前の器になりえるものだ」
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