第31話 聖女神殿

 なんとなく、苦い薬の方が良く効く気がする。

 魔法薬と言うのは、その「気がする」を高めて、人間だれしも微量は持っている魔力に作用し、回復を極端に早めたり、疲労を取ったりする…と言うわけではないんだけれど。


 今、俺の顔は多分、これ以上ないくらい中央に寄っている。

 口にした瞬間、強壮薬スタミナポーションが齎した味の洪水のせいだ。


 にがい、えぐい、あとなんだかあまったるくてすっぱい…しょうしょう、なまぐさい…


 普段飲むナナイ製の魔法薬は、ほとんど無味だから油断した。


 竜騎士用の強壮薬は、上空の行軍中に飲むことが多い。

 飲む時と言うのは意識が朦朧とし始めた時だから、気付けの意味も兼ねてすんごい味をつけているのを忘れてたぜ…


 「おい、まともな強壮薬はないのか」

 「私たち所持ある、全て」

 リディアの返答に、クロムは夕飯が全て野菜料理だった時みたいな顔をした。


 視線を下に落とせば貰った他の薬と自分の手持ちの薬の瓶が並んでいる。


 高位回復薬エクスポーションは、この先に取っておいた方が良いな。

 中位回復薬ハイポーションを飲んでおこう。

 こちらは無味だ。

 まあ、怪我している時にあんな味の付いたもの飲んだら、とどめになる気がするし。


 喉に流し込んで一瓶飲み終わると、右目の奥がカっと燃えるように痛みだす。

 けれど、その痛みより口と咽喉と胃に残る味の方がきつい。


 「ファン、だいじょーぶ?お水飲む?」

 「…うん」


 一気に水を煽ると、多少薄まる。

 けど、さっきまで汚染されていなかった辺りまで薄まった味が広がった。

 無臭のはずなのに、とんでもない臭いを嗅いだ後のような余韻が鼻と喉の奥にこびりつく。


 同時に、自分がひどく乾いていたことを実感した。


 「皆も水分補給を。強壮薬の摂取は、自己判断で…」

 さすがにこれを飲めと強要はできないなあ。


 けれど、クロムとユーシンは蓋を開け、緑色の小瓶を一気に呷った。

 同時に二人とも、俺と同じ顔になる。


 「…お前は、なんにもしてねぇし、水だけ飲んでろ。もったいない」

 「う、うん…そうするね」


 吐く一瞬前の顔をしつつ、クロムはヤクモの手から小瓶をもぎ取った。

 そうだな。ヤクモまでこれを飲まなくてもいいな…。無理は良くない…うん。


 「若、食事は?」

 「ああ。食べていくよ」


 体力は味覚を犠牲にして回復できたと言っても、やっぱり食事はとるべきだ。


 背嚢の底から、だいぶんひしゃげている包みを取り出す。

 クロム達も…顔は顰めたままだけど…同じように自分の背嚢に手を突っ込んだ。


 包んでいる手巾をほどいていけば、中から出てくるのはハムとチーズを挟んだパン。

 村長さんの奥さんから、今日の昼食にと貰ったものだ。


 『ナランハル、お茶が入りました』


 竜騎士の一人が、軍人らしいきびきびとした動作でお盆を差し出してくる。

 その上には、湯気を立てるカップが四つ。


 『ありがとう』


 手に取ると、あったかいけどものすごく熱いって程ではない。

 飲みやすい温度に調節してくれたみたいだ。


 『ありがたく!イダムよ、ターラよ、照覧在れ!』

 ユーシンもカップを手に取り、すぐに口に運ぶ。

 水じゃ誤魔化しきれなかったんだなあ。


 一口すすって、不思議そうな表情を浮かべる。

 「どした?」

 「スーティなのに、甘い…ウルムも入っているのか!」

 「ウルムって?」

 「牛乳を沸騰させると膜ができるだろ?あれを集めて一晩おいておいたものだよ。こうしてお茶に入れたり、パンやなんかに塗って食べたり、子供のおやつとして砂糖を入れてそのまま食べたりもする」


 ユーシンに続いて本来なら塩味のはずのスーティをすすると、確かに塩味もするけれど甘みが広がる。

 塩気も甘味もガツンと来るような強さではなく、お茶の味に程よく混ざっている程度だ。


 『うん。うまいな』

 お茶をくれた竜騎士はにっこりと笑って一礼し、下がった。


 平和を取り戻した口の中に、もらったパンを入れる。

 噛み締めれば、ちょうど好いハムのしょっぱさが、小麦の甘さによくあう。


 一口齧れば空腹だったことを思い知らされて、瞬く間に一個目はなくなった。

 クロム達はもうすでに、二個目を半分くらいにしている。

 一人三個貰っているから、最後の一個くらいは味わって食えよ。


 「さて、と。リディア。…アンダ博士らは?」


 無言で食べることに集中し、カップに半分ほどになっていたスーティも飲み干してから、リディアに問いかけた。

 栄養補給と休憩で、頭もすっきりしている。それなら、やるべきことをやるべきだろう。


 「網に突入、五人です。しかし、生存は三人です」

 「アンダ博士は?」


 「死亡です」


 鉄鎖網はそれ自体がかなり重い。

 鎖と聞いて想像するものより、ほんの少しだけ細い鎖で出来ているのだから当然なんだけど。


 それがはるか頭上から投げ落とされるのだから、当たりどころが悪ければ死ぬ。


 重りの部分が当たれば頭蓋骨は砕けるし、網の部分でも首の骨が折れる。

 生け捕りにしようとするときに使うようなものではない。


 ということは、最初から殲滅の指示が出ていたのか。


 俺の内心が予想できたのか、リディアはこっくりと頷いた。

 「はい。見敵殲滅、との命令です」

 「…そうか」


 魔族の召喚を阻止する。それが、第一優先だ。

 大神殿との繋がりや、顧客の名前なんぞは既に売人から得ているのかもしれない。


 アンダ博士の事情や、術式の確認等は不要と言う判断なんだろう。


 ほんの一声、一動作で術式が起動し、魔族召喚が始まってしまう可能性もあるのだから、その隙を与えないのは正しいと言える。

 だから、博士の口からこの先に施した術式を確認するより、確実に無力化する…殺す方が優先なのは間違いない。


 けれど、思い出してみた博士の記録が、チクリと警告を発する。


 「…リディア、投槍を一本、貸してもらえるか?」


 「はい。異論は存在しません」

 少々首を傾げながらも、リディアはナルシルの腹帯から投槍を外してくれた。


 左右三本ずつ、合計六本備えられた投槍は、ユーシンが持つ長槍の半分程度の長さだ。装飾や鍔もない。

 穂先を下に向けて落ちるのが大前提の構造だから、柄に対して刃の部分が大きく、重い。


 これを普通の投槍として投擲してとしても、俺の腕前ならまずまともに飛ばない。的に当たる前に落ちる気がする。


 けど、今から俺がやろうとしていることなら、十分だ。


 アンダ博士とその弟子たちは、まだ鉄鎖網の下にいた。

 おそらく、落下の衝撃で生存者もどこかしらに負傷しているのだろう。

 苦しげな呻き声だけが生きていることを証明している。


 鉄鎖網の縁は、人間が這い出すには厳しい間隔で楔が打ち込まれ脱出を阻んでいる。そうでなくても、重いこの網を持ち上げて逃げるのは、負傷者には難しい。


 それでも隙間に必死に手を差し込み、なんとか脱出をしようとする弟子と目が合った。


 若い。


 まだ十代か、いっていても二十歳そこそこだ。

 そばかすが散る顔は、あどけなさすら残っている。


 その幼い顔を歪め、血走った目を見開いて、若い弟子はなんとか生を掴もうと藻掻いていた。


 隙間に差し込む手は左腕で、右腕は地面に力なく横たわっている。

 腹這いの姿勢は鉄鎖網に強要されたものであり、彼の足が上半身に比べて全く動いていないせいでもある。

 背骨か、腰椎か。もしくは両方か。

 上空から襲い掛かった重量は、彼の下半身を動かす機能を奪っていた。


 「若。処刑は私たちの任務。譲渡できません」

 「…いや、生存者じゃないよ」


 「そうか」

 ぱしりと、クロムが俺の手から投槍を奪う。


 「俺はお前の剣でもある。お前は命じるだけで良い」

 「クロム…」

 「命じろ」


 鋼の青を宿した双眸が、俺をじっと見つめる。


 額の刻印と裂傷は既に跡形もない。刻印が消えるとき、一応傷を治してくれる。

 ただ、首や袖口に残る赤が、クロムがどれほどの代償を払ったかを物語っていた。


 問われているのは、俺の覚悟だ。


 自分で手を下すのは、一介の冒険者でもできること。

 けれど、今、クロムが求めているのは主の命令。


 うん。そうだな。

 元々、アンダ博士関連は俺に一任された件だ。俺がそう申し出て、陛下ハーンに許された権利だ。


 権利を得たからには、義務を全うしなくてはならない。

 過去におざなりにした責任を取らなくてはならない。


 ナランハル・アスランとして。


 「クロム」


 俺の声に、クロムはもぎ取った投槍を左手に持ち替え、右の拳を胸に当てた。


 『アンダ・グロサスの首を落とす』

 『御意』


 返答と同時に当てていた拳で左胸を軽く叩く。

 その命令を、この心臓に誓って遂行するという意志を表す動作だ。


 俺から視線を外し、クロムは鉄鎖網へと歩み寄る。

 藻掻いていた若い弟子が、クロムの歩みに気付いて顔をさらに歪ませた。


 『…どうか…』

 震え、消え入りそうな声。

 『どうか、どうかご慈悲を…ナランハル…!』


 『勘違いするな』

 答えるクロムの声は、鍛え上げられた鋼の剣が水滴を弾くように、嘆願を拒んだ。


 『お前をどうするか、俺は何の命令も受けていない。

 だが、慈悲はある。感謝しろ』


 『え…』


 『本来ならお前らは全員馬裂きだ。ナランハルを害そうとしたのだから。

 だが、お前らは存在ごと消えなければならない。なら、斬首なりで終る。

 一瞬だ。慈悲に感謝しろ』


 一瞬点りかけた希望の灯を無残に踏み消され、若い弟子は唇の端が裂けるのではないかと思えるくらい、口を大きく開く。


 『い、やだあああああああああ!!しぬ、しに、死にたくない!たすけて、たすてください!ねえ、助けて!』


 絶叫と共に、なんとか鉄鎖網から出すことに成功した手が、蜘蛛のようにクロムの足へ延ばされる。

 指先が僅かに、鉄で補強された爪先に触れた。


 『さっきも似たような事を言ったがな』

 その手を、無造作にクロムは足を蹴り上げて外した。


 『お前らが虫の餌にした連中、何人がそう言って助けを求めた?そしてお前は一人でも、助けてやったのか?』


 『仕方なかった!仕方なかったんだ!可哀相だと思ったけど、逆らえなかったんだ!』

 『ほう、そうか。ならおれもお前が可哀相だと思ってやるよ。仕方ないよな』

 『ああ、そう!そうなんです!本当に悪いと、そう思ってたんだ!けど、けど…!』


 『一太子オドンナルガは全員殺せと命を下している。俺も、一太子に逆らえるわけないだろう。

 ああ、哀れな奴だ。あともう少し位は覚えておいてやろう』


 それきり、クロムはもう弟子に視線も向けなかった。


 彼の絶叫が言葉ではなくなり、竜騎士の一人が槌をもって彼の横に立ち、それを振り下ろして絶叫を止めても、一顧だにしなかった。


 クロムがふと足を止める。

 視線の先にあるのは、アンダ博士だろう。


 『若、死体の首を?』

 『思い出したことがあるんだ。クロム、気を付けてくれ』


 僅かにクロムは頷き、そして無造作に、槍を投擲した。


 「ぎゃあ!」

 肉を、骨を貫く音と共に、悲鳴が弾ける。


 『え!?』

 リディアが咄嗟に俺の前に出て身構えた。


 死体が、前に声を出すことはある。

 死後硬直で肺に残っていた空気が吐き出され、それが声帯を震わせるという事は。


 だが、今の声はそんな微かなものではなかった。


 「な、ぜだ、何故、おろか…も…」

 まして、言葉にするなんてできないだろう。


 「なるほど。死んだふりか」


 西方語に戻したのは、多分どんびいているヤクモにも事情を分からせるためかな。

 なら、俺もそれに習おう。


「大学の治安部隊がそれに騙されて逃しているのを思い出したんだ」


 鉄鎖網を、その下に重なる弟子らを踏みつけ、クロムは突き立っている投槍へと足を進める。

 あがる怨嗟の声も懇願も、クロムの動きをいささかも鈍らせることはなかった。


 大学で博士を取り逃がした部隊長は「確かに瞳孔も開き呼吸も止まっていた」と、焦りながら説明していた。


 死因は、自ら咽喉に突き立てたと思われる短剣での一撃。


 他の弟子らの死体と共に部屋の隅に置かれていた博士は、回収しようとしたときにはすでに消え失せていた。

 薬物か魔導により仮死状態になって目を欺いた可能性が高いと報告されている。

 咽喉の短剣はもちろんフェイクだ。


 博士は、自分の研究がどういう類のものか自覚はしていた。

 認められない事に周囲を罵ってはいたが、咎められることも重々承知だったはずだ。

 いざと言う時の備えは常に仕込んでいたんだろう。


 「二度目が通じると思ったのが素人だな」


 クロムの意見は正しい。

 それが通用するのは、一度だけ。

 誰もそうやって彼が逃げたことを知らない時だけだ。


 伸ばされた手が槍の柄を掴み、ぐい、と無造作に押し込み、手前に引く。


 吹きあがった血が、彼が寸前まで生きていたこと、そして今、確実に死んだことを教えていた。


 返り血を避けつつ、クロムは踵を返す。

 俺の前まで戻ってくると、滑らかに片膝をついた。


 『ご命令、確かに』

 『ああ。良くやってくれた』

 頷けば、より一層クロムの頭が下がる。


 ひとつ、終わった。

 ファン・ナランハル・アスランとしての責務を、ひとつ、果たした。

 だから、これから先は。

 

 「さて、クロム。体力はどうだ?」

 「ムカつくことに回復しているな。あの味を考えたやつは百回くらい死ねばいい」


 立ち上がる動作に疲労は見られない。俺の方も、痛みは完全に消えていた。

 足に鉛を巻かれていたような倦怠感もない。


 「よし、いけるな」

 右目を覆う布を外すと、視界はいつもと変わりなかった。

 霞みもぼやけもないし、色も左右で違って見えない。


 「これ、洗って返すな。ナナイに頼んで薬草の煮汁にもつけてもらうよ」

 「痛みは?」

 「ないよ。充血はしてるか?」

 「…とりあえず、大丈夫そうだな」


 いろいろな角度から俺の右目を確認しつつ、クロムはしかめっ面で頷いた。


 「だが、もう使うなよ」

 「善処はする」


 とは言え、見ようとすれば勝手に発動しちゃうからなあ。

 なるべく左目で見るようにしよう。


 振り返ると、まだ食い足りなさそうなユーシンと、随分顔色の良くなったヤクモがこちらを見ていた。


 目が合うと駆け寄ってくる。

 二人とも、体力は回復したみたいだ。

 ヤクモはどちらかと言えば精神的なショックの方が大きいだろうけれど、乗り越えられた…と見て良いかな。


 「さて、じゃあもうひと踏ん張り先へ進もう」


 目指すは、聖女神殿跡地。

 待っているのは…ドノヴァン大司祭。


 「アンダ博士が魔族の体組織をどうやって入手しようとしていたのかは不明だ。

 弟子らを尋問して吐かせる時間もない。聞いても、俺らに理解できるかはわからないしさ」


 基本的な術式ならともかく、複合した術式になればお手上げだし、本人だけが効果があると思い込んでいるならなおさらだ。

 聞いて混乱するくらいなら、何かしら罠があるかもしれないと警戒して進む方が良いだろう。


 一番いいのは彼がまとめた論文なりを見つけることだけれど、それこそ時間がない。見つけたとしても、解析している暇もない。


 発表前の下書きは、意図しない暗号になってたりするからなあ。

 俺も、調査に同行した地域の鳥の生息域について纏めたはずの文章が、美味しいふりかけの作り方としか読めないのになってたことがあるし。


 「こっから先は冒険者の仕事だ。村を守ってほしいと依頼されたんだから、ちゃんと果たさないとな」

 「うむ。俺も恐れを知れぬものナラシンハではなく、冒険者だと先ほどあの男に名乗ったことだしな!」


 にぱっと笑いながらユーシンが頷く。


 「ならしんは?って、ファンのナランハルみたいなの?キリクの王子はそう呼ばれる的な?」

 「違うぞ?」


 首を傾げて問うヤクモに、ユーシンは同じように首を傾げて答えた。

 なんで自分の事なのに微妙に疑問形なんだ。


 「俺の戦いぶりを見て、そう呼ばれるようになった!」


 「ナラシンハってのは、太陽が眠る大樹を守る雄獅子のことだよ。

 神々は彼に様々なものを教えたけれど、ただ一つ、『恐れ』だけは教えなかった。

 それにちなんで、怖いもの知らずとか無茶するひとをナラシンハって呼んだりするんだ」


 「恐れを知れぬ故、ナラシンハは太陽スーリヤの衣を恐れず触れてしまい、燃えてしまうという話だ!」


 「え、それってつまり、おばかさんって言われちゃってるの?悪口じゃん…」

 ひどいよ、とヤクモは口を尖らせる。


 悪口と言うか、畏怖をもって呼ばれる名と言うか。

 わかりやすくこちら風に訳せば、「マジヤバい奴」ってところか。

 あー…悪口だな。


 「まあ、馬鹿って言われるのは仕方ないんじゃないか?実際馬鹿だし」

 「お前とのはなし合いが終わっていなかったことを思い出しだぞ、クロム!」

 「だーかーらー、無駄に体力を使うな!」

 無駄口を叩ける余力が出てきたのはいいことだけれど。


 「ったく。ああ、リディア。この付近で井戸とかは見つかってるかな?水路でもいい」

 「水、余剰あります。さらに登る通路の右、水場も発見あります」

 「そか、じゃあ、そっちに行こう」


 さすがに、頭が飛竜の口臭い。


 移動する俺たちを、竜騎士たちが取り囲んで護衛する。

 飛竜たちは休んでいたけれど、ナルシルだけはよちよちと付いてきていた。

 頼むからもう、頭パクリはやめてな?


 「その地点です」

 リディアの指さす先に、ここに登ってきた道よりも階段が残っている坂があった。


 その出発点右側に、確かに水場がある。


 近寄ってみると自然な水場ではなく、タイルで覆われた水槽だった。

 往時には、ここで手や顔を清めて聖女神殿へ向かうのが作法だったのも知れない。


 今も、水だけは清らかに、満々と湛えられている。


 水槽へ続く水路はさらに上へと道に沿って伸びていた。

 溢れる水はおそらく登ってきた登山道横の水路に流れ込むんだろう。

 見たところそれらしい機構はないから、地下水路が作られているのかもしれない。


 手袋を取って両手をつけてみると、思ったより冷たくはない。

 髪をほどき、飾り紐を外して、頭を水槽に突っ込む。

 そのままわしゃわしゃと、息が続くまで髪を洗った。


 「ぷあ」

 顔を上げると、手拭いが頭にかぶせられた。


 「ありがとさん」

 「ああ」


 洗って返すなーとクロムの手拭いで有難く髪と顔を拭き、ついでに一房髪を摘まんで嗅いでみる。


 うん、とりあえず臭いは取れたかな。


 編み込みを作らず髪を結い、飾り紐は上着のポケットにしまう。

 少々首元や胸元が濡れたけれど、浸透はしないだろう。


 手拭いを水槽につけて洗い、ギュッと絞って背嚢に縛り付ける。


 「ナランハルじゃなく、冒険者の頭目パーティリーダーとして上に行くんだったな」

 「ああ。この先はナランハルの責務じゃない。俺の意思で引き受けた仕事だ」


 「なら、こっち側だ」

 クロムが差し出した首巻は、もとの地味な茶色を表側にしている。

 「うん。こっち側だな」


 その、地味で特徴もないありふれた色は、実に俺らしい。

 不思議とこちら側にしていると、重さも軽くなった気もする。

 これが終わったら、また纏っとかないとなあ。


 「上空から見て、跡地はどんな感じだった?」

 「建物、存在します。その先、瓦礫が点在する広場です。

 おそらく、そこが聖女神殿の過去かと」


 その無事な建物と言うのが、クバンダ・チャタカラの飼育場だったんだろうか。


 「その小規模建物、祈祷所のようでした」

 小規模なのか。それなら違うなあ。


 「そこに派遣された神官たちが住んでたのかな」

 村長さんに雇われて山賊がいるか探索に行った冒険者が、どこまで登ったかはわからない。

 やっぱりいつ雇ったのか、はっきり聞いとくべきだったなあ。最近じゃないのは確かだ。


 クバンダ・チャタカラの飼育が始まったのは何時頃からか。

 今が秋の初めで、ドノヴァン大司祭が通い出したのは半年前。

 気温を考えれば、春の終わりより前にはならない。と、すると、三ヶ月くらい前として。


 その前から、商売自体はしていたんだろう。人間自体を、商品にする商売を。


 いつから、ドノヴァン大司祭は夢魔に憑りつかれたんだろうか。

 彼が進んで麻薬に手を出すとは思えない。

 けれど、騙したり無理やり麻薬を注入しても、正気に戻ればその行為を咎めるだろう。


 阿片や何かと違い、クバンダの蜜はただただ性的興奮と快感を高めるだけのものだ。

 使ったからと言って女神さまが語りかけてくれたりはしない。

 ありがたい秘薬だなんだとの誤魔化しは効きにくい。


 逆に、その興奮状態で女性と行為をしてしまい、それが女性側の許可を得ない行為だった場合、脅しにはなる。

 大司祭が女性を犯した、それも怪しげな薬を服用して、なんてのは絶対に明るみに出れば困るだろう。普通なら。


 けど、あの人なら自分がどうなっても公に謝罪して懺悔しそうなんだよなあ。


 何故、彼がクバンダの蜜に耽溺したのか。

 それは、とても重要なことのような気がするんだけれど…今の段階じゃ知りようがない。


 本人に聞いて確かめるか。

 答えてくれるかどうかはわからないけれど。


 「報告再度あります。爆発が確認されています」


 「爆発?」

 「はい。この広場で発生の爆発より小さじでしたが、ほぼ同時です。その爆発により、建物が瓦礫に変更ありました」


 …証拠を、消し去ったか。


 まあ、考えてみれば当然か。

 クバンダ・チャタカラの飼育場なんていう証拠の塊を残しておくようなら、さっきの宿屋だってそのままにしているだろう。


 「おそらく、クバンダ・チャタカラの生き残った個体はもういないと思う。

 けど、警戒はしていこう。他に火薬が仕掛けられているかもしれないし」

 「火の臭いは覚えた。少しでも臭うなら警告しよう」

 「頼む」


 目立つところに仕掛けてあるとは思えない。

 それなら、ユーシンの嗅覚は大いに頼りになる。


 一雨来てくれれば、火薬は無効化できるけれど。

 見上げる空は一面の雲ばかりで青空は見えないが、雨の気配もない。


 「行こう」

 「ああ。さっさと終わらせて帰ろうぜ」

 クロムの返答に、ユーシンとヤクモも頷く。


 そうだな。帰ろう。皆待っているんだし。


 全部終わらせて。

 胸を張って、「依頼成功!」と報告しに帰ろう。


 「じゃあ、リディア。後は頼む」

 「委細承知あります!」

 右拳で左胸を叩き、リディアとその麾下の竜騎士たちは姿勢を正した。


 『二太子としてではなく、冒険者として往かれるのだとしても、やはり貴方は我々のナランハルです。

 必ず、ご無事で帰還ください』


 『無論だ。黄金の血統アルタン・ウルクに敗北はない…なんてな。一回言ってみたかった』


 王族が出陣するとき、高らかに宣言される一文。


 常勝不敗を先祖たちは掲げ、その通りに勝利を掴み取ってきた。

 より厳密に言えば、勝ったというより負けなかったという戦いはあるけれど、敗北はないって言葉に偽りは…ないよな。


 崩れた階段の先。すっかり雲に覆われた空へと続いているようなその先に。


 ユーシンとクロムが、どちらからともなく歩き出す。

 その後ろに、剣を抜く間合い分離れてヤクモが続く。


 歩みはいつも通りで、気負いも怯えはない。疲労や負傷を隠した様子もない。


 よし。


 矢を一本矢筒から取り出して右手に持ち、足を踏み出す。

 足はいつも通りに、地を踏んで前へと進む。


 …よし!


 俺も、大丈夫。きっと、大丈夫。

 だから、振り返らずに前だけを見て進もう。


 階段を上るごと、うっすらと漂い出すのは、途中で嗅いだ臭い。


 腐臭だ。


 ただ、あの山林に比べればずっと薄い。

 腐臭と言うより、屍臭と呼んだ方が良いのかもしれない。

 たくさんの死が折り重なった結果の臭い。


 本当に鼻が捉えているのか、纏わりつく気配を悪臭として捉えているのかはわからない。


 階段は、三百段ほどで終わった。


 登りきってまず視界を埋めるのは、広がる空間と瓦礫の山だった。


 最初の広場のように自然に還りつつあるんじゃなく、樹も草も、この地を覆うことを諦めているようだ。


 剥き出しの地面に焼け焦げた瓦礫が重なり、一部の外壁が骨のように聳え立つ。


 曇天の下、それは憂鬱な光景だった。


 宿場町跡地がかつての繁栄の墓標なら、ここは納骨堂だ。

 骸骨が横たわり、訪問者を拒む、死者の私室だ。


 「なんか、やな感じだね…」

 ぽそりと呟いたヤクモの声は、俺たち全員の感想だった。


 「ま、碌でもないことしてた現場だろうしな。で、爆発した飼育場ってのはアレか」


 クロムが視線で示したのは、階段からすぐ近くに佇む建造物だ。


 ただ四角く頑丈そうな外壁は、かつて巡礼者たちが…所持金が少なく、宿場町で宿泊できないような人たちだ…が、寝泊まりするための施設だからか。

 見てくれよりも多くの巡礼者を収納できることを重点に建てられたのだろう。


 だが、今は、崩れた壁や天井から黒煙を登らせる廃墟だ。近付けばその衝撃で倒壊が始まりそうなほど、壁一面に亀裂が入り、ぱらぱらと断片が零れている。


 「あれじゃ近付けないな…どうしてクバンダ・チャタカラが放たれていたのかは分からずじまいか」


 寄生された犠牲者が逃げ出し、外で羽化してしまったのだとしても、卵を産むことができるのは女王だけだ。

 数匹放たれても、餓死するだけで何も起こらない。

 となると、誰かが意図的に放した可能性が高い。それも群全体が自由に出入りできるような状態でだ。


 何故、そんなことをしたのか。


 村に危害が及んでも、おかしくはなかった。

 実際、村の神殿近くにあったムームーの木が燻された原因が、クバンダ・チャタカラを駆除しようとしたからだという俺の仮説が正しければ、本当に間一髪だった。


 行き倒れの巡礼が見つかりやすい場所ではなく、もっと山林の中でひっそりと死んでいれば、そこを中継として襲来する可能性は十分にあった。


 アンダ博士や闇商人がそんなことをする理由は思いつかない。


 クバンダ・チャタカラが襲来しても、村は全滅はしないだろう。

 逃げ延びた村人が助けを求めれば事は大きく露見する。


 証拠隠滅のために使用した建物を吹き飛ばし、徒党を組んだ相手を躊躇いなく殺す博士が、そんな意味不明なことはしないと思う。


 いや、誰でも理由は見当たらない。そんなことをして誰の得になる?


 そうなると、利益や何か、そういうわかりやすい目的ではなく、クバンダ・チャタカラを放ったのなら。

 そんなことをするのは…偏見かもしれないけれど。あの人であるような気がする。


 ドノヴァン大司祭。


 あなたは、この一件に、どれほど関わっている?

 被害者なのか?加害者なのか?


 「何かを引きずった跡があるな」


 ユーシンが、槍の穂先で地面を示した。

 確かに、よく見れば地面に微かな跡がある。


 「かなり大きいけれど、それほど重くはないものを引き摺ったって感じだな」

 しゃがみこんでよく見れば、地面に穿たれた轍はごく浅く、ただし広範囲だ。


 「…!」

 微かに鼻を打つ、甘い臭い。

 ユーシンを見上げると、眉間に皺を寄せている。


 と、なると、間違いないか。


 「あのバケモノと同じ臭いだ」

 「じゃあ、どっかーんってする前に逃げたのがいるのかな?」


 「可能性はある。追尾しよう」


 痕跡は、瓦礫の山に向かっている。

 その手前に、リディアの言っていた祈祷所らしい建物もあった。


 あそこを、一度確認するべきか。


 「俺と馬鹿で見てくる」

 「うむ、行くぞ。下種」


 クロムの足がユーシンの脛を蹴り、ユーシンの拳がクロムの腕を打つ。

 だから、ここで負傷してどうすんだっての。


 「あの二人、ほんっとーに仲いいよねぃ…」

 「今は聞こえないようにしてくれ。反論してきたら面倒くさい」


 幸いヤクモの声は聞こえなかったようで、扉の前で二人は止まり、中の様子を伺っている。


 だが、それもほんの数呼吸。


 ドアノブに手を掛け、ユーシンが思いきり引く。

 緊迫の数瞬の後、クロムが手招きをした。とりあえず駆け寄ってみる。


 「お前なら、これが何だかわかるか?」

 不快そうなクロムの表情は、碌でもないものがあることを伝えていた。


 「生きているものの、気配はない」

 ユーシンも珍しくむっすりとしている。


 その肩越しに室内を覗き込むと、そこは所謂、研究室だった。


 壁一面を受け尽くす、生物の組織標本。

 机の上には、乱雑に置かれた紙の束。

 そして、奥には。


 筋肉や内臓がむき出しの、人間…だったもの。

 何かの器具と思われる金属が体中に差し込まれ、ガラス製の管の中を、血液が這っていた。


 「…肉起動兵フレッシュゴーレムの、核…だな。たぶん」


 「核?」

 「ああ。これを、外殻で覆って肉起動兵を作るんだと思う。あれの、二体目になる予定だった、のかな」


 犠牲者に長期間魔力を流し続け、人間ではなく核へと変貌させる。

 横たわる石の台に刻まれた陣は、周囲や術者の魔力を核へと送り込み、貯える…んだったと思う。


 もう一体、あれを作れるほどの犠牲者が他にいたんだろうか。

 けど、作っても起動させるための生気がないだろう。

 三十人近い傭兵が、一度の起動で絶命するほどの燃費の悪さだ。作れても動かせない。


 …そんな無駄を、アンダ博士がするか?


 彼は、狂っている。

 冷静に、狂っている。


 そこに、無駄な狂気はない。

 彼は犠牲者を苦しめて喜ぶような趣味はなく、ただ自分の研究を進めることしか頭になかったはずだ。


 それなら、これは?


 石の台に刻まれた陣は、魔力の収集を主に目的としているみたいだ。

 近付いてよく見ればもっとわかるかもしれないけれど、迂闊に近寄ったら罠が作動してドカン、はあり得る。


 これ自体、それらしいものを置いておいて、やってきた調査隊をもろとも吹き飛ばすのが目的なのかも。論文にみえる書類も、疑似餌っていう可能性はある。


 でも、それにしては大掛かりだ。


 おそらく、この陣はつい先ほど…アンダ博士が絶命するまで動いていたはずだ。

 犠牲者から滴る血は鮮血で、けれど昨夜から今朝にかけて作成したというには、この部屋の血の臭いは薄すぎる。

 最低でも数日間は、この状態で安定していたんじゃないかと思う。


 何か、似たような方法で別にあったような。

 記憶の項を辿り、起動兵の記述を思い出す。


 ああ、そうか。

 ホムンクルスだ。


 あれも肉起動兵と同じ外法だ。


 胎児を取り出し、魔力を注入することで人造魔導士ホムンクルスは作成される。


 その際に用いた魔力によって、扱える魔導は変化するらしい。

 炎の精霊を使用すれば火の適性が出来る、と言うように。


 注入した魔力で成長させるけれど、成長しきっても大きさは十歳前後の子供程度。

 寿命は一月もあれば長命という、どうしようもなく脆いものになる。


 この技術が禁忌とされたのは、当然だろう。


 けど、どうみてもこれは胎児を魔力で成長させたのとは違う。魔力の供給が止まっても崩れていない。


 それならやっぱり、核の生成か?


 クバンダの蜜を売りさばくことで、資金は稼いでいた。

 それなら、傭兵を雇いなおすのも難しくはない。


 だが、彼はここを破棄するつもりだった。


 おそらく、突発的な事情ではなく、計画的に。

 でなければ、建物を吹っ飛ばすほどの火薬なんて用意しない。


 起動兵の核を生成するためには、膨大な魔力が必要だ。


 人間が持つ魔力なんてもんじゃ賄えないから、こうして陣を使って周辺の魔力を集め、吸収させる。

 通常は、特に魔力の濃いポイント…できれば迷宮ダンジョンなどで行う。まあ、侵入してきた冒険者に壊されたりもするけれど。


 ここは確かに、聖地だった場所だ。


 けど、神の加護はそのまま魔力としては扱えない。


 例えれば、魔力は小麦粉で神の加護はパンだ。

 麺を作ろうとして、パンから麺を作るのはかなり無理がある。

 麺のようなものが作れるだけで終る。


 同じように、いくらかき集めて流し込んでも、核へ変容するほどの魔力にはならないと思うんだけど。


 それくらい、アンダ博士だってわかっているはず。


 …そもそも、なんで肉起動兵なんだろう。

 それを、俺は仮初の命が作れない無能だと煽ったけれど、実はできるのだとしたら?

 犠牲者の遺体をどうするかを考えた時、役立てると思いついたから?

 そんな理由で、あんなものを作り上げるか?


 多分、違う。


 肉起動兵をどうしても作りたくて作ったなら、もう少し扱いに慣れているんじゃないだろうか。

 そうそう起動できないと言っても、生け捕りにしようとした対象ごと吹っ飛ばすような不器用さとは知らなかったんじゃないか?


 結果、貴重な実験材料である俺を損なうことを恐れて、博士は攻撃を止めた。

 肉起動兵がどんなものかよく調べていれば、もう少し出すタイミングを変えてきただろう。


 足止めの魔法を使うとか、傭兵たちで村を襲うぞと脅して、俺達が村へ警告しに行った後、起動させるとか。


 村の前であれを出されたら、俺ももう少し違う対応をしてしまったと思う。


 かといって、あれが魔族相手に通用すると思うほど、魔族を知らないわけじゃない。


 こんがらがってきた思考をどうにかするべく、もう一度石の台に刻まれた陣を観察する。

 罠があるかもしれないから、ドアから身を乗り出してみることのできる側面だけだけど。


 よく見れば、犠牲者の腕はがっちりと石の台に固定されていた。

 あの状態で動けるとは思えないけれど、苦痛を感じて暴れたりするんだろうか。

 …ひどすぎるな。


 陣は、ほぼ同じもの。

 『集中』『収束』『注入』。周囲の魔力をかき集め、犠牲者へと注ぐものだ。


 周囲の魔力…


 ぴん、と思考のこんがらがりが一本の糸になってまっすぐ伸びる。


 周囲の魔力。本来なら、聖地では収集が難しい物。


 だけど。

 アンダ博士は、何をしようとしていた?


 「起動兵の、核ではある」

 「ん?」


 「起動兵の核であると同時に、器だ…」


 「…これに、魔族を降ろすってのか?」 


 「いや、そうじゃない。魔族が召喚、顕現された場合、周囲には魔族の持つ魔力がまき散らされる。これは、その魔力を収集するための…装置だ」


 起動兵の核を生成する方法を転用して、魔族の持つ魔力を犠牲者へと注入する。

 これは、そのためのものなんじゃないだろうか。


 「なんでそんなことを?」


 「…魔獣は、異界と交わった時にあちらの生き物とこちらの生き物が混じって発生したと言われる。

 それに近いことを人工的に行うのがアンダ博士の目的だったんじゃないかって、思うんだ」


 魔族の体組織では、失敗した。器が耐えきれなかった。

 注入されるものが強すぎる。それなら、もっと違う方法を試そう。


 可能性の問題なのだ。ナランハル。


 博士の声が、脳裏によみがえる。


 魔族を顕現させ、体組織を採取するなんてことは、初めから考えていなかった。

 人造魔導士は、注いだ魔力の種類によって変化する。

 なら、同じように肉起動兵の核も変化するのではないか。


 そう、彼は考えたんじゃないだろうか。


 彼自身、一回でうまくいくとは思っていなかっただろう。

 だが、彼は学者だ。

 実験を繰り返し、少しずつ成功の可能性を上げていく。


 そのつもりで、まずここで行ってみた。その結果じゃないだろうか。


 実験の結果は、いくつも得られる。

 クバンダの蜜を用いて器を作ることができるか。魔族顕現により、その魔力を吸収して人工魔獣、もしくは、魔族に近い人造魔導士ホムンクルスを作ることができるか。


 どちらも上手くいかなかったとしても。


 うまくいかなかったという実験結果を得られる。無駄にはならない。


 もし、良好な結果を得ることができれば。


 アンダ博士の望み通りに事が進めば、クバンダの蜜を注入されて器へと変容させられた挙句、ああなっているのが俺の未来だったかもしれない。


 ただ、そうなったとしても、アンダ博士の望む結果…魔族の力を得た生物にはならないとは思うけれど。


 「で、こいつはどうする?」

 「いったん下がって、火矢を打ち込む」


 火薬が仕掛けられていれば危険だ。

 なるべく安全距離からどうにかするべきだな。


 「棚の標本、浸かっている液体はおそらく純度の高いアルコールだ。…あの人を、荼毘にふすくらいの火力にはなる」


 「あの人もう、死んじゃってるのぅ?」

 「たぶん。生きていたとしても…助けられない」


 剥き出しの脳にすら針や金属板が刺さり、眼球があるべき場所には無数の管がつながっていた。

 よほど高位の司祭が、それこそ死者復活の御業を行使しない限り…助けられないだろう。


 それで命を繋いだとしてもあの人が、つまりは人として生きていける可能性は、恐らく低い。


 俺の推測が正しければ、クバンダの蜜を当然注入されている。


 人格が壊れ、魔に近くなる頻度で。


 何もかも垂れ流し、衰弱死するまで目をどんよりと開けているだけの時間を、生きているとは言えない。それなら…今、ここで終らせる。


 無言で俺たちは祈祷所から離れた。

 矢筒に持っていた矢を仕舞い、代わりに、松脂で燃料を鏃に固定している火矢を取り出す。


 「クロム、火を」

 「ああ」


 燐寸がポッと小さな音を立てた。

 灯った小さな火を、クロムは俺の持つ矢の鏃に近付ける。


 赤く光と熱を放ち、布が燃え上がる。


 その矢を番え、狙い、放つ。

 赤い軌跡を描いて、矢は祈祷所へ吸い込まれた。


 カシャン、と言う微かな音が、狙い通りに矢が命中したことを教えてくれる。


 その音を聞きながら目を閉じ、しばしの黙祷の後、女神に祈った。

 「夜明けの女神よ、偉大なるアスターよ、どうぞこの魂を正しい場所へとお導きください」


 「…アステリア人じゃなかったかも知れんぞ」

 「いいさ。ここは女神アスターの聖地だ。それなら、彼女に祈るのが正しいだろう」


 たとえ信徒じゃなくても、膝元で悲惨な死を遂げた魂を無碍にするほど心の狭い女神でもない、って思うし。


 「行こう」


 燃え尽きるまで祈っているのが、人として正しいのかもしれないけれど。

 すでに扉の向こうに、赤い光が躍っている。

 あの建物が炎に包まれるまで、幾分もない。


 けど、俺たちはまだやることがある。


 何かを引き摺った跡。

 幅は、広い。クバンダ・チャタカラが這いずって逃げたにしては、広すぎる。


 そして、だんだん強くなる甘い臭い。

 そこから考えられる、一番大きな可能性は。


 跡と臭いは、神殿だった場所へと続いていた。

 

 門は、まるで衝立のように辛うじて立っていた。


 だが、本来ならその門が守るべき建物、聖堂だった場所にはただ瓦礫の点在する空間が広がっている。


 その、中心。

 おそらくそこが、聖堂の一番奥だったんだろう。

 俺の身長より高そうな台座が、ぽつりと在る。


 往時には、その台座に相応しい大きさの神像が、信徒たちを迎えていたはずだ。

 僅かに、右足のつま先だけが台座に残っている。その足の親指の爪だけで、掌くらいはありそうだ。


 だが、他には何もない。

 剥き出しの地面と、瓦礫。


 それだけだ。

 

 「…ドノヴァン大司祭」

 

 俺の声は、きっと届いていない。届くような大きさでもなかった。


 かつて女神だった石の足許で。


 大司祭は、膝に抱えたものに語りかけている。


 膝に乗っているのは、その馬を連想させる頭部だけだ。

 麻痺毒を噴射する器官で固められた首にあたる関節部分は、大司祭の膝からはみ出て、地面に横たわる胸郭につながっている。


 こちらに背中を向けているから、胸郭から延びた青く透き通った翅が良く見えた。

 その翅も、他の…彼女の娘たちよりもずっと大きく、美しい。


 だが、最大の差は、胸郭から続く腹部だろう。

 それだけで、大人の男くらいはある。


 ぼこぼこと膨らんだ腹部は、彼女が…クバンダ・チャタカラの女王が、まだ卵をすべて産んでいない事を主張する。

 しかし、その卵が産みだされることはもうない。


 大司祭に抱えられたまま、女王はピクリとも動かない。


 もう、死んでいる。


 焦げたり、一部が吹き飛んだような様子は見られない。


 だが、明らかに彼女は死骸だった。


 爆発が起こった時にはすでに凍死していたんだろうな…。


 「ドノヴァン大司祭!」


 今度は、この声が届くように。

 腹に力を入れ、声を迸らせる。


 俺の声に、跳ね上がるようにドノヴァン大司祭はこちらを見た。


 その顔は、ほんの数日前よりもさらに窶れている。

 骨に皮を張り付けて、糸くずで作った鬘をかぶせたかのようだ。


 視線が合った瞬間、背骨を冷たい悪寒がしたたり落ちる。


 やっぱり、怖い。

 この本能が、脳を飛び越えて警告しているような感覚は、大神殿でも覚えたものだ。


 ただ、あの時よりもすっと強い。

 あの時は、「神の残滓」という事で一応納得はしたけれど…


 今は、はっきりとわかる。

 これは、そんなもんじゃない。


 この神殿跡地に蹲る腐臭のような、この恐怖は。不快感は。


 おそらく、魔の気配。


 本能が、絶対的な敵対者…と言うより、人類に対する猛毒である魔の気配を感じて、逃げろと喚いている。その絶叫が駆り立てる恐怖だ。


 きっと、その声に従うのが正しいんだろう。


 ここが何もない荒野とか地下迷宮で、逃げたところでそのとばっちりを食らう人が誰もいないなら、俺だって喜んでそうする。


 けど。


 ここで逃げれば、麓の村の人は。

 エルディーンさんたちは。

 ウィルさんたちは。

 エディさんたちは。

 リディアたちは。


 ここで逃げたら、もう立ち上がれない。

 向き合えない。

 一生膝を抱えて、震えて息をするだけだ。


 そんなのを、生きているとは俺は言いたくない。


 逃げたって、心臓が動いているってだけのことだ。


 なら、向き合う。

 向き合って、終わらせて、生き残ればいい。


 「ドノヴァン大司祭」

 ぐ、と右手を握りしめ、もう一度呼び掛ける。


 大司祭の木乃伊のような顔の中、紫水晶のような双眸だけが強い光を放ち、ただ涙を滂沱と流していた。

 体のありとあらゆる水分が全て涙になって出てしまったから、こんなに乾いているのだと言われても納得できそうなほど、涙は止まらない。


 俺を見て…いるのか?とにかく、こちらに視線を向けながら、ドノヴァン大司祭は口を開いた。

 ひび割れて血が滲む唇とは対照的に、咥内はてらてらと赤い。

 まるで内臓をそのまま見せつけられているようで、僅かに足が後ろに下がる。


 「ああ、旅の方…旅の方よ、お願いしますお願いしますお願いします、どうぞ、どうぞ、どうか、ああ、そうです、どうぞ、薬を、薬をお分けください。死んでしまう、ああ、何故動かないのですか、何故、何故、どうしてどうしてどうしてどうして!!!」


 それは、言葉と言うより絶叫で、より正確に言えば、慟哭に近かった。


 「ああ、あああ、ああ、何故、何故、何故、何故、何故、あなたは私を、あなたは、あなたは、あなたは、私を私を私を」


 クバンダ・チャタカラの女王を掻き抱き、枯れ枝のような体のどこから湧き出すのかと、疑問に思うような激情を、ドノヴァン大司祭はまき散らす。


 「ああ、もう一度私を、私を私をわたしをわたしを見て、見てください、見てください…次は、次、次、今度こそは、私をみて、微笑んでください拒まないで嫌わないでそんな目で、目で目で見ない、見ない…見るな!!!!」


 大きく首を振り、クバンダ・チャタカラの女王の首にあたる部分を叩く。

 見た目通りの非力さなのだろう。女王の身体は僅かに揺れただけだった。


 「ああ、見るな!見るな!私を、私をその目で見るな!何故、何故、何故、どうしてどうしてどうして私では駄目なのか駄目なのですか…!!」


 「…完全にキマっちまってるな…」

 僅かに声を震わせて、クロムが呟いた。


 クバンダの蜜では、譫妄症状は出ないはずなんだけど…


 ただ、彼のこの慟哭はおそらく、幻覚やなんかじゃない。

 次は、今度はと彼は繰り返す。


 つまり、大司祭は今、過去にいるんだろう。


 強制的な快楽が痛めつけた脳や精神が、まあ、たぶん、好きだった女性に振られたとか、そういう過去に連れ戻しているんだと、思う。


 「まあ、いい。さっさとこいつぶち殺して帰ろうぜ。見たところ魔族にはなっていないみたいだしな」

 「そうだな…大司祭の意識があるし、顕現はしていない」


 助けられたらそれが一番いいのは分かっている。


 けど。


 気絶なりさせて連れ帰ったとしても、麻薬が齎した強烈な快楽を脳が覚えてしまっている。

 それを忘れさせるには、長い年月と忍耐が必要だ。

 まして、アンダ博士が魔族の器とするべく調整したのだとしたら、通常のクバンダの蜜とは違うものになっている可能性もある。


 何より、彼には魔族の器の可能性が常に付きまとう。


 魔族の器になりえるし、多分発狂しますけどあとよろしくと押し付けていいものか。

 俺に彼の更生ができない以上、誰かがそれをやるか、または、最期を引き受けるかだ。


 俺だけがいい気分になったって、誰かが苦しむのなら意味はない。


 ドノヴァン大司祭を心から敬愛するその誰かが、変わってしまった大司祭を見て嘆き、その嘆きを後悔して自己嫌悪に自分を憎むくらいなら、俺が憎まれた方が良い。


 すう、と息を吸って、吐いて。

 弓に、矢を番える。


 「お前がやる必要はない。俺がやる」


 「いや、駄目だクロム」

 剣の柄に手を掛けたクロムを止める。


 「ここで、彼を殺すのは、ナランハル・アスランとしての責務じゃない。

 依頼を受けた冒険者として、そして一個人の見解として、やらなきゃいけないと判断したことだ。


 だから、俺がやらなきゃダメだ」


 こちらに向き直り、クロムはひとつ溜息を吐いて柄から手を離した。

 同じくこちらを見るヤクモは、泣きそうな顔をしている。

 ユーシンは、大司祭から目を離さないまま、頷いた。

 

 そして、俺の声に、ドノヴァン大司祭は嘆きを止めた。


 「アスラン…?」


 茫然と呟く間にも、涙は流れ出てクバンダ・チャタカラの女王を濡らす。


 「アスラン…アスラン…アスランアスランアスランアスラン!アスラン王!」


 枯草のような指を広げ、両手を突き出し、ドノヴァン大司祭は先ほどとは違う激情に顔を歪める。


 もし、彼の膝の上にクバンダ・チャタカラの女王が乗っていなければ、恐らく飛びかかってきただろう。

 けれど、その見た目に相応しい重量を跳ねのける力はないようだ。

 それでも揺れればただそこに在るだけの死骸は動き、膝から落ちそうになる。

 奇声を上げて、ドノヴァン大司祭は女王の頭を抱えなおした。


 「また、また、私から、この方を、この方を殺す、殺すというのですか!また、あのような、ああ、恐ろしい、悍ましい…なんと悍ましい、悪魔だ、あなたは王などではない、悪魔だ!あんな、あんなあんな、ああ、あんな非道い、あんな」


 ひどいひどいと叫びつつ、大司祭は女王にしがみ付く。

 彼の脳裏では、違うものに見えているんだろう。


 それにしても、親父…なにやったんだ?可能性が高いのは30年前のアステリア陥落の時だろうけれど。

 まあ、ほぼ親父の率いる先遣隊アルギンだけでアステリア聖女王軍を壊走させ、攻城戦も祖父ちゃん曰く「最後の一撃だけ残しておいた」状態だったらしいから、いろいろと恨みは買っているだろうが。


 大神殿中庭に積み上げた神官たちの死体に火を放ち、大神殿を半分くらい焼失させたのも親父だし。


 けど、親父は敵なら女子供を殺すことに一瞬の躊躇いも覚えない人だけど、その前に凌辱しようとか、苦しめて殺そうとかはしない…はず。


 いや、目の前で好きな女性を殺されたらそう言って罵りたくもなるか。


 「非道い、非道い、非道い…なぜ、あんな、あんな、あんな恐ろしいことを、私に、私に選ばせた!ああ、恐ろしい、何故、なんで、どうして、ああ、なんであの時、あの時、わたし私は私は!」


 クバンダ・チャタカラの女王に頬を寄せ、涙でその外殻を濡らしつつ、ドノヴァン大司祭は過去へ沈んでいく。


 既にこちらは見ていない。


 俺に声を掛けられたことすら、意識の外へ涙と共に流れ出たのかもしれない。


 再び、矢を弓に番え、ゆっくりと引き絞る。

 鷹の目を使うような距離じゃない。

 使わなくても、ちゃんと見えた。クロムに怒られなくて済むだろう。


 「ああ、ああ、ああ…ああ、ゼラシア様…」 

 

 愛し気にその名を呟いたドノヴァン大司祭の眉間に、シドウの大弓から放たれた矢は突き立ち。


 大鷲の羽根で作られた矢羽根が、彼の激情を代弁するかのように、震えた。

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