第30話 聖女神殿宿場町跡2

 「さて、あいつらの隊長が話の通じる奴ならいいが…」

 「通じない人、いるの?」


 赤く染まっていくファンの目に当てた布を見つめたまま、クロムは頷いた。

 量は多いが、色が薄い。

 涙に血が混じっているだけになったことが見て取れて、詰めていた息を吐きだす。


 これでも医者かつ薬草学者の息子だ。

 アスランに移り住んでしばらくは、母と一緒に父の診療の手伝いをしていた。

 見様見真似もいいところだが、後に残るような怪我か、そうではないかくらいは見分けがつく。


 「痛みは?」

 「だいぶマシになってきた。ありがとう」


 巻いている布は、鎮痛作用のある薬草の汁を煮出してあるだけのもの。そう急速に作用はしない。

 発動を中断したことで、どうにか限界を超えなかったようだ。


 「使うなって言ったのに…」

 「あー、うん。ごめん…」


 へたり込んだまま、うへへ、と暢気に笑いやがる主を殴らない自分は、なんと寛大な心の持ち主か。


 「ファンの回復を待ってから行くか?」

 さりげなく上空を警戒しつつ、ユーシンが問う。

 少し不満そうなのは、あの明らかに戦いがいがありそうな怪物を横から引っ攫われたからだろう。


 クロムとしては、もっと早く来いと怒りたいくらいだが。


 「いや、問答無用で攻撃されるのはほんと避けたい。アンダ博士がどうなったかも確認したいしさ。行こう」

 「無理しないでねぇ?」

 「座って楽になったし。けど、やっぱりみんなそこそこ消耗しているよな…上に行く前に休憩を挟もう」


 「やっぱり、まだ登るのか?あのいかれをぶっ殺せば、召喚はされないんじゃないか?」

 「それも考えたんだけどさ」


 壁に手をつきながらではあるが、ファンは立ち上がった。

 微かに足が震えている。

 眼球への負担もだが、魔力を意識せず使っているのだから、当然体力の消耗も激しい。


 術式として発動するなら増幅や軽減もできようが、ファンの鷹の目はそうではない。


 詠唱も陣も必要とはしないが、制御もできない。

 使い方を間違えれば、容赦なく己を傷つける。


 それでも退こうとしないのは、この先に待っているものがなんであるか…諦めに似た確信があるからか。


 主が来なければいいと望んでいた事態は、もうすぐそこで待っている。


 だが、ファンが想うのは、更にその先だろう。

 この程度で逃げていたら、諦めないと宣言した明日を守ることなどできはしない。


 もう、ファンは腹を括っている。どんな結果が待つにせよ、全力を尽くすと。


 それなら、守護者スレンたる自分はその前に立って守る。

 騎士なら己を盾にして主を逃がすのかもしれないが、守護者は黄泉路の先まで護衛するだけだ。


 戻るぞと言うのは、全てが終わった後だ。

 そう決めて、クロムは主の言葉の続きを待った。


 「魔族が召喚された時、一番最初に死ぬのは誰だと思う?」

 「そりゃ、呼び出した阿呆だろう」


 魔族は呼ばれなくてもやって来るが、魔族召喚が試みられた場合、召喚者の言うことを大人しく聞くなんて言うことは絶対にない。


 大抵は何かの目的…敵を倒してほしいとか、世界が気に入らないから自分以外滅ぼしてほしいとか…をもって召喚に臨むわけだが、魔族と取引するという事自体不可能に近いのだろう。

 召喚者が生き延びていたという事例はない。無残な姿で見つかるか、痕跡すら残っていないかだ。


 「アンダ博士は、何らかの方法で顕現した魔族から組織標本を採取できると考えていた。彼は魔族の専門家に近い。召喚者が一番危険なことくらいわかっている。

 何らかの方法で弱体化させて召喚とかするのかなって思ったけどさ、よく考えたら、召喚した魔族をどうこうする理由は博士にはないんだよな」


 「ほったらかすってことか?」

 「うん。何らかのトラップを仕掛けておいて、組織だけ手に入るようにすればいい。

 もちろん、居座られて採集ができなくなる可能性もあるから、それに対する手段も用意していたんだと思うけど。魔族召喚自体、何遍もできることじゃないしな。むしろ、チャンスは一回だけだろう」


 「ええっ!?そんなことしたらアステリア大変なことになっちゃうじゃん!」

 ヤクモの憤りに、ファンは力なく笑った。


 「…そしてそれも、彼の目的に一つだったんじゃないかな…

 彼は、クトラ人だ。30年前の侵攻で故郷と両親を亡くし、アスランの西方国境に住んでいた親戚を頼って身を寄せ、養子になった。

 けど、その養父も、20年前の内乱でサライの街に流入してきた逃亡兵に殺されている。アステリアで大神殿を巻き込んだ実験を行ったのは、それが理由だと思うよ」


 違う、関係ないと本人には否定されそうではあるが。


 彼の自説の土台には、人間の愚かさに対する怒りがあった。

 クトラ侵略の詳しい実情まで、博士が知っていたかどうかはわからない。


 わからないが、欲望のままに他者を踏みにじり、その報復を受けて叩き潰された者たちの愚行は、人と言う生物に絶望を感じる理由としては、十分だ。

 その上、反省し新生した筈の大神殿の神官たちは、金銭や快楽にあっさりと堕ちた。

 弱者へ救いの手を差し伸べるべき司祭らが、恐らくは騙されて連れてこられた犠牲者が虫の餌になることを嘆きもしない。


 その事実は、博士が自説が正しいと確信する要素になりえただろう。


 「その辺は本人に聞くしかないけれど…いや、聞く必要もないか」


 例え、それが正当な理由を持つ復讐であったとしても。

 自説を裏付けるような行いを見たのだとしても。


 彼はあまりに多くの人を巻き込み、踏みにじった。

 それは決して、許されていいものではない。


 どれほど同情できる理由が彼にあったのだとしても、それは関係ない人々の命を奪っても許される権利にはならないのだから。


 彼は、罪人として裁かれなければならない。


 本当に、あの時、自分が責任から逃げていなければ。

 何人、死なずにすんだ?

 虫に食われ、起動兵の材料にされ、山林で朽ちる運命を辿らずに済んだ?


 「…っ!」

 ファンは己の腕を強く握った。


 胸の鈍い痛みは、怪我や魔力の使い過ぎによる消耗の為ではない。過去が全力で殴ってきた結果だ。


 「あのさ、ファン。ぼく、行ってこようか?」

 その表情を、別の意味で汲み取ったのだろう。

 ぎゅっと眉を寄せ、精一杯強そうな顔をしながら、ヤクモは広場を指さした。


 「みんな、ケガしてるでしょ?ぼく、元気だし」

 「あほう」


 ぱしっとその決意に満ちたヤクモの頭を、クロムの手がはたく。

 怒った様に聞こえる声と、表情。

 けれど、決して本心はそうではない、いつものやりとり。


 重く張りつめていた空気が、緩む。


 「お前、タタル語喋れないだろ」

 「ふぇ?」

 「アイツらは、間違いなく正式な手順踏んでここにいるわけじゃない。

 ただの通りすがりの冒険者だと見做したとしても、口封じに殺しに来るぞ」


 あきれたような口調が、脅しではなく事実を話しているだけだと教えていた。


 「うーん…俺もそう思うな。竜騎士を使ったところを見るに、無断で国境を越えたんだろう。口封じに躊躇うとは思えない」


 「こわいよ!」

 顔をへにゃんと崩して、ヤクモは首を振った。

 「ファンさぁ、やっぱりアスラン人としてはおとなしいんだねぃ。相手が攻撃してきたら絶対容赦しないけど、基本的にいきなり殺しにかからないもんね」


 「おとなしいというか、うちの国の言葉で言えば、ヘタレてるだけどな」

 「一応、慎重派くらいにしとけ。首巻き、外すぞ」

 「ああ、自分で取るよ」


 少々覚束ない手つきで、ファンは首に巻かれた布を外す。


 外した首巻きを、ファンはクロムに差し出した。

 一枚の布を三つ折りにし、丈夫な麻糸で纏ってある。鋼糸を縫い込み、防刃効果もある防具だ。

 くすんだ感じの茶色と言う、どうにも地味な色合のうえ、模様もない。


 腰のベルトから小刀ククリを引き抜き、クロムは丹念に麻糸を切断していった。


 最後の糸を切断し、バサリと振れば、麻糸の断片が宙に舞う。

 伸ばせばファンの肩の高さから地面に届くまでの長さの生地が、クロムの腕の動きに合わせ、鮮やかに翻った。


 畳まれていた生地の内側に隠されていた意匠が、広がっていく。


 外側の地味な何とも言えない茶色に対して、内側は鮮やかすぎるほどにあかい赤。


 その中央に描かれているのは、黒い鳥。


 紅鴉ナランハル


 その周りを宝結びエンドレスノットが囲み、端と端には太陽スーリヤが描かれている。


 図柄自体はシンプルだから、豪華絢爛、と評せるようなものではない。

 しかし、意匠ひとつひとつが丹念に描かれ、配置されている。

 一流の職人が時間をかけて作り上げたと判る逸品だ。


 「えええ、それの内側、そんなんだったんだ!」

 「まあ、身分証明みたいなもんかな」

 「あれ?でもさ、前に教えてもらった紅鴉となんかちがくない?」


 紅鴉はアスラン周辺でよく使われるモチーフだ。

 アステリアでもたまに東方からやってきた装身具や食器が売られていることがあり、その時に「これが紅鴉だよ」と指さされたものと、どこか違う。


 まじまじと首巻きに描かれた紅鴉…よく見ると、精緻な刺繍だ…を眺めて、ヤクモは違和感の正体に思い至った。


 「あ!爪が短い。右足の爪が長いんだって教えてくれたよねぃ?」

 大発見!と指さすヤクモに、ユーシンが頷いた。

 「ファンが掲げる紅鴉はこれで良いのだ!地上の紅鴉は爪を外しているからな!この世でただ一人、今はファンだけが使える紋様だ!」


 「ああ。一応いわれがあってな」


 紅鴉の爪は、真の鋼クロムで出来ていると伝説は語る。

 黄昏の君の悪巧みを見破った際に、真の鋼が紅鴉の爪にくっつき、取れなくなってしまったのだ、と。


 アスランが建国された時、雷帝は己が守護する国をともに守ってほしいと、神獣たちに持ち掛けた。

 紅鴉は了承の証として、その真の鋼が付いた爪を削り、一振りの刀として雷帝に託した。

 雷帝はそれを開祖へ贈り、以来、護国の神宝としてアスランに奉られている。


 そう、アスラン開国史には記されている。


 なので、その守護を受ける地上の二太子ナランハルだけは、無爪紅鴉図を己が意匠とするのだ。

 天の紅鴉と違い、真の鋼の爪が外れていると。


 そんな説明を、ファンにしては珍しく手短に語った。


 「旗にするのであれば、柄には俺の槍を使うか?」

 「いや、旗にはしない。お前の槍なんてなんか汚ねぇし」

 「お前の性根に比べれば、天泉の如しだ!」

 「あー、もう、元気だなあ。お前ら」


 苦笑しつつ、ファンは視線を広場の方へと向けた。


 「よし、行こう。万が一攻撃された時は、ユーシン、迎撃を頼む」

 「任されよう!」


 どん、と胸を叩くユーシンの隣で視線を下に落とすヤクモに、クロムは布の片端を突きつけた。


 「おい、俺が合図したら、そっち側を広げろ」

 「…ぼくが持っていいの?」


 きっとそれは、守護者スレンの役目なのだろう。

 主の身分を示す意匠を掲げるのだから。


 それをクロムが誰かに関わらせるなど…


 目を白黒させていると、クロムは物凄く不機嫌そうに鼻筋に皺を作って口を開いた。


 「あの馬鹿には役目があるし、やらせたら破りかねん。いいか、お前も少しでも破いたらその分骨折るからな」

 「やぶんないよう!」


 満面を笑みに変えて、ヤクモは差し出された布の片端を握った。

 思っていたよりも重い。


 どういう風の吹き回しかはわからないが、クロムが気を使ってくれている。

 なら、甘えるべきだろう。

 ここで下手に遠慮すれば、またへそを曲げる。そうするととても面倒くさい。


 何より単純に、自分にも役割ができたことが嬉しい。


 「うわ、結構重たいね!ファン、首痛くなんないの?」

 「馴れちゃったからなあ」

 とは言えやっぱり重たいから、普段から装備していたくはない品物ではあるが。


 廃墟の隙間を縫って広場へと一行は進んでいく。

 炭と化した巨人が破壊した場所ではないが、その余波や最初の爆発で脆くなっていた建物の一部が壊れていたり、ひびが入っている壁がある。

 あまりそれらに触れないように進めば、道の方へと出てしまう。

 上空から偵察している者がいれば、もう見付かっているだろう。


 壁に走るひびを触り、ヤクモは小さく身震いする。

 今更ながらに、五体満足で生きているのが不思議になるような衝撃だった。


 「あのどっかーんって、すごかったんだねぃ…あれ、魔導?」


 「んー、魔力の動きはあったけど、爆裂の魔導エクスプロージョンとかじゃないな。火薬の臭いがしたから、それに点火するのに魔導は使ったんだと思う」

 「火薬って、そんなにすごいの?家、こっぱみじんだったし、後ろもすごいことになってたよ?」

 「よほど大量に使わないとああならない…と思うけど、専門外だからな~。

 密閉空間で爆破が起こると威力が高まるって言うのは聞いたことがあるけど、たぶんそれ以外に要因があるな」


 家を一軒吹っ飛ばすのに適切な量をファンは知らない。調べたこともない。

 火薬の製法や注意すべき点は知っているが、その威力を高めるとかと言った事には興味がわかなかった。

 原材料の採集については興味があるが。


 「見た感じ食堂付きの宿屋だったし、この辺は豚の飼育が盛んだ。

 塩漬け肉を作るために、地下保存庫とかに硝石が保管されてたのかもなあ」


 「なぁに?それ」

 「火薬の材料の一つだけど、塩と混ぜて肉に刷り込むと腐りにくくなるんだ。ごく普通に使われている材料だよ。時間がたっても鮮やかにピンク色している塩漬け肉には、コイツが必ず入っている」


 「食べて爆発したりしないのう!?」

 「ハム焼いても爆発しないだろ。

 他の材料と混ぜたり、爆発が起こった時に巻き込まれる場所にあると威力があがるってなんかで読んだ気がする。

 他には、実験材料で石脳油を用意してたとか」


 あくまで推測ではあるが。


 専門外の事はその推測すら心もとない。

 魔獣研究者であるアンダ博士が、何故火薬を使ってみようと思ったのかは不明だが、痕跡を辿られるようなものを残しておくつもりはなかったことは間違いない。


 今日で実験が一区切りつくからか、アスランの追及をかわす為か。


 あの元冒険者も、従えていた傭兵も、博士にとっては辿られると面倒な痕跡のひとつにすぎず、それは大神殿の神官らも同じだろう。

 本来なら昨日の夜にはあの場所まで辿り着いていたのだから、一緒に吹き飛ばすつもりだったと思われる。


 聖女候補たちに関しては、チュレルの巫女のように次の器の適応者になるか実験してからと言うのもあり得るが。


 ああ、そうか、とファンは内心に呟いた。


 アンダ博士が聖女拝命の儀を詐称することを思いついたのかは不明だが、それにより聖女になれるほど魂位の高い少女を獲得しようと考えたのかもしれない。


 だが、司祭や麻薬の密売、売春の斡旋に関わった商人は、それを利用して価値の高い商品を用意できるとほくそ笑んだのだ。


 アンダ博士は利用しているつもりで、利用されてもいた。

 彼と神官がどれくらい顔を合わせていたかは今後の調べで分かるだろうが、お互いに愚かな奴、馬鹿な奴と裏では罵り合っていたのかもしれない。


 そうして、神官は彼が望むような器を用意せず、御業を使える「だけ」だが、見目が良く、実家に権力もない、騒がれてもどうにでもできると思われた少女たちが選ばれた。


 もちろん、彼女たちはそんなことは知らないだろう。


 聖女候補として選ばれて、どれほど誇りに胸を高鳴らせたか。


 貴族出身でなければ大神官になることも難しい大神殿左方で、身分によらず選ばれた。

 今まで、出自による差別は折々に感じていたであろう少女らにとって、それはまさに天に昇るような気持ちだったに違いない。


 皆、良い子たちだった。


 護衛のエルディーンを責めることもなく、抱き合ってその無事を喜びあっていた。逃げた司祭らを罵倒もしなかった。

 恐ろしい思いをしたというのに、気丈にも少女たちだけで下山することを了承した。


 彼女たちを選抜した司祭なりは、その喜びを、誇りを、善良さを、嘲笑っていたのだろうか。


 改めて沸いた怒りに、噛み締めた奥歯がぎしりと鳴る。


 冒険者への依頼料が少ないわけだ。

 むしろ、冒険者などに来られては困る。選抜した司祭にとって、彼女らはただの商品だ。

 冒険者などを関わらせては面倒だと考え、誰も引き受けない金額を設定したのだろう。

 当番冒険者の存在は知らなかったのか、ギルドに言われてやってきても、なんだかんだと追い返すつもりだったのか。


 そう考えると、ウィルと一緒にいた太った神官は、何も聞かされていない、関わっていない、ただ不愉快なだけの男だった。

 本来の目的を知っていれば、エルディーンの名乗りも無視しただろう。


 ギルドで断られても引き下がらず、とにかく言われた通りの金額…もしくはもっと低い賃金で…護衛を雇い、連れて行かねばと熱意にあふれて空回り気味に行動した。


 その結果、ファンたちの存在が大神殿に伝わり、バレルノ大司祭が動き出したのだから、ある意味陰の功労者だ。


 罪人は、アンダ博士だけではない。

 この件に関わった司祭、神官は、必ずその罪を償わせなくてはならない。


 実家に逃げ込んで、ある程度の喜捨が大神殿に届いて終り、なんて言うことにならないよう、バレルノ大司祭と協議する必要がある。


 他国民を裁く権利などは、いくらアスラン王国二太子ナランハル・アスランといえども持ち合わせてはいないが、関わったものとして告発はできるはずだ。


 「広場だ」


 ユーシンの小声に思考の沼から顔を上げれば、身を潜めている建物の先には瓦礫しかない。広場に面した建物まで一党は進んでいた。


 「もう、声をかけるべきだな」

 幸い、上空に騎影はない。

 だが、偵察中の兵がいないとはファンには思えなかった。


 魔導を扱える竜騎士は、精鋭中の精鋭だ。

 その部隊が、偵察を疎かにして油断しきっているなどとは考えない方が良いだろう。


 むしろ、まだ見つかっていない事が奇跡なのだ。


 手袋を外し、右手の指を咥える。

 猛禽の鳴き声にも似た鋭い音が、響いた。


 数呼吸、風の音だけが通り過ぎる。


 だがその風に混じり、同じような音が届く。二度、三度、長く短く。


 「え、今のなに?」

 「アスラン軍で使う指笛の符牒だ。こっちは合流を呼び掛けてて、あっちはそれを許可した。もう大丈夫。行くぞ」

 「本来なら隊長がすっとんできて地面に額がめり込むほど平伏すべきなんだがな」

 「戦時中は伏礼の省略が許可されるだろ?」

 「ファンでーっすって名乗るみたいな音はないのぅ?」

 「指笛にそこまで求めないでくれ」


 苦笑しながら道に出て、前へと進む。


 瓦礫が散らばる広場。

 先ほどと違うのは、そこかしこに人以外の生き物の姿があることだ。


 飛竜。

 竜と名がついているが、いわゆるドラゴンとは似ているだけの違う生物。


 ドラゴンのようなブレスを吐くことは出来ず、何よりその翼は皮膜ではなく羽毛を備えている。前脚もない。


 その為、研究者の間では、飛竜は爬虫類ではなく鳥類に分類されている。

 もっと詳しく言えば、飛竜は爬虫類と違って恒温動物であり、消化器官なども鳥のそれに近い。

 だが、いまここでそうした蘊蓄を語らないだけの分別は、一応ファンにもあった。


 聞かれればいくらでも説明するし、ヤクモあたりが問うてこないかなと思ったりはしているが。


 当のヤクモは、説明は求めず、ただ目を輝かせて優美な白い猛獣を見つめていた。


 飛竜たちの側には一人ずつ、革鎧をまとった騎士が座り、手に持つ小さな樽を飛竜に差し出している。


 さらに目を引くのは、その騎士たちが全員女性だという事だ。

 兜で顔が隠れている騎士もいるが、女性の曲線を隠さない鎧が性別を教えている。 


 ヤクモは女性ばかりと気付いて慌てて汚れた顔を袖で拭ったり、髪型を整えたりもしたが、ファンたち残る三人は驚きもしなかった。


 空を駆ける竜騎士、天馬騎士は八割以上が女性である。


 背に乗る騎士の体重や体型によっては、あきらかに速度が落ちるからだ。

 少しでも軽く、けれどもひ弱ではない女性騎士が多いのは、当然ともいえる。


 騎士たちのうちの一人が立ち上がり、こちらを見る。


 『所属は?』

 誰何する声は硬く、低い。

 アスラン軍の符牒を使っているが、兵にも騎士にも見えない一党だ。

 警戒するのも当たり前だろう。


 それがクロムの気に障ったのかは不明だが、ファンが口を開くより早く、クロムが進み出る。


 『紅鴉ナランハル


 『は?』

 ずい、とクロムが手に持つ布の端を引く。


 「あ、うん!」

 それがクロムの合図だと気付いて、ヤクモはクロムの反対側にぴょこんと跳んだ。


 二人の動きに合わせて布は広がり、鮮やかに無爪紅鴉が現れる。


 『紅鴉の守護者ナランハル・スレン、クロム。我が主は天地に唯一人』


 声を上げた竜騎士は、弾かれた様に膝をついた。

 守護者が主の元を離れて行動することはあるが、無爪紅鴉旗が掲げられるのは、守護者がいるからではない。


 それを掲げることが許されるのは、この世でただ一人。


 『ファン・ナランハル!千歳申し上げる!』

 彼女の声に、他の竜騎士たちも一斉に姿勢を正し、膝をつく。

 急に身を固くした主を、飛竜たちはきょとんとして見つめた。


 『いや、跪礼はいい。むしろこっちがお礼を言わなきゃいけないくらいだ。それより、飛竜たちに飛竜甘露を飲ませて、君らも楽な体勢で休んでくれ』


 長い首を伸ばして、遠ざかった樽に口を突っ込む飛竜を見て、ファンは口許を緩ませた。


 小さな樽の中身を、もちろんファンは知っている。

 飛竜甘露と呼ぶそれは、飛竜が好む甘い果物と砂糖、酒を煮込んで作ったもので、人間が舐めると全身から汗が噴き出すほど甘い。


 長距離、それも雲の高さの上空を飛ぶことは、飛竜にとっても辛く、体力の消耗も激しい。

 作戦が一つ終われば、甘露をご褒美として飲ませ、栄養と機嫌をとるのだ。


 通常は樽から皿に移して飲ませる飛竜甘露を、直接飲ませているという事は飛竜の消耗の激しさを物語る。

 国境から飛び立ち、そのまま飛行して攻撃に移ったのかもしれない。


 アスラン西方国境からここまで飛竜なら半日かからないが、その速度で飛行を続ければ乗り手は飛竜以上に疲弊する。


 雲の高さまで上がれば、真夏でも骨の髄まで凍えるほど寒い。

 その中を風圧に耐えながら騎乗するのだ。

 魔道具で軽減はしているが、それでも飛竜に乗り続けられる時間は馬よりも短い。


 そんな過酷な行軍をしてきた彼女たちに、礼を強要できるはずがない。


 その声に、竜騎士たちは顔を上げた。

 兜で表情は見えないが、ほんわりと緩んだ気配が伝わる。


 誰ともなく再び足を崩し、楽な姿勢で座り込む。

 意図が正しく伝わったことに、ファンは胸を撫で下ろした。


 「…間違いなく、トールんとこのやつだな」


 「しってるひといるの?」

 「王族ナランハルの前で、本人が良いっつったからって、普通はくつろがねぇよ。それをやるってことは、ファンがどういう奴だがよく知ってるってことだ」

 「やっぱ、えらいんだねぇ、ファンって…」

 「ったりまえだ。アスランに戻れば帰還記念のパレードで迎えられるくらいだぞ」


 「…いや、それはさすがに…めんどくさいから、御免こうむりたい…な?」

 ファンの言葉が、途切れた。

 頭上から落ちてきた影に、視界が暗くなる。


 とすん、とその巨体からは信じられないほど軽い音を立てて着地したのは、広場でくつろぐ仲間よりも一回り大きな飛竜だった。


 小さな瓦礫などものともせず、逞しい両足が巨体を支えて地面に降り立つと同時に、ぱかりと口が開く。


 そしてその口は、ファンの頭をすっぽりと納めた。


 「あああああああああああ!!!!!!」

 動転して布の端を握ったまま、ヤクモは飛竜に駆け寄る。


 「は、はなしてよおおおおおおおう!!ファン食べないでええええええ!!!!」

 「落ち着け」


 ユーシンが、ぽかぽかと飛竜を叩くヤクモの両脇に手を差し込み、持ち上げて飛竜から離した。


 「だって!ファン、ファンがあああ!!」

 意に添わず待ちあげられた猫のように藻掻くヤクモの頭を、クロムがぺしりとはたく。


 「じゃれてるだけだ。犬や猫が顔舐めまわすのと同じだ」

 「へ?」


 噴き出た涙で顔をぐしゃぐしゃにしたままファンに視線を向けなおすと、ぽんぽんと飛竜の鼻面を右手で撫でている。


 その動作に満足したのか、飛竜はファンの頭を離した。

 涎で髪も顔もびしょぬれになっているが、怪我はない。


 『ナルシル、元気そうだなあ』


 ファンの声に、飛竜はグルルと低く唸った。

 思わずヤクモは身を固くしたが、ファンは構わず鼻の先を撫でまわす。

 ぐいぐいとその手を押す動作は、言われてみれば甘えているように見える。

 そうすると、先ほどの唸り声にしか聞こえなかったのは、甘えるときの鳴き声なのだろう。


 『お前さんがここにいるってことは…』


 『にゃらんはるぅぅぅぅぅう!!!』

 ファンが首をわずかに傾げると同時に、若い女性の声が響いた。


 声と共に飛竜の鞍から勢いよく滑り降りてくるのは、ファンと同年輩に見える女性騎士。


 栗色の巻き毛がぽむぽむと肩で跳ね、若草色の瞳はなんだか血走っている。

 滑り降りる勢いを殺さないまま、ずざざざっと音を立ててファンの前に額づいた。


 『ちょ、リディア!痛い!見てるだけで痛い!女の子が顔に傷付けちゃいけません!』

 『ほう、いい心がけだ。当然の行いだな』

 ファンが慌ててその肩を掴んで引き起こし、クロムが偉そうに感心する。


 『げ!クロム!アンタいたの?』

 『いるに決まってるだろ。守護者が主の傍を離れることはない』


 ヤクモの手から布の端をもぎ取り、畳みながら鼻を鳴らして口の端を持ち上げるクロムに、リディアと呼ばれた女性騎士はきぃっと拳を振り上げた。


 『あー、ほんっとムカつく!顔だけ良いのが余計にムカつく!』

 『落ち着けって…』


 ポケットから取り出した手巾でリディアの顔を拭いつつ、ファンは笑みが顔に広がるのを抑えなかった。


 『久しぶりだなあ…元気そうで何よりだ。みんな、変わりはないか?』

 『無論です!ナランハル!殿下は毎日のように弟…って鳴いてますけど!』


 ファンと視線を合わせ、報告するリディアの顔が、くしゃりと歪んだ。

 『ナランハル…若こそ、よくぞご無事で…っ!』

 『うん。まあ、元気だから。大丈夫、大丈夫』


 べそをかきながら頷くリディアだったが、ファンの顔右半分を覆う布を見て、ぴたりと涙をひっこめる。

 その周辺の自分の愛竜がもたらした涎の惨状には、そっと目を逸らしつつではあったが。


 『…ちょっと、クロム?若の御身に傷付いてない?』

 ぎろりと睨む若草色の瞳に、クロムは頷いた。

 『それに関しては、言い訳は出来ん。コイツが止めたのに鷹の目を酷使した結果ではあるがな』


 『あー。うん。俺がやったことだからクロムは悪くないよ。それよりリディア、状況を確認したい。あと、悪いけど、西方語に切り替えてもらえるか?』


 「は、はいテ、ティヤ!わかりました!」

 「ユーシンは会った事あったっけ?」

 「わからん!顔に覚えはない!」

 「ユーシン、それとっても失礼なんじゃ…」


 西方語に切り替えてくれたのは、自分への気配りだろう。

 やっぱりタタル語を勉強しなきゃと思いつつ、ヤクモはリディアの顔を伺った。


 『ユーシンしゃま…相変わらず麗しい…』


 だが、その気遣いも不要のようだ。

 ぽわっと頬を染めリディアは失礼なことを言い放った男をうっとりとした顔で見ている。


 「ええっと…」

 「この程度のツラでのぼせてんじゃねぇ。さっさと名乗れ」


 ファンと戸惑いとクロムのツッコミに、リディアは顔をキリリと戻した。


 「私は、リディア・アーレ!アスラン王国星竜親衛隊オドンナルガ・ケシク蒼風フーシルン竜騎士団十人隊長です。

 アステリアの西、ジーニアス諸侯連合のひとつ、イングリド侯国出身です。西方語の方が母国語なので、こちらで会話できる方がありがとうです!」


 母国語、と言う割には、彼女の西方語はちょっとおかしい。

 つまりは気を使ってくれているのだと知れて、ヤクモはますますタタル語の習得を心に誓った。


 「ヤクモです。えっと、シラミネ出身でナハトで育ちました!ファンとは一年前くらいに知り合って、パーティに入れてもらいました!」

 「ユーシンだ!キリク王国より来た!ファンとは幼馴染だ!」

 「ユーシンは名乗らなくていんじゃない…?」

 「む。そうか?」


 ユーシンが首を傾げると、リディアは再び顔を赤らめて手を振り回した。


 『名乗っていただいて身に余る光栄でしゅ!って、若、なんでユーシン様いるます?』

 リディアはユーシンがどこの誰だか知っている。当然疑問に思うところだろう。


 「あー、行き倒れてたのを拾った?」

 「拾われた!大丈夫だ!父上にはモウキ様がなにか、上手く誤魔化してくれているだろう!」

 「親父と兄貴には報告してあるから…」


 「その場合、許容あります…しかしなれど、ヤクモ様も美少年ですし…若、不公平に思えます!美形に囲まれる、不公平です!」


 「ふ、不公平?」

 たじたじと後退したファンににじり寄るリディアの頭に、クロムの拳が容赦なく振り下ろされた。


 「話が進まん。次はさっさとここで何しているのか報告しろ。お前が使い物にならんのなら、お前の部下にさせろ」


 残る竜騎士たちは、肩を震わせて笑いをこらえている。

 何人かが、私が、と手を挙げた。

 もちろん、本当に報告を始める気はない。親愛なる隊長を揶揄っているだけだ。


 いい部隊だな、とファンは手巾で今度は自分の顔を拭きながら思う。

 拭いたそばから飛竜のナルシルが舐めるので、永遠に涎は拭き終わりそうもなかったが。


 「私する!クロムは正確に怒るを覚えますね!」


 随分と親しげな様子に、ヤクモはファンに視線で問うた。

 かつては恋人同士だったとかそういう甘い様子は一切ないが。


 「リディアのお兄さんが兄貴の側近中の側近で、彼女も兄貴の側仕えをしていたことがあるんだ。

 んで、俺もクロムも良く知ってる。俺が出陣するときに付いてきてくれたこともあるしな」

 「そんなこともどうでもいい。さっさと報告」


 手を振って主の思い出話を打ち切ると、クロムはリディアを促した。

 一瞬頬を膨らませたリディアだったが、すぐに顔つきは軍人のそれに代わる。


 リディアがあやしい西方語で語ったことは、ウルガがエディらに説明したことと大差はなかった。


 ただ、他国人には言いにくいアスラン側の事情が含まれていたが。


 クバンダの蜜がアスランで流通し、その出所を追ったところ、大神殿と一人の魔獣学者が浮かんできたこと。

 その魔獣学者が大学で何をしたのか、それを照らし合わせれば、魔族の召喚を本気で試みている可能性が高いこと。

 もし、その存在が知られれば、アステリアの反アスラン派に口実を与えることになると判断されたこと。

 それ故、国境の街を任されるものとして、一太子はいくつかの手を打ったことを。


 「まず、クトラ傭兵団、雇いました。

 ウルガ様に協力を要請し、統率してもらってあります。

 現在、ウルガ様は立場が危険です。今後、あの方の私兵として動かせるようにとの配慮もあります」

 「やっぱりか…」


 アスラン王国にとって、アステリア聖王国が裏切りを懸念せずとも良い同盟国であるという事は、大変にありがたい。

 西方貿易の出発点の安定は、大陸交易の重要な要素だ。


 しかし、現在親アスラン派は宮廷では少数なのも事実ではある。

 聖王バルトをはじめとして、参謀であるウルガや内乱時から従う臣下は親アスラン派だ。

 しかし、宰相をはじめとした貴族らはアスランを警戒し、西方諸国との関係を強化すべきと訴えている。


 大陸交易がもたらす富は、アステリア南部の新街道沿いに集中してる。

 その恩恵にあずかれない貴族たちとしては、アスランは何時まで経っても草原の馬賊なのだ。

 恩恵が飲める立場になれば、あっさり掌を返す可能性は高いが。


 もし、クバンダの蜜を齎した主犯がアスラン人と知られれば、必ず宰相らは何かしらの手を打ってくるだろう。

 国境での商品や人の検査を厳重化するだけでも、足止めを嫌う商人にとっては痛手だ。


 そうなれば、アスラン国内でもアステリア討伐派の声が大きくなる可能性もある。


 戦争になれば、アスランが敗れることはない。

 だが、アステリアの敗北を見た周辺諸国はアスランへの警戒を強め、アステリア領奪回のためにさらなる戦が始まることもありえた。


 「雇用したクトラ傭兵団は二百人。

 現在、こちらに百騎来ているます。

 百騎は王都近辺で待機、五十騎は、先ほど急襲した麓の拠点を抑え、残る五十騎がウルガ様と共に、麓の村を訪れている作戦です。

 一番近い村、もし魔族が顕現したら、嘘はなく終了ですから。周辺警戒に隊を裂いている可能性あるです」


 「麓の拠点?エルディーンさんたちが宿泊したってところか。それなら、大神殿が絡んでいることも?」

 「はい。密売人を取り押さえたのが半月前、その時にもう、名前出てました。大司祭が使用あることも」

 「そっか…」


 クトラ傭兵二百騎の雇用と移動は、情報を聞いて即座に行動に移したとしても難しい。

 国境を軍と呼べる単位で越えるのは、相当な時間がかかる。


 そうなると、隊商の護衛や、隊商そのものに偽装して国境を越えたのだろう。

 誇り高いクトラ傭兵団に身分の偽装を命じるのは、アスランの王子が冒険者と偽るよりはるかに難しい。

 何度も雇い主となり、信頼関係を築いていたトールだからこそできる方法だ。


 同時に、ウルガへ連携を取り、協力を仰ぐ必要もある。

 反対にアスラン国内では、大きく動いて理由を知られれば、アステリア討伐派が出張ってくる。

 そうならないよう、表立っては動かず、秘密裏に事を進めなければならない。


 それら全てを通常の政務や軍事訓練の合間にやってのけたのだ。

 それだけ、魔族召喚が現実にあり得ると警戒した結果だろう。


 「わかった。ありがとう。いや、本当に助かったよ。リディア。部隊の皆も」


 「しかしです。若がこちらに存在いたされること、私、周知ありません。あの排泄物中年が黙秘なら、私、思考あります」


 「…排泄物中年?」

 「クソ野郎って事なら、あのエロ親父が指揮を取ってるんじゃないか?」


 「なんか、すごい単語聞いたねぃ…で、ユーシン、もうぽこぽこしないから、降ろしてよぅ。脇痛くなってきた…」

 「うむ!」


 ぽとん、と落とされて、ヤクモは脇を摩った。

 自重をそこで支えていたのだから、当然痛い。


 「なんか、だいぶんアレなひとっぽいけど、知ってる人?」

 「トールの守護者スレンだ」

 ものすごく嫌そうに、クロムは吐き捨てた。


 「けど、ウー老師せんせいを派遣したってことは、本当に兄貴、事を重く見ているな…」


 「他に、酒類耽溺者もあります」

 「アル中もいんのかよ…」


 「その人もお兄さんの?」

 「ああ。マルトさんって言うんだ。

 あの二人を出してるのかあ…本気っぷりが解るけど、その、いろいろと大丈夫なんだろうか…」

 うーん、とファンも唸って視線を落とす。


 ファンでさえ困った顔をするような二人と言うのは、出来れば会いたくないなとヤクモは思った。


 「スレンって、なんていうか、ふつーのひといないのぅ?」

 「守護者になるようなものは、どこかおかしい!クロムを見ればわかるだろう!」

 「俺とアイツらを一緒にするな!」


 威嚇するクロムを見つつ、ヤクモは大いに内心頷いた。


 ついこの間殉死の話を聞いたが、クロムは間違いなくやる。

 たった一年の付き合いだが、この青年が全ての基準の上に主を置いていることはよく理解している。

 なにしろ、信仰心の欠片もないくせに、主を守るという一心であれほどの御業を行使するのだ。

 普段はささくれ一つだって嫌がるくせに、どれだけ血を流すことも厭わない。


 「リディア、さすがにウー老師も俺らがここにいることは知らなかったと思うよ。麓の村に行ったなら、そこで聞いてるかもしれないけど。リディアたちは別行動だったんだろ?」

 「はい。ならばまだ許容できます。では、若。私たちと一緒に帰還しましょう。この場所は危険です」


 リディアの当然ともいえる提案に、ファンは首を振った。


 「駄目だ。もう、俺はなんとかなるだろうと逃げるわけにはいかないんだ」

 『若っ!?』

 「リディア、頼みがある。回復薬と強壮薬、余剰があれば分けてくれ」


 過酷な行軍をする竜騎士は、そういった魔法薬…それも市販のものよりずっと強力な高級品を携行している場合が多い。

 今回は特に失敗できない極秘任務だ。

 いつもより多くもっている可能性は高いとファンはふんでいた。


 「はい…所持あります。けれど…」


 「この場に兄貴がいれば、こう言ったよ。『よし、往ってこい。弟よ』ってな」

 「そう言いつつ、絶対付いてくるけどな…あのブラコンは」


 クロムの呟きを聞かなかったことにして、ファンはリディアをじっと見つめた。


 「魔族が、本当に顕現してしまうかどうかはわからない。

 けど、ここで俺が逃げれば、きっとそれは敗北なんだ。少なくとも、俺はそう思う」


 「なら、私共、同行します!」


 「駄目だ」

 再び、首が振られる。


 「お前も、飛竜たちも、隊の皆も消耗しきっている。

 それより、別のことをお願いしたい。もう二人、生存者がいるんだ。 

 おそらく、未帰還になっている冒険者だ。

 彼女たちの保護と、麓の村への連携を頼む」


 「…一人だ」


 「え?」

 「俺が担いだ娘は、もう心臓が動いていなかった。あの爆発で、命の灯が消えたのだろう」


 ユーシンの声は、いつもと同じ強さを保っていた。揺らぎはない。

 ただ、それを聞いてヤクモはぽつりと涙を地面に落とす。


 「…絶対助けるって…言った、のにな…」

 「いや、助けた。山林で朽ち果てるのではなく、人として葬られることは無意味ではない。それにもう一人は生きている。無意味なわけがない」


 「うん。ユーシンの言うとおりだ。頼めるな?リディア」

 「…若…!」

 「二騎、救助と連携にあたってくれ。

 残るリディアを含めた九人は、体力を回復しつつ待機。もし、少しでも異変を感じたら、すぐにアスランへ戻って親父と兄貴に報告を」


 「…理解しました」


 今度はリディアの若草色の双眸が、ファンの満月色の左目を見据える。


 「けれど、本国へ帰還するは五騎。残る私を含む四騎は、若の救出に向かいます」

 「リディア」


 「若。若が逃げられない事、理解しました。

 けれど、戦は総大将が倒れない限り、敗北しません。若がここで斃れられたら、我々の…世界の運命の敗北です」


 ふ、と険しく強張らせていた顔に笑みを乗せ、リディアはファンの前に跪いた。


 『ご武運を。雷帝の加護、紅鴉の導きが御身に御座いますように』


 「ありがとう。必ず戻る。待っていてくれ」

 「御意…っ!」


 さらに頭を深く下げるリディアに、精一杯の感謝を込めて頷いてから、ファンは顔を上げて視線を移した。


 半分隠された視界の先にあるのは、さらに上へと続く道。


 「必ず、戻るよ。全員で」

 いろいろな人に、それを約束した。

 「だいじない。必ずだ」


 ナナイ、ウィル、アニスたちにエルディーン。そして、故郷で帰るを待つ家族。

 それだけの人々との約束を破っては、どれだけ先祖に叱られるかわからない。


 大クロウハと開祖のお叱りは、特に怖そうだ。


 運命も、最大の脅威も、その道の先にある。

 それを見据えつつ、ファンはしつこく舐め続けるナルシルの涎を、手巾で拭った。


***


 「落雷…」

 空気を震わせるその音に、ウィルは空を見上げた。

 確かに雲は出てきているが、雷雲とは違うような気がする。


 「ほう、やはり末将の策が当たったようですな!」

 「あー、今の、落雷の魔導かあ…」


 ウルガたちが馬蹄を響かせて駆けて行った先を見ながら、胡散臭い男たちは目を細めた。

 一人は自慢げに、一人は気だるげに。


 そんな二人を、斧の間合いにギリギリ入る位置まで離れてエディは眺めていた。


 アスランの協力者、とウルガが言うからには、間違いないだろう。

 この二人は砂粒ほども信用できないが、ウルガの言うことなら女神の神託に等しい。


 「…それにしてもウルガ様、お綺麗だったなあ…」

 思わず口をついて零れるのは、20年ぶりに拝見したその美貌だ。


 「あたしは初めてお目にかかったけど、いやぁ、評判以上だねぇ」

 「20年前もよぉ、なんつうか浮世離れした綺麗さだったんだけどさ。今も色褪せちゃいねぇなあ」


 あの頃、バルト王子と並んでいると物語の挿絵のようだった。

 まさか、あの二人が結ばれない未来があるなど、誰も思っていなかったと思う。


 噂では、現宰相…当時は辺境伯だった…が、協力の見返りとして、娘を王妃とすることを求めたのだという。


 実際、現王妃は宰相の娘なのだから、その噂は本当だろう。


 取引で女を選んだと、バルト王子を批判するものは、いた。

 けれど、明らかに憔悴した王子の姿を見れば、その批判も立ち消えて行った。


 何より、あの当時軍中にあったもので、辺境伯の協力がなくても勝てると思った者は一人もいないだろう。


 兵士が足りなかった。

 兵糧が足りなかった。

 武器も防具も薬も、何もかもが不足していた。


 兵力が少ないから、兵は休めない。

 多少の負傷なら包帯代わりの布を巻き、碌な薬もないから灰を擦り込んで止血し、戦った。それで手足の壊死を起こし、切断した者も多い。

 空腹は常に覚えていたし、武器は限界まで使った。弓兵は途中から投石兵になっていた。


 その状況で、断れたはずがない。


 幸い、王妃は悪女でも親の傀儡でもない。

 聖王が苦手な内政については、王妃が取り仕切る部分も多いと聞く。

 宰相の専横を一番食い止めているのも彼女なのだと、バレルノ大司祭は語っていた。


 「そういやよう、ウルガ様と聖王陛下の間に隠し子がいるって噂、知っとうけ?」

 「…いても、おかしかないよな」


 結婚できなかったからと言って、やることをやっていないとは限らない。


 「あたしゃ思うんだけどさ。ウルガ様のお顔、誰かに似てるよな」

 「それな。俺もつい最近、見かけたような気がしてよ」


 声を潜め、左右を見渡しながら、マクロイは囁いた。

 「それ、ユーシンなんじゃねぇかな?」

 「…!」


 大きな、やや吊り上がった双眸。小麦色の肌。

 何より、その際立った美貌。


 「ありえる…!」

 「ありえないですなあ」


 「!!!」


 ばっと、エディとマクロイは飛び退いた。

 いつの間にやら、胡散臭いのが一人、真後ろに張り付いている。


 「ユーシン殿はキリク王国の御方。まあ。ウルガ殿とはご親戚ではありますが」


 「へ?」


 「末将の記憶では、ユーシン殿の御母上が、ウルガ殿の従妹にあたられたかと。

 ユーシン殿は御母上に似てらっしゃるのでしょうなあ」

 ほっほっほ、と髭を撫でながら笑う。癇に障る笑い声だ。

 明らかに馬鹿にしているのが見て取れる。


 「…そうですかい。ご教授、ありがとさんでした。

 で、結局のところ、アンタら何者なんだ?クトラの傭兵じゃねぇよな。アンタ、カーラン人っぽいし」


 「末将はカーラン人では御座らぬなあ。

 カーラン皇国は祖国によく似てはおりますが。

 いやはや、奇怪奇怪。異なる場所に、よく似た人と国があるとは」


 にちゃあ、っとした笑いにイラッとしつつ、エディは「そんなら」と言葉を続けた。

 「アンタ、どこのどなたさんだよ」 


 「ぬっふふふ!末将は星竜の守護者オドンナルガ・スレン!星竜君にお仕えする、ウー・グィ!ウー老師せんせいと呼んでくださって結構ですぞ!」


 長い袖を翻し、芝居がかった動作で叫ぶ。


 「…」


 しかし、彼が期待した反応は、エディたちから帰ってこなかった。

 得意げに閉じていた目をうっすらと開けて様子を伺えば、しらーっとこちらを見ているエディたちの姿がぼんやりと見える。


 「…もっと、驚いたり、平伏したりしてよいのですが?」 


 「あんでだよ?その、おどん?なんとかってそもそも何だよ」

 「あー、そっかぁ。知らないよねえ。ナランハルって言葉も聞き覚えない?」


 地面に座り込んで小瓶を口に運びながら、灰色の青年が首を傾げる。

 それを見咎めて、もう一人の協力者である少年が口を尖らせた。


 「あ、このおっさん、呑みやがった…」

 「お酒じゃないよぉ?ただのお水~」

 「ちょっと火をつけてみて良いっすか?」

 「お湯になっちゃうじゃん~」


 だらっとしたやり取りを始めた二人から視線を戻し、エディは一層胡散臭い目でウー老師と名乗った男を見る。


 「で?だからアンタは…なんだよ、チビ助」

 そのエディの服の端を、くいくいとコルムが引いた。


 「タイショー、オドンナルガってノは、アスランの第一王子のコトだヨ」


 「は?」

 「アの国、第一王子を星竜オドンナルガ、第二王子を紅鴉ナランハル、第三王子を月虎サルンバル、第四王子を雲熊ウルバーウガイって呼ぶンだヨ。男でも女デも、王の子ナラ、四番目まデな」


 「えっ!?」

 声は、エディからではなく、その近くから発せられた。


 茫然と口を開けているのは、エルディーンをマーサに任せ、所在無げに立っていたウィルだ。


 その驚きを、コルムは違う意味に解釈した。「ヤベぇよナ」と呟きつつ、頷く。

 「スレンっつウのは、ソの…ナンつの?騎士つウか、とニカく偉い。千人隊長クラいエらい」


 「ほっほー!どうやらことを知るものがおったようですなあ!!」


 先ほどのスン、とした気配はどこかへなげやり、更にそっくり返るウー老師を、赤い瞳の少年が心底嫌そうに蹴り飛ばした。

 限界まで反っていた腰を蹴られ、キョェイと人間離れした声を上げて、ウー老師はもんどりうつ。


 「ちょ…!なにをするか!」


 「イラッと来たら尾てい骨辺りを蹴れって言われてるっすー」


 「ほんとうに?!本当にそんな具体的に!?」

 「あー、殿下なら、いいそーう」

 きゃっきゃっと笑う青年に、ウー老師は歯を剥きだして怒った。


 「マルト殿!もう少し、先達を敬うがよいぞ!末将に何かあれば、星竜君わがきみもさぞかし嘆かれて…」


 「んー、仕方ないなって立派なお墓立ててくれるよ~」

 「嘆かわしいっ!世の若者はこんなにも年長者を蔑ろにするのか!

 ああ、世が乱れるのも道理なり…」


 「あの…あ、あのですね」

 転がったままのウー老師にふらふらとウィルは近付き、しゃがみこんで助け起こした。


 「おお、良い心がけ。さすがは慈悲深き夜明けの女神の信徒であられるな!感心感心!」


 「…ナランハルって、王子様を…意味する、んですか?」


 ひたり、とウー老師はウィルを見つめる。

 その表情は、大袈裟に痛がり、嘆いていた時のままだが、目だけは底知れない色を宿していた。


 全てを見透かされている…否、尋問されているような恐怖で、ウィルは続く言葉を飲み込んだ。


 ファンさんは、王子様なんですか?

 その一言は、口から出せなかった。しかし、伝わっていることは解かった。


 「…そなたは、ナランハルを存じておるのだな」


 ウー老師の声は小さい。

 ウィルにははっきりと聞こえたが、離れたエディらにはウー老師が声を発したことさえ分からないだろう。

 口はほとんど動かず、表情も変わらない。


 しかし、鋭く切り込むような問いは、ウィルを頷かせた。


 「ナランハルは、それを誰かに伝えてよいと?」

 「…黙っててほしいって…あ、あの!」


 ぐ、と腹を押されて声が漏れるように、ウィルは質問に答えていた。

 誤魔化すつもりは元々ないが、黙ってさえもいられない。

 断れば、何をされるかわからない恐怖が、ウィルに記憶を掘り起こさせる。


 だが、思い起こしたのは、ファンの困ったような笑顔だけではない。


 「悪い人に、狙われたって、聞きました…」


 それを疑ってはいない。

 バレルノ大司祭が最初に見せた態度や、後継者争いに勝手に巻き込まれたというところからも、相当身分の高い人なのだろうとは思っていた。


 けれど、王族…それも、第二王子だとは。


 「なんで…悪い人、捕まえたりして、助けてあげないんですかっ…!」


 貴族なら、手出しできない相手もいるだろう。

 もっと身分の高い家から難癖をつけられたら、逃がすくらいしか手はない。


 けれど、王族なら。一番偉いのだから。


 悪い奴は捕まえて牢屋にでも放り込めばいい。

 なのに何故、ファンが逃げなくてはいけないのか。


 「…戦が起こるからですな」

 「え…?」


 ぽつりと囁いた後、ウー老師は大袈裟に顔を歪めた。


 「あああ、痛い、痛い!若者よ、ちょっと肩を貸すのだ!誰ぞ、寝転がれるよう敷布を!」


 その声に、直立不動だったクトラ傭兵の一人が動く。

 完全に無表情ではあるが、背負っていた荷物から毛布を取り出し、地面に広げた。


 「ご苦労!よし、若者よ!そこまで末将を…」

 「あ、はい…」


 ずっしりと掛けられた体重と、何か香水のような匂いと加齢臭が混じった悪臭には思わず顔を顰めてしまったが、ウィルは素直に肩を貸して歩き始めた。


 「ナランハルを襲ったのは、南フェリニスの王太子でな」

 「!」


 声を出しそうになったウィルの脇腹を、ウー老師は足がもつれたような振りをして指で押す。

 その痛みで、声はただの息になってウィルの口から洩れた。


 「無論、南フェリニス王がそれを知れば、翌日には両手足を折られて動けなくなった王太子が、アスラン王の御前に捧げられよう。

 王太子の地位も剥奪し、王族としての全てを抹消された罪人としてな…」

 「なら…」


 「それが、巷間に広まればどうなる」


 ウィルは首を振った。悪いことをしたから、王族であっても処罰されるというのは、悪いことではないと思う。


 どう考えても、ファンが何かをして、それが原因で怒って犯行に及ぶというのはあり得なさそうだ。

 殺してやると恨まれるようなことをする人には思えない。

 なら、批判は突然そんなことをした犯人にしか向かないだろう。


 「南フェリニスは、アスランの家畜のようなものだ。

 餌をやり、太らせ、その肉を狙う野良犬を追い払い、育てている。

 それを快く思わないものは、アスランにも南フェリニスにもおる」


 毛布の側に辿り着き、ウィルは肩を貸したまましゃがみこんだ。

 大袈裟な表情の中、冷たい瞳と声がウィルに注がれる。


 「その中で、ナランハルが南フェリニスの王太子に襲撃された。

 これは、アスランからすれば家畜が飼い主を襲ったようなものだ。

 そんな凶暴な家畜は潰して肉に変えろと声が出る。

 対して南フェリニスでは、アスランの王子がよほど腹に据えかねるようなことを王太子にしたのだろうと憤る。

 あちらでは王太子の人気が高いのでな…。

 そうなれば、北フェリニスとの統一とアスランからの独立を目指す一派が力をつける。

 それは、どれだけ水をかけても土をかけても消えない熾火のようなものだ。最悪の折に、火柱を上げるだろう」


 国を家畜に例えるのは酷い。

 そう思うが、ウィルは何も言うことができなかった。

 辛うじて口を動かしても、言葉にならない。


 「アスランは、現在極力国家間の戦争を避けておる」


 毛布に転がりつつ、ウー老師は囁きを続けた。

 「国と国で、人と人で争い、消耗することだけは避けねばならんのだ」


 戦争は、ない方が良い。それは当然だ。

 人が人を殺し、憎しみと悲しみを無限に生み出す。

 そんなもの、ない方が良い。


 だが、この男が、そんなことを言うだろうか。


 国を家畜と呼び、搾取されることも当然と言わんばかりの口ぶりの男が。


 「わが祖国では、人は人とだけ戦をしておればよかった。

 人が相手ならば読むことができる。むしろ相争わせて、利を得ることもできよう、だが、後にやって来るのは、末将の知る戦ではない」


 ウー老師は、転がったまま右手をゆらりと上げた。

 その掌には、何かが貫通した痕が残っている。


 その痛みを、ウー老師は知らない。

 死体は痛みを覚えない。いつの間にか付いていた傷だ。


 見るたびに、痛みや屈辱より、してやったぞと言う勝利感が沸き上がる勲章だ。


 だが、死してなお敵を討った謀策も、この先に通じるかどうかはわからない。

 先達は敵を知り己を知れば百戦するも百勝できると記したが、敵をどれほど知れるか、それ自体わからないのだ。


 「ならば、知ることのできる己の方を揺らぎなく強固にするほか、策はあるまい」


 「何言ってるか…わかんないです…だからって、どうしてファンさんが、家を出て、大変な思いをしなきゃいけないんですか…!」


 「先和まずわして而後しかるのちに造大事だいじをなす

 偽りの和でも、争よりは良い。

 時を稼ぐうちに、偽りを真の和とすればよいのであるしな。それを最も理解されておられるのが、ナランハルゆえ」


 表面化させない事を真っ先に言い出したのも、つい先ほど殺されかけたファンだった。

 それは決して、昨日までの友人に情けを掛けたからではない。


 厳しい掟がなければ、遊牧民はすぐに馬賊となり果てる。

 元々彼らは掟破りには厳しい。


 生まれた時からその概念を叩き込まれ、長じてからは法治について学んだファンが、殺人未遂を友人だからなどと言う理由で許すことはない。

 せめて馬裂きではなく斬首にしてくれと言う程度だろう。


 それを曲げても己が引くことを選んだのは、すぐにその先に何が起こるか察知したからだ。

 そして、その突然の裏切りは、何かが図面を引いた可能性があることを思い至ったからだ。

 来なければいいと祈っていた運命が、ついにやってきたことを感じたからだ。

 

 俺に期待されているのは、全部ぶっ倒して新たな英雄譚を紡ぐより、企みを潰していって追い返すことらしいよ。


 そう言って笑った顔を思い出す。

 この一件も、そうした企みのひとつだと、おそらくファンは考えている。

 それならば、なんとしても止めようと前へ進むだろう。


 「この地にナランハルがおわすこと。それもまた、世界の一手なのやも知れんな。神々の思惑などとは思いたくは御座らぬが…」


 「え?」


 「いやはや、奇々怪々。そして若者よ。

 何故、ナランハルが庇護者の懐から飛び出し、日々を懸命に過ごしておられるかと、言うことであるがな」


 そう、きっと、それは運命や神々の思惑より、ずっと重い理由だ。ファンの中では。


 「たんに、この地…西方の草やら虫やら文化風習やらを、我が目で見たいという欲求をかなえる好機だったからであると思うぞよ?」

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