天鷚

あいさ

天鷚

 重たい太刀を手に息を切らして石段を上れば、鮮やかな朱色の鳥居が現れた。

 ぼうっとした頭で振り返る。灯丸ほまろの村が望めた。山と田畑と、地面を掘って作られた粗末な家々がある。

 もう一度向き直れば、まだ新しい流造ながれづくりの立派な社殿しゃでんが鎮座している。


 この社は幾年いくとせか前に、この地の国司くにつかさだった都の貴族によって建てられた。

 貴族の信仰ぶりは篤く、自らの幼い大姫おおひめかんなぎとして据えた。

 そのいさおもあってのことだろうか。都に戻った貴族はたちまち出世し、今では公卿くぎょうのひとりに数えられる。


 灯丸はかぶりを振って背筋を伸ばし、鳥居に一礼をする。


 

 祀られた神は古く、繁栄と厄災、そのどちらをも司る。そのためひどく気性が荒く、気ままですぐに人を祟る。


 鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れるとしんしんと辺りが澄み渡る。

 向拝こうはいにも一礼をし、境内を歩き回る無礼を詫びる。


 貴族は都に帰ったが、巫として据えられた姫は残されて今も社の神に仕えている。曾祖父には三の宮を持つ高貴な姫君を、村人たちは祝姫はふりのひめと呼び慣わした。

 祝姫を探して境内を進む。裏手の小川で桶に水を汲む、被衣かずきを着た娘がいた。


「祝姫、太刀をお持ちいたしました」


 灯丸の声に気がついて、娘は立ち上がる。

 履き物はなく裸足で、粗末な小袖こそでをたすきで結んでいる。そして、少し前に見たときは膝ほどまであった髪は短く切られており、余計に卑しく見えた。

 都から功徳くどくにあやかろうと訪れた人々も、みすぼらしいこの娘が帝の血を引き、宮中でときめく大納言おおいものもうすつかさの大姫とは誰も思うまい。


「灯丸?」


 祝姫が戸惑う灯丸を怪しがるような声で呼ぶ。


「あの……髪はどうしたのですか」


 ああ、と祝姫はその髪の端を撫で、こともなげに「それの足しにしました」と灯丸の手にある太刀を指した。


 その返答に灯丸はぞくりと背が凍る思いだった。思わず、太刀を強く握りしめる。


 祝姫は肌は日に焼け、手指は荒れて、紅すらささず、辛うじて歯だけは黒く塗っているといる困窮ぶりにもかかわらず、射干玉ぬばたまの髪だけは大事に伸ばしていた。


「大納言が恨めしくございます。あれほどの権勢けんせいを誇りながら」


 灯丸はうめいた。


 都からはぬさや酒、塩といった御饌みけ、神遊びの榊や杖、鏡や器といった道具など、神のためのものは山ほど送られるが、ひとつとして祝姫のためのものは送られなかった。


 だから、祝姫は下人げにん女房にょうぼうは侍らせておらず、神事のみならず身の回りの雑事もほとんどを自らこなしている。それでも、手の行き届かないところは灯丸の一族が面倒を見ているほどだ。


弟姫おとひめ東宮ひつぎのみや入内じゅだいするそうです。すばらしいことです。栄華は極まりました」


 和やかに祝姫は言った。

 それが貴族の娘としてどれほどのことか、見識の狭い灯丸にもわかる。


「お隠れになるつもりですか」

「いいえ、そのつもりはございません」


 灯丸は後ろに一歩、祝姫から離れた。


「では、どんなつもりでこの太刀を用立てたのですか。お答え頂けなければ、お渡しすることはできません」


 祝姫はその首を傾いだ。短い髪がさらりとおもてにかかる。ゆるりと太陽が傾き、木々が更に祝姫へ影を重ねた。


「灯丸は斎王いつきのみやはわかりますか。皇尊すめらみことに代わり、日の神をはいし、ぼくを行い、皇尊の平安を祈る皇女ひめみこのことでございます。我が父はそれを真似たのでございます」

「だから、大納言は置いていかれたのですか」

「さようでございます。先帝せんていの血を受けたるお方は、都ではさして珍しくもございません。そも、皇尊のご寵愛を頂けているならば、都の外に赴かされるはずもありません。真ならば我が身は、葉が川に流されるがごとく下っていくだけの血筋でありましょう」


 祝姫が拝する神は豊穣と災厄、そのどちらをも司る。古き神の気性は荒く、それだけ強い力を持つ。


「私をここに留まらせ、神を拝させるだけで、我が父は大臣おおいもうちぎみに至るでしょう。弟姫は必ず皇子みこを産みまいらせ、皇子は東宮になるでしょう。その道を妨げよう者どもはすべて不幸になるでしょう。すばらしいことです」


 影が濃く、祝姫の顔は見えない。

 それは空しいことだ、と灯丸は思った。その繁栄の中に祝姫はいない。


 昔、灯丸は村の童どもと祝姫と呼ばれるようになる前の国司の大姫を垣間見たことがある。

 美しい衣装を着て、雲雀を籠に入れて愛で、乳母めのとと囲碁を打っていた。

 それが灯丸にとって最も貴いものだった。今でも、明日でも変わらず。


「おれの妻になりませんか。おれは東宮にはなれませぬが、どこへなりとも連れて参ります。すばらしいものはすべて、差し上げます」

なれが私の此方こちの人になりたいと申すのですか」

「はい」


 灯丸は頷く。祝姫は影のないところに出て、被衣かずきを落としてその場に座した。


「こちらへ、灯丸」


 呼ばれるまま灯丸は祝姫の近くに寄り、ひざまずいた。

 いつもと変わらず祝姫は和やかに微笑むばかりだ。


「私は斎王いつきのみやのような、穢れなきものではございません」


 祝姫はためらいなく腰帯を解いた。


 灯丸は思わず生唾を飲む。

 いつもきちんと服を着ている祝姫の肌は見慣れた村の女子衆おなごしゅうとは違って、白くきらめいていた。

 

 しかし、その白さには不似合いな真っ黒な紋様が蔦のごとく絡まっている。


「祟られております」


 静かに、祝姫は言った。


「この瑞垣みずがきの一歩外にでも出れば、たちまちに呑まれて化生けしょうと成り果てるでしょう。そういう風に、父は神と契ったのでございます」


 祝姫は再び袖を通し、腰帯を締め直す。


「灯丸、汝の父母かぞいろは兄弟はらからもまとめて喰ろうてしまうかも知れませぬ。なお悪ければ、かの神に祟られてしまうかも知れませぬ。それでも、まだ、私を妻にと?」


 灯丸の体は燃えるように熱く、喉は干上がっていた。


「……生贄となんの変わりがありましょうか。水にも、疫病えやみにも困っておらぬのに。ああ、なんとむごい。申し訳ありませぬ、申し訳ありませぬ」


 そのまま、地に頭を擦る。どこまででも逃げるつもりはあった。


「いいえ、それが人の業でございます。そのすべてを私は許しましょう。面を上げなさい」


 祝姫の言葉で灯丸は擦り付けていた額を上げたが、恥ずかしさで祝姫の顔を見ることはできなかった。


「今日まで灯丸にはとても良くして頂きました。あの神は愚かなこと、嘘もまことも見抜けませぬ。しかし、なれは違います。ですから、汝だけには教えましょう」


 そこで灯丸はやっと、まだ祝姫が太刀を欲したわけを聞いていないことを思い出した。


「昔、都には鬼が手を出して、人を捕まえては喰らう穴がありました。札を貼っても祈祷をしても、変わらず手は伸びて人を喰らいました。けれど、征矢そやを穴に結びつけたらそれっきり、現れなくなったと申します。他にも太刀によって、弓によって、鬼を討ち果たした話は多くございます。ならば、神もさしては変わらないのではありませぬか」


 祝姫は神を殺すつもりだ。灯丸は今度は恥ずかしさではなく、恐ろしさで祝姫の顔を見られなかった。

 それが為せるかどうかではなく、それを為そうとする祝姫が恐ろしくてたまらなかった。


「なぜ、そんなことを」

「異なことを。灯丸は知っているでしょう」


 祝姫はすいと立ち上がる。それに釣られて、灯丸も顔を上げた。


「恨めしいのでございます。妬ましいのでございます。これほど辛いことはございません」


 祝姫の指先はこすれて血がにじんでいた。それを見て、灯丸は再び顔を伏せた。


「為したら、祝姫はどうなるのですか」

「化生に堕ちるでしょう。それでも、灯丸が惨いと申したおかげでより心は決まりました。さあさ、その太刀を」


 和やかな所作の下、どれほどの空しさを祝姫は抱え込んでいたのだろうか。案じてみれども、その一分も灯丸にはわからない。

 ただもう二度と、祝姫は幼い頃のように雲雀に笑いかけない。


「こちらでございます」


 震える指で灯丸は太刀を差し出した。手のひらにあった重さが失われる。


「化生に堕ちたら、祝姫はどうなさるおつもりですか。おれを喰らいますか」

「いいえ、灯丸、都には夜ごと鬼や魍魎のたぐいが列を成しておりました。あれは多くは腕が足りなかったり目鼻が多かったりといった有様ですが、どうせ化生になるならば私は鳥になりとうございます」

「鳥、でございますか」

「灯丸は知っていますか。日には三本足の烏、金烏きんうがいるそうです。ですから、太陽を喰ろうてやろうと思います。あれより貴いものを私は知りません」


 太刀を抱え、祝姫は浮き立った様子で神楽を踏みだした。


「祝姫は狂うていらっしゃいます」

「さようでございましょう」


 こともなげに祝姫は鈴の音のごとく声を立てて笑った。


「祝姫はきっと雲雀になりましょう。金烏きんうよりも高く空をかけられるでしょう」

「あな、うれしく思います」


 そして、灯丸は祝姫に一礼をし、逃げるように石段を下りていった。



 それから、五日も経たないうちのことだった。


「ありゃあ、なんじゃ」


 畑を耕していた兄が震える声で叫んだ。


 灯丸が釣られて上を見上げれば、山の上、社があるべき場所が小石に思えるほど大きい、黄橡きつるばみの鳥がいた。


 ぴーちゅるぴちゅる、ぴーちゅるぴちゅる。


 地が震えるほど甲高く鳥は囀り、翼を広げてその身を空に乗せた。その影は束の間、里をすっぽりと納めたあと高く高く、翔る。


 灯丸は持っていた鍬を投げ出して、走り出した。兄が呼び止める声が聞こえたが、構っていられなかった。


 石段を駆け上る。鳥居を抜ければ、屋根が剥がれ落ちた社殿が見える。浜床はまゆかに血に濡れた抜き身の太刀が突き刺さっていた。


 壊れて傾いている本殿の扉を押す。扉はあっさりと倒れた。

 穴の開いた壁、僅かに残った天井、切り裂かれた御簾みす、ひっくり返り踏み潰された祭具と供物。そのすべてが隙間なく赤く、鳥居の朱色よりもよほど鮮やかだ。


 その中心に真っ二つに裂かれ、ついばまれた神の遺骸がある。


 灯丸は空を見上げた。


 日はまだ昇っていた。

 それに向かう一羽の鳥は既に見えやせず、甲高い雲雀の囀りだけがどこまでも響いていた。

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天鷚 あいさ @aisakatagiri

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