6.ダラシーノ参上
玄関のドアのまわりは風防のガラスに囲まれていて、そこには既に雪かきのスコップが並んでいた。いかにも北国らしいその玄関のドアが開く。
「いらっしゃいませ。オーナーがお待ちです」
セミロングの髪をひとつに束ねた涼しげな面差しの女性が出てきた。
黒いギャルソンの制服で、きちんと身なりを整えている。
神戸からやってきた給仕長としても、その第一印象合格だった。
それよりも篠田はもう、堪えきれずに彼女へと大きく一歩踏み込んでいた。
「ハコちゃんでしょ」
俺、よく知っているよ。ずっと前から。先輩が生きていた時から。先輩のこともたくさん知っている。ハコちゃんもだよな!?
もうそんな勢いで彼女に微笑んでいたのだが、その彼女が顔をしかめている。
なんなのこの人という顏なのは百も承知。篠田は神戸からずっとずっと携えてきた気持ちを抑えきれずに、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、急いでSNSのアカウント画面を開く。そして、彼女に見せた。
「俺、ダラシーノです」
彼女の涼しげな目元に驚きがひろがり、かわいらしく大きく見開いた。
「蟹を送ってくれなくて、怒っていた……あの……、神戸の……」
先輩が、あの男同士でふざけあった会話をハコちゃんに見せたら、彼女が楽しそうに笑っていた――と話していたことがある。
「大事に育てたいと言っていた。途中だろ。俺が仕上げてやるよ」
ハコが頬を引きつらせていたようだが、ぜんぜんかまわない。
もう後には戻らない。きっと、神戸にも帰らない。そんな予感がある。
十和田シェフとの面接も一発合格。秀星先輩の後を担ったメートル・ドテルだと知って、それはもう嬉し泣きをするようにして歓迎をしてくれた。
珈琲を運んできてくれた葉子は、ちっとも笑ってくれなかったが、運ぶ姿勢に仕草も合格だった。
大満足で珈琲を飲んでいる篠田を、遠くから彼女が怪訝そうに窺っているのも承知済み。
大変だろうな。秀星先輩を乗り越えるのは。
篠田はそう思っているから、なおさらに張り切っているのだ。
今度こそ。先輩を超えてみせるからな!
冬は白鳥が飛来し、湖が結氷する。夏に睡蓮が咲くと言われている小さな橋と橋の間は凍りにくいとのことで、そこに白鳥が集まるので『白鳥セバット』と呼ばれているらしい。
湖面の氷が溶けてくると、春の訪れとともに白鳥が旅立ち、水辺に『水芭蕉』が咲き始める。
「わー、寒いようー。四月なのになんでこんな寒いんだよぅ」
篠田はダウンコートを羽織っているのに、葉子はもう薄いトレンチコートで、ギターを背負って歩いている。
「給仕長、春も初めてで慣れていないんですから、一緒に来なくていいですってば」
「やだ。俺はこの寒さに早く慣れたいんだ。それにハコちゃんの唄も生で聴けるの俺だけというこの超絶レアな特典を捨てられない」
冬の間は外で唄うと喉を傷めるとのことで、葉子は風景だけ撮影して、レストランの休憩時間、室内で唄った音声と映像を合わせた編集でチャンネルを運営していた。
その時は室内で唄う彼女のそばで、篠田はぬくぬくと生歌を毎日聴いていられたのだ。
なのに。気温がプラスになり始めたころ、葉子が『暖かくなったので、おなじみの朝の時間、外での活動開始します』と出かけるようになった。
篠田もその時間に湖畔に赴き、慌ててついていくようになってしまった。
「こんなプラスの気温なのにダウンコートを着ないと寒いなんて、まさに内地の人そのものじゃないですか。観光客と一緒ですよ。給仕長はまだ神戸の人と一緒なんです。北国が初めての人は体調に人一倍に気をつけたほうがいいですよ」
「撮影だけならすぐに終わるんだろう。俺も見たいよ~。映像じゃなくて生の大沼の春を見たいよ~」
『なんなの』とハコが呆れて密かに呟いているのも、いつものことだった。静かで穏やかな大人だっただろう秀星先輩と比べられていることもわかっている。ダラシーノは賑やかで騒々しくて鬱陶しいと彼女は思っているようだった。
葉子はいまも毎朝、秀星先輩が息絶えた場所に向かい、その日の大沼小沼蓴菜沼と駒ヶ岳の風景を撮影しながら、カメラスタンドの後ろで、姿が出ないように唄っている。
唄う前、葉子はその日の季節の様子をコメントしている。
彼女が立っている水辺にも水芭蕉が咲いていた。
「北国の春は本州に比べると気温が低いのですが――」
あ、俺と一緒にいるからそういうコメントになった? なんて、篠田はいちいちニヤニヤしてしまう。
「水芭蕉が咲くと、春だなと感じます」
白く可憐な水芭蕉がみっつほど寄り添って咲いている姿を、カメラを自ら持って撮影し紹介したあと、葉子はいつも固定しているスタンドにハンディカメラをセットする。
スタンドの後ろに立って、背負っていたギターを肩にかけなおし、ピックを持って姿勢を整えた。
「今日のリクエストは、アルパチさんから、佐野元春『約束の橋』――」
「うっそだろ!?」
葉子が振り返って、怒った顔をしている。
*なに、いまの声!?
*この前からなんかそばで、変な声が入っているよね!?
*ハコちゃんの家族??
*うん、聞こえたことある! 寒い寒いって聞こえたことある!
*俺は『うわ、めっちゃ吹雪』って聞こえたことある!
*ハコちゃん、真冬はレストランの室内で唄っているもんね
*え、従業員?
そんなコメントが増えていくのを篠田もスマートフォンで眺めて、『うわわ、マジか。俺、遠くで見ていたのに。声がでかいから??』と初めて知りたじろぐ。
だがハコはそのまま、何食わぬ顔で姿勢を改め、唄い始めた。
篠田も反省をして、口元を押さえ、じっとじっと静かにそばにつきそう。
だが篠田の心は大騒ぎ。『やりましたねー! 矢嶋社長! やっとやっとハコちゃんがリクエスト拾ってくれたよ!』。ああ、神戸でめちゃくちゃ驚くだろうな。メッセージ来るだろうな~。ハコちゃんも、いつも訪ねてくる、頼りがいあるおじ様社長と慕っている矢嶋さんだと知らないで唄うんだな~。なんてニヤニヤしていた。
でも、彼女の唄を毎日そばで聴いていて篠田は思う。
ああ、やっぱりいいなあ。生の声。めっちゃいい。
近頃はギターの伴奏もリズミカルで上達してきて、ますますプロっぽい。
毎日彼女のライブの、いちばんそばにいる視聴者は俺。
もうほくほく顔でいつもそばにいるのだった。
こんな特等席はなかなか、ないのである。
聴きながら、グッド👍を一番乗りに押しちゃうのである。
ライブ配信が終わり、そこからは通常配信としてリアルタイムで観られなかった視聴者が、一日の間に続々とアクセスしていく。
ランチタイムになり、二人揃って、白いシャツ、黒いジャケットとベスト、蝶ネクタイの制服に身を固め、背筋を伸ばしてフロアに立つ。
ハコの勤め先を突き止めた者もたまに見られるようになった湖畔のフレンチレストランは、この日のランチも予約で席が埋まっていた。
この時間になると、篠田は表情を引き締める。
その時になると、葉子は篠田を敬う視線を向けてくれる。
彼女も篠田の指示にきちんと従ってくれ、メートル・ドテルとしての教えには、素直に頷いて身につけていこうとしている。
休憩時間を迎えると、葉子はSNSにコメント付きで、秀星先輩が過去の同じ日付に撮影した写真をピックアップして投稿していく。
その作業も先輩が遺したパソコンがある給仕長室で行っていた。
篠田がここで働くようになり、給仕長として、この小さな事務室を引き継いだが、葉子が休憩中に『ハコ』として、そこで作業をすることを許可している。
給仕長のデスクに彼女が座り、秀星先輩のパソコンから写真データを眺めて、今日の写真をピックアップ中。
篠田はそばにある小さな椅子に座って、厨房から紅茶を煎れて休憩中。
葉子の手元にも、つくってあげたミルクティーをおいてあげた。
だからなのか。彼女がちらっと篠田を見た。
「今朝の声、ライブ配信だったから消せないままなんですけれど。なにがあったんですか」
「あ、ごめん。……えっと、なんでもないよ。悪かったよ。気をつける」
「どうして驚いたのですか。教えてください」
「……俺が、大好きな、唄だったもんで……」
葉子が疑わしい目線を向けてくる。
でもツンとして受け流してくれた。
篠田が置いたミルクティーをそっと手に持ってひとくち……。
「いつも、おいしいです。ありがとうございます」
しおらしくなる瞬間を見ちゃうと、そこが堪らなくかわいいもんだから、篠田にとっても怪しいおじさんになっちゃう瞬間。またニマニマと変な笑顔になっているのだろう? 葉子が怪訝な様子で顔をしかめている。
「どうしていつも、楽しそうなんですか」
「え? あ、うん、いま毎日楽しいよ!」
「そう、ですか? 神戸に帰りたくはないのですか。期限付きの契約なんですよね」
篠田はそんな彼女に満面の笑みを見せて、答える。
「でも。もう帰らない!」
先輩がどうしてここに居着いたのか。よくわかるようになったからだ。
きっと俺も、十和田父娘とここにずっといると思う。
大沼の森の木立に抱かれ、秀星先輩を弔いながら、彼女のそばに付き添っていきたいと
「ハコちゃん、明日はなにを唄うのかな」
「うーん……。ダラシーノさんの好きな曲」
「え、え。マジ!? マジで!?」
いざとなると思い浮かばなくて困ってしまう蒼だった。
(終)
名もなき朝のアカウント《篠田の日課、いいね》 市來 茉莉 @marikadrug
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