朱色の夢をみる夜に。

静沢清司

第1話

 朱色の夢を、見た。


 それは深い夜での出来事だった。冷えていたせいか、体が目覚めてしまった。しかしとなりにいたはずの母がいなかった。探すにしてもここは武家屋敷みたいに広い建物だ。いったい何十分かかることやら。

 黒髪の少年は風を浴びに庭へ向かう。木々が立ち並び、花が咲いていた。まるで森みたいだ、と見るたびふと思う。大広間みたいな寝室をあとにして、裸足をでこぼこの地べたにつける。小石でも踏んだのか、足裏の肌に傷がつく。一瞬、息がつまる。

 いったん上がって傷の手当をしようかと考えたが、後回しにすることにした。傷は気にせず、少年は再び歩き出した。足が地面につくたびにチクチクとした痛みが脳に伝わった。けれどもなぜか、風を浴びたい衝動に駆られてそんな痛みはすぐに忘れられた。

 唐突に、鼻が狂うような錯覚におそわれた。異臭が感覚をしびれさせ、あとずさりした。この先、この奥、なにが自分を待ち受けているのだろう。どうしようもない胸騒ぎが気になった。これの正体である恐怖心と好奇心が対立して争った。そして、風が吹いて─────少年は止めていた足を進めた。

 進んでいくとともに、暗くて見えなかった景色が明らかになっていく。複数の人間が横たわっていた。朱色の布を円状に広げて、そのうえで人が倒れていた。よく見ると、人は寝ていなかった。まぶたは開けたままで、呼吸をしていない。寝ているのなら、普通はまぶたは閉じているし、呼吸するたびに胸が上がるはず。

 そこで少年は、一つの可能性を思いついた。アレはもうとっくに息をしていなくて、まぶたを閉じることさえできなくなっているとしたら……つまり、死んでいたら。あの、着物姿の中年女性が倒れているのもきっと……。


「おかあさん!!」


 幼くして、母を亡くしたかもしれないという絶望。まだ生きているかもしれないという希望。双方が織り交ざって複雑にからまった感情がうまれる。

 少年は倒れている女性に駆け寄り、あおむけになっている体をゆすった。何度もやったが、起きる気配がまったくなかった。そのとき、手のひらに濡れているような感触がした。手のひらをかえす。月に照らされ、その色が明るみに出る。

 赤くて……黒い……。どこまで沈んでも底がないような配色だった。むしろ吸い込まれて、引きずり込まれて、延々とその中をさまよってしまうような。

 答えはもうわかっている。結果がなんなのかはもうわかっている。

 少年は誕生から7年にして、母を失くしてしまった。理解したとたん、押し寄せてきたどうしようもできない感情を押し殺す。目尻めじりに涙がたまる。容量が限界をこえて、涙はほおをつたい、やがて落ちる。緑色に染まっている地面で、涙が弾ける。嗚咽おえつをもらす。

 結局押し殺すことなんてできなかった。あふれ出る感情、湧き出る涙、脳裏をすらりとよぎる母との思い出。母は、自分を寝かせるために寝室で子守唄を歌ってくれた。いつもなら一人で寝なさいと叱る母が、今夜に限って息子と共に眠りについた。つまり母は、この状況を想定していたのだ。最初からわかっていた。だから息子だけでも助けるつもりでいた。だけど、その息子が夜中に目覚めることは想定していなかった。

 なぜ、共に逃げようとしなかった。なぜ、ここを離れようと思わなかった。そもそも、なぜ母が殺されるのだ。なぜ、殺される必要があったのだ。

 なぜ……! なんで……!?


「……まだ残ってたのか」


 不意に後ろから声をかけられる。


「だがまあ、殺す必要はないか。私の目的はあくまで永沢和美の”暗殺”だからな」


 暗殺……。


 少年の前に現れた黒衣につつまれた青年は、不機嫌そうに舌を打つ。それは、暗殺で済ませるはずが、殺害対象ターゲットの実の息子に現場を見られてしまった。目的は無事達成された。しかしこれで完全ではなくなった。本来ならば、ここで幼年の首を切ることだろう。だが彼は、殺しすぎてしまった。思いのほか、護衛が多すぎた。

 

「待てよ……!」


 それは────その年齢から出るような声ではなかった。唯一信じてきた家族を殺されてしまった憎しみを、吐露とろする。殺してやる、と意志が行動に出た。下ろしていた腰を上げて、彼を直視した。涙を流したことで、少年の目はひびのような模様があった。充血していたのだ。股を縦に広げて、助走をつけた。右足が前で、左足が後ろ。まともな呼吸ができない。ハアハアと今にも途切れそうだ。

 次の瞬間、少年は精一杯息を吸って叫ぶ。それと同時に彼に向かって駆けだした。

 黒衣の青年は、ずっとその場面を凝視していた。単純な話だった。たかが七歳の子供が、憎しみをむき出して走るその行動に、彼はつい見入ってしまった。速さは姿勢などを問うことこそ、おろかだ。彼はただ、無力な子供が憎しみだけを武器にして立ち向かうというその姿に、既視感きしかんを覚えただけだった。

 彼の胸にすとんと落ちる、記憶のカケラ。彼に残されたたった一つのピース。


「なんで……………なんでかあさんを!」


 彼にぶつかって、憎悪に染まった瞳で理由を問う。


「…………」


 それに対して青年は黙り込む。その問いはさきほど答えたからだ。少年の母こと永沢和美の「暗殺」が、その答えだ。


「なんで……な、んで……!」


 またしても涙をこぼし、崩れ落ちた。


「母を殺された痛みは、私にはわからない」


「────!」


「が、私が犯した罪は、私自身が一番理解しているつもりだ」


 それは、青年のささやかな謝罪だった。

 鬼神とうたわれた怪物の、人間らしい感情の表しだった。


「──────」


 少年は青年の足元で小さくうずくまり、嘆いている。あまりにも弱々しく、生々しい姿だった。

 そして青年は、


「償い、というのも悪くはないかもしれん」


 今さら何を言っているんだ、と誰もが思うだろう。それも当然。彼は幾度となく人を殺してきた。償うにはあまりにも背負っているものが多すぎた。だが彼には、少年だけでも救いたいと思った。その姿に一つの思いがよみがえり、情が移った、とでもいえばいいのだろうか。むろん、これが自分勝手な願いだというのは承知でいる。

 ならば訂正しよう。これは、自己満足と自分勝手な想いがつまった……はしたない願い。罪の償いなど、その隠れみのにすぎない。


「少し、失礼する」


 指を伸ばし、手のひらを広げる。その右手をそっと少年のうなじに近づけ、その首を切るように打ちつける。少年は、あ、と間抜けな声をもらして意識を落とした。


「……」


 青年は少年を抱きかかえ、顔を上げ、夜空を一瞥をする。青い半月が浮かんでいる。残念ながら今日は満月ではないみたいだ。

 


 

 

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朱色の夢をみる夜に。 静沢清司 @horikiri2

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