黒い博信堂

増田朋美

黒い博信堂

黒い博信堂

ある日、杉ちゃんと蘭が、楽譜を買うために、お箏屋さんを訪れた時の事であった。いつも静かで穏やかなはずの、お箏屋のおじさんが、今日は怒っている。

「だからどうしてもっていっても、うちは一冊もありません。よそをあたっても同じですよ。博信堂の楽譜なんて、どこへ行ったって無いと思いますよ。」

「おいおい、一寸待て待て。」

杉ちゃんは、急いでお箏屋さんの中に入った。客として来ているのは、若い女性で、20歳前後と思われた。博信堂という名前が出るのだから、たぶん、箏を習っている女性だと思われる。

「おいおいおじさん。そんな、怒鳴らないでやってや。何が在ったかちょっと話してもらえないものかなあ。」

杉ちゃんは、怒っているおじさんと、しくしく泣いている女性を見ながら、そういうことを言った。

「いやあねえ。どうしても博信堂の楽譜が欲しいなんて言うもんだからさ。頭にきてしまってね。あそこの出版社は、10年以上前に廃業していて、もうそこの楽譜なんて、売ってないとさんざん言ったんだけどね。彼女は何回も来るもので。」

お箏屋のおじさんは、困った顔で言った。

「そうか、そんなこと、誰に言われたんだ?それは、お前さんの意志か?それとも、師匠か誰かに言われたか?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「はい、先生がそういっていたんです。博信堂の楽譜を持ってこなければ、これ以上お稽古はしないって。」

と、彼女は答える。

「はあ。又そんなことをいう師匠がいるんですか。ちょっと、厳しすぎるというか、一種のパワーハラスメントですね。其れよりも、博信堂の代わりになるものを教えてあげればいいのに。」

蘭は、一寸あきれた顔をして、女性の顔をみた。

「まあとにかくさ、本物志向の強い師匠さんなのはわかるけど、もう博信堂の譜面なんて、どこのお箏屋に売っていないよ。其れは間違いない事だから、ちゃんと言った方がいい。もし、師匠が其れでも、うれしくいうんだったら、もう辞めちゃうつもりで行きなや。」

と杉ちゃんは言うが、彼女はそれはできないという顔をする。

「私、今の師匠から、初伝の免許もらっているから、ほかのところに行くと、それが取り消されてしまうんですよ。」

「なるほど、初伝でも一応免状はあるんですか。」

蘭は、このシステムが好きではなかった。一応それなりに、勉強した事を示してくれるライセンスなのだろうが、何だかそれが、その教室から出てはいけないということを締めす、鎖のように見える。

「まあでも、初伝くらいじゃ、ほかの社中に行っても、すぐ取れるだろう。それなら、ほかの社中に引っ越した方がいいんじゃない?だってそんな風に博信堂がどうのこうのなんて、どう見ても明らかに、時代錯誤だよ。そんなもんこっちから払い下げてさ、新しいところに行ってもいいと思うけど?」

杉ちゃんが彼女を励ますが、どうしても、彼女は、そういうことができなさそうな顔をしていた。

「何だか弱みでも、握られているの?師匠にさ。」

と、杉ちゃんが言うと、彼女ははいと頷く。蘭は、確かに自分も彫菊師匠に弟子入りしていた時のことを思い出してみた。彫菊師匠は、そんな弱みを握って、無理やり入門させるような怖い人ではなかった。ほかの、ドイツ国内の刺青師と交流をたくさん持っていたし、弟子もほかの師匠に出げいこに行かせるなど、けっして閉鎖的な環境ではなかったと思われる。

「一体どんな弱みが握られているんだろうか。」

と、杉ちゃんは言った。

「ええ、其れはどうしても、口に出しては言えないことなんですが。」

と、彼女は、小さな声で言った。

「何だよ。言っちまえよ。こういう時だから、いいかもしれないよ。すくなくとも、僕たちは、お前さんのことを悪く言うことはしないから。」

杉ちゃんが急いでそういうと、

「でも、私、それを口にしたら、社会的には、みんなバカにするというか、嫌がって怒るというか、そうなるでしょうから、絶対にいえない。」

と、彼女は言った。

「まあそうなのかもしれないけどね。でも、博信堂の楽譜は、もう無いってことは、旧知の通りだよ。それはちゃんと、しっかりしておかないとね。其れは、もう事実なんだから、変えるってことはできないんだよ。この先どこへ行っても、博信堂の楽譜はみつからないだろう。それはもう、しょうがない事だから。」

と、杉ちゃんは彼女に言うが、彼女は泣くばかりだった。

「申し訳ないけど、お前さんの名前を教えてもらえないかなあ。なんか呼ばなければ、いけないような気がするのでね。」

杉ちゃんがそう聞くと、

「あ、はい。私は、葛西と申します。葛西祥恵と申します。」

と、彼女は急いで、そう答えた。というわけで、名前は葛西祥恵さんということが分かった。

「はい、祥恵さんね。祥恵さん、もう一回言うが、博信堂の楽譜は何処にも無い。其れは、ちゃんと、パワハラ師匠にいって、何とかしてもらうしかない。で、曲のタイトルは何を買うつもりだったの?」「はい。六段の調べです。先生がどうしても、買ってこいというので。」

「勘弁してください。そんな有名な曲は、絶対に入手できません。有名な曲ほど博信堂は手に入らないんです!」

祥恵さんは、曲名を言うと、お箏屋のおじさんが、あきれた顔で、そんな事を言った。

「ほら見ろ。六段の調べとか、千鳥の曲は何処を探してもないんだよ。だから、そんなモノを要求する師匠何て、碌な人じゃないな。」

杉ちゃんがデカい声で言った。

「お箏を習いたかったらね、ちゃんと、しっかり時代にあった指導をしてくれる、そういう師匠を求めた方が良いよ。」

「でも、私、本当は。」

と、祥恵さんが言った。

「日本の伝統的なものがすきで、その伝統的なものをならいたかった、それだけの事なんです。」

「そうだけどねえ。其れはね、無理だよ。そういうことを習い続けていけるっていうのなら、家元とか、そういうひとに習うしかない。それは、仕方ないと思いなよ。地方の、お箏教室と看板だしているやつらは、伝統的なものは全く無視して、現代的なものを教えるしかないんだよ。其れで、本物を教えようとするから、そういうパワーハラスメントっていうのになっちゃうの!」

杉ちゃんは、祥恵さんの話に、割って入った。確かにそうなのかもしれない。刺青の世界でも、日本で和彫りを継承している人は、職人気質の気難しい人という傾向は確かにある。其れと同じということなのだろうが、時にはそれがパワーハラスメントと呼ばれてしまうのだろう。

「まあねえ、君のいうことはわからないわけでもないよ。でもねえ、売る側としても、伝統的な本は売れないというのがお決まりになっていてね。もう持っていてしょうがないという事情もあるんだよね。君が現れてくれたのが、戦前の、大正くらいの時代だったら、もっと、きちんと販売できるかもしれないんだけどさ。今は明治でもなければ、大正でもない、昭和でもないわけだ。ですから、もうしっかりした本はお売りできないんですよ。」

お箏屋のおじさんは、小さな声で言った。確かに、お箏屋のおじさんの言っている事も正しいことかもしれなかった。もう少し、昔の時代だったら、明らかに古典を学ぼうというひとも多かったようなはずだ。

「そんな、私は、お箏屋に行けば、売っているって、先生に言われたんですよ。先生の本をコピーさせてとか、そういうことも言ってみたけれど、先生の本は、和装本だから、コピーできないんです。それくらい、お箏教室に通っているくらいなら、そのくらい当たり前だって言って。先生は、えらいお箏の先生に師事して、書き写させてもらったそうですが、それと一番近い楽譜が、博信堂の楽譜だって、言ってたんですよ。其れで私は、その通りにしただけなのに、なんでお箏屋さんにこんな事言われなくちゃならないんだろう。」

彼女は、涙をこぼしてそういうことを言った。

「だけど、白進堂の楽譜は、お箏屋さんにも売っておりません。それが答えです。なので、先生にはそれを、お伝えください。」

お箏屋のおじさんは、そういう風に答えを出してくれたのであるが、彼女は、そんなこと言ったらどうしようという顔をした。

「それ以外に答えはありません。先生が、むりをしてでも、方針を変えてくれるまで、頑張ってください。」

「そうですか。でも、そんなこと言ったら、先生になんていわれるでしょうか。さすがに体罰ということはないと思いますが、でも私は、先生に、怒られて仕舞うことは確実です。それを、私だけが目撃するのではありません。皆の前で、さらし者にされるんです。」

「ほかのお弟子さんたちは、博信堂持ってないの?」

と、杉ちゃんが口をはさむと、

「はい、ほかの人は、私と違って、現代箏曲ばかりやりたがるちゃらんぽらんな人ばかりで。」

と、彼女は答えた。

「そうですか。それでは、あなただけが古典箏曲をやってらっしゃるんですか。」

蘭は思わず感心してしまった。

「ええ、みんな、洋楽をアレンジしたのとか、ポップミュージックをアレンジした曲とか、そういうものばかりやっています。其の中で私は、古典箏曲というものをやってみたいといったわけで。」

「はあなるほどね。つまり、洋彫りばかりが蔓延っている中で、ひとり和彫りをやりたいのと、思ったようなものか。まあねえ、確かに、そういうやつは、日本の伝統を守りたいのかって、大事な人に見えて、絶対的に服従しろっていう扱いを受けることになるよね。先生は、きっとお前さんの事を試しているんじゃないかな。其れで、お前さんが真剣に古典を守ろうという気持ちになってくれれば、そういうパワーハラスメントもやめるんじゃないの?」

と、杉ちゃんがはあとため息をついて言った。

「そうなのかもしれないけどね。うちでは売れるものがないというのが、答えなんだよ。博信堂はどこにもない。それはまぎれもない事実だからね。」

お箏屋のおじさんの答えはいつまでもそれしか出せなかった。

「そうか、もう売れるだけの楽譜がもう無いってことだな。」

「ついでだから、話しておきますけどね。爪だって、丸形の爪の形をしたものは、この店でも在庫がある限りしかないんだよ。新規に、入荷することはもうないだろうからね。だから、この店にあるマル爪で最後だよ。琴柱だって、もう象牙が取れないから、象牙の琴柱を欲しいと言っても、販売できなくなるだろうね。其れは、仕方ないと思ってね。いくら先生が、それを欲しいと言っても、こちらは、もうお売りできるものがどんどん減っているんだ。其れは、当たり前の事だと思ってね。」

お箏屋のおじさんはそういうことを言った。

「もう、本物は手に入らないものになっているから。それは仕方ないことだ。もう君が、いくら本物を欲しがって、欲しい欲しいと言ったって、それは、もう手に入らないことを覚えておいてね。」

「まあ、そういう事だ。其れをパワハラ先生に伝えるんだな。其れで、まあお前さんは、さらし者になるかもしれないけどさ。でも我慢して、其れで、さらし者になれよ。まあ、しょうがないと思ってね。」

と、杉ちゃんは明るい声で言った。

「でも、なんだか彼女がかわいそうですね。」

と蘭はそういうことを言った。

「彼女は悪気があるわけじゃないですよね。其れなのに、なんだか彼女だけさらしものになるなんて。彼女は単に古典箏曲を学びたいだけの事でしょうに。」

「まあねえ。しょうがないよ。仕方ないこともあるよ。昔の事を習うってのはある意味そういう事もあるの、蘭もわかっているんじゃないか。蘭だって、刺青の世界で伝統を守って生きているじゃないか。総手彫りで、マシーンを何も使わずにいるなんて、彼女の社中と似たようなもんだと思うけど?」

蘭の話しに杉ちゃんが口をはさんだ。

「そうだけど、杉ちゃん。でも僕は、彼女の師匠さんのような、正当な楽譜を持ってこないからと言って、激怒したり、ほかのお弟子さんの前で、さらし者にするようなことはしたくない。」

「いや、それは違うね。蘭の言っていることは、すべての刺青でタトゥーマシーンが必要ということになったら、全部空虚なものになるだろう。其れと一緒だぜ。」

と、杉ちゃんは言った。

「嫌、杉ちゃん、そういうこととは。」

「そうなるんだよ。蘭の仕事だって、手彫り用の針と鑿がないとできないだろ。この女性は、それを入手できなくて困っている。答えは、もうそれは売れないとはっきり出ている。其れで解決だろうが。」

蘭は、杉ちゃんの話にそういうことを言うが、杉ちゃんはそういうことであった。

「でも、何とか、彼女が自分を追い詰めてしまわないように、何とかしたいと思うんだが、それも間違いだろうか。」

蘭はため息をついて、そういうことを言った。

「間違いというか、もう売ってないという事は変えられない事実なので。」

とお箏屋のおじさんは、そういうことを言った。

「まあそういう事だ。あきらめな。」

杉ちゃんは明るい顔でカラカラと笑った。蘭はこっそり、自分のメールアドレスと名前を手帖に書いて、それを破って彼女に渡す。何か師匠にパワハラをされたら、ここで気持ちを吐き出しなという意味であった。

「じゃあ、私帰ります。今日はもう買えなかったとちゃんと師匠に言います。」

と、葛西祥恵さんは、軽く頭を下げて、店を出ていった。彼女は、にこやかに笑っていたが、きっと悲しい気持ちがいっぱいだろうなと思った。

「じゃあ僕たちも、かえろうか、一絃琴の楽譜買って帰ろうな。」

蘭は、お箏屋のおじさんに、欲しい楽譜のタイトルを言った。おじさんは、あああれですか、と直ぐに出してくれたのであった。何だか蘭は、自分が楽譜が買えたのが、なんだかすごく申し訳ない気がした。

其れで、お箏屋さんに楽譜のお金を払って、お買い物は終了した。蘭は、杉ちゃんと別れて自宅へ入っていくと、何だかしなければならないと思って、急いでスマートフォンをダイヤルした。

「あの、すみません。花村先生のお宅でしょうか。」

出たのは、家政婦の秋川さんだった。秋川さんは、直ぐ蘭であると、わかってくれた。はい蘭さんどうしたのと言って、優しく答えてくれた。

「あの、義久先生いらっしゃいますか?」

と蘭が言うと、

「ええ、一寸待ってください。すぐに呼び出してきますから。」

秋川さんは優しかった。本当に、親切という言葉が一番わかりやすいのではないかというくらい優しかった。

「はい、お電話代わりました。花村でございます。」

と言って、出たのは花村さんだった。

「あの、先生、一寸教えていただきたいのですが。あの、六段の調べの博信堂の楽譜というのは、もう入手できないのでしょうか。」

と、蘭は花村さんに聞いてみる。

「ええ、確かに入手できないと思いますよ。あれはもう、人気曲というか、山田流箏曲の代表作みたいなものですから。もう、売れてしまって、在庫のある店もないでしょう。」

花村さんのいうことは、間違いではないだろう。箏曲で権威のある人が、そういうんだから。

「実はですね。今日邦楽器店に行きましたが、その中で、六段の調べの楽譜をどうしても手に入れたいと言って、泣いている女性がおりました。なんでも、博信堂を入手しないと、師匠に叱られて、さらし者にされてしまうそうなんです。社中の中でも、古典箏曲を学びたがっているのは彼女だけだそうで。其れで、彼女はさらしものにされるしか、方法がないのでしょうかね。」

蘭は、花村さんに聞いた。

「ええ、その線から言うと、おそらくそうなるでしょう。伝統を学びたいというのは、今の生活ではとても結びつかないことですし。それをあえてやりたいというんだから、師匠がそういう態度をとっても、おかしくないはずですよ。」

花村さんは、電話の奥でそういっている。蘭は、どんな表情をしてそう言っているのか、見てみたいと思った。

「そうですか。では彼女、このままさらし者にされて、それしか方法がないのでしょうか。何だかそうなるしかないなんて、僕は、彼女がかわいそうでなりません。」

「そうですね。其れは仕方ないですね。私も、そのような態度はとりたくありませんが、でも今の社会情勢や、若い人の態度何かをみますと、本気で伝統を守ろうとしていけるのか、疑問視したくなりますもの。合理的とか、省略とか、そういう言葉が蔓延っている現在、伝統の世界というのは、まず、そこから切り離すことを目標にする必要はありますから。」

花村さんの態度に蘭は、どうして伝統の世界で生きる人は、そういう風に傍観しているしかしないんだろうなとおもった。国を変えれば、手取り足取り技を披露して教えてくれるじゃないか。でもなんで、日本の伝統に携わる人は、きれいごとばっかり言って遠くから眺めているしかできないんだろうか。

「それでは先生も、日本の伝統は、パワーハラスメントの温床というか、ブラックな世界だということを、お伝えしていくつもりですか。」

蘭は、思わずこういうことを言ってしまう。

「今風に言えば、そういう考えもあると思いますが、日本の伝統というのは、変えることはできませんよ。」

花村さんがそういうと、

「では、楽譜が手に入らない、琴柱や、爪などの部品も手に入らない、そういう情勢になっても、その姿勢を崩さないつもりですか?」

蘭は、急いでそこに付け込んだ。

「先生、御願いします。彼女は、真剣に邦楽を学びたいと考えている方で、けっして、ただやりたいからとかそういう理由で習いたいという子ではありません。そういう子には、特別に目をかけてやることも必要だと僕は思うんです。失礼ですけど、先生は、博信堂の六段の調べの楽譜を所持していらっしゃいますでしょうか?」

思い切ってそういってみた。蘭は、これを言ってどんな反応が返ってくるのか、一寸ドキドキしてしまう。

「ええ。所持しております。一応、出版社が廃業される前、全巻揃えました。」

やった!と蘭は思った。そして、これから、邦楽を真剣に学ぼうとしている彼女に、手助けができるのではないかとおもった。其れができるのは今この瞬間しかないような気がしたのであった。

「それでは失礼ではございますが、先生の六段の調べをお借りできないかと!」


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黒い博信堂 増田朋美 @masubuchi4996

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