3-2
大きくも小さくもない文字。
デフォルトで打たれたその手紙を、僕はまじまじと見つめる。紙を裏返してみても、そこには何もない。学校のプリントだってもう少し飾り気があるだろう。
というか、これは……なんだ?
「なにこれ」
「警告?」
「それは文面読めばわかる。けど、なんで静葉にそんな警告が来るんだ」
「犯人からじゃないでしょうか」
「犯人って……」
なんか、どうなってるのか全然わからない。静葉も僕の困惑を聞いて同じ認識になったらしく綺麗な眉を寄せた。
「私、夏頃からあの火事のことを調べてたんです。そうしたらある日、その手紙が届いて。それで私気づいたんです」
「……何に?」
「あの火事が、過去のことじゃない人が他にもいるんだって」
十年前、僕らの運命を一変させた火事。
今になってあの事件のことを覚えている人間は、この街にほとんどいないだろう。生き残った人間の大半が街を出て行った。残ったのは僕と、奈々くらいだ。
けど……僕らにとって、あの火事が風化しきったことなのかと言ったらわからない。今でも目を閉じれば、燃え盛るコテージがまざまざと浮かぶ。
そして同じように、あの炎を今なお抱え続けている人間が、どこかにいるのだ。
──聞かなければよかった。
いや、後で何かがあるより、今知っておいてよかったのかもしれない。テーブルに肘をついて額を支えた僕に、静葉はまた心配そうに尋ねた。
「良くん、嫌になった?」
「なってない。それより、犯人を知ってるかもって言ってたよな」
普通に考えれば、目撃された犯人が静葉に警告の手紙を送ったんだろう。そんな話、あるわけないって思うけど、否定するより彼女の言い分を聞くのが先だ。
静葉はそこで一瞬口を
彼女は何かを探るように目の前のカップを手に取った。
「あのキャンプの時、私、知らない人と話したんです」
「一応確認しとくけど、参加者はみんな初対面だったよな」
「そう……なんですけど」
静葉が顔を顰めてこめかみを押さえたのは、記憶を探ろうとしてのことだろう。
彼女はカフェラテの表面を見つめる。
「多分、男の人です。きっと若い人でした。バーベキューの後、駐車場の近くにいて、何かを探してるみたいでした」
淡々と、箇条書きのように語られる内容は、静葉の語る「証言」だ。僕はできるだけ主観を廃して情報を吟味する。
「静葉から話しかけた?」
「いいえ、話しかけられました。『何してるの』って。私、その人が参加者かどうかすぐに判断できなかったんです。ただ参加者の人と服装は違ってました。黒い服だったのを覚えてます」
「なるほど」
当時から、彼女は人の顔の判別が難しかった。だからその男が参加者かどうかは不明のままだ。ただ、性別と大体の年齢がわかるだけ。あと肝心なのは、会話の内容だ。
「私は……『みんなでキャンプをしてる』って答えました。そうしたらその人は、『コテージに泊まるの?』って」
火事のあったコテージは、街外れの山中にあるキャンプ場の一部だ。この街の人間なら大体がそこに宿泊施設があることは知っているし、そうでなくとも調べれば出てくる。
「私は、『わからない』って答えました。お兄ちゃん次第では帰ることになるかもしれないし、本当にわからなかったんです。それからその人とは……あたりさわりのない話をしたと思います。天気の話とか、キャンプの話とか」
「参加者っぽかった?」
「その時は違うんじゃないかと思っていました。けど後から、私の性質のことを知ってたら、初対面は装えるんじゃないかって思ったんです」
「静葉の失貌症を知ってる誰かってこと? でも僕や奈々は知らなかったけど」
「私の両親が、キャンプで誰かに話したかもしれません」
「ああ……」
問題を抱えた子供ばかり集まったキャンプだ。大人同士、何かしら悩みのやりとりはあってもおかしくない。でも、そうして静葉のことを知って、わざわざ着替えて初対面のふりをしてきたとしたら、それはさすがに悪意を感じる。
静葉も同様の思いを抱いたんだろう。
「その人、最後に『自分のことは内緒にして』って言ったんです。私はその時、何も思わず
「静葉は、そいつが放火をしたと思ってる?」
「……去り際に、小さな銀色の何かが落ちてるのを見かけたんです。私が気づいたからその人も気づいて、その人がさりげなく拾い上げて……でもそれって、後から思い返してみたらガスライターだったんじゃないかって」
「そいつが探してたのがそれか」
静葉はこくりと頷く。
これは……思った以上にクロに近いぞ。そんな話、初めて聞いた。
もし僕がもっと前にこの話を聞いてたらどうしてたか……いや、静葉は顔がわからないんだ。犯人探しの決め手にするのは難しい。
「そいつが犯人だとしたら、静葉が目撃者であることを知ってるってわけか」
これは思ったより厄介な話だな……。下手をしたら身に危険が及ぶ。
僕は、コーヒーカップを手に取った。
「少し考えさせてくれ。黙るけど思考タイム」
「わかりました」
何も言わないまま考えだすと、静葉は不安になるだろうから断っておく。
彼女が少し冷めたカフェラテを飲む間、僕は何通りかの可能性を吟味した。
第一に、その男がキャンプの参加者である可能性と違う可能性。
第二に、静葉の失貌症を知っていた可能性と知らない可能性。
第三に、その男が放火の犯人である可能性と違う可能性。
最後に、静葉に警告状を送ったのがその男である可能性と違う可能性。
この中で、まずいパターンの最たるものは、男が静葉の失貌症を知らず放火をして、今も警告してきているというものだ。
その場合、単純に静葉が危ない。あれだけ人が死んだ放火事件だ。罪が明らかになればかなりの刑が下る。たとえ別件で捕まったとしてもそれだけは黙秘するだろうし、犯人が野にいるとしたら静葉の口封じさえ考えるはずだ。
僕は、そこまで考えて顔を上げる。
「思考タイムいったん終了」
「どうですか?」
「この件、調べるのをやめた方がいい」
静葉は大きく目を見開く。黒い双眸にステンドグラスが映って、僕はそれを宝石みたいだ、と思った。何かを言われるより先に、僕は続ける。
「警告状を送ってきたのが誰かはわからないけど、警告を無視して調査をするのはリスクが高い。過去の事件の真相が判明したとしても、それで静葉が得られるメリットよりも、万が一の時のデメリットの方が大きいんだ」
「……だから、調査しない方がいいってことですか?」
「そう」
これが仮に、静葉が
静葉は、すぐには何も言わなかった。僕の答えを予想していたのかもしれない。
驚きもせず、ただ数秒の間を置いて、言った。
「それでも、私は知りたいんです。あの時、あの夜に本当はなにがあったのか。じゃないと……」
静葉は、テーブルに落ちた鮮やかな光を見る。黒い眼差しに、沈痛な色が宿る。
「私に与えられた時間は──もうきっと長くない」
囁くように告げられた言葉。その意味を、僕はすぐにはのみこめなかった。ただ無意識のうちに声だけが滑りでる。
「……え? なんで?」
時間制限付きってなんだ。僕は彼女の全身をまじまじと眺める。
「ひょっとして……病気、とか?」
「違うけど、ごめんなさい。理由は言えない」
「言えないって」
静葉が冗談で言ってるわけじゃないってのは伝わってくる。言えないことが心苦しくて、突き放されることが恐くて、でも感情を
僕は、自分自身混乱しながら尋ねた。
「そもそも、なんで今更火事のことを調べ始めたんだ? この手紙は静葉が調査を始めたから届いたんだろ? なら大本のきっかけはなんなんだ」
「それも……ごめんなさい、言えません」
静葉は、消え去ってしまいたいとでも思っているように小さくなってしまった。
ただ前言撤回をするつもりはないらしい。きゅっと固く結ばれた唇に、僕は天を仰ぎたくなった。
……なんなんだもう。あちこちわけがわからないぞ。
正直早退したい。部屋に帰って、誰の感情も入りこまないところで眠りたい。僕は溜息をつきたくなって、でも顔だけでげっそりするに留めた。
そんな僕に、彼女は消沈した微笑を見せる。
「やっぱり……無茶な話ですよね。ただ、ここで見ない振りをして過ごしたら、自分が許せなくなる気がして……」
「…………」
「良くんを困らせたかったわけじゃないんです。ごめんなさい」
「困ってはないよ」
反射的にそう返したけど、静葉には響かなかったみたいだ。彼女は行儀よく最後の一口を飲むと、テーブルの上で頭を下げた。
「話を聞いてくれてありがとうございます。もし嫌じゃなかったら……また明日から、仲良くしてください」
静葉は立ち上がろうとする。
その手を──僕はかろうじて摑んだ。彼女を
「やるよ。手伝う」
「え……」
なぜ彼女があの火事を調べているのか。
誰がそれを止めたいのか。
わからないのは仕方がない。何一つはっきりしなくとも、僕自身に理由はある。
それはつまり──「葛城静葉を助ける」それだけだ。
静葉じゃないけど、ここで見ぬふりをしたら、僕が僕自身を許せない。今何かをしたからって、十年前の愚かさが消せるわけじゃないけど、それでもやらないわけにはいかない。
静葉は、摑まれた手をじっと見る。
「良くん……でも」
その声が、微かに震えているのはきっと気のせいじゃない。
僕は、だから彼女を見ないように目を閉じた。
あの日と同じ過ちを犯さないように、抱える
「こんなの、僕以外には説明も難しいだろ。大丈夫だ。やるよ」
たとえ明らかになった真実が、現実を変えることがなくても。
静葉が少しでも納得できればいい。それが彼女の救いになるならいい。
僕は、僕の愚かさをもってそう願う。
触れた場所から伝わる温度。静葉の手が、僕の手を握り返す。
顔を上げると、彼女は顔の見えない僕をじっと見つめていた。小さな唇が動く。
「……ありがとう」
驚いたような、少しだけ潤んだ瞳。
それは、あの古銀貨のペンダントを受け取った時と同じ表情だった。
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