求めれば出会う

杜松の実

求めれば出会う

 カーテンの開けられた病室には赤くなった光線が柔らかく差し込み、丸椅子の上に胡座あぐらを組んで本を読む女性の背を穏やかに温めていた。女は医者でも看護師でも、患者の親族でもない。ジーパンで胡座を組むのはきついはずであるが、器用にそのままの姿勢で座り続けている。

 病室には女を除いて三人の男性が居るが皆寝ているだけで物音ひとつ立てず、彼らに繋がれた機械音が部屋の底を這うように、そっと聴こえるだけであった。本を読むことに夢中になっている女の耳には、その機械音さえ今は聞こえていないのだろう。たまに廊下を歩く人の足音や隣の部屋から聞こえる看護婦の話声、そういった雑多な音を静かに溜め込むのが病院という場所である。

 ふと女が本から視線を離し、目の前に横たわる老人の顔を見つめる。頭髪は一切なく、口には酸素マスクがあてがわれ規則正しく白く曇ったり晴れたりを繰り返す。布団からはみ出した手は血管が浮き出るほど痩せており前腕、肘から手首にかけての柔らかい内側には黄色く黒ずんだ薄い痕がいくつも残っている。

 この老人は三日前に救急で運び込まれ、その時には助からない命であることは明白であった。持病を患いこれまでも何度かこの病院に運び込まれては退院を繰り返してきていたのだ。しかし今回はとうとうもう駄目だ、と医者は判断したが親族が入院させてくれと頼み、医者としても断り切れずに受け入れた。その際の救命医療として行われた心臓マッサージで彼の肋骨は折れてしまった。口への挿管で歯も折れて、度重なる点滴は腕に消えない痣を作った。

 女は昨日、何の前触れもなくこの病室に姿を現し、老人を見つけて隣に腰を下ろした。

 本に栞を挟み老人の顔を見つめ、そっと手の甲で頬を触れる。皮だけとなった頬に弾力はなく、垂れ下がり柔らかく慣れ親しんだことのないに変わっていた。手を離すと、男に繋がれていた機械が心肺停止を知らせる電子音を出し、ナースコールをかける。


「またね」


 女は掛けていたダウンジャケットを羽織って病室を後にし、駆けていく看護師たちの横を見向きもせずに通り過ぎた。



 霜が溶けて濡れた歩道の隅は、太陽光が当たらぬために未だに黒味を増している。足早に進む女はオレンジのダウンジャケットを首元まで閉じ、風にさらされる顔の肌とジーパンが張り付いて外気温を伝える脚部だけが寒さを捉える。若い女の肌は風に引きはがされる水分を何とか引き留めてはいたが、唇は無理に皮を取り除いたのだろう、赤く照っているところまであった。

 目的地に着いたのか目の前の建物を見上げ、鼻から冷たい空気を吸い細く長く吐いた。落ち着いた雰囲気を纏って敷地内に踏み入れ自動扉を通り抜けてエントランスへと、受付には昼過ぎということもあり大勢の黙って待つ人々が腰かけていた。受付を素通りし廊下を進む。途中看護師とすれ違うこともあったが誰も見向きをすることはなかった。

 初めて訪れた病院ではあったが、病棟の構造は似ていなくとも中身の配置は似たものばかりであるので、それぞれの案内板を目の端で捉えるだけで自然な素振りをして院内を歩くことが出来た。

 病室前の廊下を歩きながら、誰にも見られていないことを確認してから室内を覗き、また別の病室を探すことを繰り返し、そうして見定めた一つの部屋へと入る。

 部屋は一人部屋、調度品は大部屋と同じで違う点といえば患者の眠るベッドの正面に一枚の風景画が飾られているだけであった。画は川と緑の土手、そして川沿いの西欧風の街が描かれた油絵で、どことなく湿った風を感じさせる。小さいものではあったが一様に白い壁に飾られたそれは存在感があった。

 女は丸椅子を取り出して患者の横につけ、ジャケットのポケットからカバーの外された文庫本を取り出すと椅子の上に音を立てぬ様にそっと置いた。ジャケットをハンガーにかけて丸椅子の上に胡座を組む。

 自分以外の存在にようやく気が付いたのか眠っていた老婆が静かに目を覚ました。女も気づき胡座を解いて普通に腰かけ、本に栞を挟んで膝に置き老婆と目を合わせる。

「あら? あなたどちら様?」

「森川智子といいます」

「そう」

 名乗っただけの女に続きを待ったのか、目だけが交わされる時間が流れる。老婆は丁寧に化粧を施されていたが、顔色の悪さは表情からだけでも伝わった。

「ちょっと起こしてくれる?」

 目線だけで枕元に置かれたリモコンを指す。「上」と書かれた三角のボタンを操作し、老婆の上体を自分と顔を合わせるのが楽になるようにと緩やかに起き上がらせた。

「ありがとう」

「いえ」

 改めて向き直った老婆は、眠気は取り払ったらしくしっかりとした目つきで女の顔を眺めて尋ねる。

「会った事あったかしら?」

「いいえ、初めましてです」

「そうよね」

 考えるを体現するかのように俯いたため、綺麗に梳かされた白髪がふらりと垂れる。

「森川さん? あなたはここで何をしているの?」

「死神代行です」

「ふふっ。可愛らしい死神さんね。私を殺しに来たの?」

「いえ、ただ横に居るだけです」

「そう」

 老婆が視線を切って正面に飾られた絵画へ顔を向けたので女もつられて目を移した。世の中から切り離されたこの狭い部屋と、広い空間を描かれた小さな絵は響き合ってここに在るように感じた。

「かわいい絵でしょ」

「ええ」

「わたし気に入っているの。この部屋あれが無ければ寂しいからね」

 この部屋には花がない。それは見舞客がいないことを意味していた。

「テレビつけてくれる?」

 そう言われてテレビの前に置かれたリモコンを操作するが何の反応も得られなかった。

「違うの、それじゃつかないわ。そっちの引き出しからカードを取り出して差し込まないといけないの。病院ってテレビも有料なのよ。不親切な所よね?」

 言われた通りにテレビを点けてリモコンを手渡そうとすると「この番組でいいわ」と言われたので元あった位置に戻して置いた。やっていたのは帯でやっている情報番組で、ニュースから若い主婦層をターゲットとしたエンタメやトレンドものを多く扱うなどバラエティに富んだ番組で知られている。このとき取り上げられていたのは芸能人の不倫についてで、『ネット上で非難の嵐』とSNSのコメントが添えられている。

「最近多いわね。昔はこんなに大騒ぎしなかったわ。やっぱりネットのせいなのかしらね」

「そうですね」

「時代ねえ。もちろんわたしたちの時代も不倫はあったけど、今のとは違っていたわ。わたしはね、旦那とはお見合いだったの。仲人さんがいて親同士で話が進んで、初めて会ったときには結婚することは決まっていたわ。そんなだから一緒になってから好きになるしかないの。好かれるしかないのよ。

 今は一緒に暮らしてみたら好きだったはずなのに違った、なんて言って外に逃げるのでしょう? わたしたちとは逆ね。

 それでもどうしても、他の人のことを好きになってしまうってことだってあったわ。そういう不倫はね、本気の恋、どこか尊いもののように思われていたわ」

「そうなんですね」

 テレビに語り掛けていたが、いつのまにかに老婆は女に向き直って柔らかく微笑んでいる。

「ごめんなさい。もう寝るわ。テレビ消しといてくれる?」

「はい」

 情報番組が終わり、本格的なニュース番組に変わってから二十分ほど見て老婆は眠り始めた。女は元の通り椅子に座って本を読む。

 この日老婆が再び起きることは無かった。面会終了時間が迫ったため女はダウンジャケットに袖を通して本をしまい、最後に眠る老婆の肩口に手を当て、

「またね」

 と言った。カーテンの明け放された窓の外は暗闇だけが浮かんでいる。



 次の日も女は老婆の元を訪れた。今度は朝から来た。

 病室に入ろうとすると中から看護婦と話す老婆の声が聞こえる。女はためらうことなく病室へ入っていった。

「あら、また来たのね」

「はい」

「ん、佐藤さん。この方誰なの?」

「お友達よ。さ、入って入って」

「そう」

 看護婦は少し不審そうな目を女に向けたが、老婆には笑顔で言い残した。

「じゃ、佐藤さん、また来るわね」

「はい、ありがとおございました」

 女は看護婦とすれ違いざま入り口を通りやすいようにと身を避け、去って行くのを少しの間見送った。突っ立ている女に老婆が声をかける。

「さ、森川さんこっちいらっしゃい。また来る気がしていたわ」

 案内されたのは昨日と同じ丸椅子である。ダウンジャケットをハンガーにかけ促された席につく。

「病院って暇なのよ。検査したら後はご飯食べて寝るだけなんだから。ねえ、智子さんって何されているの? 学生さん?」

「はい。大学三年です」

「そう。じゃあ就職活動しているの?」

 講義やバイトを除いて来られる日は毎日老婆の病室を訪ね、二週間が経とうとしていた。女が訪ねた時に老婆が寝ていれば起こさぬように隣に座って本を読み、老婆が目を覚ませば話しやすいようにベッドの上体を起こしてやった。

「佐藤さん、初めてお会いした時よりも元気になりましたね」

 そう言われた老婆は俯いてくくくと笑い、その笑顔はいくらか若返ったかのようにも見えた。

「あの、どうかしました?」

「ああ、ううん別にね。ただ初めてあなたの方から話しかけて来たから、やったと思って。してやったりってね」

「そう、でしたっけ?」

 女は本当に心当たりがないらしく、あからさまに困惑して見せ、それを見た老婆がさらに笑う。

「ふふっ。安心したわ。あなた、あまりに話さないもんだから人に興味無いのかって心配していたの。でも、そんなはずないわね、こんなことしているくらいだし」

 二人だけの病室を見回し、含みを持たして投げかける。

「そうでしたか。すみません」

「あら、謝ることではないのよ。こちらこそ笑ってごめんなさいね」

 恥ずかしがる女を見ないようにしてやる為に、老婆は窓の外へと視線を逸らした。一枚の葉も付けていない枯れ木と小さな中庭は、夕日に縁どられ陰影が強調されているようであった。

「病室の前に枯れ木を置くなんていやね。ほら、あるでしょ。『あの最後の葉が落ちたとき、私は死ぬ』なんて。あれみたいで、枯れ木を見るの怖かったもの。

 前にね、冬でも葉の落ちない常緑樹って知ってる?知ってるわよね?大学生だし。そういう冬でも緑の葉を残す木に変えようって話があったらしいのだけれど予算の都合で実現しなかったって、看護師の高木さんにお聞きしたわ」

 風が吹いたのか、ガラスの向こうで黒い影を纏った枯れ木が揺れる。

「暗くなってきたわね。窓閉めてくれる?」

 席を立って左右のカーテンを引くと室内は若干暗くなった。

「ありがと」

 先ほど女が入れたお茶を一口飲んで呼吸を整える。

「医者に、余命半年って宣告されたの。癌だったわ。手術をしても私の体力じゃ持たないだろうって。それで宣告されてからちょうど半年が経つ日、それが初めてあなたがやって来た日だったの。だからあなたが死神代行ですって言ったとき、驚きはしたけど不思議には思わなかったわ。ふふっ。

 ねえ、あなたはどうしてこんなことをしているの?」

 この問いはいつかは聞かれるだろうと思い、答えは事前に用意していた。女は俯き姿勢で考えてきた文言を思い出しながらすらすらと澱みなく、かつ抑揚を殺して唱える。

「私は寂しがり屋なんです。今、友達も家族もいなくて。そしたら死ぬときも一人なんじゃないかって思うと怖くて、死ぬときぐらい誰かに傍に居てもらいたいって思ったんです。それで思いついたのが、これです。

 佐藤さんは死神って信じますか?

 私は死神は死を与える存在でも、死を伴なって来る存在でもないって思っているんです。死神は、死者を出迎えて死の傍に居てくれる存在だって思ってます。でも、誰のところにでも来てくれるわけじゃない。人口は百年で倍以上になった、私のところに死神が来てくれるとは限らないって。

 だから私が死神の代行として、死ぬ方の傍に居たいんです」

 女が九歳のとき、母親は病院で息を引き取った。父親は生まれたときから居なかった為、親戚の元に預けられることになった。親戚のおじさんおばさんはすごく優しくしてくれたが、一歳年下のその家の女の子とは馴染むことが出来ず、自然と家の中で居場所は無かった。内気な性格に拍車がかかり学校でも一人で過ごし、大学進学への折に一人暮らしを始めた。誰からも見向きもされない孤独さに暮らしは遊惰になり、自殺さえ不真面目に考えるようになった。

「まるでサンタさんね。いい子にしていたらあなたの元には死神さんが来てくれるって?」

「そうかも知れないです。でも、それだけじゃないんです。私が見送った人たちは、私が死ぬときに傍に居てくれるんじゃないか、死神として出迎えてくれるんじゃないか、って思ってます」

 顔を上げて見た老婆は、ベッドに背を預けずに身を女の方へ寄せ明らかに怒っていた。初めて見る怖い目つきに動揺してしまい、目を離したかったが出来ない迫力があった。

「だったらこんなこと今すぐやめなさい。あなたはまだ若いの。今からだって友達でも恋人でも家族でも、いくらだって出会えるのよ。何を諦めているの。

 そんなことに私たちを利用しないでちょうだい。いい、わかった?」

 二十歳にもなって人から本気で怒られるということに恥辱を覚えたが、怒られること自体に慣れていない女は自身の感情への名前の付け方が分からなかった。

「はい、すみませんでした」

「わかったのなら帰りなさい。もうこんなことしては駄目よ」

 病棟から出ると、あっという間に空は暗くなっておりぽつぽつと小雨が降り出した。

 さっき枯れ木を揺らした一陣の風が黒い雲を連れて来たのだ。



 一週間経ってから女はその病院を訪れた。なかなか決心がつかず、顔を合わせて何を言えばいいのかは分からなかったので一週間も来ることが出来なかった。あの日怒られたことについての自分の答えはまだ決まっていない。それでも謝っておきたかった。このままのお別れは嫌だった。

 病室の扉の前に立って中の様子を窺おうと耳をそばだてるが音はしない。そんなことは今まで何度もあった。きっと眠っているだけだろうと自分に言い聞かせ、一呼吸置いて引き戸に手を掛ける。

 老婆の病室は窓から注ぐ太陽光に照らされ白く輝いているだけで、空っぽだった。なんとなく予感はしていた。担当していた看護婦を見つけて話を聞くと三日前に息を引き取ったのだと言う。三日前であれば来ることは出来た。決心がつかなくって来れなかっただけだった。

 看護婦から一通の手紙を手渡されたが、薄暗い静かな病棟内では読めないと思い適当な場所を探す。行きついたのは中庭のベンチ、清々しい風が通り耳に突き刺さる寒さまで心地良かった。空に雲はあれど、青空が見えたことには安堵した。


『森川 智子 さんへ

 ごめんなさい。どうもこのところ体調が悪くて、もしか

 したらあのまま喧嘩別れということになってしまうかも

 知れません。なので手紙を残しておきます。

 智子さん、あなたは一人ぼっちなんかじゃない。わたし

 とお友達になれたでしょう? だったら他の人とだって

 絶対友達になれるわ。

 それから、わたしは智子さんが死ぬときに出迎えなんて

 行ってあげません。他の人達にも出迎えに行かないよう

 に説得します。どう? そっちで見送ってくれるお友達

 や家族を作るしかないでしょう?

 しっかりしなさい。怖がっていないでさっさとこんな所

 から出ていきなさい。いつまでも死人なんか相手にして

 いたらいけません。ここに来るには五十年は早いわ。

 

 がんばってね。さようなら。

                    佐藤 貴子 より』


 手紙が濡れぬようにと溜まった涙が落ちる前に拭う。

「佐藤さん、またね」

 枯れ木が揺れたような気がした。





 ――またね。




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