殻の父

紫鳥コウ

殻の父

 五野井謙介は駅に降り立つと、飲みほした缶コーヒーの抜けがらを、ごみ箱に捨てた。そして、特急のホームへと向かった。その足取りは、重かった。灰色の雲の幕に光をさえぎられた地上で、まともな足の運びをすることは、いまの謙介にとって、息苦しいものだった。


 曇りの日は、地上に住む人間の悲しみや苦しみが、行き場をなくしてあちこちを彷徨さまよっている。平日のこの駅にいる人々は、その幽霊に気づかれないように、下を向いて歩いている。もしくは、その幽霊をはっきりと目撃しないように、早足になっている。


 太陽を仰ぎ見ることができない。それは謙介の境遇そのものの隠喩だった。


 明け方、様態が急変した父親は、午前九時に達する前に、死んでしまった。遠くはなれたところに住む謙介は、心配はしていたものの、忙しさのあまり実家に帰れず、病院へ見舞にいくことができていなかった。そして、衰弱する父の最期を看取みとることもできなかった。


 父に背中を押されて進んだ博士後期課程の、息つく間もない多忙な毎日は、いまは、あの貪婪どんらんな灰色の雲の幕のように、うとましい存在に思えた。謙介と父の間にあった空間的な距離は、今度は、次元的な差異へと変貌していった。


 謙介は特急に乗ると、学会の関係者や博士論文の指導教員に、葬儀とその始末が終わり次第すぐに戻るという旨の連絡をした。取り急ぎの連絡は、今朝にしておいたのだが、なぜか返答がなかったので、もう一度送ったのである。


 特急が山間やまあいを走り、トンネルを何度もくぐり、ようやく拓けた大地を走り、郷里近くの駅に到着してもなお、返信はなかった。


 実家でも作業は続けられるし、連絡も支障なく取ることができる。それゆえに、学会発表の本番までには、心理的余裕をのぞき、ほとんど万全の準備が可能であった。


 それなのに、その旨を了承されないままでいると、コンパスと地図はあるのに、行先の島を指定されないようなものである。それは、船旅ではなく、船旅ごっこである。


 郷里に向かう電車の出発まで、少し時間があったので、謙介は母に電話をした。しかし、諸々の手続きに忙殺されているのか、電話に出ることはなかった。しかたなく、妹の由紀に連絡を試みたが、まだ下宿先にいるという。


「ごめん。朝まで彼氏が家にいてさ」…………謙介は、由紀が父の死を、あまりにも実感していないことに、なにかしらの不穏を感じた。それは、由紀への怒りではなく、由紀が体現している、死と生への価値観に対する不穏であった。


 父の死が悲しいということは、父の子の四人とも、みな、同じだろう。しかし、由紀には、父より大事にしなければならない関係があるらしい。謙介の弟も、もうひとりの弟も……そのようだった。


 とにかく、三男の和男に、いまの状況だけ電話でいてみたが、「だと思う」などと、確信を持って断言できるものがない様子だったので、謙介は腹立たしかった。こうした、発言のうちにもうひとつの可能性を含ませることで、延々と事実を先送りにしていくような逃げ方が、謙介は嫌いだった。


 そして、次男の健太――健太もまた、実家に戻っていないようだった。理由は、まったくわからないものの、謙介は、神秘的、陰謀的なものを、まっすぐに信じ切るようになった健太にとって、父の死もまた、神秘的、陰謀的なものだと思っているのではないかと考えた。


 三人とも、それぞれの地平で、各自、思い思いの生活を営み、好き好きの思考で、おのおのの環境に働きかけている。だからこそ、父の死に対する感性を、異にしている。


 では、自分はどのような地平にいるのか。そう考えると、謙介は、よくわからなかった。ただ自分は、父の教えを守り、父の決めたルールに従い、父の権威を愚直に受け入れ、父に背中を押されれば、それを疑いもせず、なんであれ、力の限り取り組んできた。


 しかし、父はもういない。自分の人生を規定してくれていた父が亡くなった後、いかに自分は、人生に対して――人生が営まれる環境に対して、ふるまえばいいのか。これは、謙介が、突然として直面した、あの雲よりも分厚い障壁だった。


 レールの上を疾風がすべってゆく。ホームにひとはいない。ちらほらと雪が舞ってきた。遠くの山は青く沈んでいる。吐く息は寒々しい白さをしている。父の死がどんどん現実的な輪郭を帯び始めてきていた。


 父の死が謙介を苦しめるのならば、ほかの三人も同じであるはずだが、父という権威に対して、信心深いのは、謙介だけだった。


 由紀は、むかし、こう言っていた。


「お父さん、家族の中で一番嫌い。だって、考え方が古いんだもん。それに、携帯を買ってくれないし、六時までには家に帰れってうるさいし。私、中学生だよ。死んでしまえばいいのに」…………反抗期ならではの、ふざけた物言いだった。


 由紀は、自分の人生に一定の指針がある幸福を、実感していないのだと、謙介は思った。だから、「それなら、自立して勝手に生きればいい。学費も生活費も、自分でなんとかしてさ」と薄笑いながら反駁はんばくした。しかし由紀は、こんな風に返してくるのだ。


「ほんとウザい。ほどけないひも、しばりつけるひも、そんな感じ」




 しばらくして到着した電車は、よく揺れながら走った。


 謙介は窓の向こうの景色を、ぼんやりとみていた。すると、胸がざわざわとうごめきはじめた。まるで自分の精神が過去へと遡行そこうしていくようだった。一方で、身体は現在にくくりつけられて取り残されている。心身が分裂していくような、不愉快な感覚が、胸の動悸どうきを速めていく。


 謙介の目に涙が浮かんだ。そして、いつしか充血した目に飛びこんできたのは、猛烈に乱舞する吹雪だった。そして、ピントをずらすと、窓に自分の顔が映された。投影される鏡像は、不穏な、ドッペルゲンガーだった。




 実家は、二階建ての木造建築で、謙介が生まれる前からずっと、ここに根を張っている。焦げ茶色の外観は、今日は、いっそう凍えている。


 扉を開けると、たくさんの靴が整然と並んでいた。黒色の靴が、ほとんど狂いなく、まるで歩兵隊列のように、こちらを向いている。謙介もまた、一歩兵として、自分の靴をそこに並べた。


 居間には、訃報を聞きつけた親戚が集まっていた。母は、祖母に背中をさすられていた。和男の姿はなかった。この居間にいるのは、すべて、謙介より年上の、親類縁者だけだった。謙介はまるで、自分は、ふたつの年代の裂け目にいる存在かのように感じた。


 謙介は、仏間に横たわる、白い衣服に覆われつくされた、父の横に座った。そこにあったのは、もちろん、謙介の記憶している父の姿ではなかった。それは、初めて見るたぐいの「なにか」だった。


 謙介の父への愛情は、父のふるまいに対する愛情だったのであり、父の脈動が消え失せた殻には、なんの思い入れもないのだから、それはもう「なにか」でしかなかった。父の権威の喪失を、謙介は、まざまざと感じてしまった。


 木の枝から雪の塊がおちた。母はさめざめと泣きだした。

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殻の父 紫鳥コウ @Smilitary

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