穢れなき泉にて

高橋 白蔵主

前編

不思議だ、と彼女は思う。

たとえば、だ。

確かに100Gというのは結構なお金だと思う。だが、喉から手が出るほどの大金というわけではない。彼女が愛用している、身の丈に近いサイズの大鉈も、軽鎧も、だいたい100Gだ。大地人の服は、というとたぶんその1/10もしない。

彼女の鞄に入っているサンドイッチ。実は、これは10Gだ。もっとも、「味のする方」のサンドイッチなので高額なのは確かではある。そして、近隣に住み着いたコボルド退治と、森から帰らない娘の捜索のために村から出せる報酬の限度額だ、というのが同じく100G。

これをどう受け止めたらいいのか、彼女は決めあぐねている。サンドイッチ10個、と考えると割に合わない気がする。だが、ひと月以上かけて丹念に鍛えた大鉈をただで差し出してでも探してきてほしい孫娘、と表現されると、それは少し、重たい。


 ひなびた村の、村長の家だ。

近隣に住み着いた攻撃的なコボルド達を追い払って欲しい、という依頼で訪れたのだが、時を同じくして村の勝気な娘が一人、森に入って行って帰ってこないのだという。討伐の依頼は、人探しの依頼にシフトチェンジしていた。


 彼女が棚の工芸品を眺めている脇で、男たちが話している。

「もう少し、その、なんとかなりませんかね」

「しかし、その、儂等も貧しいゆえになあ」

「まあ、それは、ねえ、分かる。すごい分かる」

交渉の、というか相談のテーブルについている仲間2人を背後から眺めながら、やっぱり不思議だ、と彼女は思う。

値段交渉をしても、100が200になるわけではあるまい。少しでも増やせるなら増やしてもらえるに越したことはないが、それが果たして自分たちにとって絶対必要な金額なのか、というと返答に困ってしまう。


本当に金が必要なら。


彼女は表情を読まれないよう、綿のマフラーでそっと口元を隠した。本当に金が必要なら、村人を皆殺しにしてしまえばいい。通りがけに見た限りでは、戦士職の大地人はいない。さしたる抵抗もなく、一時間もあれば全て片付いてしまうに違いない。あとは家探しに半日だ。金貨の形で、少なくとも300か400にはなるだろう。時間効率にして、だいたい、3倍。

一瞬、彼女の目が底冷えするような色になった。


しかし。


彼女はため息をついて、村人皆殺しのプロトコルを頭から追い払う。

そもそも、金貨なんて、それほど必要なものではないのだ。半日で金貨300枚と言ったら、それなりに時間あたりの収集効率は悪くないが、所詮、金貨というのはレアリティが一番低いドロップアイテムだ。強めのモンスターを討伐していれば自然と貯まるものでもある。

大体冒険者である自分たちは、本当の意味で死ぬことなんてない。餓死もしない、戦死もしない。対して、大地人は、死んだらそれまでだ。一方的な殺戮、ゲーム上の優位性、不可逆的な地位関係。それを振りかざすのは、彼女からしたら「大して意味がない行為」のである。出来るからする、というのは彼女の流儀には反する。

小さな欠伸をひとつして、彼女はマフラーを引き下げた。


 一方のテーブルでは、気の抜けた交渉が続いている。

「ぼくたちも、この村に着いたばかりでお腹が空いてるんですよう」

のらえもん、という名の猫人族の神祇官は、どうも増額を諦めて、せめて昼飯か弁当を集る方向に切り替えたようだった。彼は悪辣ではない。むしろ少し、お人好しというか、妙な愛敬がある。やっていることは報酬の吊り上げ交渉には違いないのだが、不思議と嫌味がない。

「もう、お腹が、ぺこぺこで」

 のらえもんが哀れっぽい声を出した途端、ぼろん、と彼の傍の鞄からサンドイッチの山が転がり出た。

のらえもんの横で、守護戦士のポチが顔を覆う。

「その、お腹が、ぺこぺこ、でして、ねえ」

 言いかけていた言葉を繰り返しただけで、あとが続かない。


 少しの間。皆が口を閉じ、まろび出たサンドイッチを見つめていた。ハム、レタス、チーズ、トマト。確かにおなかすいたなあ、などと彼女が考えていると、ぱん、とのらえもんが両手を打ち鳴らした。まるでやり手のビジネスマンが商談を成立させるような、空気を一変させる音だ。

「…そこで飛び出すのがこのサンドイッチですよ」

やけっぱちのような、明るい口調。

「ぼくらはね、このサンドイッチさえあれば、はっきり言って、もが」

何か演説のようなものを始めようとしたのらえもんの顔をつかんで、狼牙族の守護戦士は重々しくうなずいた。

「お気になさらないでください」

ポチの低めの声には矢鱈な迫力があって、ついつい村長もうなずいてしまったようだった。それにしても力技の回収だなあ、と彼女は肩をすくめる。

「さ、行こうか。女の子が待ってる。彼女もおなかが空いているはずだ」

ポチが肩越しに彼女の方を見る。反対する理由もなかったので彼女も頷いた。

サンドイッチと昼飯交渉については、誰もがなかったことにしたいようだった。のらえもんは顔をつかまれたまま、器用にサンドイッチを鞄に詰めなおしている。村長は、当然だがかなり不安げな顔をしている。そりゃそうだ、と彼女も思った。思ったが、言葉でどうこうできるものでもない。この不安を払拭するには、迷子の娘を無事に連れて帰るしかないのだ。


 村長に向かい、ポチが胸を張って敬礼をした。

「我々が、彼女を無事に連れて帰ってみせますよ」

それは妙な説得力と安心を感じさせる声だった。狼牙族特有の耳をぴんと立てた姿勢だ。犬のおまわりさん。そんな比喩がぴったりだな、と彼女は思った。


 そして少しだけ、そんな仲間たちと自分の間に溝を感じた。


結局のところ、この二人の仲間は、彼女が考えたようなことは、想像すらしないのだ。二人は善人だ、と彼女は思う。三人の所属するギルド、アニマルプラネットのギルドマスターも同じだ。彼女のような選択肢は彼らの中に初めからまったく存在しないのだ。

だからこそ、脆いとも思う。彼女のようなことを考える悪党に対して、彼らはあまりにも無力だ。実際に「たいして意味のない行為」を実行してしまった冒険者を目にした場合、彼らはきっと傷つくだろう。きっと心を痛めるだろうなあ、と彼女は考える。


今のアキバの街は平和だ。平和で、善良で、繋がりに満ちている。大災害以来、街はその街を彩る人々の性質によって、まるで違うワールド、違うゲームのように姿を変えてしまった。

彼女は、この世界に新しく生まれた瞬間から、しばらく身を置いていたススキノの街を思い出す。荒廃、悪徳、暴力。搾取、絶望、支配。アキバがあの街のようにならなかったのは、ただの偶然でしかない。

ただの偶然を、意志の力で必然に変えた誰かがいるということは感じているが、やはりそれは、その「誰か」一人の力や仕組みが生み出した強制力ではない。のらえもんや、ポチのような、善良な冒険者たちが形作っているのだ。


 振り返ると、三人を見送る村長と、目が合った。

頭をゆっくりと下げ、まるで拝むように彼は手を合わせた。


不思議だなあ、と、彼女は思う。

少なくとも自分は、間違っても拝まれるような人間じゃないのに。



ここでは彼女のことを、彼女、と便宜上呼ぶことにする。

彼女の名は、ロボだ。名前の由来を尋ねられて、路傍の略だよ、と笑ったことがある。だが本当は何の意味があるのか、誰も知らない。


狐尾族、レベル36、暗殺者、アニマルプラネット所属、女性。サブ職業は生還者、愛用しているのは両手持ちの大鉈。

彼女を表すタグはそんなところだ。

だが、誰も本当の彼女を知らない。大災害の時にはススキノに居たらしい。彼女がどうやってアキバに流れ着いたのか、はっきり知る者はいない。レベルや戦闘スキルから見て、妖精の輪を通って偶然たどり着いたのだろうと思われるが、彼女自身、それを語ることはない。彼女がデスペナルティを受けた回数、それも誰も知らない。この世界で死ぬたびに、

剥がれ落ちてしまう現実記憶の欠片たち。彼女の場合は、もう、残っている記憶を数える方が早い。うっすらと残った記憶の中で、彼女は誰かを探している。このワールドで、誰かを探していたはずなのだ。だが、誰だったかまでは判らない。顔を見たことがあったか、なかったか。名前を知っていたか、いなかったか。言葉を交わしたことはどうだったか。

とにかく、彼女の記憶はどこにも焦点を結ばない。彼女には、現在しかない。いや、正確に記述しようとするとこうなる。


彼女の過去と、現在は、繋がっていない。


繋がってはいないが失くしたわけではない。彼女は、決して消えず、剥落しようのない、とある記憶のことを誰にも話そうとしない。それは傷のようで傷ではない。彼女の身から出て、彼女の身に戻る、そういった類の記憶だ。

彼女は、少し暗い目をして皮鎧の胸に手を当てた。


 自分は、善人ではない。


 雑談をしながら、ポチとのらえもんが歩いている。ちらちら聞いていると、どうも初めて一緒に仕事をした時のことのようだった。

勝気な村の女の子って、よくモンスターに攫われるよねー、などと割と剣呑なことを笑いながら話している。二人は、以前にも人探しミッションをしたことがあるらしい。

ポチ、という狼牙族の守護戦士は一見、常識人だし言動もまともだが、どこかに闇を抱えている気がしてならない、と彼女は考えている。特に名前だ。人のことを言える義理ではないが、自分の分身につける名前としては、ちょっと尋常ではない。


「ぼくはね、この仕事を通じてロボちんとも、もっと仲良くなりたいと思ってるよ!」

鞄を担ぎ直したのらえもんが、不意に彼女を振り返った。

「ロボちん、無口だけど、素敵な肩甲骨してるしね」

 び、っと音が鳴るくらいの指さし。

「正直撫でたい」

 隣を歩くポチの耳がぴくっと震えた。のらえもんの距離の縮め方は、割と独特なところがある。ポチの反応は、相棒の看過許されざるセクハラ発言にか、彼女の息を吸い込む剣呑な調子によるものか。

「おい、そこのタヌキ猫」

「ひどい」

「幾つか言っておくべきことがあるな、と僕は今思っています」

 はいよ、とのらえもんが両手を上げ、体ごと彼女に向き直った。

「ロボちん、ボクっ子だったか。意外だけど好物です」

「うるさい、聞け」

 彼女は細い指を一本立てた。

「ひとつ、見えているものと、その中身が同じ性別だとは限らない。キャラクターとプレイヤーは別物です。現実と空想の区別、つけようね」

「えっ、マジでっ、どっちなの」

「教えない」

 ぶっ、とポチが噴き出した。どちらに解釈しているのか判らないが、その後の視線の向きからすると、のらえもんの過去には何らかの、後ろめたいエピソードがあるのかもしれない。


「ふたつめに、お前気軽なセクハラほんとやめろ。さっきみたいな発言ばかりしてると、ゴミ虫扱いされても文句言えないと思います。みっつ、僕はけっこう大きめの刃物を持っていますのでご記憶を」

「ロボちんって意外と冗談通じるよね」

意に介さない風にコロコロと笑いながら、のらえもんは片手を高く上げた。

きぃん、と金属的な音が、のらえもんの指先から背後に向かって伸びる。

「?」

 一拍遅れて、先の茂みがガサガサと鳴った。全然気づいていなかった彼女は気をとられて一瞬、足が止まる。

そんな彼女を置いて、すでにポチに対して禊の障壁が展開されつつあった。のらえもんは彼女と話しながら、すでに戦闘の準備をしていたのだ。

「三体!」

いつから気付いていたのだろう。この神祇官は、言動はともかく冒険に関しては熟達したところがある。彼の声に遅れて、茂みから蔦の魔物、トリフィドが這い出てきた。残りはまだ視認できないが、おそらくはのらえもんの見立て通りだろう。左右の茂みがまだ、蠢いている。


 ダメージ障壁が展開されるや否や、まるで初めから連携していたようにポチが背中から狩弓を取り出し、走りながらつがえた。

「一匹目!」

 引き絞り、放つ。流れるような動作だった。ひょお、と風を切って黒い影が飛ぶ。

ばつん、と何かを断ち切るような音がした。芯に当たったのか、一撃で四散する一体目のトリフィド。

 間髪を入れずに悲鳴のような、軋むような音を立てて、第二、第三の化物蔦が飛び出してきた。仲間がやられたことを察しているのか、いないのか、棘のついた蔦をまるで鎌首のようにもたげている。

「付近に罠の気配もなし!残り二体」

 のらえもんがカウントを叫ぶ。

 一瞬呆気に取られてしまったが、ようやく事態を呑み込めた。難しいことはない。

見えたモンスターに鉈を突き立ててやればいいだけの話だ。これまでもやってきたし、これからもやっていくことだ。彼女は自分の割り当てとなるであろうトリフィドに向き直り、腰の後ろの大鉈を横手に引き抜いた。準備運動のように肩を回し、握りなおす。

 戦闘は好きだ。軽口を叩きあうのは慣れないが、殺したり、殺されたり、知恵を絞ったり、走ったり、没頭しているうちは余計なことを考えなくても済む。心のままに身体を使うのは、すごく単純な言い方をすると、気持ちがいい。


「この魔物ってさ、どこで鳴いてるのか判らないよね」

 のらえもんは、無傷のまま一体を仕留めたポチの方から体を翻して、彼女にもダメージ障壁をかけるべく準備を始めた。彼からは、彼女の背中しか見えない。さっき、軽口を叩いた肩甲骨と、ほっそりした腕。不釣り合いなくらいのサイズの大鉈。位置取りで、のらえもんからは彼女がどんな顔をしているのか見えない。どこか不安なものを感じたのだろうか。祝詞に挟んで彼が声をかける。

「一人で任せて平気?」

 彼女から返事はない。

「その、撫でたくなるような肩甲骨に」

 肩をすくめたのらえもんの障壁展開とほぼ同時だった。障壁にまるで背中を押されたみたいにして彼女は一直線に疾った。草むらをまるで断ち割るように、ざざ、と彼女の軌跡がトリフィドに向かう。

低い姿勢から、かついだ大鉈が半円を描いて蔦の中心に振り下ろされる。どぉん、という音とともに、軽い煙が上がったような気すらした。遠目にも、化物を一撃で葬り去ったことが知れる。ひゅう、とポチが口笛を鳴らした。


 残りは一体だ。

「増援もなし、最後!」

 今度はのらえもんが、自分に向かってきた最後の個体に向けて、腰のものを抜いた。上段に構えた姿勢は、回復職にしてはずいぶんと様になっている。神様ってのは、祈るだけじゃお願いを聞いてくれないこともあるしね、と以前語っていたのは比喩ではなかったのかもしれない。

 深く息を吐き、彼は半身にトリフィドを見据える。


 彼女の傍らで、斬り飛ばされたトリフィドの触手が、苦悶するように空を掻き、崩れた。ほとんど原形をとどめていないトリフィドの残骸に、念のためもう一度大鉈を突き立てながら、彼女は大太刀を構える彼の姿を見た。

 いくつかの問題は考えないこととして、戦闘に関しては、いいチームだ、と彼女は考えた。ポチには的確な射撃の腕があるし、サポート役ののらえもんの索敵能力、状況把握力は一級だ。おそらく、すでにのらえもんとポチの連携は完成されているといってもいい。二人の立ち回りの裏で、殺せる相手を殺す。それが彼女の仕事になる。


 おおお、と雄たけびをあげて、のらえもんはトリフィドに向けて走った。

 そして、ぬるん、とした植物特有の動きにいなされ、彼があえなく空振りするところを、彼女は見た。振り下ろし、空振り、つんのめって転ぶ姿を、ポチも見た。おおお、ああ、あ、ああ、と音楽的な声が響く。あたりは深めの草むらなので、二人から見ると、のらえもんは空振って、倒れて、見えなくなったと記述するのが正しいだろうか。

 草むらに半分埋もれ、受け身の取りそこなった態勢でのらえもんは叫んだ。彼のやけっぱちのような声だけが聞こえた。


「ポチ、こいつ、たぶん、今なら背中ががら空きだよ!」


 彼女は、初めて力を合わせたこの戦闘をおそらくは忘れないだろうと思う。

 問題のトリフィドはポチが、要請どおりに遠くから弓で倒した。

 彼女は笑いすぎて尻餅をつき、トリフィドの体液で皮鎧を少し汚した。

 のらえもんはといえば、あごの下をちょっとだけ怪我しただけで済んだ。

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穢れなき泉にて 高橋 白蔵主 @haxose

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