その声は、本物ですか?

サトウ・レン

その声は、本物ですか?

 俺以外に誰もいないはずの部屋で、はた、はた、と耳に届き、徐々に大きくなるその音は誰かが床を踏んで鳴らしているものだ、と、その主がすぐそばまで来たところで、ようやく気付く。


 眼を瞑りながらも覚醒していた俺は鍵の閉まっているはずの部屋に侵入する謎の人物に慄きながらも、可能性のある人物を頭に浮かべていた。決して思い付かないわけではなく、その逆で、その数のあまりの多さに俺は混乱していた。


 ゆっくりと薄目を開けると、


 蛍光灯から放たれる白い光が眼に飛び込んできて、眉間に軽くしわが寄るのが分かった。室内の明かりを点けたまま眠るようになったのはいつからだっただろう。もう忘れてしまうくらい前だ。馬鹿みたいな罪悪感は持つな、と怯えを隠そうとしない俺の姿に呆れたような言葉を投げたのは、今の仕事のかつての相棒だったが、彼は間違っている。罪悪感ではなく、報復への純粋なおそれだった。


 光の眩しさを避けるように天井へと向けられる顔を横へと変え、音の主がいるはずのそこには誰もいなかった。目の先にあったのはいつもその場所に置かれている屑籠で、溜まったゴミの一番上には、先日捨てたばかりの病院で渡された白い紙の小袋があった。


「あなたは死にたいのですか?」


 俺よりも一回り近く若いだろうその医者の強い口調には、本心から俺を心配しているような色合いがあり、俺も真面目に答えなければいけないな、と思って、


「それも、いいかもしれませんね」


 と返した。


 医師の長い溜息は俺の耳に貼り付き、俺は心の中で一言、先生に謝りの言葉を添えていた。自ら死ぬ度胸はないが、死ねるなら死にたい。それが俺の本心であり、そしてこの気持ちはどんな患者であっても救おうとする若き熱血とは相容れないものだろう。侮辱された、とさえ思ったかもしれない。


 どちらにしろ俺がこの病院を訪れることはもうないだろう。


 急性アルコール中毒で倒れたらしく俺は気付いたら救急車でその倒れた場所近くの病院に運び込まれていたわけだが、そんな事情でもなければ俺が病院になんて行くわけがない。別に病院に行ってまで、生を長引かせるつもりもないんだから。


 勧められた入院は拒絶し、検査の結果、血糖値が異常なほど高いと言われて渡された経口薬の入った袋だけを持ち、自宅に帰ってすぐに捨てたその袋が屑籠の上にあるそれだった。つい最近のことだ。だけどとても古い記憶のように感じるのは、時間の、そして生の感覚が狂っているのかもしれない。もう俺はまともな人間ではないのだ、きっと。


 だから幻聴を聞いたのだ。


 いや幻聴か、それとも……。


『何かあっても責任なんて取る気はねぇけん。だからこんなに安く住まわせてやってることは肝に命じぃや。まぁだけんど、気ぃ付けや』


 と実際の年齢は分からないが、おそらく喜寿は終えているだろう大家のじいさんもはっきりと認めているが、格安の値段で借りたこのマンションの一室は、幽霊が出る、という悪評のせいで借り手が付かない部屋だった。幽霊になどまったく興味もなくその値段の安さに惹かれての即決だったが、癖が強く、馴染みのないそのじいさんの方言には悪評が嘘ではないと思わせるような真実味があった。


 幻聴でないなら、幽霊でも出たか。


 すくなくとも実在する音ではない。


 そう結論付けて俺はもう一度眼を瞑るが、するとまた音が聞こえる。どうせ誰もいるはずがないのに……、


 と、眼を開けてまたさっきと同じく屑籠へと目を向けようとすると、あるはずのものがなくなっている。それは物体が消失したわけではなく、俺の視界を遮るものがあったからだった。いや、あった、というより、いた、というほうが正しい。


 そこには長年、仕事上で付き合いのあった俺の相棒がいた。


〈よう、久し振り。シロ。〉


「クロ」


 俺たちは互いに本名を知らず、俺は相棒のことをクロと呼び、相棒は俺のことをシロと呼んだ。初めて会った時、クロは黒のスーツを着ていて、俺は白のTシャツを着ていた、という理由で。


〈どうしたんだ? そんな……幽霊にでも会ったような顔して。〉


「もう会わない、と思っていたからな。……あぁ、後、そこまで久し振りでもないだろう」


 クロが子どものように無邪気な顔を浮かべる。天性の人たらし。俺は心の中でクロをそう評していた。俺たちの仕事にとって、その性格はこれ以上ないほどの武器だった。


〈僕がいなくても仕事を続けてたんだな。〉


「働かないと食っていけないからな」


〈シロのことだから堅気にでもなって真面目に働いてる、と思ってた。そもそものきっかけは、僕だったからな。〉


 クロが姿を消したのはちょうど一年前の今頃で、突然誰かが姿を消すなんて俺たちの業界じゃめずらしいことでもなかった。クロと一緒に行動していた頃はいつ足を洗うか、ということばかりを考えていた。クロにそそのかされたから。それが、ずっと俺の言い訳になっていた。本当に悪いのはクロで、俺は仕方なくやっただけ。犯罪行為に染めた手を見るたび、俺はクロの顔を思い浮かべて、自己を正当化した。


「俺はもう戻れなくなるラインを踏み越えちまったみたいだ。お前のせいで、な」


〈他人のせいにするな。元々お前に素質があり、それが運命だったんだ。〉


 一緒にいた時は不愉快だった言動も、今では懐かしく感じる。しかし……今さら何の用があって、俺のもとを訪ねてきたのだろう。


「聞きたいことが色々とあるんだが、まずはどうやって入って来た……いや、まぁそれはいい。お前なら平気で合鍵くらい手に入れられるだろうからな。それよりも、今までどうしてたのか、の方が気になる」


〈この状況に冷静でいられるところが、お前らしい。お前の図太さって魅力だよな。お前を選んで良かった、って本当に思うよ。〉


「何、言ってるんだよ?」


〈僕は、もう死んでる。一年も前にな。僕の器は東京湾に沈んで、もう魚の餌にでもなって久しいだろうな。〉


「だったらクロ、今、俺の眼の前にいるお前は、誰なんだよ」


〈さぁ僕もよく分からないけど、一般的には幽霊って言うんだろうな。ほら、僕の足を見ろよ。〉


 それまで俺の注意が向かっていなかった部分をクロが指差す、彼の足元を見ると、彼に本来付いていたはずの足がなかった。


〈幽霊には足がないらしい、というのはよく聞く話だが、僕も実際に自分が幽霊なってみてそれが真実だと知ったよ。〉


「そっか、もう死んでるのか」


 俺は横になった身体を動かそうと思ったが、金縛りにでもあったみたいに首だけが唯一向きを変えられるだけだった。


〈もっと驚けよ。シロ。〉


 はぁ、とクロが深い溜息を吐く。


「死んでいてもおかしくない状況に、俺たちはいつもいたからな。特にあの時は。そんな時に姿を消す奴がいたら、死んでいる、と考えるほうが普通だろう」


〈そうじゃなくて、僕が幽霊だ、っていうことにだよ。〉


「ここは幽霊が出ることで有名な部屋なんだから。幽霊のひとつやふたつ、いてもおかしくないだろう」


 と返してみたが、平然と受け答えしていることに俺自身が不思議だった。なんだか夢を見ているような感覚が強いからだろうか。


「誰に殺されたんだ?」


〈あの直前に僕たちが嵌めようとしていた。資産家のじいさんだよ。あのじいさんの命令で押し掛けてきた明らかに堅気じゃない連中に。〉


 詐欺師として糊口をしのいでいた俺たちが一年前に狙ったのは、誰もが知る大企業の会長で、大物資産家のY氏だった。それまでの詐欺行為が小遣い稼ぎとしか思えないほどの大物を相手にして、俺たちはひどく緊張し、普段ならしないような失敗を繰り返した。そしてクロがY氏との直接のやり取りを終えた数日後に、彼が姿を消した。逃げたか死んだか。そのふたつしか考えられず、俺は逃げるように東京を離れた。


 そして今のマンションでの生活が始まった。


 追っ手に怯えながら息を潜めるような生活をする中で、これを切り抜けたら堅気の人間として、まっとうな生活をしようと決意していた。しかし追っ手など来る様子もなく生活と気持ちが落ち着き出せば、たったひとりでも俺は詐欺という行為に手を染めていた。それは自ら望んでいる、としか言いようがなかった。


「俺を憎んでいるのか? たったひとり生き延びた、俺を……」


〈憎んでる、と言ったら……?〉


「謝ることしかできない。クロ。お前にもうお金は必要ないだろう?」


〈まぁ、な。死者にとっては意味のないものだからな。それに……。そんなに儲かってる生活をしているようにも見えないし、な。〉


「資産家を狙って消えたお前のことを考えると、怖くて、金持ちなんか相手にできない」


〈命を狙いに来るのは金持ちだけとは限らんがな。例えば幽霊とかな〉


「俺を殺したいのか?」


〈一年越しに、シロ、お前を道連れにするのも悪くないな。なぁ僕のところに来ないか?〉


「俺をこの仕事に誘った時の文句もそんな感じだったよな」


〈そしてシロのほうが長続きしている。それで……どうする?〉


「クロが決めてくれ」


〈僕に負い目があるからか? 負い目があったとしても、お前が生きたいなら、自ら生を選べ。詐欺師が馬鹿みたいな倫理観や道徳観、罪悪感なんてものを持つな。もう一度、聞く。どうする?〉


「……生きたい」


〈それなら、勝手に生きろ。僕は別にお前の命を取りに来たわけじゃない。久し振りに会いたくなっただけだ。だけど生きたい、と思っても常に生を選べるわけじゃない。僕は死ぬ寸前、生を願ったが、この通り、死んで――。〉




     ※




 クロの言葉が途切れるように、そこで俺は眼を開けた。眼を開けていたはずなのに、何故、俺は眼を開けられるのだろう。やはりあれは夢か幻覚だったのだろうか。がちりと固められたような感覚はなくなり、俺は身をよじり、クロのいた方向を見る。だけどそこにクロの姿はなく、屑籠に、薬の入った小袋が見える。

 生きたい……。

 涙と汗が混じってひとしずく、シーツへと落ちた。俺は、泣いているのか。死ねるなら死にたい、と思っていた俺が、生きたい、と。死にたくない、と。

 馬鹿げている。だけど、その一滴を皮切りに、とめどなく溢れだす。

 あぁもう一度、まっとうに生きてみよう。

 と、俺の頭にそんな考えがよぎった時、

 透明な液体がシーツを濡らした、変わるはずのない無色が、突然、色を変えた。視界が赤く染まった。

 俺が見ているのは、赤の絵の具か、それとも血か。

 血ならば、それは誰のものか。俺のものか。

 これはまだ続く夢か。幻覚か。それとも――。

 生きたい、と思った俺は正しく生に向かっているのか。それとも――。

 俺は今、生きているのか。それとも死んでいるのか。



 

 



 何、考えてるんだ。あれは夢だったはず。それとも――。

 真っ暗だ。寝る時に俺が電気を消した? そんなわけがない。俺は初めて罪を犯してから、暗い部屋で眠れなくなったんだから。


 生きたい生きたい死にたくない生きたい生きたい死ぬってなんだ嗚呼いやだいやだ怖い怖い暗い嫌だ怖い何も見えない見たくない聞こえない聞きたくないいやだいやだ。生きたい生きたい死にたくない生きたい生きたい死ぬってなんだ嗚呼いやだいやだ怖い怖い暗い嫌だ怖い何も見えない見たくない聞こえない聞きたくないいやだいやだ。生きたい生きたい死にたくない生きたい生きたい死ぬってなんだ嗚呼いやだいやだ怖い怖い暗い嫌だ怖い何も見えない見たくない聞こえない聞きたくないいやだいやだ。生きたい生きたい死にたくない生きたい生きたい死ぬってなんだ嗚呼いやだいやだ怖い怖い暗い嫌だ怖い何も見えない見たくない聞こえない聞きたくないいやだいやだ。


 ――――――――。


 声が聴こえる。

 きっと幻聴だ。そうに決まってる。

「俺ぇ騙すから、こうなるけん」

 その声は俺がクロという相棒を失った後、ひとりになって初めて騙した大家のじいさんの声に似ている気がしたが、



 幻聴に決まってる。

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その声は、本物ですか? サトウ・レン @ryose

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