第五幕 恩返しの続き

 癒えない傷を抱えたまま、げっは懸命に、元の調子を取り戻したかのように振る舞っていた。


「失礼します」


 声をかけ、中からの返事を受けて俺は戸を開ける。

 まるで執務室のような文机と書物だけがある生活感のない造りの室内。

 くうせい殿は、その文机に向かい、何か書き物をしていた。


「お仕事中でしたか?」


「いや、本来今やるべきことではないから、構わないよ。暇な時間があると早め早めにやっておきたくなってしまう性分なんだ」


 そう言って、空茜殿は柔らかに笑んだ。


「少しお時間を頂いても宜しいですか?」


「あぁ、そう畏まらないでくれ。君は客人だし、恩人でもあるのだから」


 空茜殿はどこか俺の父に雰囲気が似ているところがあった。知的で冷静で穏やかさと威厳を持ち合わせていて、俺なんかでは、逆立ちしても勝てないんじゃないかという気持ちに自然となってしまう。


「実はご相談があって……」


 座るよう勧められ、腰をおろした俺は、口火をきったものの上手く続けられず尻窄みになった。


「お茶でも淹れようか……」


「いえっ、直ぐに済みます」


 見かねたように腰を浮かした空茜殿を慌てて押し止める。


「……実はっ……月華を……ようげつを暫しの間お任せしたいのです!」


「ふむ……それはどういうことかな?」


「あ、その……言葉を間違えました」


 空茜殿の前では、俺はすっかり童のようだった。


「俺は本来最北の地のひょうせい様のもとに仕官するために故郷を出て参りました。その道中、じゅ仙導せんどうの者に襲われ、陽月に命を救われました」


「そうでしたか……」


「その恩に報いるため、陽月とくうとうに然るべき時に備え武を教え、空家の里が襲われたあの日、二人を連れて里を出、この地まで共に参りました」


 そう、月華の故郷である里長、くうせい殿に頼まれたのはそこまでのことだった。

 だがしかし、月華ととうと共に過ごす内にまるで本当の兄妹であるかのような情を捨てきれなくなってしまっていた。

 それに、月夜の湖畔での橙馬との誓いが俺の胸に楔のように深く突き刺さっていた。

 だから、どうしてもこのまま月華と離れ離れになることは出来なかった。


「なるほど……仕官にあたっては何方か頼りがあってのことですか?」


 空茜殿は、俺の拙い話でも何を云わんとしているのか解ったようだった。


「はい。父が文官として氷青様に仕えていた伝手で……」


「では、事前に文で報せを出されていた?」


「その通りです。父は既に他界しておりますので、同僚の方に……本来であれば、その方の元に身を寄せることになっておりました」


「幾月程前のことですか?」


「半年程前です」


 空茜殿の問いはどれも的確で、最低限の言葉のみで形作られていた。


「半年もですか……」


 そこまで話して、空茜殿はとうとう唸るような声と共に顎に手を添え、黙り込む。


「確かにそれは由々しき事態ですね……」


「はい、ですから俺は一度故郷へと戻り、氷青様の元へ参る所存です」


「えぇ、そうなさったほうが良いかと思います。ただ……らいそう殿。君はここまで良くやったと思います。まだ君だって年若いことに変わりない。その上で、辛い宿命を担い、成し遂げた。もう充分に命の恩に報いたと私は思いますよ」


 空茜殿が遠回しに、戻って来る必要はないのだ、と言っているのは直ぐに解った。

 俺は、ゆっくりと、はっきりと、頭を振った。


「いえ、俺は必ず彼女の元へ戻ります。しなくてはならないと思っているからではありません。俺自身がそうしたいのです」


「そうですか……」


 空茜殿は困ったように眉尻を下げたまま、それでも笑んで、そう言った。

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天仙演戯 藤村 最 @SaiFujimura

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