第四幕 無事

 心と身体が何とか動くようになったのは、七日程の後だった。


くうさん、何か手伝えることはありますか?」


 屋敷の中庭で洗濯物を干す空樺さんへと声をかける。

 くうじゃくさん。

 彼女は、屋敷の主であるくうせんいん様の奥さんで、歳は30。長く滑らかな茶色の髪、黄金色の瞳、切れ長な目、高い鼻、厚く艶のある唇、細いのに女性的な体つき。空樺さんは、同性のわたしから見ても綺麗で魅力的な方だった。


ようげつ。大丈夫よ。あなたはゆっくり休んでいて」


 空樺さんは、優しく温かな笑みを浮かべ、手は止めぬままそう言った。

 わたしは、この館に来てからというもの、今まで名乗っていたてんという冠名ではなく、ようという父方の冠名で呼ばれていた。

 これは、屋敷の主、空茜様の指示で、天という冠名はこの世にわたししかおらず、他の誰かの耳に入った時にわたしが天仙女てんせんにょの子であるということを知られるかもしれないのを防ぐためだった。また、わたしたちがいるこの地の国主は陽家、わたしの祖父であるため、陽という冠名の者がこの地にいることは至極自然なことであり、今後のことを考えるとその冠名で名乗ることに慣れていたほうが良いとのことだった。

 故郷である麒麟山きりんざんの麓の隠れ里から、この南東の陽家の領地までの旅路の間、わたしは既に男性を装うために陽の冠名で名乗っていたため、名乗る分には少し慣れてきてはいたものの、呼ばれることに関してはまだ慣れていなかった。

 なんせ、里からここに辿り着くまでの三月みつきの間、わたしの名を呼ぶのはたった二人で、しかもげっという親しい者だけが呼ぶ固有名と字で呼ばれていたのだから……


「何か、手伝わせてください……でないと、その……思い出してって……」


 ふとしたことで心が翳りそうになり、わたしは慌てて空樺さんへと近寄った。

 七日の間、抜け殻のようにただ座って、彼方に視線をやって、床から起き出すことすらほとんどしていなかったわたしを見ていた空樺さんは、懇願するように手伝いを申し出たわたしに、一瞬だけ驚いたような顔をしたが直ぐにより一層柔らかい笑みを向けてくれた。


「そうね……動いていないと辛いこともあるものね……」


 空樺さんの掌がわたしの頭へと伸び、髪をすくように優しく撫でる。わたしは天仙女の娘だから、母以外の女の人に頭を撫でられるのは初めてのことだった。


「これが終わったら夕餉の支度をするの。台所に野菜が置いてあるから洗っておいてくれるかしら?」


「はい!」


 やることを与えられ、わたしは声を弾ませた。

 里にいる頃もわたしが幼かったこともあり、誰かに何かを頼まれるということは殆ど無かった。強いて言えば、怪我の治療くらいのものだが、それもわたしが自主的に行っていることが多く、余程でもない限り頼まれることは無かったし、平和な里では、大きな怪我が起こるようなこともあまりなかった。

 出てきた屋敷の中には戻らず、庭をぐるっと回るようにして台所へと向かう。

 ずっと与えられた部屋に籠っていて、ろくに屋敷の中ですら歩いていなかったので、外の空気は懐かしくすら感じられる。

 やはり、この屋敷を取り囲む空気は、麒麟山の隠れ里にどこか似ている。人の手があまり入っておらず、自然が自然のまま残っていて、生えている植物は違うのに、静けさと長閑さに満ちている。

 屋敷は、そこまで豪奢な造りではない。屋敷と呼んでよい程度の部屋数があり、離れと倉庫まであるものの、派手な装飾があるわけではなく、平屋造りで、邸宅というよりは庵を思わせるような質素さがあった。

 けれど、屋敷をとり囲う塀と唯一の出入口である門は堅固で、建物よりもしっかりとした荘厳なものだった。



 何故このような建物と不釣り合いな塀があるのか、その理由は空樺さんに初めて会った時に気付いた。

 そう、それは、空樺さんというまだ年齢的に若い女性を護るためなのだと……。その為に、街から離れたこの地に屋敷を設け、人を雇うのではなく塀を設けることで、空樺さんが連れ去られたり、乱暴をされるようなことがないよう護っているのだ。

 その事に気付いた時、わたしは改めてここまでの旅がいかに危険であり、蒼龍と橙馬がどれだけ苦労したかを実感した。

 里には人数は少ないものの女性は普通にいたから、わたしは女であることがこんなにも危ういことだとは思っていなかった。わたしがまだ子供だから役にたてないのだと、そればかりを責めていた。何か役にたちたいと、外に出て自分も同じように力になりたいと、そんな我儘を言っていた。

 けれど、よくよく考えれば、旅の途中、女性の姿を見ることは一度も無かった。存在しているはず女性の姿は表に晒されることはなく、それを護る男性によって隠されていた。

 きっと、そうりゅうとうも大変だったに違いない。わたしは、女性というだけではなく、天仙女の娘、いるはずのない女児なのだから。

 台所に続く裏の勝手口まで来ると、わたしはもう一度高い塀を見上げた。

 屋敷の主であり、橙馬の叔父である空茜寅様に、ここまでの経緯を伝えた時、くうせん様はこう言った。


「よくぞ、ご無事で……」


「無事じゃありません。全然、無事なんかじゃ…………」


 堰が決壊したかのように込み上げてきた涙に溺れるように、わたしはそう言った。

 隣に座る蒼龍も、わたしが悲しむことを解っているから、橙馬のことだけははっきりと言葉に出来ず、膝の上で拳を握り締めて、歯を食いしばっていた。

 二人とも、橙馬がどうなったのかを言うことが出来なかった。

 けれど、わたし達のその様子と、わたしが握り締める橙色の布の切れ端を見れば、空茜様には伝わっていたのは明らかだ。

 空茜様はわたし達から無理に聞き出そうとはしなかった。


「無事だと言ってあげて下さい。甥っ子のために」


 わたしはボロボロと止めどなく流れてくる涙の合間で、なんとか頷いた。


「大丈夫です。我等くう家は貴女を護ることを使命とする一族。貴女がこうして無事なのだから、空家の者はきっと生きています」


 泣きながら、ただ頷くことしか出来なかった。


「信じましょう。きっと貴女の元に戻ってきます」


 空茜様の言葉に縋るように、精一杯、何度も何度も頷いた。



「陽月?どうかしたの?」


 声をかけられ我に返ると、わたしは台所へと続く戸口の前で、高い塀とその向こう側に続く竹林をぼんやりと眺めながら立ち尽くしていた。

 洗濯を干し終えた空樺さんは、わたしのことを心配してくれたのか、濡れた衣服を入れていた桶を持ったまま、わざわざ外を回って来てくれたようだった。

 空樺さんの心配した通り、わたしは余計なことに思いを馳せて、頼まれたことに着手していなかった。


「……ごめんなさい!外を歩いたのが久しぶりで、ちょっとぼうっとしてしまって……」


 わたしの言い訳になっていない言い訳に、空樺さんは怒ったりせず、クスリと優しく笑った。


「そう、じゃあ、仕事に取りかかるわよ?早くしないと日が暮れちゃうわ」


 空樺さんはわたしの肩をぽんっと叩いて、台所へと入っていく。


「はい!…………信じなきゃ」


 慌てて後を追うわたしは、口の中で小さくそう呟いた。

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