第5話 ショートケーキを食べる
ひょんなことから、会社にショートケーキ好きがふたりいることが判明した。
私はショートケーキが得意ではない。ケーキを選ぶときにショートケーキに意識がいくことすらない。もっぱら、チーズケーキかモンブランで、ババロアがあればちょっとテンションが上がる。
だが、いちじくのショートケーキがあれば話は別だ。いちじくのショートケーキはとても美味しい。
そう言ったら、ふたりとも、口を揃えて「ショートケーキはいちご以外は認めない」と断言した。
そうなのだ。彼らは、おそらく、いちごが好きなのである。
「いちご好きなら、美味しそうなお菓子があるよ。メレンゲの上に、生クリームが乗ってて」
「うんうん」
「その上にいちごが乗ってて」
「最高だね」
「で、チョコレートでコーティングしてあr」
「「あー」」
被せ気味に落胆の声が唱和される。
メレンゲに生クリームにいちごにチョコである。最高じゃないか。
「余計なんだわ、チョコが」
ばっさりと拒絶された。
「仮に子供が『ショートケーキの上のいちごちょうだい』って言ってくるとするじゃん。断るよね」
それくらい、いちごが好きだそうだ。
私だって、ショートケーキの見た目は好きだ。
白い生クリームに、つやつやで真っ赤な美しくも愛らしいいちご。断面もまた美しく、幸福の象徴のようなお菓子。
誕生日にクリスマス、雛祭り、と祝い事の席には、必ずといっていいほどいちごのケーキが食卓を飾った世代である。だが、兄の誕生日は、私が物心ついたときにはすでにチョコレートケーキだった。
私だって、チーズケーキの方が好きだった。
でも、幼き日々のチーズケーキは今ほどメジャーなケーキでもなく、見た目も地味だったために、デコレーションされたショートケーキの美しさには叶わない。心を躍らせながら箱を開け、いちごの乗ったショートケーキを目の前にしてフォークを突き立て「やっぱり何か違う気がする」と違和感を覚えていたのもまた事実である。
おそらく私は、スポンジケーキと生クリームが、それほど好きではないのだ。
いまひとつピンとこない私に、会社で繰り返しプレゼンされるショートケーキの素晴らしさ。
私の心は揺らいだ。そんなに美味しいのか、いちごのショートケーキ。
そんなある日、書店をぶらりと徘徊していたら、一冊の本と目が合った。
森岡督行さん『ショートケーキを許す』(雷鳥社)だ。
完全に、日頃の刷り込みである。そして、森岡さんは、友人の友人だったと思う。私は直接は存じ上げないが、友人が何度か森岡さんのことを話すのを聞いた覚えがあった。そうなると、うっかり手に取ってしまう。ショートケーキと私の運命である。
運命とは偶然ではなく、脳内に刷り込まれた学習の成果なのではないか。そのことばかり考えている結果、目が耳が脳が、関連ワードを拾いやすくなっている。人は繰り返し接触したものに対して、愛着を覚えるのではなかったか。ましてや、与えられる情報がプラスの感情であり、私が元々ショートケーキに抱いているうっすらとした印象よりも強烈であり熱烈である。だって私が、普段、ショートケーキのことをほとんどなんとも思っていないのだから。
初めて見たショートケーキを親だと思ってしまう程度に、良い印象を上書きされていたのだ。彼らの勝利である。
ぱらりと捲った生クリームのように白いページには、ショートケーキへの愛が幸せそうに挟み込まれている。
ふらふらと『ショートケーキを許す』を、まるでそう呟くみたいに手に取って、レジに運んだ。
この本を読みながら、ショートケーキが食べたい。私はショートケーキと和解するのだ。
完敗である。
数日後、私はなんとなく、この本を鞄に入れて家を出た。
オシャレカフェにクレープを食べに行きたかったのだ。だが、気が変わって、いつもの駅で電車を降り、ふらりと歩いた。
目に入ったのは千疋屋である。
いつもは並んでいる千疋屋さんに、今日は誰も並んでいない。
横目に通り過ぎる。座れそうな気配である。
不意に私は、鞄に入れた本と、その中にあった千疋屋の文字を思い出す。この本を読みながらショートケーキを食べるのは、素敵ではないだろうか。
どうかしていたのだ。ショートケーキに取り憑かれたのだ。
ふらふらと来た道を戻り、千疋屋に吸い込まれる。
ウインドウには、いちごのショートケーキが煌めいている。だが、ババロア、ババロアがいるではないか。ババロアだって書いてあるけどミルクプリンじゃねえか、みたいなことは、千疋屋さんではおそらくないはずだ。正当なババロアなはず。ババロアが食べたい。いやでも、ショートケーキを食べるために入ったのではなかったか。いや、パフェが食べたい。でも、いちごのショートケーキが美しい。
席に座り、メニューを開く。
ケーキセットに、いちごのショートケーキはなかった。代わりに季節のマンゴーショートケーキがある。私はマンゴーが好きだ。 セットにないのだから、仕方がない。私はマンゴーショートケーキを頼む。決して妥協ではない。
奇しくも、本の中の千疋屋のページにはマンゴーショートのことが書いてあった。それだけで満足だ。
ケーキが来るまで、ぱらりと本を読む。 おしゃれな文章のアイテムとして、ショートケーキがほんのちょっと出てくるのだと思っていた。ごめんなさい。最初からずっと、ひたすらにショートケーキへの愛でした。ともすると、くすりと笑ってしまうくらい、森岡さんはショートケーキを愛しているのだ。ところどころ、様子がおかしいほど、愛が溢れている。
あまりにも素敵で魅力的なので、一度に全て読んでしまうのは勿体無い。ホールケーキをフォークでほじくるようなものだ。一切れずつカットして、大切に食べたい。だから、続きは、別のお店でショートケーキを食べながら読もう。そう思って数編で閉じた。まだ途中だけれど、とても好きな本だ。
そして私は、ショートケーキを食べながら思う。
会社のふたりや森岡さんのように、あんなにも愛してやまない食べ物が私にあるだろうかと。美味しいものは好きだ。でも、正直、食事をするのは面倒なタイプなのだ。お腹が満たされて、そこそこに美味しいと思えるのならばなんでもいい。「好きなものは何ですか」 そう尋ねられたときに、いつも戸惑ってしまう。迷いなく答えられるほど好きなものなど、あるだろうか。
ふと思い出したときに幸福な記憶としてよみがえる食べ物が、あるだろうか。
目の前の、押し切ったフォークの圧に耐えきれずに倒れそうになってしまうショートケーキと苦戦しながら、ぼんやりと考える。 最後まで、美しく食べきれる宝物のような食べ物が、私にもあっただろうか。
倒すのが正解か、上半分と下半分で分けて食べれば良いのか。いつかお皿を汚さずに食べ終えられるほどに、ショートケーキと仲良くなれるのだろうか。
どんな食べ方をしても、ショートケーキは私を許してくれるだろうか。
きっと来月も、私はどこかにショートケーキを食べに行くだろう。そうしてそれは、素敵なことに違いない。
泡を集める 中村ハル @halnakamura
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