Ⅲ.

 街を抜けていく川は、やがてあのヨシ原へと繋がる。照り付ける太陽でほのりと焼かれたような空気を肌に受けながら、ずっとその道を歩いた。多くの人が桜並木の遠くからやってきては背後に消えていくなかで、やがて身体はヨシ原の道を目指し始めた。

 空を見上げると、冬を抜けて久方ぶりに会う入道雲が薄紅色に光っている。潤いに満ちた空気が、薄暗い色を孕みながらぬるりと頬を撫でた。間もなく、時を経たという認識と共に輪郭を顕にした疲労がふくらはぎの内側をいじめ、瞼が細かい砂を詰め込まれたように重くなった。

 つかれた、とぼやいて、途中買い入れたミネラルウォーターを口に含む。霞んだ体内の神経に、水の粒たちが鋭くぶつかって意識を呼び起こした。そうして真っ先によぎったのは、今しがたすれ違った人々の眩しさだった。

 ――皆、明るい顔をしていたな。

 休日の昼間に、市民たちの憩いの場は爽やかなにぎわいを見せていた。私の体にまとわりついた臭気からは、その一つ一つが遠くの大地を踏みしめているようで――例えば自転車の上で風を浴びる部活帰りの学生とか、無骨な表情の中に穏やかな幸福を纏わせた老夫婦の散歩の様子とかは、私の人生にいかなる可能性があったとしても、そこに介在しうる自らの姿はありえないと確信できた。

 特に、青春の香りが私を苦しめた。

 学生たちの、汗のしずくを颯爽と散らす肌へ目をやりながら、老い始めた肉体にはもう宿しえない青い炎の存在は、何度となく自覚された。そのたび背後の遠くより私を見つめるあの美少女の視線から、重苦しい指に胸をかき回されるような鈍い痛みの感触を与えられるのはもどかしかった。

 舌打ちする。オレンジに濃紺の混じり始めた空が、一日分の時間は素早く去ることを告げていた。部屋の机で放りだされた原稿に、今日は一文字の追加もしていないことが否応なく想起され、十代の私が声を荒げている。

 ――書かなきゃ。

 この考えさえ、あの美少女に芸術の完成を試みた情熱とは程遠いことも刹那の間に理解できた。時の流れにのまれないように溢れてくる焦燥感からは、愚鈍な嘘の臭いがする。

 ふと遠い建物の影に消えていきそうな夕焼けを見つめた。昨晩縁を切られた友人の美しい横顔が、そのなかに浮かび上がりそうだった。私は咄嗟にうつむいて、暗くなった足元にヨシ原を思い描いてみる。

 少女が、私の方をずっと見ている。満ち溢れる情動を静寂の内側で振動させて、その髪の毛とスカートが揺れている。極限の美が、恍惚の沼の底へ私の気持ちを引きずりこもうとする――。

 だが昼間視線を交わしあった母親が、軽蔑を面貌に表出させながら景色へと割り込んだ。少女の立ち姿にその仕草が重なり、黒い瞳が、貫くような絶対感を私の視野に投げ込んでいた。十数年の間、沈黙のように成果をあげなかったことを厳しく責め立てる目だった。

 途端に、水流が激しく心の中を往来した。冷ややかな動体は腹の底から飛び出そうと蠢いて私を刺激し、足が勢いよく藍色にぼけた道へと滑り出した。

 草むらからとりついてくる虫の音を振り払うように、地面を蹴る。朦朧な理性が映し出すヨシ原への道のりに従い、コンクリートの容赦ない硬さに喘ぎながら、一歩前の地面を踏みしめた。

 あの華奢な体躯が、道のずっと先に確かな実体を持って佇んでいると、ぬるい風が教えているようだった。


 細長い葉の擦れる音が、鼓膜をかすかに震わせた。岸の方からやってきたそれは十数年前の記憶の底から引き上げられるものと寸分たがわず、私を懐かしさの水勢に飲み込んでいく。広大な水面の向こう岸で立ち並ぶ街の灯に照らされ、夜闇からうっすら身を晒すヨシの茎たちが青い葉をこれ見よがしに振っていた。

 ――葉の色が、あのときとは違うんだ。

 記憶に残る白茶色の光景と照らし合わせそう察知すると、焚きつけられた焦燥はより力強く体内へ弾き出されていった。

 街灯もない道の上を、再び前進する。時折遠くの車のヘッドライトがあたりを白く染め上げると、あのとき、泥まみれになりながら頭の内辺に転がした彼女の裸体が、どこかで美しく煌めいているように思えた。

 夢で見たあの笑顔にこの身を預けられるなら、私から虚無の苦しみを除いてくれるのは、それしかありえない。心臓をしかと掴んで揺らす、そういう期待感に、指の先まで満たされながら歩みを進めた。

 しかしもう二キロはその力で歩いた頃、まだ時期の早い蝉が一匹、遠くで飛び去る音がした。真空を焼くような音は、私を包む虚無の空間へといとも簡単に手を弄り入れた。

 ――なにをしているんだ。

 躍動していた気勢の昂ぶりは、指先から漏れ出て溶けていく。暗い大気のクッションで受けとめられるように、体が静止する。結局私は、漫然と広がるヨシ原から十数年前の場所を選別することはできなかった。

 周りを見渡した。夜は、太陽の面影を塵のように消してしまっている。

 暗黒の中に立ち尽くした私に、寂寥の鋭い恐怖が迫った。

「何をやっているんだ、俺は!」

 走馬灯のように翻っていく過去の友人やすれ違った人々の笑顔が、何もしてこなかった私を嘲っている。そのなかにはあの少女さえも、抱きかかえた無邪気な子供とともに、刃物を宿した眼球をこちらへ向けていた。

 喉の奥から石を吐き出すような、苦しい慟哭が這いずり出た。痛みに打ち震えながらたまらなくなって膝をつくと、ヨシの葉たちは私の頭より高いところで悠然とゆらめきだした。

 彼らは少なくとも、私より立派に生きていた。対面にそびえる高潔さには、羨望の念さえ沸いた。

 おもむろに、私はのたうちまわるような様子で彼らの間へと飛び込んだ。肌を撫ぜる植物の触感は、かつて少女を胸に抱きながら得たものだったという事実が脳裏を強烈に抉っていく。服を染み渡って体に伝う水が粗い泥とともに四肢を包み、指先はとらえるべきものを求めて空をさまよった挙句居つくべき場所を見失った。

 瞼の裏から熱く涙がにじむ。真っ暗な水の上に目を伏せると、人が感情の出所を胸のあたりであると錯覚するのに納得できるほど、そこが苦しいのがわかった。

「俺は、俺はもう駄目だ、小説なんて書けやしないんだ。だから、許してくれよ――」

 吹きすさぶ風が、頭上の葉をうるさく鳴らした。喚き声は雄大でどす黒い波へ吸い込まれて、何処へ行くでもなく消えてしまった。

 ――潮時か。

 寝起きに呟いた、やめてしまおうか、という言葉がまだ舌先に残っていた。

 ――でも、それは違うんだ。

 街の明かりさえ、幾重にもかさなったヨシに阻まれ届かない暗闇で、私は自分の手元へと目を落とした。泥水を湛えながら汗にも濡れた手のひらが、黒いキャンバスで醜く色を表していた。そのとき、突然ひとつの細長い閃光が私の瞳孔を掠めていき、かつて滾らせた美貌への欲求と共に肉体を埋め尽くした。

 泥水が舞っているような闇を穿ち、閃光はその先に白茶色の世界を示した。そこでは、少女が風に揺られながらうつろな眼差しをこちらへと注いでいた。


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辻井紀代彦 @seed-strike923

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