Ⅱ.

「なんであんな夢を見たんだ、俺は」

 寝汗を袖に押し付けながら開口一番そう独り言ちた。まるで少年時代に返ったような青い高鳴りが渦巻くのを実感して、心地よく、しかし息苦しくもあった。

 空間に漂う昼下がりの元気よい調子と肉体の具合との不似合いさにうなだれる。頭蓋骨を内側から破裂せしめんとするような痛みを堪え、ソーダ水をコップ一杯注いで飲み干す間に、残された半日の活動を思い描いてみる。

「日曜日か」

 机の方をちらと見やる。自ら読み返すために用意した原稿は、クリップをひっつかせながら風に弄ばれていた。先ほど目覚めを引き連れてきた鈍痛は、肌の内膜と一体になるようにして離れない。

 何かを、変えなければならなかった。それだけはわかった。

 ただ、ぼうぼうに伸びた髭を剃ったり、服を着替えたりすることのような簡単に手を伸ばしうる方法では、その仄かな苦しみの連鎖から私を開放することはかなわないように思えた。

「やめてしまおうか。潮時なんじゃないか」

 しかしそれは、一番シンプルな手数ですっきりする選択肢ではあったものの、わだかまりの残るやり方であることも間違いなかった。

「ああ!」

 二杯目のソーダ水を喉に押し込む。口腔に焼けつくような炭酸の辛さの中で、若い自分の面影が映えた。

 ――どうしろというんだ。

 反抗期の私は、悔しそうに握り拳を振り上げて、虚空へ叩きつけていた。


 私の肉体には、虚空の層が張り付いている――そういう感覚は、中学を卒業する少し前あたりに顕在化した。

 昔から、多様な友人たちを前にして、おどけて見せれば簡単に彼らの笑顔と、仲間としての居場所を手に入れることができた。しかし、彼らは決して、私に滑稽以上のものを要求しはしなかった。それは特に、私が異性に恋をすることで輪郭をあらわにした――私がおどけた面皮をはがし、おもむろに自分が相手と同じ人間であることをちらつかせると、少女たちは必ず、ドライアイスの冷気のような、ささやかな白さを表情に浮かべた。

 若さは、そういった女性の反応が、自らの未熟さや、もっと複雑に構成された仕組みによるものであることは巧妙に隠して、それが先天的、絶対的なものであることを早計に確信させた。

 ――俺は、醜男なんだ。

 これが、私の青春に影のごとくまとわれた自己認識だった。

 そういう人間の周りには何か人の心の出入りを制限するような、死の香りを放つ領域が漂っていて、だから、私は誰にも愛されることはないのだと考え始めていた。それは思春期の敏感な少年を著しく寂しい気持ちにさせた。

 そして求愛に余念のない、野獣たちの必死さでつながりを求める私の指に、原稿用紙の滑らかさが触れるのは間もなくだった。

 ――あの必死さが、今の俺にはない。

 手持無沙汰に歩き始めた川沿いの道で、そう思った。十数年という重厚な時は、思春期の傷を癒し、苦しみの記憶を薄めてしまった。性欲と情熱、女体に対して発揮された飽くなき母性への執着に身をやつしても、刺激的な幸福を求める心はとどまるところを知らなかったのに。あのとき、原稿を素早く汚していった愚昧さは、どこにも見当たらない。

 コンクリート道の傍らに並んだ、桜の新緑を見やる。葉間から漏れる光の中で、十にも満たないほどの子供たちが、雑草を踏み分けながら歩いていた。好奇心に目を大きく見開いた面貌を何気なく見ていると、胸のうちにすっと「無邪気」という言葉が浮かんだ。

 ――それこそ、俺にはないものだ。

 そう思うと、にわかに苛立ちが鎌首をもたげた。同時に私の網膜がとらえた彼らの母親の影は、巡りまわる血の衝動に合わせ、虚しい性欲を浅はかに掻き立てた。それに従って詳細に私の目がとらえたもののなかには、薄くきれいな二重瞼があり、直ちにヨシ原の少女の記憶が、子供たちへ手を差し伸べる母親のふくよかな肢体の上に重なった。

 あのヨシ原の道にいたとき、きっと私の美への追求は最高潮に達していた。美少女の小さな肩を力強く握りこんだ私は、間髪入れず彼女の身体を茂みの中まで引っ張った。そのとき――不意を突かれて抵抗するまで意識が回らなかったのか、それとも彼女のもともとの非力さ故かはわからなかったけども――私の腕がそれに要する力の極めて小さかったことは、現実からはるか彼方に跳躍したような幽玄さと、儚さを胸の内に想起させた。

 目前に佇む純白の美が、醜く汚れた私の心と腕によって、軽やかに消えていく。その変化の瞬間、彼女はいったい、どんなきらめきを見せるのだろうか。それを思うだけで、心臓がこれまでの経験を圧倒的に凌駕する高鳴りをあげていた。

 ヨシの葉の中で沼地に足を取られながら、私は彼女を抱きしめた。初めて彼女が、私の身体を引きはがそうともがいていることが感じ取れたが、そのか弱い力も私の興奮を促すばかりだった。

 やがて不安定な激情が突き動かした体は、濡れた地面の上でつまずき、ヨシの根の上に倒れこんだ。二人の身体に――特に、彼女の長い髪へと――泥水が絡みつき、柔らかなシャンプーと汗の香りが私の鼻腔を埋め尽くした。

「やめて、やめて」

 途切れ途切れの、か細い呻き。私は、この音声を耳にして、美が体の中に半分入り込んでいるような高揚感を覚えた。

 彼女の足掻きが水面を叩くと、四散した飛沫は互いの制服にべったりとはりつく。汚れきった服を見ながら、私は、その内側にはっきりと輪郭をなすであろう細身の裸体へと思いを馳せていた。そしてカーディガンのボタンに指を絡ませたとき、はずみで当たる乳房の切ない感触が、そのとき目の当たりにしようとしていた圧倒的な神秘への期待を勢いよく跳ねあがらせた。

 ――これだ、きっとこれが、俺の作家になるために必要なものだ。

 隆盛する熱い波にのまれるような気分で、そういう考えがよぎった。自分を包んでいた虚無の、寂しい空間を一息に吹き飛ばすような覇気が、体中の隙間から漲って――。

 しかし、私の美少女への探求はそこで終わってしまった。

 大きく粗暴な力が瞬く間に私の体をひっくり返し、身軽そうな衣服に身を包んだ男が、仰向けになった私の上で仁王立ちしていたのを覚えている。ヨシの葉より遠くに、男の乗っていたであろうスポーツ用自転車が乗り捨てられているのを目にした私は、激しく怒り狂って男へと立ち向かったが、その体は、すぐに強靭な腕力によって組み伏せられた。

 熱狂は鳴りをひそめ、私の周囲に再び人を遠ざける臭気がべったりと絡みついた。

 こういったことの顛末を一挙に思い出してから、目前の母親が私に軽蔑交じりの警戒を視線でよこしてくるのを感じ、あらぬ方向を見やりながら足早に歩きだしてみる。初夏の湿りけが、じんわりと汗を滲ませていた。

 ――あの娘も、もうあんな年だろうか。

 不意にそんなことを考えた。

 ――子供はいるかな。

 両岸にしっかりと足をかけた橋が、あと数十歩のところにある。青と緑の自然光を貫く鉄とコンクリートの色合いが、もの暗い雰囲気を醸しているように私の目には映った。

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